今年は「がっかり!!」の年。体力は落ち込み、その分収入もへり、好きだった人には又意地悪をされ、信頼していた人には裏切られ、メル友には「いつまでも元彼のことを考えているんじゃぁない」と叱咤され振られてしまった。加藤さんと伯母がなくなり、はあ〜あ、選挙もなぁ。「がっかり!!」
あってはならないことが連発しました。電車の事故、通学路・塾での殺人、そして、マンションの耐震強度偽装。揺らいだ「安全」というよりも、「安全なんか」軽視される時代になったのでしょうね。とってもいけないことです。平和も?駄目駄目。目立たないけれど、この60年を立派に平和を保たせた国です。これからも、もっと積極的に平和しましょう。実質的軍縮をめざしてね。「愛」の不足が露見した年でもありましたね。人を愛することの意味を改めて考えましょう。最低限、マナーは守ろうねぇ。
それでも、いい経験はさせてもらった。珍しくモテた年でもあった。カン違い+顔が見えないのもあったけど・・・てへへ。12月の二つの演奏会を終えて、体力的に落ち込んでいたけれど、来年はいい年にしたい。何か新しいことでも始めようかな?
暖かくなったら、体力もそこそこ回復することでしょう。「春よこい、早くこい!!」
「活憲」
著者 五十嵐仁
「活憲」「特上の国」。いいなぁ、いいなぁ、こういう発想。日本を特上の国にするの、大賛成。サイトもたまに見てますけど、感覚、意見、ほとんど一緒。年齢が近いことが大きいのでしょうか。この本でも自衛隊を、災害救助隊や、地雷撤去など、今までの実績を生かして、世界にも活躍する非軍事組織への転換を提案されていますけど、私も、yahoo掲示板ににそう提案しているんだ。反応がないのが寂しいけれど・・・
若い人たちは北朝鮮や中国の脅威を感じているようだけど、私には、「んなことないでしょ!!」としか思えなかった。この本で、北朝鮮の軍事費が日米両国の軍事費の0.006%と知り、「ほれ見ろぉ」という気分です。中国はだいぶ増えてきていますが、それでも、今までの経済的な差は大きいよねぇ。
理想をきちんと掲げ、その上で現実を客観的に見据え、そのギャップをどう埋めていくかの現実的な提案。著者の真面目さに好感を持ちます。
日本の現状分析も確かです。
戦争をしないとならないアメリカという国。そのアメリカの「年次改革要望書」のままに動く日本政府。アメリカ国債をいっぱい持たされているのに、「ドルの切り下げ」をちらつかされ、「NO」をいえない関係者。イラクへの自衛隊派遣の不自然さ、靖国にこだわる小泉首相、日米同盟の強化、自民党憲法草案、どれを見ても、アメリカのために戦争する国にされてしまう危険性が私たちには見えているのに、「ばかの壁」でしょうかねぇ。見ようとしない人がいっぱいいる。この本の書評「偽書」を書いた人もそのひとりだね。本も読まずに切って捨てる。私には、そのことが一番心配。いじめがはびこった教育の悪い影響かしら?表面的なことをあげつらって、人をたたくことでしか自分に自信がもてない。そんな人間が増えているような気がする。
軍備では、人は守れないのよ。ひとり一人が生き生き出来る暮らしを考えないとね。
「働きすぎて死ぬこともなく、将来を悲観して自ら命を絶つこともないような国、長寿を喜び、若者が希望を持ち、子どもたちの歓声に満ち溢れるような国、豊かな自然、気候や風土を生かした美しい国にしたいものです」、もうひとつ、女性が生き生きと働き、子どもを生み育てることが楽しめる国。「平和で民主的な国にすることは、その前提です」
「戦争による荒廃から立ち直り、民生中心の平和経済の力によって世界第2位の経済力を実現しました。経済援助の実績もあります。アメリカと軍事同盟を結んでいるとはいえ、紛争当事国となることはなく、武器の輸出をせず、戦闘行為による戦死者も出していません。戦争を必要とせず、国際紛争を武力によって解決しないことを憲法で謳っています。つまり、「特上の国」となることは夢物語ではなく、それを現実に変えるための条件や政治的資源を、日本という国は持っているのです」そう、私たちの国は誇りの持てる国なのです。若い人たちも自信を持ってくれれば、きっと変わってくるんじゃないかな。
女性として、著者の発言ではないけれど、『女性が全員で強姦放棄宣言しても強姦はなくならない』に反発を感じます。何でこんなたとえなの?H系メール・投稿に日々悩まされている身としては、男ってまったく下品!! すべての男性ではないのでしょうけど・・・『男性が全員で強姦放棄宣言をすれば、ほぼ、強姦はなくなる』悪いのは強姦する側です。戦争を仕掛ける国です。善悪の違いがあいまいになっていることを非常に危惧します。
戦争によって、犠牲になるのはいつも弱いもの。力で蹂躙するという意味でも、歴史的にも、戦争と強姦は密接につながっているとは、女性問題に詳しい友達の説。なるほど、で、こんなたとえになったのねぇ。
漫画「山口六平太」も取り上げたように、人間を大事にしない会社、社会には明るい未来はありません。勝ち組と負け組の経済的格差はこれからも増大していくでしょうけれど、勝ち組も、人間性を否定されている点では負け組みと同じこと。違いを認め合いながらつながることって大事だね。それと「おかしいことはおかしい」と声を上げることも。
それと、著者にもちょっと文句。みんなで一緒に踏み出せば、という提案。それぞれでいいんじゃないかな。それぞれの場で、自分の出来ることで、「特上の国づくり」はじめましょう。道はいっぱいあってもいいと思うよ。方向さえ確かなら。
で、著者の提案。「非核・平和・民主国家」に向けての軍縮。さしあたりの縮小案は約24万人(そんなにいるんだぁ!!)から15万人へ減らし、削減した一部は、警察庁の特殊部隊に統合し生物・化学兵器に対する防護とテロ対策にあたる。医官を中心に放射能汚染地域への派遣。災害援助のための緊急国際救助部隊。海上保安庁への編入など。そして9条第3項に「非軍事的人的国際貢献によって世界平和の構築に寄与する」と謳うこと。どう?これなら、日本を誇れるでしょう?
前向きの提案に対しての、前向きのご意見、聞かせてほしいなぁ。
著者 藤原肇
本の紹介はここに詳しく書いてあります。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/books/koizumi.htm
藤原さんは日本の現状を春の到来を祝う悪ふざけの「ワルプルギスの夜」にたとえている、魔女でもなく、人間でもなく、その主役はゾンビたち。ゾンビたちの春がこれから到来するのかと思うと、背筋が寒くなってくる。
ゾンビの正体は、アメリカのネオコンとそれに協力する日本の政財界ということになるのかな。
70年安保の時に、若者たちが無力感を味わった巨大な壁の正体も同じものだったのではなかろうか。その頃、私自身すでにOLだった。デモから帰れば、その壁に支えられた普通の生活、日常の生活があり、「チョコとせんべいを一緒に食べるとおいしい!!」と3時のおやつを楽しみにしていたものだった。実に平和。官憲と戦った学生たちも、社会人となり、エリートとして、あるいは、元運動家としての生活に埋没してゆき、米軍基地はあっても、日本は平和と信じ、せっせと働いていたのだ。違う人もいるのかな?私は自分の身の回りのことで右往左往していたな。専業主婦として。自分も大事に、子どもたちと夫との生活も、そして地域社会を守ってきたつもり。
妙なめぐりあわせで出てきてしまったけれど、それはそれで充実した生活だった。離婚後はひとりの生活を守ることに精一杯で、やっと、自分のサイトを作ってからかなぁ。社会の動きが変なことに気づいたのは・・・
小泉政権になっていろんなことがあらわになった時期でもあるのかもしれない。のんき者の私が気づくくらいだから・・・そういう意味では小泉は正直な人なのかもしれない。
それとも、今までの為政者が大人で、あいつが餓鬼なだけなのか。餓鬼に首相をやらせたのは誰でしょうねぇ。無責任ですよ。
【知らなかったなぁ】
@ 小泉の祖父が刺青者というのは聞いていたけれど、なあんだ。彼も世襲議員の一人だったのね。それも、おじいさんは軍国主義を支持する熱狂的なポピュリズムの旗頭だったとか。靖国も、イラク派兵も、つまりは孫として素直な反応であったと言うことでした。
A 「暴政」(暴虐な政治)の反対概念としての「公共善」。Common good。一口に言うと、社会や国家など政治共同体全体にとっての善のことを指し、ある特定の個人や集団にとっての善とは明確に区別されるものである。だから、暴政とはある一部の権力者や権力がひいきにする特定の集団が利益を享受することを目的とする政治のことであるって。政、官、財界の癒着による不正な裏取引、汚職が平然と行われる政治って、公共善ではないねぇ。司法も、民主主義も危ない。教育なんてひどいものだ。「暴政」そのものなのに、みんなはあまり感じていないみたい。麻痺しちゃったのかなぁ。
B ゾンビの出現は、小渕元首相の脳梗塞への入院騒ぎの時。そういえばテレビでわいわいやってたなぁ。生きているんだか死んでいるんだか、わからない間に「密室談合」があったのは想像していたけれど、藤原さんによると、同じ頃やはり病床に付していた竹下元首相の利権という資産整理の工作のための時間稼ぎだったそうな。なんか納得。で、青木、森、小泉と「うその連鎖」となり、今や、うそは「日常茶飯事」という現状となったと言うこと。ふーん、なるほどです。
C 創価学会の教え「総体革命」は、全体主義であるそうな。大宅壮一が「ファシズムの体質がある」、田中角栄が「法華経を唱えるヒットラーだ」池田大作本人が「今の世の中は個人主義と自由主義だが、本当は、全体主義が一番理想の形態だ」と発言しているとか。フランスなどではカルト教団に指定されているそうです。
D 安倍晋三のカリフォルニア遊学時代は、日本のやくざさんも現地進出されていたとか、お父上とやらは韓国ビジネスと密接なつながりがあり、北朝鮮に対しての非理性的な発言も考慮すると、統一教会(勝共連合もメンバー)との結びつきもありうるとか。他に人がいないのもあって、いま結構人気があるんじゃないかな。こういう人に首相をやられたら、怖いねぇ。
【許せないよ】
@ 選挙対策本部長が稲川会出身の竹内清って人になってから、「小泉は女子高生をたぶらかしている」「これが小泉の子よ」「私の子どもを返せ」とかいう女性スキャンダルを巡る中傷(というか本当のこと?)がピタリとやんだんだって。汚ねぇ。
A 藤原弘達(懐かしい名前だなぁ)の予言や、著者のいうように、このままで行けば、「日本のデモクラシーは壊れる」。いまや、壊れつつあることを実感している。私は大して力はないけれど、でも、許せないよ。
【とにかく面白い!!】
笑いながら読み進んでしまう。日本の憂うべき現状がよくわかる。ご一読ください。
【提言】
「脱藩」という表現はいまいちだけれど、世界に出て、日本を眺め、学べって。若い人に期待しています。日本にいても、そういう目で見ることはできると思うけど・・・でも、みんなぁ、敏感でいてね。
DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)について、調べてみました。きっかけは、今まで友だちと思っていた人が荒らしに豹変したこと。メールでのやり取りの中に、「これはDVではないか?」と感じるものがあったのよね。もちろん、ただの友だちだから、夫や恋人から受ける傷に比べたら、浅いとはいえるけれど、“人を傷つけたい意思”に暗澹たる思い。で、その後、「愛されすぎた女の悲劇」「夫・恋人からの暴力―国境のない問題・日本と各国のとりくみ」「ストーカー」を読みました。
共通するのは、「自分勝手」「自分の正当化」「女性蔑視」「自分に自信を持っていないこと」そして「言葉による暴力」
さて、上手にまとめられるかしら?怖いのはね、言葉の暴力によって、こちらも自分に自信が持てなくなってしまうこと。それでも、めげずにチャレンジ。これが一番の対応策。
「愛されすぎた女の悲劇」は、私は逮捕される時のカーチェイスしか知らないけれど、O.J.シンプソンという超有名スポーツ選手が自分の妻ニコールを殺した事件を、ニコールの女友だちフェイが書いている。
「きみならわかってくれるよね。俺が、彼女を愛しすぎてたっていうことを、さ」とシンプソンはいう。が、フェイは二人の結婚をこう言い表わす。
彼と親しくなるにつれ、私は、ニコールが彼の求めている女ではないことに気づいた。O.J.は美しい妻を求め、その点では確かに、ニコールは彼の欲求を満たしている。でも彼は同時に、彼と一緒になって、喜んで名声や社会的な地位を追い求めてくれる女を必要としていた。あでやかな女でなければならないが、かといって彼へのスポットライトを奪うほどにはでしゃばらず、無条件に彼を尊敬してくれる女・・・そう、O.J.は、「俺の所有物だといえるバービー人形」が欲しかったのである。
フェイとニコールは子どもを育てることを楽しんでいたようです。信頼できる女友だち。男性関係も赤裸々に話せる関係。フェイはニコールを理解していました。「ニコールがハリウッドを嫌うのは、自分自身に戻るための女の戦いなのだ」。それでも、自分が暴力にあっていることをニコールはなかなか話せなかったようです。それは、ひとつには、シンプソンがいつも「俺を怒らせるお前が悪い」と言いつづけ、さらに、有名人でもあり「いつも笑顔の」シンプソンに警察までも味方をしてしまう現実に、(言っても信じてはもらえないだろう)というあきらめにニコールが支配されていたからです。
O.J.がニコールにこだわった理由はこれ。
O.J.は自分が黒人であることを嫌がっていた。それを隠そうとして、黒人社会とのつながりを避けていた。最初の妻・マーグリートとの結婚は、まだ自分を黒人として意識していた頃の出来事である。彼はいまや、「自分には黒人と白人を隔てている境界線を越えることができる」と信じており、「肌の色以外は自分も白人だ」と思い込むようになっていた。マーグリートは、おそらくO.J.が付きあった最後の黒人女性だろう。それに比べてニコールは、O.J.の言葉で言うと、「天使の白さ」を持つ女性だった。
ニコールの家族は肌の色のこだわらない家族だった。だからといって、暴力で支配しようとするO.Jを許すはずもない。だが、ニコールの家族も経済的にO.Jに取り込まれてしまっていたのだ。「こんな良い人がそんなことをするはずもない」。そして暗黙の脅し。「ニコールと俺が一緒なら、お前ら家族も助かるってもんだ。けどな、もし一緒でなけりゃ・・・」。
この取り込み「操縦法」はフェイやその婚約者にも及ぶ。
O.J.の計画はこうだ。
まず、「たとえ単なる友人であろうと、家で男と会ったり、男を家に招いたりするな」とニコールに命じる。次に、彼女に、隠れて煙草を吸わせるようにしむける。これは隠れて吸いさえすればいいと認めるのではなく、隠れて吸うことで、彼女に後味の悪い思いをさせるためだ。第3に、自分が街を留守にしているとき以外は、女友達と踊りに行ったり、長時間つきあったりしてはいけないと宣言する。第4に、男たちを説得して、自分の女をきちんと管理させ、家から出さないようにさせる。そうすれば、効果的にニコールを孤立させることができるからだ。そして第5に、財政的援助を与えることで、ニコールの家族を再び支配する。
