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                            よっちゃんの旅日記 Ⅲ


目次


スイス涼風紀行8日間(2015年6月)
ポーランド旅日記(2015年4月)
      アメリカ大西部・5大絶景めぐり8日間(2014年5月)
       ロシアハイライト7日間(2013年7月)      
  リゾート地グアム4日間(2013年)
 思い出のギリシャ(2005年9月)
スペイン8日間 (2001年5月) 
20年前の東欧3都の思い出 (2000年11月)



スイス涼風紀行8日間  (アルプス4名峰含)        

2015年6/25~7/2 憧れのスイスに友人と行きました。
往復ともJALの(成田⇔フランクフルト)便そしてバスで国境を越え、
スイスに入ります。
乗り継ぎ便の飛行機で行くより楽で、しかも費用も安くなります。
参加人数は19名で、観光バスも2シート占領でき、まとまりもよかったです。

国名: スイス連邦(ラテン語でConfoederatio Helvetica 国名コード=CH)
     連邦共和制国家 永世中立国
地理: ドイツ・フランス・イタリア・リヒテンシュタイン(*)に囲まれた内陸に位置する。
首都: ベルン
国語: ドイツ語 フランス語 イタリア語、ロマンシュ語 の4つ
国土: 日本の約一割でほぼ九州ぐらい。
人口: 約800万人
国の標語: ラテン語から『一人はすべてのために、そして、すべては一人のために

(*)リヒテンシュタイン=リヒテンシュタイン公国、立憲君主制国家。面積は日本の小豆島とほぼ同じ。
  海に出るために少なくとも2つの国境を越えなければならない「二重内陸国」である。
  世界で6番目に小さい国。


国旗: 連邦兵士が13世紀頃から使っていたもので、シュビッツ州人の赤い楯に白十字の標識に由来する。  
    十字はキリスト教を象徴する。

 スイスの国旗は、正方形であるという変わった特徴を持っている。
 これは、ヴァチカン市国と並んで世界で唯一のものである。

 「国際赤十字」(IRC)の旗は1864年にスイスのアンリ・デュナンなどの功績を称え、
  スイス国旗の配色を反転させて制定されたもの。白地に赤十字。

     
 モンブラン   朝焼けに染まるマッターホルン  ミシャベル連峰

 モンブラン 4810mブレバン展望台より
  マッターホルン 4478m 日の出前の早朝撮影
  ミシャベル連峰 4545m ゆうゆうパラグライダーが飛ぶ

歴史:1291年、ウーリ、ウンターヴァルデン、シュヴィーツの3つの州の代表が集まり、独立の誓いを交わしたことに
   始まったスイス連邦

   現在のスイスにあたる地域に人が住んでいた痕跡は紀元前約3000年くらい前にある。
  時代は下がってローマ時代約400年間ローマ帝国の支配下にあった。
  (スイスの略語として使用されている[CH]はこの時代のもの。)
  4世紀後半、ゲルマン民族の大移動によりローマ帝国の支配下から離れる。

  12世紀に入り、ヨーロッパ各国で農業革命が始まり、「地中海商業圏」と「北海・バルト海商業圏」を結ぶ
  交易も始まり、アルプス越えが必要となり13世紀に南北を結ぶ最短ルートが造られる。 
  それに目をつけたのがハプスブルク家であるが、その強権に対抗するために上記の3州が集まり
  「永久同盟」を結んだのがスイスの誕生となっている。
   宗教改革、ブルジョア革命などの時代を経て、第二次大戦下の武装中立、国連、EU関係という
   独特な連邦国家の道を歩む。

   1815年のウィーン会議で、国家としての“永世中立国”が認められた。

   2002年190番目の国際連合加盟国となる。(日本は、1956年加盟国)
   スイスは、EU(ヨーロッパ連合)への加盟は拒否している。


  さあ!旅に出発です。成田空港からドイツのフランクフルトへ約12時間機内で過ごします。
ドイツの都市ジンデルフィンゲンで1泊し2日目、一路、国境を越えスイスへ入りました。

シャフハウゼン:  ライン川沿いの古都
  ここから約4km下流にただ1ヶ所滝(ラインの滝)となっており、船の航行を妨げている。
  そのために荷物をいったん陸へ上げなければならずお蔭で町が発展した。