O.J.はこうして、ニコールを再び巧みに操縦しようと謀ったのである。
やっとフェイに打ち明けたO.J.の暴力の実態のひとつはこうです。
「彼女とのこともちょっとした浮気の一つなんだと思ってたのよ。でも、イヤリングのことがわかったとき、身体を殴られたような感じだったわ。腹が立ったんで、彼にくってかかったの。あれは最悪だった。あんまりひどく殴られたんで、失明するに違いないと思ったわ。彼は私を抱え上げてクローゼットに連れて行き、中へ投げ込んで扉をロックしたのよ。私は中から、泣きながら出して欲しいと頼んだわ。
しばらくすると、テレビの音が聞こえてきたの。で、あのサディストがスポーツ番組を見ているのがわかったわ。どのくらいその中にいたかわからないけど、多分15分から20分位だと思う。それから彼が、クローゼットの方にやってくる足音が聞こえたの。彼が扉を開けたんで、私は言ったわ。「O.J.ごめんなさい。お願い、私を出して。もう何も言わないわ」って・・・・・・。
あいつが私のほうに身をかがめたので、てっきり立ち上がらせてくれるものと思ったの。でも、膝をついて起き上がろうとすると、また私を殴ったわ。驚いてクローゼットの奥へ這って行こうとしたら、何度も何度も激しいビンタをくらわせて、おまけに蹴飛ばしたわ。そうしてピッシャッと扉を閉め、向こうへ行っててしまったの。聞こえてくるのはテレビの音だけ・・・・・・。私にはわかってたわ。あいつはそこに座って、また、いまいましいスポーツ番組を見てるんだってね・・・・・・」
ニコールがこの恐ろしい話を終えると、私は手を伸ばして彼女をきゅっと抱きしめた。けれど、彼女の驚くべき記憶はとどまるところを知らず、あとからあとへあふれてくる。まるで、何かが彼女を強いて、無理やり真実を告白させているようだった。
「フェイ、あれはほんとに、人生で最悪の夜だったわ。何時間も・・・・・・・正確にはわからないけど・・・・・・O.J.はテレビを見ていたの。時折戻ってきては、クローゼットの扉を開け、私を殴りつける。それからまた閉じ込める。とても怖かったわ。死にたいと思った・・・・・・・神様に「助けて」って祈ったわ。世界中の誰も私を助けられない・・・・・・そんな気がしたの。あんなにひどいことってあるのかしら。殴られたことも恐ろしいけど、彼が戻ってきて、また殴るんだと思っているときの、あの時間の恐ろしさったら・・・・・・・」
そう、肉体的だけでなく、この孤立感こそ恐ろしいものだ。
ニコールは、離婚後も復縁を考え、悩み、努力します。シンプソンから離れられない自分というものをどうしていいかわからなかったようです。
「フェイ、O.J.はね、心が落ち着いて気分がいい時は、女性なら誰でも求めたくなるくらい素敵な人だわ。優しいし、思いやりもあるし、セックスなんて、いつも信じられないくらい、いいのよ。でも、どうしてその状態が続かないのかしら。何もかも素晴らしいと思ってると、あっという間に最悪の状態になってしまう。彼はどうして自分の感情を抑制できないのかしら。それでどれくらい私が傷づいたか、わからないのかしらね」
「おまえたち3人を、おまえたちの愛する家から追い出して、過酷な試練にあわせてやるぞ」というO.J.の脅しに最後の結論を出します。ニコールが一番愛する子どもをも傷つけようとするO.J.が見えたからです。そして、O.J.につけられたりした挙句、殺されてしまいました。
「なぜニコールは、あのような危険な関係にとどまっていたのでしょう?心理学者によると、何ダースもの理由があるといいます。たとえば・・・・・・出て行くのが怖い。どこへ行ったらいいかがわからない。また、これは非常に良くあるケースだそうですが、虐待を受けた女性は、「自分を愛しているという男が二度とそんなことをするはずがない」と信じている、いや信じたがっている、というのです。」
日本の場合は、経済的自立ができているかどうかが大きなネックのようです。でも、妻が夫の暴力により仕事をやめざるをえなくなったケースも多々あります。
女性が自由にものを言ったり、行動したりすることを阻み、次第に女性を社会から隔離し、孤立させていく。そして自分の所有物にして支配しようとします。これって、愛じゃない!!ですよね。
「夫・恋人からの暴力」では、性別役割分業や社会的風土もこの暴力を助長させていると指摘しています。
日本の社会の風土は、やすやすと女性から経済的自立を取り上げるのです。就業の機会そのものが限られていますし、賃金も安い。暴力を逃れるために、家を出ようにも、資金繰りのめどが立たなければ、行動は起こせないのです。また、後述しますように、法律や法手続きも、女性が安全な生活を求めて行動を起こすことを阻んでいます。たとえば、協議が成立しなければ、家庭裁判所で調停を経なければなりませんが、調停に携わる調停員は、必ずしも夫・恋人からの暴力を深刻な問題と捉える人ばかりではないのです。調停が不調に終われば裁判に進みますが、それにも多額の費用と時間、そしてエネルギーを要します。
さらに、男尊女卑や性別役割分業を容認する日本の精神的風土は、夫・恋人からの暴力と日本の社会や文化が、幾重にも絡み合って、逃れたくても逃れられない状態に女性を閉じ込めている現状が浮かび上がってきました。
男性から見るドメスティック・バイオレンスの章で、弁護士 鈴木 隆文さんが提案されています。「女性への暴力」は「男性が解決する問題」だと引き受けるべきなのです。いちばん基本的なことをいうなら、暴力をふるう側にいる男性が、ただ「やめる」決心をもてばよいのです。と。だけど、そう簡単には解決できないんだなぁ。
私は、「女性への暴力」の本質は、男性の力による支配にあり、それは個人的な力関係だけではなく、この男性優位の社会が、女性に対する差別構造を徹底させているのだという点を、明確に指摘したいと思います。つまり、男性は、家庭では女性による無償労働を搾取し、社会では女性を低賃金労働にとどめて搾取し、結婚制度によって家庭でも女性を男性の支配下に置いています。
このように女性を踏み台に生きている男性が、一方的に利益を得ている社会構造があるので、男性は自分が暴力を振るってもよいのだという差別者・加害者・支配意識を容易に身につけてしまいます。この意識は「殴るという行動」に直接影響しているだけでなく、女性を脅かしたり、自尊心を傷つけたり、女性に何かしてもらうのが当たり前という意識など、広い意味での暴力を生んでいます。そればかりか、日常的によく見られる「男性が女性に割り込む言動」や「男性が家事を手伝っているだけで、賞賛されて当たり前という期待」などにも表れています。
社会の常識とやらに流されていては、本当の意味で愛したことにはならない。相手の置かれている社会的ギャップを理解しないとね。
北園高校関係者と飲む時にうれしいのは、のみ代の処理の仕方。基本的に割り勘で女性には下駄を履かせてくれる。理由もなく奢られてはこちらの尊厳に傷がつく。一応一人前。現実の差別分の下駄。これがちょうどいい。
「ストーカー」の方もなかなか読み応えがありました。こちらも錯覚の愛ですかね。加害者側の一方的なモノですが・・・
いずれにせよ、彼らは常軌を逸した身勝手な愛情から相手へ迫り、心の触れ合いというよりはむしろ所有欲や独占欲に駆られた形でつきまといはじめる。当然のことながら思いどおりに事態が運ぶはずはなく、そこで生じてくるのが被害妄想や憎しみである。
何者かが恋の成就を邪魔していると憤り、これほど真摯に愛を表明しているのに邪険にするとは許せない!! などと、彼らは意地になる。相手の気持ちなどはなおざりにされてしまう。
彼らの人生において、かつて挫折したことや無念であったこと、上手くいかなかったり、不満に思っていたこと・・・そうしたことへの未練や悔しさの総体が、いまや盲目的な怒りや「こだわり」となって、彼らへ飽くことなきエネルギーを供給する。
ストーキングは、単に一個人へ対する妄執にとどまらず、もはや自己の人生の存在価値をかけた聖戦と化し、しかしその一方で、陰湿な嫌がらせや覗き趣味といったきわめて低俗な心性を満足させるための大義名分とも化しているのである。
これも愛じゃない!! 最初から狂気だよと思いますが、副題は愛が狂気に変わるときとなっています。
加害者の心理状況については、この本が一番良くわかる。例としてDVの小説ものっているけれど、おんなじですねぇ。加害者の精神病理は「ボーダーライン人格障害」に重なる部分が大きいそうです。病気なら正常な状態というのがあるわけだけど、これは病気ではないのでいっそう厄介。
こんな分析と言うか心理の推移が書かれています。
@ 自己に対する客観性が薄らぐ
「他人迷惑であることを恥じない」「見苦しいことに気づかない」状態。「子どもじみた」心理。
A 精神的な視野が狭まる
まさに「そのこと」しか頭にない、といった状態。
B 意地になる
妥協を知らない状態であり、もはや「白か黒か」といったデジタル思考へと陥っている。心の余裕を失い、柔軟性を自ら拒み、ひどく好戦的な気分に支配されている。
なにがなんでも自分の思いを押し通さなければ自分の存在そのものを否定されてしまうかのような、そんな切迫した状態でもある。そういった意味では、意地になっている状態の背後には、自己に対する強い不安感が隠されているようでもある。
C 本来的な目的が薄れ、いつしか行為の意味が見失われる
他人から見れば「なんでああもこだわらなければならないの?自分にも、相手にも、ちっとも得にならないじゃないの」と思わせるような無意味さ、空疎さが目立ち、それが周囲を困惑させる。
そこには、意地に駆られ怒りに憑かれ、もはやコミュニケーションを拒絶した孤独な精神しか感知されない。
D 過去に根ざした不平や不満や怒りが、次々に蘇ってきてはエネルギーを供給する
ストーカーたちの心は、あたかも執拗さを発揮するための口実を常に捜し求めているかのようである。
ボーダーライン人格障害の人々は、人間相互の「無条件の信頼感」というものに欠損がある。疑い深いというよりはむしろ、対人関係に根源的な不安感がある。他人を信頼できぬがゆえに強い「よるべのなさ」があり、常に見捨てられることを恐れている。孤独や孤立を恐怖している。
言い換えれば自己の確立が弱いんですねぇ。で、人からの評価を異常に気にする。EQ(心の知能指数)が低い割にIQが高いので、人をコントロールすることに長けている。なるほど、DVで「自分が悪いから」と我慢していた人の多いこと。
私の精神科医としての経験からいえば、「こだわり、プライド、被害者意識」・・・・この3つが人格障害から神経症、分裂病にいたるさまざまな精神のトラブルの要因として作用していることがほとんどである。
この3つこそが人間の弱点であり、そのすべてをそのまま体現しているのがストーカーなのであるから、われわれとしても彼らの姿にはどこか心の奥で思い当たる部分がある。
そう、かつての私の友人について、荒らされたトピ主がこういっていた「人格的に良い人だと思っていたのに、どうしちゃんたんだ?」裏事情は推察でしかないので、ここには書きませんが、そう言えば、年齢的性別的に、偉そうにものを言うフシは以前からありました。怒りっぽくなってもいた。自尊心を傷つけられたと錯覚。頓珍漢なヤキモチ。狭い価値観デジタル思考にはまってしまった。荒らしになったことの自覚がない。とまあ、分析どおりのことで、嘆かわしいというか、人間って悲しいなぁと・・・。定年後の男性は、第2の人生、ボランティアとかを考えている人も多いでしょう。また、家庭の中で、妻にウザガラレル方もいるかと思います。どうか、愛をはきちがえませんように。「自分勝手」な愛は、愛ではないことを覚えておいてください。相手のいうことに耳を貸しましょう。そして、「広がり」とか、「待ち」とか工夫も怠りなく。被害にあったときは、うーん、距離を置くことかな。誰でも、行き違いはあるから、お互い訂正が利くものはどんどん訂正すればいいと思うんですけれど、それで駄目なら、DVでも友人関係でも切るしかないですねぇ。時間が解決するものもあるかもしれないけれど・・・あまり期待はしない方がいいようです。
DVも、関係性が深い分、深刻ですが、身の回りにこういうことって最近増えていませんか? 気をつけましょう。相手を想うことが愛とするならば、相手を傷つける行為は愛ではありません。お互いが元気になるような、生き生きするようなそんな方向性を持ちましょう。
政治や外交の世界も同じです。ニコールとフェイが「ブッシュ症候群」と呼んでいたのは、O.J.がブッシュ(茂み)に隠れ、ニコールの動性を見張っていたことを指しますが、ブッシュが正義を振りかざして、相手のいうことも、国連の言うことも聞かずに、イラク侵攻をしてしまったことが、人間関係にも悪い影響を与えているようです。これこそ「ブッシュ症候群」。日本国内も右傾化が進んでいます。クラスにいじめが当たり前にある環境で育った世代が大人になり、「皆でわたれば怖くない、悪くない」式の発想をする人が増えています。荒らしの一人がこう投稿していました。「荒れてナンボの世界やでぇ〜〜〜(笑)(笑)」これでは真面目に投稿する人がどんどん止めてしまいます。情けない世の中になりつつあります。それでも、力で人の心を支配することは、できないのです。愛もね、信頼とか愛とかは得られても、もともと支配とは無縁のものです。
私って、支配されるのだけはごめんなんだなぁ。頼まれると結構何でもやってあげちゃうけれど、図に乗られて、やるのが当たり前といわれると腹が立つタイプ。対等な関係なら、一杯友だち欲しいけれど、そうでなければお断わり。
自由民主党は10月28日、新憲法草案を発表しました。
昨年6月同党の憲法改正プロジェクトチームが「論点整理」(案)において「家族や共同体の価値を重視する観点から」個人の尊厳と両性の平等を定めた憲法24条の見直しを提案したことに、私たちは、強い危機感を抱き、改正反対のキャンペーンを行ってきました。日本国憲法の第24条は、戦前の日本の婚姻や家族が、戸主の圧倒的な優位の下、男女の不平等、女性や戸主以外の家族の人権を軽んじ、結果として「家」制度が軍国主義を支えた反省から設けられました。憲法24条の原則は未だ実現の途上にあるものが多いのが現状です。
この新憲法草案の核心は、第2章を「戦争の放棄」から「安全保障」に変更し、9条2項を削除、「自衛軍」の保持を明記したことです。これは集団的自衛権をも容認し、“ アメリカと一体となって戦争する国 ” へと憲法そのものの基本理念を変える重大な改革です。そして、前文からは、現行憲法の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」等の先の大戦への反省も削除されています。このことによって、今後さらなる9条の改悪、そして戦争を遂行する基盤となった家制度を否定する24条の改悪も可能になると考えられます。未だ日本軍慰安婦問題をはじめとして、戦後補償問題の解決もほど遠いありさまです。このような状況の中、憲法から戦争を引き起こした責任への反省が抜け落ちるのは許されないと思います。この危機にあたり、私たちは9条改憲に反対する幅広い運動と連帯していきます。