シャフハウゼン・ラインの滝  ルツェルン・カペル橋  (嘆きの)ライオン記念碑

ルツェルン:スイスの中央に位置する古都で、通称ルツェルン湖と白鳥が遊ぶロイス川、奥に連なるアルプスの山々、
   昔も今も多くの人に愛されてきた町

カペル橋: ヨーロッパ最古の屋根付き木橋。 実は湖から襲ってくる敵から町を守る城壁の一部であった。

 「嘆きのライオン」像 :フランス革命(18世紀)の際にルイ16世を守ろうとして命を落とした786名の傭兵を
  悼んで造られたもの。
  観光や精密機械などなかった当時、堅実で我慢強く働き者のスイス兵は貴重な輸出品として傭兵派遣されていた。
  戦場ではスイス人同士が戦うこともあったらしい。
(追) ローマ・ヴァチカン宮殿の護衛を今もなお スイス人が担当している。

インターラーケン:(湖の間の意)
  ベルナー・オーバーラント(アイガー、メンヒ、ユングフラウの3山)の中央に位置する。
  はるかに白いユングフラウを望むことができるアルペンリゾートの町

 シーニゲブラッテ駅 シーニゲブラッテ展望台より友人と  ユングフラウ3山

シーニゲブラッテ展望台:インターラーケンの隣町ヴィルダースヴィルから登山列車に乗り湖を見下ろしながら
   急勾配を上がっていく。
   高山植物園がある。(下図、高山植物アケボノセンノウ・ゲラニウム・ミルバティクム)

ユングフラウ: ドイツ語で、直訳すると「若い女性」という意味で丸みをもった頂きです。
   一方アイガー(3970m)は、鋭く切り立った北壁は、男性的で荒々しさを感じ真ん中のメンヒ(4107m)は、
   ドイツ語で「修道士」という意味

アルプホルン(右下)は、筒の長い楽器で、指で押さえる穴のようなものは付いていず、吹き方で音程を調節します。
   私も吹かせてもらったのですが、難しくて全く音は出ませんでした。

 アルプスの高山植物 六甲とシーニゲブラッ姉妹植物園  アルプホルン

ベルン:  スイスの首都:町全部が世界遺産 
    アルプスの水を集めたアーレ川が台地にぶつかって大きく湾曲し、半島の周りを削り、高い断崖に
    三方を囲まれた自然の砦に築いた要塞都市。

ベルンの町・高い大聖堂が見える 大聖堂.最後の審判のレリーフ  時計塔・仕掛け時計

大聖堂: 1421年から1893年まで長い期間かかり造られた後期ゴシック様式。
   正面入口にエルハント・キュンク作の「最後の審判」のレリーフがある。
   234体の小像によって、神に選ばれた人々と地獄に落ちていく者たちを表現している。
   尖塔は、スイス一高い。

時計塔:メインストリートの真ん中にあり1218年から時を刻んできた。天文時計と仕掛け時計は、1530年作。

3日目

フランス・シャモニーへ ベルンから約175kmのシャモニーへ。国境を越えて(といっても、バスのチェックだけ、
    日本の高速道路入口の感じ)フランス領に入るので、通貨はユーロになる。

 モンブランの山 山頂に小さく見えるブレバン展望台  シャモニ針峰群

モンブラン:フランスとイタリアの国境に位置するアルプスの最高峰。標高4810m。
        フランス語で「白い山」の意

  シャモニーからブレバン展望台(標高2525m)へゴンドラとロープウェイを乗り継ぎ登ります。
     山頂の降り場までロープウェイの支柱がありません。

フランス・シャモニーから再びバスで約3時間、スイスのサースフェー

 サースフェー  電気自動車  ネズミ返しの家

サースフェー: 「アルプスの真珠」といわれる山岳リゾート地、こじんまりした素朴な村。
   ミシャベル山群の4000mを越える名峰が村を取り囲み、フェー氷河が目の前に迫ります。
   電気自動車しか走っていないので、のんびり歩くと、ネズミ返しの家が目に付きます。
   日本の高床式倉庫(縄文時代からある)のねずみ返しに似ていますが、
   日本は、柱にねずみ返しという板が挟まれているのが、スイスでは、石が挟まれていました。

5日目
ツェルマット: ガソリン自動車乗り入れ禁止の山岳リゾート地のため、隣村のテーシュより列車でツェルマット
   (標高1620m)へ。周囲を4000m越えの峰が29も集まっている。

   今回のツアーは、幸運にも日程の全てが晴天に恵まれ予定の山々や景色がよく観れました。
   途中観光バスのガソリン漏れというハプニングがあり、代行車が来るまで待たされましたが、
   それも今となっては、思い出の一つです。

スネガ展望台:1980年に完成した地下ケーブルに乗り標高差690mの急勾配のトンネルが一気に2288mへ運び上げてくれる。
   (富士山でいえば2合目から5合目までを3分で直登するのと同じ)

マッターホルン: スイスとイタリアの国境上にそびえ、東西に細長い山頂の中間に国境が通っている。
   氷河と氷河が出合うところには鋸の歯のような地形が造られ、3つの氷河が出合うと角錐になり、
   マッターホルンは氷河のせめぎあいで四角錐の独立峰になった。
   名前の由来は、ドイツ語で「牧草地の角」から。
  スネガ展望台下にライ湖があり遊歩道が造られており「逆さマッターホルン」が見られ、憩いの場となっている。

6日目

アンデルマット:氷河特急に乗車しツェルマットからアンデルマットへ約3時間があっという間に過ぎ去りました。 
   氷河鉄道の標高の低いところは523m、一番高い所は2033mにも及ぶ
   北はドイツ方面、南はイタリア方面と結ぶ交通の要所として古くから栄えた谷間の山村

チューリッヒ: 紀元前のローマ時代に使われた税関という意味のトゥールクムがチューリッヒの語源。
   国際空港があるスイスの玄関口で、経済の中心を担う都市でありながら、中世の魅力を今に伝える歴史都市。
   レーニンやアインシュタインも住んだ町である。

大聖堂: スイス最大のロマネスク様式の2本の塔をもつ教会で11~12世紀に建てられた。
    ステンドグラスはジャコメッティ作

聖母聖堂: 853年に建てられた修道院が前身。
   教会は12~15世紀に建てられたゴシック様式。シャガールのステンドグラス(1970年)がある。

聖ペーター教会: チューリッヒで最も古い教会。時計塔は1534年に建てられヨーロッパ最大。 
    1911年まで火の見やぐらとして使用されていた。

 氷河特急・アンデルマットから  チューリッヒ大聖堂  シャガール作・ステンドグラス

 
時計塔・聖ペーター教会  チューリッヒ湖クルーズ  各家庭の核シェルター入口(下註)

バーゼル
  ドイツとフランスとスイスの3国の国境が接する地点に位置し、ライン川をまたぐ形で市街地が広がっている。
  スイス文化の中心地で大学都市でもあり、美しい旧市街のように、歴史的な側面も印象的な町で、
   ヘルツォーク&ムーロンやマリオ・ボッタなど世界で活躍する近代建築家の作品や現代美術のギャラリーや
  プロジェクトが多いのも特徴のひとつ。

大聖堂: 赤い砂岩のゴシック様式、12世紀に起源、その後14~15世紀に改築、19世紀に今日の姿になる。
   塔の上に登ることが出来ます。

 バーゼルの大聖堂 塔の上からバーゼルの町を望む  エーデルワイス

エーデルワイス: スイスの国花。キク科。花言葉「大切な思い出」・「勇気」

註: スイスは、国民皆兵制で自動小銃が期間中貸与されている。
  またつい最近まで核シェルター(防空壕)の設置が義務付けられていた。
  最近は、倉庫などに利用されているところもある。
  この核シェルターは、スイスやイスラエルでは、ほぼ100%近く造られている。
  周りを大国に囲まれた小さな国の歴史を振り返るとき、自衛策は必要不可欠なのかもしれない。