草案では憲法第24条の条文は変更してはいません。しかし、「婚姻および家族に関する基本原則」というタイトルを新設したことは、24条の本質を消滅させるための布石ともなり、危機感を感じざるをえません。
新憲法草案は24条の項目条文はをそのままに残しながら、全項を通じて実質的に「個人の尊厳」という精神を抜き去っています。
まず、第13条で、「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については『公益および公の秩序に反しない限り』尊重される」とし、さらに第12条では「国民の責務」というタイトルを新設し、「自由および権利には責任および義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益および公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」と個人の尊厳と権利をあくまで「公益および公の秩序に反しない限り」と制限しています。公益、公の秩序を1人ひとりの国民の個人の尊厳と自由、権利に優先させる考え方が第29条財産権の項にも明記されています。
新憲法草案の前文に「帰属する国や社会を愛情と責任感を持って自ら支え守る責務を共有し」としたことも、明記されてはいませんが、自民党のこれま今までの議論で繰り返された、国防や家族の尊重の責務の規定であると読めるのです。
この草案の核心である9条改憲は一見男女平等とかかわりなく見えますが、24条と9条は裏表の関係であり、この間強まった自民党の執拗なジェンダーフリーバッシングからもわかるように、9条改憲が「男は国を守る、女は家を守る」という性別役割を強化することは明白です。さらに言えば25条ともかかわりあって、軍事力の強化が社会福祉・社会保障のレベルの低下をまねき、女性にその責任を肩代わりさせていくことにつながるのです。
そもそも憲法とは国民の権利や自由を保障するよう国家権力を縛るものです。憲法を、国家権力が国民の権利や自由を縛り、国民を統治するものに変えることは許されません。
個人の尊厳と両性の平等が達成されてこそ、私たちは差別も抑圧もない社会を実現したといえると考えます。 私たちはあくまでも自民党の新憲法草案に反対し、9条、24条はもとより、現行憲法の基本原則の改悪に反対するキャンペーンを続けていく決意です。
イラクでは、リバーベンドさんが嘆いている。
さて今日、彼はぴんぴんしていて、アメリカの政治家と操り人形たちが熱烈に歓迎する「政治プロセス」に絡んでいる。サドルとその信奉者たちは、美容院の脅迫や酒屋の爆破、適切な服装をしていない女性の誘拐その他の活動を引き起こしている。理由はこれらがすべて反イスラム的だと見なされるためだ(ただし、イラン・スタイルのイスラム教に基づいてだが)
女性の権利はもはや誰にとっても主要な関心事ではない。女性の権利について話し始める人がいると、人は笑いさえするのだ。私がイラン型シャリアの可能性について意見を述べると、たいてい「ともかくイラクを分裂させないことだ・・・」という返事が返ってくる。
内戦の可能性や民族の強制退去や浄化という現実、日常化した流血や死に比べたら、権利や自由はたいしたことではなくなってしまった。
と・・・そんな日本にはしたくない。
朝日新聞「憲法ってなに?自民党案を読む」より映画監督 是枝裕和さんのお話
第2章のタイトルが自民党案は「戦争の放棄」でなくなったというのが、最も象徴的だと思いますね。「戦争の放棄」を放棄したってことでしょう。他に新しい権利とか、おいしい条文を加えたけれど、(そんなのあったけ?)これがまさしく狙いじゃないですか。
イラク派兵だって容易に認められるようになる。国際貢献て名のアメリカの戦争に今以上の支援をする方向を目指しているのは間違いない。それなに条文に戦争放棄という言葉を残しているのは欺瞞です。だまされてはいけない。
結局、アメリカの都合でしょう。押し付けられた憲法だからだめだ、自主憲法だっていう人たちが何でこれを許すのか。9条をアメリカの軍事戦略と一線を画すための担保としておくのがぎりぎりのリアリズムだ。
僕自身は「正しい戦争がある」という考え方を否定するものとして、9条をもっと積極的に国際的な共有材として活用していくべきだと考えている。「正しさ」を競うことは幸せに導かない。アメリカの世界戦略の行き詰まりを見ても、9条は先進的な思想だと思う。
戦後の護憲勢力の意識の核には「もう戦争はこりごりだ」っていう被害者的な感覚が残っていたと思う。アジアを侵略した加害者であったという記憶を自らに刻み付けて、非戦の決意として9条を再定義すべきだ。より強い意味で。これは個人的な体験から感じたことでもあるんです。
父は、出征して中国で終戦を迎えて、シベリアに抑留された。20代を棒に振ったことへの、生涯消えることない後悔は語らなかったけれど感じた。彼にとっても、東京大空襲を体験した母にとっても、被害者としての意識が強かった。それを否定するつもりはないけど、彼らの記憶をどう乗り越えていけるかが、僕のベースになっている。
アジアの映画監督とは共有する感覚っているのがあるんですよ。アジアもね、欧州連合(EU)のような形でお互いに軍縮をして経済的に一つになろうって方向で生き残っていくしかない。日本が9条を捨てて侵略しませんって言っても、中国や韓国がOKしないでしょう。9条は内政問題ではなく、アジア全体の未来にかかわる問題です。
軍備を増強して「普通の国」になっていくための憲法なのか。武力ではなく、話し合いで紛争を解決できる国と国の関係の構築を目指す憲法なのか。どちらも100%の安全はないし、犠牲を伴うけど、僕は後者のリスクなら引き受ける。(りっちゃんも、そのリスクなら引き受けるよ!!)
ある時期まで映像以外の発言はしないって決めていた。でも、専門家に任せていたら、改憲ムードがどんどん広がっていった。憲法って自分たちのものでしょう。自分の言葉で話すべきだって、考え方を変えたんです。(専門家ももっとちゃんと発言せい!!)
はあ、私には美文と思える前文がなくなっていることになんともはや・・・
その美文のまず最初に、戦争が起こることのないやうにすることへの決意、国民主権の宣言がうたわれています。(朗読してご覧よ。この美しさ。それに、天皇のことには一言も触れてないよ。あくまでも主人公は我ら国民)
草案では、“自ら”の意思を強調、あとは事務的、で、次にドンと“象徴天皇制“が謳われている。なんじゃいこりゃぁ。はっきりいって情けない。最後の
日本国民は、自然との共生を信条に、自国のみならずかけがえのない地球の環境を守るため、力を尽くす。
だけは「よし」。ならば、京都議定書、アメリカにもサインを迫って欲しいね。
9条の2項がなくなっていることについて、若い人たちがどんなふうにとらえているのかを知りたい。自前の軍備が必要と言う人は、どの程度の軍備をイメージしているのか? 安保体制とイラク派兵を見ていると、どうしてもアメリカの属国としての、第9条抜かしとしか思えないのだけれど・・・歯止めもきちんとしたいという考えならば、どこまでなのか、歯止めの有効性についても、教えて欲しい。私としては、軍備では人は守れないと考えている。9条では国は守れないという人がいるが、国を守るために国民がどれだけ不幸になったか、歴史は物語っている。「守る」と言いながら他国を攻撃している例は、イラクに限らない。戦争の発端は、たいていは「守る」ことを口実にしているのではないかしら? 私は本気で考えている。もし、9条を持つ国を攻めるのならば、攻めてご覧よ。防戦しないければいいのさと。今の米軍とどんな違いがあるのか、見てやろうじゃないの。思いやり予算なんかつけてやる必要もない。駐留されても、おとなしくはしているけれど、何でも言うことを聞くと思ったら、とんでもないぞ。大和魂ここにあり、って、これじゃぁ右翼かなぁ。
第14条(法の下の平等)に、人種、心情、性別のあとに障害の有無がのっている。なぜここにあらためて載ったんだろう。その意図がわからないけれど・・・
障害者に取って問題なのはハンディなんだよね。たとえば車椅子なら、日本のほとんどの歩道は、電柱が邪魔で通行できない。そんな現実をほっておいて、平等であるとほざくなんて、言語同断なんだよね。子どもを産む産まないは身体を痛める女性本人が決めることなのに、有形無形のプレッシャーを与えたり、保育園などの配備が足りなくて、働きつづけたいという気持ちを萎えさせることが現実にあるのに、差別はないと言うのも同じだね。
はあ。憲法に載せると言うのは努力義務が生じるから、いいことではあるけれど、現実にはこれからまた通そうとするだろう「障害者自立支援法」で、福祉にそれを言うのはなじまないと言うより無理としか思えない「受益負担」を押し付けている。なんなんだ?? このギャップは。
今回の草案で特に目に付いたのは、これ。
第54条(衆議院の解散と衆議院議員の総選挙、特別国会、および参議院の緊急集会)
第69条の場合その他の場合の衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する。
ふぁ??文章わかりずらいけど、この“その他”って、小泉の気が向くままってこと? ちなみに69条は内閣の不信任案です。
でね。第51条(議員の免責特権)なんだけど、これは現憲法と変わらずなんだけど
両院議員の議員は、議院で行った演説、討論または表決について、院外で責任を問われない。
つまり、自分の信念に基づいて行った表決について、「ああだ、こうだ」言われたり、脅迫されたりされないようにってことでしょう? つまり、刺客だぁ、離党だぁ、支部の解散だぁの、全部これに違反してるじゃん。それとも党内の揉め事は、国会内部だといいわけするのかな。 ぜったいおかしい!!
第86条(予算)
内閣は、毎会計年度の予算案を作成、国会に提出して、その審議を受け、議決を経なければならない。
これって、国会議員の主なお仕事だよねぇ。それなのに、新設された第2,3項がすごくヘンなんだよ。
2 当該会計年度開始前に前項の議決がなかったときは、内閣は、法律の定めるところにより、同項の議決を経るまでの間、必要な支出をすることだできる。
3 前項の規定による支出については、内閣は、事後に国会の承諾を得なければならない。
つまり、私たちの税金の行方は、民主的に(ちょい、いや、うんと怪しいとはいえ一応)選ばれた国会議員ではなく、(多数派と言うよりも政治献金をいっぱいもらっていて自分の党内にいっぱいそのおこぼれを配れる)内閣が、にぎってしまうということなのかな? これまた怪しい!!
第96条 この憲法の改正は、衆議員または参議院の議員の発議に基づき、各議院の総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。
2/3じゃなくて、半数なら、いつでも可能状態ってわけ? この草案を通すには2/3だよね。 しかし、危ない。
全体的にみて、憲法とは国が国民への義務を明示するべきもののはずが、その辺がやたらあいまいと言う感じがするんだけど・・・
おっと、第一章 天皇
は全部いらない。もういい加減権力に利用されやすいシステムはやめようよ。みんなは、天皇制のどこを必要と感じているの? 憲法の第一章に天皇があることを不自然とは感じないの?
以上、目に止まったことを書き連ねてみました。ご意見あったらご投稿ください。
加藤さんの訃報がはいったのは、奇しくも時事さんの掲示板への「平和憲法きらい>りっちゃん 」への返信を書き込んでいるときだった。
9条と教育基本法を守りたいと年賀状に書いていたのに・・・どうしていい人が先に逝くんだろう。まだまだ、彼のやることはいっぱいあったのに、早過ぎるよ。馬鹿!!
彼との付き合いは、公民館に通い始めて(1977年の12月)からだから、もう27年は経っている。「公民館の利用者は30歳以下に限定にしようかな、おばちゃんたちはうるさくてかなわんから・・・」「公民館職員も30歳以下、若くてぴちぴちしているのがいいわ」などと、お互い言いたいを言い合いながら、年賀状を刷っていたのは、いつのことだったか。まだ本館にいたときである。
長い付き合いの割に主催の講座にはあまり出ていない。年賀状、保育サークル「なかよし」、教育講座くらいかなぁ。保育懇談会(公民館利用サークルの横の組織)のことや、第9のことで相談したこと、共同保育サークル「おもちゃ箱」で、講演会を開きたいけれど、講師派遣費用で来てくれる人はいないかと相談した時には、あっさりと毛利子来さんの連絡先を教えてくれ、しかも座談会ならと引き受けてもらえると知った時の驚き。本当に役立つ職員であった。この時は、すでに松林会館の自称館長であった。松林会館ができた時から昨年まで、ずーっと松林会館には、彼がいた。そのことが心強かった。
今の市長が当時館長で、1対1で論争したことがある。保育室の予算が切られた時、女性の学習権という視点をなぜ職員が伝えないのか?1職員が、「私は市役所の職員にすぎない」と言ったことが納得できず、「その前に公民館職員だろう、市民の側の声をなぜ市役所に伝えないんだ」などを論争したんだけど、柔軟でいて、てこでも動かない館長との話し合いでは欲求不満で、加藤さんにぶつけたら、「そうなんだよ。やとわれ方が違うんだ。社会教育の専門職(社会教育主事)として雇われてはいないんだよ。彼の場合は・・・」と、別な視点を教えてくれた。
第9の合唱指導者についての、私の文句も良く聞いてもらったなぁ。「あんなに怒鳴ってばかりじゃ、みんな合唱から足がとおのいちゃうよ。合唱人口を増やしたくてはじめたはずなのに・・・」怒りで興奮してしゃべる私に、落ち着いてボツボツと彼は言った。「あの指導者の問題というよりも、主催者側の選び方の問題じゃないかなぁ。うたいたい欲求以前にことが始まったか、準備段階をはしょりすぎたか」。そう、私の話を受け止めてはくれるけれど、大体、違う意見というか、反対から見た意見を聞かされて、妙に納得してしまうんだよね。
友だちも言っていた。「彼は優しく、厳しかった」。そういう人こそ、特別に大事な人なんだ。みんなにとってね。職員としても彼は、特別な人だった。たった一人、彼だけは、社会教育主事として雇われていたんだ。
だから、移動も、公民館のみ。今はせっかく育った職員が市役所の方へ行ってしまうと現利用者が嘆いている。せめて、市役所の各職場で、公民館で学んだこと、市民の声を聞く・生かす能力を発揮していただきたい。
偉そうに第1級障害者だ!!と胸を張って、障害手帳を見せてくれた時もあった。透析をし始めてからも、こき使ってしまったなぁ。「はさみを貸して!!」「印刷機が動いてくれない」こんな時でも、彼には声をかけやすいものだから・・・いい公民館職員とは、いい公僕でもあるんだなぁ。市民に使われるほど、いい職員なんですよ。使われる、いや、使える職員が増えますように!!