                            2015年7月29日筆             

                                                               ページ先頭へ






ポーランド旅日記

ポーランド共和国地図 久々のヨーロッパ、‘激動の歴史’を経てきたポーランドへ思い切って出かけてきました。
  (2015年4月16日~23日)
 出かける前は、今の社会情勢・体調・加齢等 不安材料が山積み 行くか行かないか 
 悩みましたが、旅友や家族に背中を押され、意を決して出かけました。
 友が言うように 旅は、不思議な力を持っています。
 出かけることにより返って体調もよくなり元気をもらい、すべての不安材料が消えました。
 ポーランド国内も、平穏で落ち着き 首都ワルシャワでは、何組もの小学生低学年の
 子供たちの平和な遠足風景が見られ、各地(アウシュビッツも含め)で
 ユダヤ人観光客にも出会いました。

 地図の上で何度も姿を消し、その度に蘇ってきたポーランド人としての強い誇りと絆、
   そこには、島国の日本人の私からは窺い知ることが出来ない、深い精神と絆そして母国への強い愛が宿っている
   気がしました。

ポーランド共和国(正式な国名) ポーランドは中央ヨーロッパに位置し、全体的になだらかな丘陵地帯が               続いています。

ポーランド共和国国旗

   面積 日本の約5分の4(日本から九州、四国を引いた程度)

  人口 約3848万人(2014年)

  首都 ワルシャワ

  民族 ポーランド人(人口の約97%)
  言語 ポーランド語

  宗教 カトリック(人口の約88%)

  通貨 ズロチ(Zt)

  国旗 日本と同じ白と赤だが白は‘自由と平和’赤は戦いで流された血と云われている。

『国の歴史』

  最初の統一国家が成立したのは9~10世紀頃といわれ“平原の民”というポラーニエ族が
  ゲルマン民族に対抗するため割拠していたスラブ人の部族国家を統合したのが始まり。
 (ポラーニエとは、平原の民という意味でポーランドの語源)
  14~17世紀にかけて広大な王国を築き全盛期となるも、東西ヨーロッパを結ぶ中継点という
  地の利がかえって災いし、歴史上、何度も侵略・分割などにあい18世紀には、
  国そのものが消滅する。(123年間)
  第1次世界大戦(1914年~1918年)後に独立するが
  第2次世界大戦においてナチス・ドイツの迫害で多数の同胞を失い再び
  ポーランドは地図上から消える。
  そして戦後、国民統一政府・共産党体制など社会主義体制を確立するが 
  1989年に民主化を果たして現在の共和国体制が築かれた。

 
[1日目]

   成田から日本航空でヘルシンキへ(所要:約10時間)フィンランド航空に乗り継ぎワルシャワへ
   (所要:約1時間45分)着後、直ぐにホテルへ

[2日目]早朝専用バスで約430kmの距離にあるヴロツワフへ途中高速道路が開通しており予定の7時間が5時間に短縮
   (ラッキーでした!)

ヴロツワフ 
   オドラ川に臨むこの地は、昔からシロンスク地方(現在のポーランド南西部、チェコ北東部、ドイツ東部)
   の中心であり1945年まではドイツの一部だったことからも分かるように複雑な歴史を持つ町である。

市庁舎前の広場   ガラスの噴水  ヘンデルとグレーテルの家

市庁舎前の広場 塩の広場(16世紀に塩の取引で栄えた場所)と共に13世紀半ばに造られた。カラフルな建物が並ぶ

ガラスの噴水 チェコとポーランドの国境に横たわる山脈カルパチアを表現

ヘンデルとグレーテルの家と呼ばれる白と赤の二つの建物をアーチで結んでいる。
   左にあるのがゴシック・ルネサンス様式、右側がバロック様式
  (ポーランド語で「ヤシとマウゴーシャ」の愛称は第二次世界大戦後に東部ポーランドがウクライナ領になった際に、
   ヴロツワフに移住した住民によって付けられた。)