そのためにも、市民の方も力をつけないといけないんだよね。加藤さん。公民館職員が力を発揮するには、市民も後押ししないと、育て上げないと、だね。
訃報を聞いて、友だちと連絡を取り合い、都合でいけない人もいたけれど、みんなショックを受けていた。私は仲間たちと通夜に出席した。10月10日。たくさんの人が集まったよ。私もボロボロに泣いてしまったけれど・・・ 「何かあったら相談しようと思っていたのに・・・」「うちの子は私が半分父親が1/4、残りは彼が育てたようなものよ」 その言葉どおり、小さかった子が大人になって、親子できた人もいたよ。男性も、もちろん美女達もわんさか。彼に育ててもらった人たちだ。そして私たちも彼を育てたんだと思う。こっちで学んだことをまた別なところへ返して、そこでまた人を育て自分も学び・・・そんなことの積み重ねが彼の人生でもあったろうし、また私たちの人生も、彼ほど広がりはないかもしれないけれど、そういうものだと教わったのかもしれない。
人から学ぶ、いちばん大事な教育を受けられた私たち、加藤さんのような人はもう現れないだろうと思うととっても悲しい。けれど、めったと出会えない人と、この人生にめぐり合えたことを心から感謝すると同時に、そんな幸運をもらったみんなが元気でいることが、今、大事なんだとあらためて思った。
みんなぁ、元気で生きていこうねぇ。加藤さんの代わりはできないけれど、加藤さんからもらったものを大事にしていこうねぇ。
彼のいない松林なんでも展でもらったひまわりだよりに、彼の文章がのっていた。「障害者自立支援法を考える」 加藤有孝(なおよし)さん、1部転載させてもらったよ!! ありがとうね!!
思春期の子どもとどう向き合う?!
いじめや不登校、ひきこもりなど思春期の子どもと親が抱えている家族の問題を、ここ最近の事例をもとに心理カウンセラーと話し合ってみませんか?
講師 フェミニストセラピィ“なかま” 心理カウンセラー梅田君江さん
2005年 11月27日(日)
全体会 午前10:00〜12:00
分科会 午後1:00〜3:30
報告会 午後3:45〜5:00
会場 福生さくら会館
主催 福生市公民館のつどい実行委員会
企画 サークル彩(いろどり)
お問い合わせ 福生市公民館 042-552-1711
危機はらむ郵政「民営化」
9月11日の日曜日は、日本の民主主義にとって特別な日となった。テレビ受けするセレブ(有名人)(りっちゃん注)H系メールに頻繁に出てくるのでどうもそういったイメージが強い)な首相が「リフォーム(改革)」の大義を掲げて主導権を乗っ取り、日本が真に必要とする「りベア(修繕)」を阻む機会を与えた。内容のある政治論議はそらされた。
私は、40年にわたって日本の選挙を取材してきた。日本の有権者は常々、バランス感覚と常識を選挙で発揮するものだと思っている。だが、今回は、戦後日本の選挙の中でもっともその意味を見出しにくい選挙だった。その大きな理由は、テレビでの信じられないほど上っ面なイメージ選挙だったことと、「改革」という言葉に不思議なほど惹かれた日本人の好みにある。
「改革」は12年前、自民党政権が一時的に終幕し、政治的な盛り上がりを見せた時代に始まった。それまでの政治とは基本的に異なる時代に入ったのだと多くの国民が思うようになった。「改革」という言葉が日々語られ、交わされながら、次第に魔術的な共振作用を強めていった。そうして「改革」は“お守り”になった。それを唱えさえすれば夢がかなうと思うように。
小泉純一郎氏は首相になったときから、その“お守り”をしっかりと握り締め、大衆にそれを見せつけてきた。実際、日本ほど「改革」という言葉が交わされる国はない。「良くなるために日本は改革する。すべて改革だ」。だが、一体、なにを改革するのか?どのように改革するのか?改革の中味の論議はほとんどないまま、「改革」は日本の不可侵の政治的大儀となった。
郵便局が集めたお金は官僚たちが使える「第2の予算」と呼ばれる財政投融資を通じて日本経済を支えてきた。この膨大なお金を市場に解放――それが民営化ということだが――したら、日本の財政が破綻し、公共事業に頼った農業など様々な分野が崩壊しかねない。特に建設業界全体が沈没の危機をはらんでいる。この国の財政は郵政事業を不安定な市場力学から切り離すことで国債を買い支えてきたのだ。
崩壊など心配ない、完全民営化はまだ12年も先のことだという。どうなるか分からないと見る人たちもいる。だが、今回の総選挙では、街頭演説で野党の候補者が小泉首相と首相に忠実な候補者に対して、「小泉プランは政策になっていない」と訴えても、「改革」「改革」の合唱と、それを伝えるメディアの騒音にかき消されてしまった。
その騒ぎは、国民が心から変化を望んでいることの表出でもあった。
93年の政界再編時に必要とされていた、小沢一郎氏の言葉にいう「普通の国」への変革に向けて、この4年間、小泉首相は何も成し遂げていない。小泉氏は基本的に財務省の方針に従っただけだ。
民主主義の弱まりの兆候
小泉氏の欠陥だけを指摘するのはフェアではない。彼が純粋な改革へのいかなる野望を抱いてきたにしても、歴代の多くの元首相達と同じような妨害が立ちはだかっていた。
日本の首相には、欧州やアジア諸国の首相のような政治的機能は事実上ないのだ。閣僚もしかり、自ら長であっても、官庁からすれば一時的な「お客様」である。外国人が良く誤解するのはその点である。閣僚達が特別扱いされているように見えるが、特別扱いは政策の実権を持たない代償のようなものだ。この実態を改善することこそ93年の政界再編時の優先事項だった。それができて、初めて日本は「普通の国」になりえたはずだった。
総選挙の「大勝利」で、日本の政治家は次の小泉サプライズを警戒している。しかし、これは決して日本のためにはならない。自民党内を含め、政治家は、予想以上の自民圧勝が一つのトリックの結果だったと思いこんでいるが、それは、日本の民主主義がいかに弱くなったかを示す兆候でもある。小泉はたった一つの題材を掲げて宣言し、見事にメディアを利用した。郵政民営化に反対か、賛成か。そのどちらが勝つか。こんなトリックはカール・ローブを見習ったのかもしれない。政治戦略の天才でブッシュ再選の背後でうごめいていたあの人物である。
多くの国で、選挙における政策は重要視されていないのが実情だ。「日本の選挙は政治的美人コンテストに過ぎない」というジョークは、欧米のほとんどの国にも当てはまる。そして欧米でも、どうやら民主主義はあちこちで劣化しているように思える。だからといって、日本は新しい政治が必要でないのだろうか?
保身に走る官僚許すな
保身に走る官僚機構。それを許そうとしている小泉首相。官僚と政治家の実務関係を見直す必要がある。それは、多くの人々が革新的な問題だと思ってきたことである。
政府が何をすべきか、それを決める責任は最終的に選挙で選ばれた政治家にある。だが、日本では、選挙で選ばれていない官僚が各分野の専門家であり、自分たちの責任も良く心得ている。もし日本の政治家が専門性を備えて官僚たちにリーダーシップを発揮できれば、本来の政策イニシアチブが可能になるだろう。
日本にとってもっとも切実な課題は実に厄介なのだが、日本の「ドル支え」の問題である。年金問題や成長の鈍化といった国民にあまねく知れ渡った問題も「ドル支え」という財務省の政策とからんでいる。
日本の政治が米国との封建的な結びつきを断ち切って、本当に独立した普通の国になったら、その時こそ、日本人が日々蓄えてきた富の国民への還流に政治の目が向けられうことになろう。
ただし、それが実現する前であっても、日本は責任ある国として世界の期待に応えるべきだ。今日、日本の外交政策において巨大な隣人・中国とロシアの実態を見据えた政治的思考は見られない。唯一の超大国といわれる米国の役割も、過去4年間で劇的に変わった。真の政治指導者は、こうした変化に対応できる官僚機構にしなければならない。
現段階で、こうした新機軸を打ち出すことができそうなのは野党しかない。民主党は一体化できるなら自民党と似たようなイメージを一掃し、2大政党の一つを目指すべきだ。そして「改革」という”お守り”の効能が無意味であることをはっきりさせ、その代わりに「りベア(修繕)」を合言葉にし始めればいい。
自民大勝とはいっても、野党の希望が蒸発する時ではない。自民党は補助金と公共事業のばら撒きで選挙を戦ってきた。そういう時代はもう終わった。今回は、党内が分裂し、伝統的な組織基盤も失い、大いなる幻想で有権者の歓心を買ったが、総選挙の9.11はその最後の巨大な呼吸であった、と思えてならない。
自民大勝といっても、実は小選挙区の選挙制度に問題があったのです。
自民党・公明党とその他の党の得票率・議席数を見てみると、
比例区の方は、
得票率が 51.4% 対 48.6%
議席数 100 と 103
とこっちは納得いくけれど、
小選挙区のほうは
得票率が 49.2% 対 50.8%
議席数 227 と 81
これって変だよ。 一党独裁がたやすくできる選挙制度だね。ここから改革の必要があるね。
あひるさんのお勧めサイト「転成仁語」9月15日 民主党の失敗と教訓 の最後はこう締めくくってあったよ。
次の総選挙こそ、民主党にとっては政権交代のチャンスになると思われます。今回の選挙で寄せられた「変革願望」の期待に、自民党は応えられるはずがないからです。 「そのつど支持」と言われるように、その時々の「風」によって有権者の支持は大きく変化するようになりました。「風」によって奪われた「受け皿」の地位は、「風向き」が変われば容易に取り戻すことができます。 問題は、どのようにして「風向き」を変えるかということでしょう。そのための技と政策を、次の選挙までに身につけられるかどうかが、民主党にとっての勝負になります。党首えらびをめぐるゴタゴタが始まっているようですが、党内抗争などに時間を費やしている余裕はないはずです。
私としては、民主党だけでなく、野党すべて、政策論争をきちんとやって欲しいなぁ。私たちにもわかるようにね。郵政、いまだにわかんないや。
それと、アメリカから独立した「普通の国」になるのはいいけれど、世界に誇れる憲法第9条を変えて「並の国」になろうとするのはやめて欲しい。
まず、主な年金としては3つの種類があります。
@国民年金
別名「基礎年金」と呼ばれるように、名目上は「全ての国民が加入しなければならず」(社会保険事務所は未納者に対して差押などの「強制徴収」もできる)、その上に厚生年金・国民年金基金などの制度がある。自営業者・非正社員などが加入。
A厚生年金
民間のサラリーマンが加入する年金制度。年収(総報酬)の13.58%(2004年9月現在)を、従業員(サラリーマン)と会社が折半で支払う。しかし、長きに渡る不況から中小企業を中心に「厚生年金を支払えない」会社が続出し、そのような会社の中には「倒産せずに雇用を守るために」敢えて正社員を解雇し、非正社員(アルバイト)として再雇用することで、厚生年金による負担をなくさざるを得ない会社もある。(再雇用された社員は国民年金に入ることになる。)
B議員年金
議員という身分は選挙に基づいて与えられたものであるから、一般のサラリーマンとは異なり非常に不安定であり、生活のための収入が継続的に約束されているわけではない。よって、引退後の所得を心配することなく、議員活動を保障しようと作られた制度。(では、フリーランスの民間労働者には同様に「保障」してくれないのか!?)
この議員年金には、「短い加入期間(在職10年)で受給資格が得られる」(国民年金は25年)、「公費負担率が高い(大阪和泉市の場合41%)」(国民年金は33%)と問題視される部分が多く、また国会議員年金については、「自分自身で内容を決めることが制度上出来てしまうため、『議員同士のお手盛り年金』」と言われている。
さらに、「国会議員互助年金法により、『議員退職金」を年金として受けとる』こととなってので、退職金と年金の区分を曖昧にしている」と批判されている。(「手厚い」議員年金受給資格の要件を満たしたということで、若くして「引退」した都議会議員もいるほどだ!)
2004年6月5日、自公両党が提出した各年金法「改悪」案が強行採決により可決された。公明党はこれを『年金100年安心プラン』と豪語し、胸を張る。 とんでもない! 毎日新聞が、「『100年安心』誰も信じない」という社説を載せたのを始め、各マスコミもこの改悪法の「不安と嘘デッチアゲ」を厳しく糾弾している!
年金制度をめぐる最大の問題は、日々の生活をまかなえない低額年金、無年金の人が膨大にいること。
ところが年金改悪法はこうした問題を解決しないばかりか、『保険料は連続値上げ』、『給付水準は低額年金も含めて一律に引き下げる』という内容。もう少し詳しく見てみよう。
Q 改正後は、厚生年金や国民年金の保険料(の納付)は、どのくらい引き上げられるのですか。
A 国民年金の保険料は、2005年4月より毎年、月額で280円ずつ引き上げられ、2017年4月以降は16,900円(月額)となります。加入者一人当たり毎年280×12 = 3,360円の増額になり、夫婦で国民年金に加入している世帯では3,360×2 = 6,720円の負担増になります。
また、厚生年金保険料の保険料率は、改正前は13.58%ですが、平成16年10月から毎年0.354%引き上げられ、2017年9月以降は18.30%になります。
しかし、この16,900円(月額)も18.30%も『納付の上限とは限らない』のです。
これについては次の回答で詳しく述べます。
Q では、給付額はどうなるのですか?
A 厚生年金の老後に受け取る給付水準は、現行約59.4%であるのに対して、2023年以降は現役時代の年収の50.2%という引き下げ給付となります。ただし、50.2%という数字は下限ではありません。今回新たに「マクロ経済スライド」という仕組みが導入されました。「マクロ経済スライド」とはどのようなものかといえば、簡単にひとくちで言うと、『物価や賃金が上昇しても、同じような上昇率で年金の給付額を増やさない』ということです。
2000年度までは、収入の増減に合わせて給付額も増減するという、「賃金連動方式」が適用されていましたが、それでは給付の上限幅が大きすぎるということで、現在は「物価スライド(=連動)方式」が採られています。そしてさらに今回導入された「マクロ経済スライド方式」です。
「マクロ経済スライド方式」によると、『いくら賃金や物価が上昇しても、年金の給付額はそれより低く抑えられる』ことになります。例えば、賃金や物価の上昇で貨幣価値が2倍になっても、年金の給付額は1.5倍にしか上がらないことも考えられます。これでは生活できませんね?