 ヴロツワフの小人  聖エルジュベティ教会  百周年記念会館

ヴロツワフの小人

   1980年に共産主義政治に対し風刺的に小人を設置したのが始まり。
   その後大学生芸術家が制作し、今では企業も加わり200体が300体に増えているそうです。

  ‘小人マップ’も作られていて親子でマップを手にし小人探しをしている姿も見られました。

百周年記念会館  1913年完成  2006年ユネスコ世界遺産に登録

   鉄筋コンクリート建築史の中で画期的なもの。
   ナポレオン軍とのライプツィヒの戦いから100周年を記念してマックス・ベルクによって建てられた。

ヤヴォル ヴロツワフから西に60km

  平和教会  木造建築の教会内部  聖壇

ヤヴォルの平和教会  17世紀半ば、この辺りの住民の9割がプロテスタントだったため、ヨーロッパ中を荒廃させた
   「三十年戦争」(宗教紛争)後ハプスブルグ家(カソリック)の支配下
    ‘終結と平和の象徴’そして寛容の場所として認められ建てられたもの。
    ただし建築には厳しい条件(*)が課せられた。

(*一年以内に建設し、釘など使用できず 木と粘土のみ、塔や鐘など備えることは出来ず今までの教会様式を
  真似ることもだめ。)

   1655年に完成した。木造建築の教会としてはヨーロッパ最大。数千人を収容できる。
   2階の側廊には新約聖書、4階の側廊には旧約聖書の場面、1階と3階の側廊には紋章や家紋が描かれている。

[3日目] ヴロツワフ~カルヴァリア・ゼブジドフスカへ(所要時間:約4時間20分)

 カルヴァリア・ゼブジドフスカ  礼拝堂  中庭

カルヴァリア・ゼブジドフスカ 
    カルヴァリア(=ゴルゴダの丘の意) ゼブジドフスカ(=17世紀の豪族の名前)が17世紀初め
    この丘をゴルゴダの丘に見立て礼拝堂を建てた。1999年世界遺産に

    ポーランド南部の村で丘とその一帯は、世界的に有名なカトリックの巡礼地となっています。
    この日は、写真でも判るように珍しく雪が降ってきました。

*ゴルゴダの丘 新約聖書においてイエス・キリストが十字架に磔にされたとされる

ヴィエリチカ この町の地下には、1250年頃~1950年代まで稼働していた世界有数の規模の
     岩塩採掘場が広がっている。

 ヴィエリチカ岩塩坑  岩塩坑の地下の坑道  すべて塩で出来ている聖キンガ礼拝堂

ヴィエリチカ岩塩坑 1978年世界遺産 地下327m・9層・全長300kに及ぶ

  観光客に公開されているのは一部だが(地下135mまで降りられる)途中岩塩で作られた王や妖精、
  コペルニクスなどの彫像、聖キンガ礼拝堂(床もシャンデリアも祭壇もすべて岩塩でできている。)が
  造られている。
   100分歩き続けエレベータで地上へ
 観光後クラクフへ(所要時間1時間半)

[4日目] 
クラクフ 
  11世紀中ごろから1596年までの約550年間ポーランド王国の首都として栄える。
  当日はマラソン大会が行われていて混雑していた。

 ヴァヴェル城  ヤギェウォ大学中庭  聖マリア教会

クラクフ旧市街地区 1978年世界遺産

ヴァヴェル城 ヴィスワ川の屈曲した角にある。
  大聖堂は14~18世紀までの約400年間、ほとんどのポーランド国王の戴冠式を執り行い国王の墓所でもある。

  チャルトルスキ美術館の改装中で、レオナルド・ダ・ヴィンチの油絵『白貂を抱く貴婦人』を特別展示していた。
      (ラッキー!)

ヤギェウォ大学 コペルニクスや聖ヨハネ・パウロ2世などが在籍していたポーランド最古の大学 
   中庭にからくり時計がある。

中央市場広場 中世からそのまま残っている広場としてヨーロッパ最大

聖マリア教会 
  1222年に造られたゴシック様式の建物。2本の高さの違う塔は、兄弟が競い合って建てたため。
  その昔モンゴル軍がクラクフを襲った際、敵襲を告げるラッパがこの教会の塔の上から吹き鳴らされ、
  ラッパ手ののどを貫いたことで、そのことを悼んで、今でも1時間ごとに吹き鳴らされる。