まとめると、『保険料は、一定額までいっても、状況次第でさらにアップし続けるかもしれないし、給付も50%を割り込んで、徐々に下がっていく可能性が高い』ということです。
国民年金についても、同様に50%を割り込む事が予想されています。といっても、国民年金の場合、かなりの人がすでに30%台。さらに、政府では保険料を2017年度に16,900円で固定すると言っていましたが、これも名目賃金上昇率を2.1%にすると、2017年度で月20,860円、2027年度で25,680円、2037年度で31,610円という試算を出しています。
Q 「マクロ経済スライド」について、もう少し教えてください。
A 「マクロ経済スライド」とは、一言で言うと、「物価や賃金が上昇しても、同じような上昇率で年金の給付額を増やさない」方式で、これにより、「いくら賃金や物価が上昇しても、年金の給付額はそれより低く抑えられる」ことになるということは前回お伝えしました。しかし、これだけでなく、次のような問題点も指摘されています。
@ 国民年金だけの人の年金額は平均46,000円ですが、諸外国と異なり、「最低年金保障制度」が設けられていない。よって、2万円、3万円という低年金の人達の年金水準も「一律に」引き下げられる。
A 公的年金の加入者減の原因となっている、「派遣、短時間労働など雇用の現状」「厚生年金に本来加入すべき事業所の未加入問題」などの解決策が何も示されていない。
B 少子化を理由にしているが、経済的理由等で「生みたいが生めない」という現状への対策が示されていない。
C 少子化を理由にした、根拠のはっきりしない予測の数字を基にした計算で、あれこれ説明しているが、例えば、出生率1.32の予測が早くも狂い、1.29となった。厚生労働省は、これまで5年毎の財政再計算でも、常に予測を間違い続け、手直しをしてきた。数十年先、百年先の予測などできるのか。
D 財政面からだけの「負担増・給付減の改革」で、「安心できる老後」を国民に約束できるのか。
Q 2003年の総選挙で自民党・公明党は、「年金給付における国の負担率を現状の1/3から1/2に押し上げる」って言ってたような・・・?
A はい、確かに2003年衆院総選挙時の自民党政権公約、『小泉改革宣言』では、郵政とともに、「年金制度の抜本的改革」が掲げられており、「基礎年金(=国民年金)の国庫負担割合を2分の1に引き上げる」と書いてあります。しかし、2004年の通常国会ではこの約束は見送られ改悪年金関連法案が強行採決されました。今回も自民党は「基礎年金国庫負担割合の2分の1の引き上げを実現する」と政権公約にうたっていますが、あなたは信じられますか?
Q 何故日本はこんなに年金問題で苦しむことになったの?
A よく言われるのが「少子・高齢化」ですが、それはヨーロッパ諸国も同じです。しかし、ヨーロッパ諸国の中には「安心できる年金制度」が多く存在しています。では、どうして日本はこんなに「危機的状態」にあるのでしょうか?
一言で言ったら、「国による年金積立金のムダ使い」のせいです。 積立金は平成12年度まで大蔵省の資金運用部に預託され、それを厚生労働省の特殊法人「年金福祉事業団」が借り入れて民間の運用機関に運用委託し、一部は国内債券で直接運用していました。しかし、これらの積立金は郵便貯金とともに特殊法人の資金源となり、高速道路やダム建設などの様々な公共事業の資金源に流用され、元金の返済もできない赤字事業に貸し付けられていたのです!
また、社会保険庁とその関係団体の運用コストが保険料でまかなわれていたことも問題となっています。年金給付金以外に使われた保険料は5兆6千億円に上ります。内訳は、グリーンピアなど年金福祉施設で約1兆9000億円、関連公益法人の役員報酬10億3500億円(2002年度)、広告費で10億600億円(2003年度)などです。
つまり、郵貯・簡保での財政投融資のほかに、『年金積立金も特殊法人の無駄使いによりジャブジャブ使われてきた』のです!小泉はこの是正についてはヒトコトも言わない。これは、彼が厚生大臣を4回もやった厚生族議員だからでしょうか?
Q そういえば、「議員年金」は改革されていないの?
A はい。今のところ手付かずのままです。
では、最後に2005年衆院選における自民・民主のマニフェストの内容を比較してみよう。
▼自民党
(5)信頼と安心の年金制度の更なる展開
わが国の公的年金制度は、老後の所得保障の柱として、名実ともに国民生活に欠くことのできない重要な役割を果たしています。年金制度については、給付と負担の両面から2004年に改革を行い、『将来にわたって国民の信頼に応えられる持続可能で安心な年金制度』(※1)を構築しました。 (中略)年金制度については引き続き、国民皆年金を堅持するため、基礎年金国庫負担割合の2分の1への引上げを実現します。さらに、公務員を含めたサラリーマンの年金制度の一元化を推進し、いわゆる官民格差の是正を推進します。併せて非正規労働者も厚生年金に加入できるよう目指すことにより、年金への信頼と安心を一層強化していきます。
(6)社会保険庁改革の断行
現行の社会保険庁は『事実上』廃止し、公的年金については、『新たな政府組織において』(※2)、確実な保険料収納と給付を確保し、安定的な運営を図ります。(後略)
※1 これが大ウソであることは、はっきりとお分かりになったと思います。つまり自民党は、「これ以上の年金制度改革はやらない」と言ってるのだ!
※2 道路公団改悪前と似たような言い回し!単なる「看板の架け替え」で終わる可能性大!
▼民主党
(1)議員年金をただちに廃止します。(中略)
(2)ムダづかいの社会保険庁は廃止します。
・・・社会保険庁が行っていた年金保険料の徴収は、国税庁を改編した歳入庁で行います。税と保険料の徴収を一体化することにより、効率的かつ適切な徴収を行える体制を整えます。
(3)政府与党は、・・・年金制度の抜本的改革を行わず、年金保険料の流用なども是正しないまま、国民に負担を求め(てきました。そうす)ることは許されません。民主党は、徹底して予算のムダ使いにメスを入れ、それによって生み出される財源を段階的に基礎年金に充てることで、2008年まで国庫負担率を2分の1に引き上げます。
(5)年金目的消費税などを財源に老後の最低限の年金を保障します。所得比例年金に加えて、税を財源とする最低保障年金を設け、老後の最低限の年金(月額7万円)を保障します。・・・新制度発足後の最低保障年金の財源は、予算の無駄使いに徹底的にメスを入れて実現する基礎年金国庫負担分2分の1の財源に加えて、安定的な経済成長を条件に、年金目的消費税の導入によって確保します。(後略)
時事さんトピに載っていたものですね。後の祭りではなく、これからの独裁政権の動きを見るための一つの指針となるのかな。選挙後も続けます。「国民のみなさん、ようく考えよう」のお願いは・・・
選挙キャッチコピーコンテスト入選 異邦人さんの作品です。
「泥舟選挙」
キャッチコピーを決めた理由:
12の象徴
1.靖国神社訪問
2.増税の決定
3.米軍司令部移転完了
4.泥沼イラク派遣延長
5.支持率急落30%
6.小さな責任大きな権限
7.大きな負担小さなサービス
8.民にできることな民へ。官ができることは国民支配のみ
9.国民年金破綻
10.官から民へ。破綻時には民から官へ。そして外へ
11.民間企業は、自己利益と効率が中心だ。国民全体の為には存在しない。
改革ワンパターン絶叫男は結局日本を泥船にした。
選挙民が感じる将来の不安は日本が泥船になりつつあるからだ。
さあ、幸福を求めて旅だった人々が、様々な寸劇を通して結局もどるのは自分の生きている場だ。
選挙資格のある人々か、内容のない言葉に感涙し判断しこの泥船に乗るのは勝手かもしれない。
しかし、選挙資格のない世代の人々をこの泥船に乗せるわけにはいかない。さあ、政治家の言葉は所詮空しい。その空しい言葉に酔い惑わされる時は終わった。
新たな生活を築くため、自らの生の証を確かめるためにすることを自分で考えるのだ。自分で考え、自分で判断する。
その基準は、自らの生すなわち生活だ。
今、地球は怒っている。人間の為に俺たちがあるのではないと周りの人間の顔つきをよく見よ。目には狂気、体には怒りが満ちている。
狂気が人間を襲っている。人と人が争っている時間はない。まず、周りの人間を助けてあげることだ。
そのために1票を投じよう。郵政がどうなろうと今の生の不足感は解消されない。あまりも、課題が矮小だから
辛 淑玉さんの選考理由:
まさに、日本という浮かぶことのない船に乗り込んでいることに気づかない、いまの時代の危うさを象徴。責任を取りたくないために、騙されたいと願う有権者は泥舟に乗るが如し。舟が見えない有権者の罪は深くて重い。
さずが辛さん。
きつい言葉だけど、確かにそうです。
私たちまでも泥舟に乗せないでぇ〜 私は乗りたくないほうに1票投じるんだからねぇ〜 みんなぁ、だまされるんじゃぁないようw〜
って叫んだのになぁ。あ〜あ、泥舟に乗せられちゃったよ。絶叫男の大声とウォール街の広告費にはかなわなかったなぁ。でも、生きていくために、これからも続けるよ。元気にね。
労働組合運動研究者が書いておられる「五十嵐仁の転成仁語」というWebを、いつも楽しみに拝見しています。そして、今日、全く同じご意見であったこと がわかってびっくり。
ファシスト首相のお膝元、ユダヤ資本を借りて、アングロ・サクソンに成り代わって、ロシアと対決した日露戦争の旗艦三笠があったり、戦勝でのぼせ上がって、アングロ・サクソンと対決したあげく、敗北、一等地が米軍基地だったりします。松屋で牛めしをたべましたが、お客の半分はアメリカの兵隊さんかんけい。となりの携帯電話のお店もそうでした。コネズミ氏が当選するわけです。
対米従属はいけないと、声をあげて、詰め腹を切らされた元外交官の方が、対立候補として名乗りでましたが、マスコミは徹底的にほうかむり。演説を聞きにはるばるでかけました。とても良いことを仰います。大賛成。地元なら投票できるのですが。でも、あの松屋や携帯電話のお店の人々はどう思うのでしょう。マスコミという電波芸人、インキ無駄業者、マドンナだか熟女だか、あやしいおばさま落下傘候補やら、似非ハイテク企業お兄さんばかり追いかけています。
壊憲もなんのその、横須賀の空をのんびり飛んでいるトンビがなんだか羨ましくなりました。
開票結果を時々刻々知らせるだけの選挙報道を延々やられても、エネルギーの無駄。「投票」前に判断をするための情報をこそ流すべきですが、そんなことは、「木によりて魚を求む」。アメリカの生命保険コマーシャル漬けの日本版北朝鮮テレビ・新聞、アメリカ・ヨイショ芸人のパレードです。明日は、北朝鮮もびっくりするテレビも新聞も見ずに過ごします。
9月10日(土)
「郵政」をエサに、「改憲」という大魚を釣り上げる
歴史には、あの時が転換点だったんだと、後から気がつく瞬間があります。歴史には、あれは全くの嘘だったんだと、後から分かる事実もあります。後から気づいたり分かったりしても、既成事実となった時間はもう取り戻せません。それこそ、「後の祭り」です。
注目を集めている総選挙ですが、選挙運動は今日が最後となります。明日の投票日、どのような結果が出るのでしょうか。後から振り返って、あの時が転換点だったんだと気がつくような選挙になるかもしれません。あれは全くの嘘だったんだと後からほぞを噛むことのないよう、真実を見極めた上での選択を心がけたいものです。これまで以上に高い関心を読んでいる選挙です。これまで以上に慎重に、選挙の意味を考えてみる必要があるのではないでしょうか。
その点で、武部自民党幹事長の9日夜の演説が注目されます。「選挙の後には民主党は大きく変わる。自民党、公明党、旧民社党の3つが1つになった方が安定する」と述べ、民主党内の旧民社党グループに、選挙が終わったあと離党して連立与党に加わるよう呼びかけたからです。そうすれば政治は安定する、と武部さんは主張しています。同時に、「これから新しい憲法の制定も考えなければならない。そういうことも視野に入れている」と、この呼びかけが「憲法改正」を「視野」に入れたものであることを認めています。
自民党と公明党を合計すれば、300議席をうかがう勢いだとの報道がありました。これに民社党グループを加えれば、320議席を突破するかもしれません。これは、衆院480議席の3分の2に当たります。
今回の総選挙は何のためだったのか、以前から不思議に思っていました。だってそうでしょう。解散前の与党の議席は283議席もあったのですから……。ここから郵政民営化反対派を追い出して「純化」しても、解散前議席を下回れば「後退」になります。それだけのリスクを払う価値が、「郵政民営化」にあったのでしょうか。そんな無理をしなくても、時間をかければ、いくらでも通すことは可能だったはずです。
ここで解散を選択したということは、この問題を「煙幕」にして何か「別の目的」を達成しようとしているのではないか、という気がしていました。その「別の目的」を明らかにしたのが、武部幹事長の発言です。
今回の総選挙の本当の目的は、衆院の3分の2という議席を獲得して改憲発議を可能にするところにあったのです。今後4年間、総選挙は行われません。その間に、思い通りの改憲作業を進めてしまおうというのが、今回の総選挙の隠された真の目的だったのではないでしょうか。
今回の選挙では、憲法問題はほとんど議論されていません。しかし、選挙が終われば、自民党結党50周年の11月に向けて改憲の動きは一挙に強まるでしょう。総選挙で与党が圧勝すれば、その勢力を背景にして改憲作業が進むことになります。今後4年間ほどの時間がそれに費やされるにちがいありません。
総選挙で勝利すれば、小泉首相は特別国会を召集して郵政民営化法案を再提出します。もし、この特別国会で郵政民営化法案が成立すれば、それで総選挙の目的は達成されてしまいます。アッという間に、小泉首相の最大の公約が実現されることになるわけです。その後は、どうするのでしょうか。小泉首相は、来年の自民党総裁の任期切れと同時に退陣することを表明しています。その後は、どうなるのでしょうか。
郵政民営化法案が成立した後でも、小泉首相も小泉内閣も残ります。後は、やり放題、好き勝手にやらせてもらおうということになるでしょう。何たって、総選挙で勝ったわけですから……。 たとえ、小泉首相が退陣した後も、巨大与党は残ります。その力を背景に、改憲作業は粛々と進むことになるでしょう。4年間は総選挙がないわけですから……。
改憲は一発で決まるような勝負ではなく、国民投票法の制定や改憲発議、国民投票など一連の過程を必要とします。そのためには国会での安定した多数派が不可欠です。今回の総選挙は、あわよくば巨大な多数派を形成して改憲作業を進めるために、小泉首相が仕掛けた乾坤一擲の大勝負だったように思われます。
「郵政」をエサに、「改憲」という大きな魚を釣り上げる――これがこの選挙の意味だったのだと、後から分かるときが来るかもしれません。「後の祭り」としないためには、明日、どのような選択を行うべきなのでしょうか。この問いへの答を出すのは、それはあなたです。
うーん、日本の行き先は、イラクだったかぁ!! 絶対にそうはさせないぞ!!