クラクフから約1時間半オシフィエンチム(ドイツ語でアウシュヴィッツ)へ

入口「ARBEIT MACHT FREI」 ビルケナウ収容所 死の門へ  鉄条網のそのまた先に鉄条網

アウシュヴィッツ 
   ポーランド南部の都市 第2次世界大戦でポーランドがナチス・ドイツの支配下におかれていた1940年、
   ポーランド人の政治家を収容するために造られた。
   次第に人種差別的な抑圧政策により拡大され大きな惨劇へ大量虐殺の場となる。 
   1979年負の世界遺産  
   2007年登録名変更「アウシュヴィッツ・ビルケナウ-ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所(1940年~1945年)」へ

  *入口「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になる)という文字が掲げられている。

ビルケナウ アウシュヴィッツ強制収容所から約2k離れた所、広大な敷地を占めている。
    アウシュヴィッツより大規模な収容所
   「死の門」へと続く鉄道引込み線がある。
    実際にこの目で見て余りの惨さにツアー客も声が出ず ただ黙々と歩くだけでした。
    過去の歴史を直視して、2度と繰り返さないようにと心から願いました。

[5日目] クラクフからチェンストホーヴァへ(約2時間半)観光後ワルシャワへ(約3時間半) 

 ヤスナ・グラ修道院  聖画「黒いマドンナ」  ワルシャワ王宮広場

ヤスナ・グラ(輝ける丘という意味)修道院 
   ポーランド南部 標高293mの丘にある。1382年に木造で建てられた。
  1655年スウェーデン軍のポーランド侵攻からチェンストホーヴァを守ったといわれる聖画「黒いマドンナ」がある。
  今でもこの国に住む人々の宗教的聖地、精神的なよりどころとなっている。

ワルシャワ 
   ショパンが前半を過ごし、キュリー夫人が生を受けたポーランドの首都
  1596年クラクフから遷都されて以来発展を遂げ、「北のパリ」と呼ばれたこともある洗練された美しい町だったが、
  第二次世界大戦末期の1944年、ドイツ占領軍に対して市民が一斉蜂起したことによって、20万人以上の人々が
  犠牲となり、ほとんどの建造物が跡形もなく破壊された。
  大戦後ワルシャワは、町を愛する市民達により「ひびの1本にいたるまで」忠実に町を復元し、
  1980年に世界遺産に登録された。

[6日目]

ワルシャワ歴史地区 
   1980年世界遺産 町は第2次世界大戦でドイツ軍に破壊されたが、戦後に以前とまったく同じ姿に復元された。

旧王宮と王宮広場 中心に立つ柱がジグムント3世の碑 1596年にポーランドの首都をクラクフからワルシャワへ移した。
    旧市場広場には、槍を振りかざす人魚像がある。

 人魚像 聖十字架教会ショパンの心臓安置  コペルニクス像

聖十字架教会 バロック様式

  かってショパン一家が通っていた教会で、聖堂内の石柱にショパンの心臓が安置されている。
  プレートに「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」と描かれてある。

コペルニクス像(1473~1543年)ワルシャワ北西180kmにあるトルン出身。地動説を唱えた。

キュリー夫人(1867~1934年)博物館もあり、元は生家で今は博物館になっている。

 ワジェンキ公園の ショパン像  ジェラゾヴァ・ヴォラ ショパンの生家  ショパンの記念碑

ワジェンキ公園 18世紀にポーランド最後の王の命によって造営されたもの。ワジェンキとは“浴場”の意。
   ショパン像は、柳の木の下に座り故郷の自然を眺める姿

ショパン博物館 ショパンの生涯、作品、自筆の手紙や譜面、家族などの肖像画もある。

ヴィジトキ教会 18世紀に後期バロック様式で建てられた。ショパンがオルガニストを務めていた。

大統領官邸 1818年ショパンが人生で初めての演奏会を行ったところ
   ポーランドの英雄ユーゼフ・ポニャトフスキ像がある。1994年から大統領官邸

文化科学宮殿 ワルシャワ中央駅の東側 37階建ての高層ビル、市民の評判は悪い。
   スターリンからの贈り物として1952年から4年かけて建てられた。

ジェラゾヴァ・ヴォラ 1810年3月ワルシャワ郊外の小さな村ジェラゾヴァ・ヴォラにてショパンは生まれた。
   庭園にショパン像がある。ショパンの記念碑オベリスクは、1894年作られた。