小泉になってのデーターが入った。
1、自殺者1万人が3,5万人に
2、ホームレス1,5万人が2,7万人に
3、生活保護者95万世帯が135万世帯に
4、児童虐待1万が2,6万
5、フリーター310万が450万人
6、破産者15万から25万人
7、平均収入703万円が660万円に。
何か思うことはないかね。
この投稿もとってもわかりやすいので転載させていただきました。msクンありがとう。
なんとなくは感じていたけれど、いやぁ、ひどいものですねぇ。これが「改革」の中味なんですねぇ。小泉続投なら、もっとひどくなるんだろうなぁ。
増税もあるし・・・年金もあてにならないし・・・憲法も怖いねぇ。
昨日見かけたチラシに「あなたの投票で日本の行き先が決まる」というのがあったけれど、この行き先って、ウォール街?イラク?ニューオリンズ?と聞きたくなっちゃいました。うーん、地獄もあるかなぁ。これを見ると・・・
「あなたの投票で、日本の未来が決まります」
平和で、環境を大事に、人と人が対等でいて和やかに語り合える社会にするのは、あなたのその1票です。
たまたまおんな組いのちを見たら、選挙のキャッチコピー募集が載っていたんだよね。締め切りぎりぎりだったけど、「日本の行き先って、ウォール街、イラク?ニューオリンズ?」って応募したら、入選しちゃった。やったぁ!!
女性が変える!選挙キャンペーン 2005衆院選選挙キャッチコピーコンテスト結果発表を見てね。
キャッチコピーを決めた理由は、
電車内のチラシにあった「あなたの1票で日本の行き先が決まる」を見て、聞きたくなりました。行き先って、ウォール街?イラク?ニューオリンズ?
今回の選挙報道はウォール街から広告費が出ているともっぱらのうわさ。郵政民営化はそれだけおいしいのでしょうねぇ。小泉続投なら、平和憲法も壊されそう。年金・増税もあって、ますます経済の2極化は進むでしょう。行き着く先はニューオリンズのカトリーヌ被害です。
平和で、環境を大事に、人と人が対等でいて和やかに語り合える社会にするのは、あなたのその1票です。と訴えたいです。
神田香織さんの選考理由
郵政、憲法、社会保障といった選挙の争点がきっぱりと入っています。また、国名、地名が想像力をかきたてます。郵政を民営化して、庶民の財産をウォール街のハゲタカどものえじきに供するのを許すのか。改憲を許して堂々と戦争できる国をめざすのか。被爆国日本が、他国にウラン弾を打ち込み、災害時に低所得の国民を見捨てるアメリカに追随していいのか。いいわけがないのです。政治とは弱者の為にあるものなのですから。
北原みのりさんの選考理由
小泉の支持率が上がっているのが怖い。「対 話」する視線、「平等」に対する真摯な姿勢 が全くない首相。このまま勝ったらあの男、 図に乗るだけだよ。ホリエモンが象徴するよ うな、金が金を生むような、「働く」ことに 喜びを見いだせないような、勝つか負けるか しかないような、そんな社会の行き先は、弱 い者が見殺しにされるニューオリンズだ。私 たちの幸せのあり方が左右される、重大な選挙。うまく言い表してくれました。
自民党HPにUPされた「改革を止めるな!郵政民営化に再挑戦!」を読むと、相変わらず掛け声ばかりで肝心な「今まで4年間の成果」は400字足らずで済んでいる。それでも「全てにわたってウソだらけ」である。私なりに検証してみた。
「長く経済を苦しめた不良債権問題は、小泉政権下でトンネルを抜け出し、」
↑
そりゃそうよ!(岡田彰布調)
銀行には公的資金(=国民の血税)ジャブジャブ投入、「潰れてもいい(怒)」中小企業は産業再生機構をすっ飛ばして、即、整理回収機構に持ち込んで潰したんだから。銀行による「貸し剥がし」も深刻な問題になったよね?ところで「ゼロ金利政策」っていつまで続くの?ずーっと、銀行に預けたって利息はつかないんだけど?
「GDPは実質、名目ともプラスに転じました。」
↑
「国内総生産(GDP)=@個人消費+A民間投資+B政府投資+C(輸出ー輸入)」のうち、頑張っているのはBとC(自動車産業など海外に強い業種だけ)なんだから。@はドン底、Aも民間の凄まじいコスト・カッティングの結果。特に@についてはどう考えてんのよ?まさか、「他も上がれば自然に上がる」なんてテキトーなこと、言わないでしょうねっ!
「最悪時5.4%だった失業率は4.2%まで大きく改善、」
↑
だからぁ〜、失業率の計算方法はこの前書いてあげたじゃん!
「失業を測る尺度である失業率は、労働力人口に対する失業者数の割合で定義される。失業者とは働く意思と能力があるのに仕事に就けない状態にある人を指すので、仕事探しをあきらめた人は失業者に含まれない。このような人を就業意欲喪失労働者(discouraged worker)と呼び、不況が長期化すると失業率を押し下げる要因になる」って。
つまり、それだけ不況が長期化しているってこと!不況による就業意欲喪失労働者(ニート、会社リストラされて何処にも再就職できない人)をほったらかしにして、ごまかすんじゃねぇ!
「一時7千円台だった株価も1万2千円台をうかがう勢いです。」
↑
これも前に書いたぞ!
回復したって言っても以前と違い、株を買っているのは主に外国人投資家。日本人にはかつてのような勢いはありまっしぇーん!何をバカなこと言って胸張ってんの?
「企業収益も過去最高の水準で伸び始めています。デフレ経済からの脱却も間近となりました。」
↑
増収はただ単に中国・米国が日本の商品をたくさん買ってくれたから。増益は血も涙もないリストラのおかげでな!その分、可処分所得の減った個人消費はさらに冷え込み、デフレ経済からの脱却なんて、夢のまた夢!ウソつくんじゃねぇ!
「この間、公共事業予算を大幅にカットしました。政権初年度の予算編成で対前年比マイナス10.8%としたのを皮切りに、2005年度まで4年連続で3%以上の削減を継続。『公共事業垂れ流し』で景気を回復していた時代は過去のものです。官の関与を減らし民間の力を引き出す改革が、新しい成長のエンジンとなることが明らかになったのです。」
↑
確かに「官の関与を減らし」たが、「民間の力を引き出す」(目に見える)改革なんて、この4年間してくれたっけ?それにもかかわらず、エセ道路公団民営化前に決まってた高速道路9,342kmの見直しは全くせずに、赤字路線になるのが明白だっても、その建設は死守するのね。
「小泉政権の4年間、常に小さな政府の実現を念頭に、あらゆる改革に取り組んできましたが、」
↑
道路公団改悪だけでしょ?それ以外に成果を上げた改革って何なのよ?具体的に教えてくれ!
「公的部門の改革はいよいよこれからが本番です。」
↑
『自民党からの120の約束』を読んだけど、民主党のマニフェスト(お宅のは単なる選挙公約)のように『社会保険庁・道路公団の廃止』等、「具体的に踏み切った」内容、全然ないじゃないのよっ!
こんな「菜っ葉の肥やし」(=「掛け声だけ」)を繰り返しても、この4年間の実績から国民はアンタのこともう信用してませんよ。「痛みに耐える」のは限界です!
「官の改革を一気に加速する、その本丸が郵政民営化です。」
↑
アンタ、「本丸(???)」だけ「自分の思うがままにボッコボコに」やって、後は「ハイ、さいなら」なんでしょ?結局。
この投稿やけに気に入っちゃって・・・yahoo掲示板Discussions & Debates on Politics! (トピ主時事総論)に載っていたんだけれど、時事さんのくそ真面目なところと、ジョークと、怒った時の関西弁がほどよくミックスされて、時事さんの本領発揮といった文章がなんともいいんだなぁ。もちろん内容というか、鋭い突っ込みもいいよぅ。
気に入ったのは私だけでなく、これを見せたくないのか、これが載るたびにくだらない投稿がどっちゃり。で、すぐ見えなくなっちゃうのが惜しくって・・・こっちにも転載させていただきました。時事さん、ありがとう。
現在の憲法を、アメリカから押しつけられたものだから自前の憲法を作るべきだとか、いろいろな考え方で改憲を支持する人がいますよね。でもね、そんなことは意味が無いと思っています。
ようするに良い憲法かどうかが問題なのです。自衛隊の海外派兵に端を発した改憲論ですけどね。時代に合わないとか、実情に合わないと言う理由ばかりの改憲論者が多いですよね。これは違うと思っていますよ。
憲法とは国の向かう理想的な指針を示したものでなければ成らないはずです。今の憲法は世界的に見ても理想的で貴重な理想を示したものだと思っています。世界に誇れるものでしょうね。
時代の流れや世界事情に合わせて憲法を変えていくようになったら、憲法が時代や事情に合わせて変化する後追いの軽い存在になってしまいます。これこそ間違いです。
簡単ですけど、これが僕の基本的な憲法のとらえ方です。
簡潔にして充分的をついたご意見かと・・・。今の若い人たちって、自分を持っていていい意味で賢くて強いねぇと、今日も友だちと食事をしながらおしゃべりしてきたんですよ。なんかねぇ。こういう若い人たちを見ていると、日本も先が楽しみに思えて心強いです。はい。
(戦争の放棄、戦力の不保持・交戦権の否認)
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際戦争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
これも簡潔。で、この理想に近づかせる義務を日本国は背負っているわけです。それがつらいからと理想をレベルダウンするではなく、現状は理想に遠くても、今は一歩後退でも理想に向かって歩みつづけてこそ、日本人が日本に誇りを持てるようになるのではないでしょうか。
朝日新聞 キーワードで考える 戦後60年 シリーズはどれも胸に応えましたが、特にこのノーマ・フィールド氏の 連帯する「個」は、私自身の生き方にも共通するし、これからの日本の方向性を考える意味で大事だなぁと思い転載します。
―――――☆
日本の大学で先月、私の著書「天皇の逝く国で」を題材にした授業に招かれた。
昭和天皇が88年に倒れ、「自粛」という名の自主規制が社会を覆う中で、個人の意見を表明していた少数派の日本人を取り上げた本だ。
沖縄の国体で日の丸を焼いた知花昌一さん。自衛隊員だった亡夫が護国神社に祭られることに異を唱えた中谷康子さん。「天皇の戦争責任はあると思う」との考えを議会で発言した本島等さん。3人とも「それでも日本人か」などと激しい非難を浴びた。
授業中、学生が「天皇が好きという人とも許せないという人とも私は違う。この本に出てくる人たちと私とはなんの関係もない」と発言した。
4月に別の大学でも「反日デモの中国人は愛国教育を受けているが私は受けていないから、どう応えればいいかわからない」との声を聞いた。自分は天皇制とも愛国心とも関係ない――そういう拒絶的な姿勢表明のように聞こえて、強く印象に残った。
私は日本で生まれ育った。米国に渡って大人になってからも、日本をひんぱんに訪れてきた。そして今、16年ぶりに日本で暮らしている。
50年代終わりから60年代前半、東京の電車内では、座っている客が前に立つ他人の荷物を持ってあげるという作法が自然に行われていた。また80年代後半には日本では実に多くの庶民が、自身の戦争・戦後体験を自粛現象との「関係」を考えていたと思う。
今、他人や社会の出来事との関係を拒否することが、新種のアイデンティティーになっていないか。「関係ないよ」という姿勢を根底に置くアイデンティティーだ。
これは実は私自身の問題でもある。今回のイラク戦争の際、私もシカゴ大学の同僚も本気では反対しなかった。異は唱えたし反戦集会にも参加したが、そこまでだった。「関係ないから」だった。
自分の子が戦場に送られるなら、私たちベトナム反戦世代は仕事を放り投げてでも立ち上がる。だが徴兵制のない現在、実際に戦地に行くのは社会的底辺の若者達だ。自国の戦争すら「関係ないもの」として処理させる仕組みがそこにある。
敗戦を境に、民主主義と反戦に日本人は燃えた。だが「60年安保」の直後に政府が出した所得倍増政策は、国民から政治的関心を取り去ることにほぼ成功した。「当事者でない市民が広範に立ち上がる」状況を見る機会は、ほとんどなくなってしまった。
近年は市場主義的な自由化で、個人はさらに帰属性や関係性を断たれた。いまや「個人が個人として最も輝くのは消費の場」という状態だ。
国民の圧倒的多数が、自分は経済的成功を遂げた国家の一員だと信じる社会、日本の国民的アイデンティティーの核を作ってきたこの意識は、「不安でぜいたくな時代」とも呼べるバブル崩壊後にも生きつづけている。日常に潜む抑圧を告発する個人は、この多数派から「私は黙ってこの日常を生きているのに」との迷惑意識を向けられる。
知花さんら3人の意見を圧殺しようとしたものの根に、それがあった。昨年イラクで人質になった3人へのバッシングもそうだ。3人は身近でないイラク人に共感し、個として行動した。それは、無意識の日常を生きたい人々には迷惑なことだった。
残念ながらこれは、手段であるはずの繁栄が目的化してしまった社会の帰結である。ただし、現状を必ずしも絶望的だとは思わない。
3人が人質にされた時、日本には、イラク人の協力者と連携しながら解放への道を模索した市民グループがあった。政府の論理とは一線を画す、草の根の連帯だった。
日本の市民がこういうつながりを持てたのは、平和運動の成果であり、反映によって欧米以外の世界を知るようなった成果である。そういう一面もあると考えたい。
世界は、企業や国家の枠とは別の連帯をますます必要としている。平和と繁栄が可能にする新しいアイデンティティーのありように希望をつなぎたい。
著者:山田昌弘
はしがき
若者へのインタビュー調査を行っている時、国民年金の掛け金を払っていないフリーター(30代前半、男性)に出会った。そこで、老後の生活はどうするつもりかと聞いたら、「5年後の生活の見通しも立たないのに、50年後の生活の心配ができますか」と言われてしまった。
ポーランド出身の社会学者ジグムンド・バウマンは、グローバリゼーションの影響によって、近年、世界全体に、社会から排除され、将来の希望がなくなり、やけになる人が増えていると分析する。彼の近著のタイトルは「Wasted Lives」(2004年)という。この言葉を私は「使い捨て人生」と訳した。将来のことを考えない若者は、自分を自分で使い捨てていると言う意味で、この「使い捨て人生」と紙一重なのではないか。
いや、フリーターだけではない。正社員で勤めている若者の中にも、「つまらない仕事を一生続けて行くのはイヤだ」という人もいる。いや、中年世代でも、「いつリストラされるかわからない」「はたして年金が充分にもらえるのか」「給料が減って住宅ローンが払いきれるのか」「子どもの教育費で生活がさらに苦しくなるのではないか」と不安を抱く人が増えている。自分が企業そして家族、いや社会から「使い捨て」されるのではないかという不安である。将来に希望をもてず、実現不可能な夢に逃げて生きる人々、いわば「負け組」が増えている。
いくら成功例を出されても、そして、いくら「人それぞれ輝くものをもっている」と言われても、フリーで成功するのはぬきんでた能力持った少数の人々であることを、多くの人が知っている。今の時代、全員が「勝ち組」になることはできないのだ。メディアで取り上げられる成功例は、多くの人にとって、自分のものとは感じられないものとなっている。
かつて、多くの若者は、将来に希望をもつことができた。それは「豊かな家族生活を築く」という夢が、多くのひとびとにとって到達可能なものと感じられたからだ。しかし、今はどうだろう。一部のものは社会の中で活躍の場を与えられる。しかし、多くのものは、生活の不安にさらされながら、「宝くじがあたれば」というような非現実的な夢をみながら、「負け組」としてその日を暮らしている。
日本社会は、将来に希望が持てる人と将来に絶望している人に分裂していくプロセスに入っているのではないか。これを私は、「希望格差社会」と名付けたい。一見、日本社会は、今でも経済的に豊かで平等な社会に見える。フリーターでさえ、車やブランド・バッグをもっている。しかし、豊かな生活の裏側で進行しているのが、希望格差の拡大なのである。
なぜこのような事態が起きたのか、将来どうなっていくのか、そして、我々はなにをすればよいのかを、本書では考察していきたい。実は、このようなことを考えること自体が、あまり気分のよいものではない。しかし、我々自身の社会を住みやすいものにするためには、現実をしっかり見据えなければならない。
―――――☆
「影から出る」にもあったが、この著者も、1990年を節目の年として見ている。まずはリスクと2極化を見てみよう。
―――――☆
生活リスクの変遷
前近代社会には、安全な領域は一部分で、そこから一歩踏み出れば、危険にあふれていた。それゆえ、多くの人は伝統に従った変化のない生活を繰り返す以外になかった。
近代社会では、外部の危険が縮小され、安全な領域が広がった。選択に伴う危険を避ける道が広範に存在した。それゆえ、危ないところに近づくと言う選択肢さえとらなければ、大体どの選択肢をとっても、安全な生活を送ることができた。
現代社会は、その危険と安全の境界線が消失しつつある社会である。より危ない選択肢、より安全な選択肢はあっても、絶対安全な選択肢はない。リスクをとらざるを得ない状況。それがリスクの普遍化なのである。
例:銀行にも倒産の可能性。住宅地でも引ったくり。通学路での児童誘拐、有名ブランドの食品に有害物質。上場企業でもリストラ。
今のように、正社員、契約、派遣、パートと雇用形態がさまざまで、しかもリスクが個別の問題だから、明日はわが身とならない可能性にかけて、人は連帯しない。できない。弱者同士が連帯できる時代も終わったのだ。
意思やだけではどうにもならないリスクがあるのなら、人は考えまいとする。運を天に任せる。これが一番ラクだから。
2極化
@ 職業的に質的な格差が出現し、拡大している。A自分の仕事能力によらない生活水準の格差が出現、拡大している。
格差は一見実力の差ともとらえかねないが、教育でも、東大入学者の親の収入を見れば一目瞭然。裕福な親の子は有利。性別役割分業における女性は、高収入の夫を捕まえるが勝ち。自分で自分の生活を維持することさえできない「弱者」ホームレスの出現もある。格差があっても、お互いが納得できる範囲ならば不満は起きないが、その逆だと社会が不安定になる。
@ かつては企業に勤めながら仕事能力を徐々に向上させていくという形の仕事が多かった。しかし、ニューエコノミーの下では、専門的能力を必要とされる職種と、マニュアルどおりに働くだけで、能力の向上が原則不要の職種に2極分化していく。前者は収入だけでなく、転職にも有利。後者は一生低賃金を強いられ、解雇・失業のリスクも高くなる。
A 収入カップル、低収入カップルの格差、親の資産の相続を期待できる子とできない子の格差。親が生きているうちから有形、無形の経済援助を受けられる子と受けられない子という格差。
「生まれ」といった、能力が関係ない要因による格差各代は、能力のある人のやる気をなくす。能力による格差が強調されると、能力のない人のやる気をなくす。
―――――☆
リスクと2極化により、希望格差がおきている。これとっても納得。
―――――☆
フリーターの不良債権化
夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは「ウソ」である。すべての人が希望どおりの職につけることはありえない。「一生」大学教員になれない博士課程入学者は年に1万人ずつ、「一生」上場企業のホワイトカラーや技術職につけない大学卒業者は、多分、年に数万人ずつ、「一生」中小企業の正社員にさえなれない高校卒業生は、年10万人ずつ増えていく。これに呼応して、正社員と結婚するつもりだが、一生結婚できないフリーター女性は、年20万人以上発生していくのである。
フリーターは、バブル期に作った企業の不良債権に似ている。いつか、土地や株があがれば大丈夫と期待し、対策を打たずに、そのまま不良債権が膨らみ破綻に陥る。
今は、親の支援も受けられているフリーターも、いつか親も亡くなり、加齢と共に失業のリスクも増える。生活が破綻すれば、社会福祉費が増大する。年金掛け金や税金を納めず、子どもも育てない中高齢者が増えれば、どこかにしわ寄せが行く。
職を持っているということは「アンデンティティ」感覚を与えるが、それがない人が増えるということは、社会の不安定要因となる。2002年の池田小事件、2003年の未成年の女性誘拐事件など、その多くは無職の青年・中年であった。
―――――☆
それほど気に入らない仕事でも、とりあえず、明日自分は当てにされているということが大きいねぇ。社会から必要とされていないという感覚がひきこもりにも関係していそうだねぇ。道で見かける人の表情の暗さも、とみに気になるところ。掲示板でも、意見を言うよりも人の足を引っ張ることに情熱を燃やすタイプも多い。人をけなすことで自分のアイデンティティを保とうとしている。
―――――☆
「誰でも輝くものを持っている」から、それを見つけさえすれば、充実した生活ができるととく論者もいる。確かに、誰でも輝くものを持っているかもしれないが、それと、人並みの「生活」ができるかどうかは別である。社会の需要とは異なった「輝くもの」をいくら見つけたとしても、収入にはつながらない。
選択肢がひろがることと、その選択の実現可能性が高まるかどうかは別の問題である。4章から順番に述べたように、職業、家族、教育の中で「2極化」が生じている。仕事での才能や人間的魅力がある人は、パイプラインからこぼれ落ちることなく、自分の思い通りの仕事に就けたり、好きな家族形態をとれるだろう。しかし、自由に活躍する人の裏には、パイプラインから漏れ、正社員にもなれず、家族をつくりたくても作れない人々がいるのだ。いくら選択の自由が与えられても、その選択肢が実現しないなら、選択肢がないことと同じである。ジムンド・バウマンが言うように、有史以来、平凡な才能の持ち主にとっては、自由な選択肢は「嫌悪すべきものであったのである。(「リキッド・モダニティ」)
ニューエコノミーが進行しているアメリカでは、平均以下の才能を持つものの生活水準は低下している。例えば、大学院卒の平均賃金は上昇しているが、大卒で横ばい、高卒以下だと明らかに低下しているという。日本でも橋木氏などが指摘するように、明らかに格差が拡大している。
(経済的セーフネットとしては、アメリカのメディケイドや日本の生活保護がある)
ニューエコノミーが生み出す格差は、希望の格差なのである。一部の人は、努力がオールドエコノミーの時代以上に報われるが、その反対側では、努力が報われないと感じる人を生むのである。ニューエコノミーが平凡な能力の持ち主から奪っているのは、「希望」なのである。
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しかし、逆に、親から援助を受けることの束縛感を、著者は語っていない。政治家も2世が多いけれど、はたして彼らは幸福か? 経済的には、確かに2世は効率がいいが。また、知り合うチャンスとしても、弁護士同士、医師同士の高収入カップルは多いだろう。が、忙しいもの同士のストレスは計算外でもある。3高嗜好がいまだに健在と結婚相談所の友人がいうが、それは、人柄とかを数字であらわせられないからだと思う。数字に表せない部分が、結構この世では大切なんだよ。 ここにこの希望格差の解決法があると私には思えるのだ。
みんな!! 希望の種を拾いに行こう!! 著者は、個人的な解決には限度があるといっているが、「がいばばあちゃん」もある。価値観を変えてみれば、結構いける。テレビがなければ、ウォール街の広告費の影響を受けることもない。 自然・シンプルな生活もいいぞぉ。
何を大事に自分は生きていきたいのか。 そこをよおく考えて、その道を歩みだしてごらんよ。 まずは自分を大事にすること。収入に直結しなくとも「人は誰でも輝くものを持っている」のは確か。 反グローバル運動、ネット、自然、女性問題にもヒントがありそうだね。私はね、歌と平和と友達を大事に生きていこうっと。
著者:片岡義男
「タイトルの意味するところは、比喩でしかないのだが、アメリカからはなたれてくる光を日本が受けて影が出来る。その影が自分なのだと思って日本はここまで来た。その影の外に出るとは、日本が自分をとらえなおすことが出来るのかどうか、というほどの意味だ。」
70年安保の時、私はもう社会人だった。だから、学生達が一生懸命に日本のことを考えて運動に関わっているのを横目で見、私自身もデモには参加したが、覚めてもいた。最初ならともかくもう出来上がっているものは変えられないだろうと・・・あの頃だったか、「悲しくてやりきれない」という歌が流行ったのは・・・サトウハチローの作詞。大好きな歌である。若かったし、貧乏でもなかったし、悲しいことも具体的にはなかったのに、なぜあの歌が心に響いたのだろうか。
大人たちが作った社会を、変えることが出来ないという寂寥感だったのだろうか。理想に燃えても、何も残らないというむなしさからだろうか。
この本は作家が書いているので、ブッシュや小泉の言葉の意味が片岡流に翻訳されているところが非常に面白い。経済のことも専門家ではないから、逆に納得できることもある。しかし、一番心に残ったのは、やはり人の心の問題である。
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日本の戦後そのものが、国家観や国家像の欠落を前提としていた。近代日本という主権国家は、国民一人一人を厳しく掌握してこと細かに管理し、エネルギーをひとつの方向に向けて揃えて相乗効果を発揮させ、最大の効率をそこから引き出して国家に注ぎ込ませた。太平洋戦争での大敗戦、それに続いた占領政策と新憲法によって、戦前・戦中の国家は否定され、そこから断ち切られたところから戦後の日本はスタートした。その日本は技術と経済に特化した。自由と民主が社会システムとなっていればこそ可能な特化であり、これはアメリカが世界に広げた影響力の、日本における開花だったと言っていい。
冷戦の最前線で日本はアメリカの軍事力の傘の下に入り、外交と軍事をやらずにすませた。戦前・戦中の国家に代わって、会社が人々の帰属先となった。高度経済成長の時代の中で、会社はほぼ絶対のものにまでなった。その背景では主権国家日本が、戦前・戦中にも増して規制と管理の網を何重にもかけて、企業群を護送した。国家のコントロール力は、強化されて広い範囲におよんだ。なにしろことは経済だから、おおっぴらにやれた。しかもその経済は成長と拡大を続けた。人々の生活は向上し、会社の中にすべてがあるという日本が出来上がった。会社の外には何もないか、あるいはあっても見えない状態となり、見えなくなったものの代表が国家だった。
1989年の冷戦の終わりと、戦後日本というシステムのあらゆる部分の崩壊の始まりは、時間的に奇妙に一致している。冷戦が終わったあとに始まった世界秩序の再編成のなかに、国家観を失った日本が浮かび上がり、失ったものを何とか取り戻そうとする試みの最たるものとして、国際社会での名誉ある位置の獲得が、軍隊の派遣という短絡した方法で、国家によって模索されることになった。そしてその国家は、国家機能の中枢から市民生活の最末端まで、あらゆる領域で崩壊を始めている。
自分は少しずつ物になっていく。物は次々に消えていく。それと同調して、自分も少しずつ消えていく。自分と言う存在の意味に、小さな空洞が次々に出来ていく。平凡な言葉を使うなら、内面の充実はいっこうに図られず、その逆に、内面は確実に侵食されてうつろになっていく、ということだ。
会社が絶対だった高度成長の頃に比べると、会社に雇用される人の働き方は激変している。形態だけを見てもすさまじい変りようだ。年功序列は懐かしい昔語りだ。定期昇給、ほぼ自動的な昇進も、消えた。ベースアップつまり労働組合も危ない。利益を出すためのさまざまなコストのなかで、人件費が最も集中的に削減の対処となっている。高度成長の中でふくらむだけふくらんだ、日本の人件費だ。失業と雇用の不安定化の中で、今最も進んだ先端は、一日ごとの契約と言う働きかただろう。これは程なく時間単位にまでなるはずだ。
働くな、働かせないぞ、と言う場合がひときわそうであるように、自分と言うひとりの存在が、必要のないものとして社会から拒絶されたという、他のことを持って埋めがたい空洞を、人の内面に作り出す。やがてはこうありたい自分という目標が拒否され否定される。目標を下げてもそこにあるのは崩壊していく社会システムだけだ。
国家が従来どおりの内容で細々と規制するからシステムは時代遅れとなり、経済その他すべてうまくいかなくなるのだから、規制緩和、構造改革、官業の民間への開放など、これまでとは違ったかたちでの保護策を講じてくれればうまくいくはず、という考え方だ。国家からの開放を求めているのではなく、新たなかたちの介入による保護を、人々は願っている。小泉政権への支持率は、このような願いが人々のあいだにどれだけあるか、その比率だと理解すればいい。政権の能力と方針を正確に見きわめて国家の運営を託しているのではなく、何とかしてもらいたいという依存的な期待ゆえの支持率だ。
国家は崩壊していく。その国家への人々の依存は高まる。この相反する二つの力がちょうど均衡し、動きのとれない状態が、いまの日本だ。デフレ、不景気、経済の長期停滞などの、真の原因はここにある。国家の崩壊は国民経済の崩壊をともなうにきまっているではないか。依存というかたちによる国家への人々の期待は、次々にはずされるだろう。
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今は、転換期ですかねえ。選挙、依存でない自立した投票をお願いします。
個というものを、いまだに叩く風習の残る日本ですが、個の意見、個と個の意見をつなぎあわせていく、「エンパワーメント」と「ネット」がこれからの課題かと・・・みんなぁ、まずは元気で生きようね。ぼちぼちとでもさ。
講師 CEP・子どもひろば
今回の講座は親子の安全トレーニングということで、お家の人に話すという場面で、実際の親子でロールプレイをしたのが、とても印象的でした。車で道を聞かれて、その車に乗せられそうになるが断って家に帰る、という事があったことを親に話すのですが、その際に大事なのは子供の話を聞くこと(傾聴)と、車に乗らなかったこと、話してくれたことをほめる事、また同じようなことがあったら話してね、と言う事。そして、子どもの手を握る、抱きしめるなどのスキンシップをとることを事前に講師の方から聞いてから、それぞれの親子の言葉で演じて行きました。もし何かあったとき、普段からこういった親子関係が出来ているのなら大丈夫、と感じました。
講座の構成として
1.命の大切さ(生まれたときに喜んでくれた人を子ども達が次々上げていく)
2.知らない人に名前を聞かれたら?