文化科学宮殿(ホテル窓より)  ヴィジトキ教会   大統領官邸   観光馬車

                                            2015年5月19日筆
                                          ページ先頭へ





アメリカ大西部・5大絶景めぐり8日間

2014年5月13日~5月20日友人と 病後でもあり友人のすすめで始めて
 ビジネスクラス利用で旅行しました。

 アメリカ西部の世界遺産に登録されている
  ①ヨセミテ国立公園
  ②グランドキャニオン国立公園
  ③モニュメントバレー
  ④アンテロープキャニオン
  ⑤ザイオン国立公園
 観光バス(総勢17名)で巡ってきました。
 バス7日間の総走行距離2284マイル=3654.4㎞
       (註 バスの運転走行記録による) 
 観光よりバスに乗っている時間の方が圧倒的に長いのは、 
 この雄大な大地を旅するのに致し方ないことです。

  数億年の時をかけ造り上げた 大自然の織り成す姿を、実際自分の眼で観ることができ、感動の一言でした。
  今までのツアーと違い現地係員さんの詳しい説明がほとんど無かったことも、この大自然を目の当たりにした時、
  ‘百聞は一見にしかず’と納得できます。
                      
(下図をクリックすると拡大します。)                     

①ヨセミテ国立公園 ②グランドキャニオン国立公園 ③モニュメントバレー ④アンテロープキャニオン ザイオン国立公園
 ヨセミテ国立公園    グランドキャニオン   モニュメントバレー   アンテロープキャニオン  ザイオン国立公園

国立公園の歴史
    1890年      ヨセミテ国立公園 誕生
    1919年 グランドキャニオン国立公園 ・ザイオン国立公園誕生

 *アメリカの国立公園の制度は 最も世界に誇れるといわれており、その任務は3つあります
   ①  原生自然景観の維持と、自然や歴史的建造物の保全
   ②  国民が平等に利用できるレクリエーション施設の建設と機能的な運営
   ③  利用者に自然と歴史への理解を深めてもらうこと。

 (* 資料を読んでいてはじめて知ったことは、自然発火した山火事は適当と思われる規模まで消火しないで、
   エコシステムの活力を維持する「管理燃焼」という方法を取っていることである。
   生態系を維持するため山火事が不可欠という。)

ヨセミテ国立公園 (カリフォルニア州) 1890年国立公園、1984年世界遺産に登録

   シエラネバタ山脈の麓に広がる面積約3000k㎡の公園(東京都の1.5倍以上)
   2万年前、渓谷は厚さ1000mの氷河に覆われていたが、温暖化により、氷河が岩肌を削り
   幾多の年月をかけ浸食され現在の岩壁ができたという。
   多岐に渡る生態地域が存在し、カリフォルニアにある植物の20%以上が見られ、野生動物・鳥類も
   200種以上生息している。
   1万年前頃から先住民の祖先がいたといわれ数多くの戦い、ゴールドラッシュによる攻め込み 
   侵略などの歴史を刻んでいる。

     
 エルキャピタン  トンネルビュー ヨセミテ滝

エルキャピタン 谷底からの高さ1095m、花崗岩としては世界最大の一枚岩
ヨセミテ滝   3つの滝があり合計すると落差739mで世界第8位 
      (ちなみに世界第1位はベネズエラのSalto Angel)

グランドキャニオン国立公園 (アリゾナ州北部 1919年国立公園  1979年世界遺産登録)

マーザーポイント                大峡谷

    ロッキー山脈に降った雨が、コロラド川(スペイン語で赤いという意)に流れ込み 数億年という
 想像を絶する時間をかけて大地を削りそして造り上げたものが、グランドキャニオン(=大峡谷)そのものである。
 コロラド川にそって約446㎞にのびる世界でもっとも雄大な峡谷で、20億年から2億5千万年前の地球の地層が
 観察でき、世界で最も多くの化石が発見された貴重な場所でもある。


モニュメントバレー (アリゾナ州・ユタ州の州境にある。)
   ナバホ族居留地内にあり、ナバホの人々が管理、運営する、ナバホの人々の公園

    