3.道を聞かれたら?
4.写真を撮らせてと言われたら?
5.エレベーターで一緒になったら?
6.いつも会う人は知っている人?
7.自動車に乗せてあげると言われたら?
8.おうちの人に話す
9.親子で振り返り(アンケートに親子で相談して答える)
という日常にありそうな場面で、会場の子どもたちが各場面に参加して、実際に自分の言葉で断るという体験を、何度も行いました。最初に講師の方が、悪いパターン(ついていくなど)を演じて、その後断る場面を演じるのですが、その後にやってみたい人(子ども)を募集します。最初は遠慮がちで手を上げられなかった子どもも、同じ場面を何人も演じるうちに積極的に参加していく姿は、子どもたちの自主性が引き出されて良かったと思います。また、こういう風に断る、こう言う、というのではなく、その子の素直な感情で出てくる言葉や態度で危ない目にあわないように逃げる経験を重ねる事は、実際の場面でも対処出来そうで、とても良いものでした。
ひとつ残念だったのは、平日ということもあって参加者が母親だけで父親の参加がなかった事でした。 育児は母親だけでなく、父親も共に担っている事ですし、子どもへの接し方や言葉かけを含めて、ぜひ体験して欲しいものだと思いました。
みいくん、忙しいのに報告ありがとう。参加できなかった私にも雰囲気が伝わりました。大人向けの講座の時もそうでしたが、人権のことをわかりやすく伝えてくださっていますね。それと子ども達の自主性を引き出す授業。ほんと、お父さんにも参加して欲しいものですねぇ。次回は中学生向け?それも楽しみです。
目覚ましい政治の変化、その背後にある新聞、放送、ネット、それを動かす人々の姿を生き生きと描いた本を読みました。残念なことに日本ではありませんで隣国。「韓国のデジタル・デモクラシー」という新書です。
硬直した既成大政党、それに従属する大手三大新聞(朝鮮日報、東亜日報、中央日報)を、インターネット活用で乗り越えて、若者たちが政治変革を推進している様子が実に良く分かります。
日本マスコミ、この本で非難されている韓国三大新聞と同じ体制翼賛。従って決して実情は日本に伝えません。大統領の政策も、デジタル・デモクラシーも、暴走のように伝えます。その一方、韓流スターの動静や、それを追いかける叔母様方の事を書きます。
例えば、国会で、大門議員が、アメリカの「年次改革要望書」の指示に従って民営化するのでは、と竹中大臣に質問し、大臣が苦し紛れに英単語を使って逃げても、マスコミは全く報道しません。議事録を読めば、大臣の馬脚はばればれ。重要な真実を報道しないまま、郵政改革を進めるべきという社説を書くのは、詐欺と同じこと。日本のマスコミ、悪辣な韓国三大紙並みであることがわかります。
○大門実紀史君 先に質問させていただきます。
これはもう中身細かく触れませんが、アメリカのいろんな要求を資料に基づいてまとめたもの、そして法案でどういうふうに具体化されているかということを対照表にしたものでございます。一〇〇%とは言いませんけれども、随分アメリカの要求が法案に盛り込まれているというふうに思います。これは偶然の一致というふうに見られないというふうに思いますが、いかがでしょうか。
○国務大臣(竹中平蔵君) アメリカの要求というのはここに書いているような形であることは事実でございます。ただ、この委員会でも繰り返し申し述べさせていただいていますように、我々は本当に国民の利益、国益を考えて民営化をしております。アメリカの要求に応じてやっているということではないということは是非とも御理解を賜りたいと思います。とりわけ、この中で三番目、委員の資料でいいますと三番目のところは、これ、アメリカの要求と我々のところというのは全く変わっているわけでございます。かなり違っているわけでございます。そして、これ、二番目と四番目につきましては、むしろ我々が基本方針を示した後でアメリカが要求してきたものであるというふうに承知をしております。決してアメリカの要求に応じて我々が民営化の制度設計をしているわけではございません。
中略
○国務大臣(竹中平蔵君) アメリカは、そのことを修正させたとはどこにも書いていないと思います。リコメンドしていたことがインクルードされたというふうに書いているだけで、修正、働き掛けて修正させたというような文意はこの中からは読めないと思います。
○大門実紀史君 そういう、何てつまらない、そんなことしか答弁できないんですか。インクルードでチェンジズで修正点が含まれたといったら、修正したということじゃない、させたということじゃないですか。
以下略
第162回国会 郵政民営化に関する特別委員会 第8号 平成十七年七月二十五日(月曜日)
該当部分の記事は阿修羅
「年次改革要望書」つまりアメリカの指示による日本改造はマスコミにとってタブー。汗水ながして溜めた虎の子を、アメリカ様に差し上げるのが、郵政民営化なのに。憲法破壊を改憲と称し日本軍のアメリカ傭兵化を推進し、日本を束縛している安保条約をこそ再検討すべきという記事が現れないのと同根です。
ところで、その本によると、韓国における言論弾圧、民衆弾圧の苛烈な歴史は想像を絶します。61年には民主的な新聞を出していた社主が逮捕され何と処刑されてしまいま す。以後、権力の懐柔によって次第に蜜月関係となった新聞、朝鮮、東亜、中央日報の三大紙およそ大衆からの信用は低いそうです。大手マスコミを信じている人が多数の日本から見れば、韓国マスコミ信頼度の低さは羨ましいことに思えます。
ノムヒョン弾劾時に、弾劾反対派が20万人の、賛成派が2千人の集会を開いたそうです。朝鮮日報、自社前で繰り広げられる弾劾反対派20万人集会に一切触れず、あえて賛成派2千人の集会を記事にしたそうです。それでも意外とテレビは奮闘したようで、テレビと新聞のバトルになります。テレビ・メディアは容共だとして、KBS、MBCを責める新聞大手三紙。反撃するテレビ・メディア。息の詰まるようなドラマが描かれています。日本では、こういう事はまずおこりません。
もちろん韓国でも、ネットを駆使し自分たちの大統領を生みだした若者達に対抗しようと、既成政党側もネット世界への反撃・反攻を試みています。しかし、お手盛りにわかづくりの雇われ部隊、自発的に智恵を絞って戦う若者達のようには機能しません。
巻末で著者が日本の民主主義について触れている言葉を挙げましょう。「03年、日本の衆議院選挙では、都知事の地盤を世襲した息子の、人気俳優たちによる全面的支援をバックにした選挙運動が話題となっていた。しかし韓国では、そもそも家柄のブランドだけで政党の公認を受けることはすでに非常識となっている。」
振り返って、日本の与党、準与党を見てみると、世襲師弟ばかり。
首相が自らを、天動説が主流の世の中で、地動説を唱えた「ガリレオ」に例えるという歪曲、傲岸不遜。開いた口がふさがらないというのは、このことです。誤っている強力な既存体制に刃向かった勇敢なガリレオと、アメリカの日本コントロールを象徴する傀儡が、同じはずがありません。地動説を主張する反対派を、アメリカの金とマスコミで潰そうとしている「天動説」坊主にすぎません。それを「ぶれない・信念の人だ」といってあおぐ半数の国民!シェークスピア「リア王」にうまいセリフがあります。「狂人が盲人を導くのも時世だ。」
ということで、今の時期、韓国のデジタル・デモクラシーが羨ましくなるのです。
しかし、著者は言います。
「民主主義には、タダもなければ、一足飛びに段階を乗り越えることもない」
ネットの技術レベル、普及度、そして、長期腐敗政権のひどさ、体制翼賛マスコミについて見れば、日韓さほどの差異はない(なかった)ことを考えると、ネットを道具に悪政に立ち向かい、自分たちの言論を展開するオーマイニュース、あるいはハンギョレ新聞の類を生みだした隣国と、落書き掲示板しかなく、翼賛選挙で地獄の道をまっしぐらという日本との違い、大きすぎるようです。
この違い、日本環境報告の本多氏が言う「民度」の違いに起因するとあきらめるべきでしょうか。
四大紙全て郵政改革案を通過させるべきという説でした。「郵政選挙」とマスコミは歪曲して呼ぶでしょうが、「年次改革要望書政治粉砕選挙」になって欲しいものだ、と真夏の夜の夢をみています。
マスコミ 2005年森田実政治日誌[227]「不偏不党」を放棄した日本のマスコミ
解散のおかげか、掲示板の書き込みはにぎやかだけれど、会社の話題は「次に辞めるのは誰か?」「いつ?」「次の職はどうするか?」のみ。選挙も郵政も出てこなかった。私も含めて、みんな余裕がないんだよ。生きるのに必死。エネルギーのある人は人のあげあしとりに忙しいから、韓国のようには行かないねぇ。私もあきらめはしないけれど、体力と相談してぼちぼちやっていきましょう。
可愛いパンダの写真。友達から送ってもらったの。ほっとするね。
この度、熊川の商店・事業主を中心に、熊川地域の有志により、「熊川フリーマーケット」を開催致します。
場所は、新奥多摩街道、熊川交差点脇の空き地です。JR熊川駅からはゆっくり歩いて2分の所です。
詳細はホームページ「ふっさねっと」をご覧下さい。
宣伝かたがた生存確認報告です。
福生第9のお仲間、杉山ふとん店店主 いくおさんからのメールでした。わたしもナントカ生きているよ。
そういえば、引越し前にパソコンを初期化したもので、友達のアドレスをだいぶ失くしてしまいました。お久しぶりの方、ぜひ生存確認のメールをくださいませ。
風呂なしのアパート住まいにも楽しみはある。その一つが銭湯。「こんばんわ!」といってくれる人がいるということが何よりもうれしい。顔なじみもできて、体のみならず心まで暖かくなるんだ。広い浴場。旅行なんかいけなくとも、目の前に瀬戸内海の景色が雄大に広がる。大体、この広さを数人、あるいは一人で占領できるという贅沢さ。湯質も違う。薪で炊いたお湯はやわらかいのだそうだ。うん。ジェット噴射のも、ゆったりのも、自分で選べる。男湯から声がかかるのも乙ですな。「おーい、出るぞーっ!!」私に言ってくれる人がいないというのはなんとも寂しいが、でも、ほのぼの気分。「あなたはもう、忘れたかしら、赤い手ぬぐいマフラーにして・・・」なんてね。
ただ、チョイ、心配なのは、私たちが贅沢な分、お風呂屋さんの採算が取れないのでは…で、皆さんにお願い。たまには、お近くの銭湯へお出かけください。石鹸、シャンプー、タオルを持って、400円を握り締め、ゴーッ!!
小平浴場(津田3-4-22) | 津田の団地近く上水寄り | 営業時間3:45〜11:00 定休日隔週月曜 | 昔ながらの建物。金魚のタイル絵も可愛い。 |
栄湯(小川西町3-26-4) | 小川駅北側の踏み切りのそば | 定休日毎週水曜 | 未入湯(暖かくなったらぜひ一度は行きたい) |
福の湯(小川東町1-35-5) | 小川駅拝島線の電車から煙突が見える | 3:30〜11:00(金曜は7:00まで) | 未入湯(暖かくなったらぜひ一度は行きたい) |
上水湯(上水南2-3-20) | 上水南郵便局並び | 4:00〜11:30。定休日毎週水曜。 | 瀬戸内海の絵と磨りガラスがお見事 |
ユニフェムってなに?
ユニセフは世界の子供を救う機構でしょ。
Feminine だから女性。
つまり、発展途上国の女性の自立を支援する国連の基金です。
戦争、飢え、病気、暴力・・・・多くの女性が苦しんでいます.そんな女性が経済能力を持つことが必要です。子供を救うには母親を救わねばなりません。1976年から始まったのですが、日本が加盟したのが遅く、(1992年)まだご存知の方が少ないのです。
コンサートやアジアン・グッズを売ったりして、お金を作っています。
個人会員 (年会費:3000円)を募集しています。
すいません。りっちゃん、経済的能力が劣っているもので…余裕のある方、ぜひ会員になってください。
7年ぶりに混合性結合組織病が活動してくれて、発熱。あちこち痛い。という症状が出ました。今、いつもの十倍量の薬で症状を押さえています。こんな状態では、仕事も難しく、また、何時まで休むかハッキリしないと現場の皆さんに迷惑が掛かるので、急遽、保育のパートを辞めることにしました。それが02年9月1日。
でもね。2002年9月2日、その39度の熱のさなかに、保育課の島田という職員が家まで、保険証を取りに来たんだよ。(橋田課長の指示なのだそうだ)入院するかもしれない状況の中で(結局自宅療養ということになったけれど…)「お代官さま、そればっかりは!!」という台詞が口を出そうになったけど、対応もできない情況だったから…でね、無保険になると、難病の医療券も使えなくなるのよ。完全自費。もちろん後で、保険証を出せば清算はしてくれるけど、3日に病院にいったけど、約三万。結局手持ちが足りなくて、39度の熱でフーラフーラしながら、病院近くの郵便局まで預金を下ろしに行かねばならなかった。
必要だってことは説明して、お願いしたんだけどね。国民保険の手続きは、また別の日(向こうの指定で5日)に姉に行ってもらって、保険証が手に入ったのは、6日の金曜。その間、保険証が手元にないというのは、とっても不安でした。
小平市役所、全体が悪いわけではない。保険課の対応は早かったしね。保育課の人もある意味では、職務に忠実なんでしょう。でもね。市役所というのは本来市民のためのもの。そこが完全に忘れられている。病人の弱い立場なんて関係ない。人間としてみてもいない。それってやっぱりあこぎだよ。病人の布団を取り上げるお代官さまとちっとも代わりはない。
そういうことが通用しちゃうというのは、一職員の問題ではなく、小平市の姿勢の問題です。ちゃんと職員教育をしてよ。人間として血の通った行政をしてよ。こら!小平市長、前田雅尚!あんたが悪い!ちゃんと襟を正して、市民のための市役所に改革しなさい!!
…他にも変なこと一杯の小平市、こっちも見てね。組合を見る。