註① 有名なビュート(岩山) ナバホ人のカーボーイ 3人の聖女

 青い空に赤茶けた広漠たる荒野そこにそびえる高さ300m以上のビュート(残丘)
  これこそアメリカの原風景といわれるものである。
  2億7千万年前の地層であるナバホ・サンドストーン(砂岩)が主で鉄分を含んだ砂が沈泥し堆積し鉄が酸化し、
  茶褐色の地表となった。
  3千万年前頃 ロッキー山脈の活動で隆起したコロラド台地にコロラド川が流れ込み、削られた深い渓谷や、
  山間台地が点在したもの。
  現在も風化や雨水による浸食が進んでいる。
 
 我々世代の懐かしいジョン・フォード監督の映画の多くが(駅馬車・荒野の決闘・黄色いリボン等)この地で撮影された。
       註①    左からレフトミント・ライトミント・メリックビュート


アンテロープキャニオン(アリゾナ州ページ近郊・ナバホ族の土地にある渓谷)

ジープ改造されている 入口 コークスクリュー(らせん状の岩)

アンテロープキャニオンとは、「水が岩を流れる場所」という意味。
   極端までの幅の狭さと幻想的な造形で知られている。
   スロット(細長い隙間の)キャニオンコークスクリュー(らせん状の)キャニオンとも呼ばれている。
   元々ロッキー山脈が隆起した際に出来たコロラド台地の一部で周囲の砂岩(ナバホ砂岩)の浸食により
   できた何百年にも及ぶ地層を形成したもの。
   1年間のうち3,4度モンスーンの時期に降る雨が鉄砲水となり、アンテロープキャニオンに流れ込む。
   狭い通路は水の勢いを加速し砂を拾い上げ、通路が浸食され、岩が滑らかになり岩の「流れる」ような
   独特の特徴を作り出した。
   毎年様子が変わると言われている。
   天井から射す光で まるで幻想的な絵を観ている感。

   ナバホ族居留地内のため勝手に見学できない。
   写真の改造ジープに乗り砂道をがたごとがたごと揺られ、砂煙の中を行く。
   帽子にマスク・サングラスは、必需品。カメラにビニールカバをかけた方がよい。

ザイオン国立公園(ユタ州南部 593k㎡に及ぶ大自然 1919年国立公園)

  ザイオン(聖なる山の意)の段差は落差600~1200m、コロラド川の支流ノースフォーク・バージン川による
  浸食で出来たもの。 

  約1千5百万年前にはじまる大陸隆起活動で川の浸食活動が始まった。
  コロラド台地は気温差が激しく、1年365日中300日は晴れているが、雨が降ると一時的に激しく鉄砲水となり
  狭い峡谷を削っていく。

  岩の芸術の宝庫といえるこの地は、土の色を見ると、足元がチョコレート層 
  その上が赤くなったバーミリオン層(約2億年前の層)
  その上が白い層で約1億年前に出来た乾燥した砂浜が固まったもの。

ザイオン国立公園入口 岩の色が違っている

キャリコ・ゴーストタウン 
  1880年代 ロスアンゼルスとラスベガスの中間地点に銀が発掘された鉱山町として生まれた町。

山肌にキャリコと書かれている 鉱山発掘跡地 観光用の電車

サンフランシスコ

ゴールデンゲートブリッジ ケーブルカー      港

ゴールデンゲートブリッジ 全長2737m
ケーブルカー 急坂の多い南北の移動に役立つ

  
  
貨物列車 風力発電 ジャカランダの花(紫)

   貨物列車は、東から西へ延々約100台(内2階建て荷台もある)の車両を繋ぎ走っている。
   モハーヴェ砂漠の小高い丘の見渡すばかりの風力発電所。

 ラスベガス 社会勉強のつもりでほんの少額を用意し、添乗員の案内でカジノを体験
      内部が映画等に出てくるのとほとんど同じで、面白かった。

有名なクラムチャウダー 玉ねぎ大のにんにく サーカスサーカスホテル ラスベガス

ルート66の店 モハーヴェ砂漠のハイウェイ 野菜売り場

 広大なモハーヴェ砂漠を延々と走る一本道
 ルート66   
     1926年~1985年までの間、イリノイ州シカゴからカリフォルニア州サンタモニカまでを結ぶ
   アメリカの8つの州を通過する全長3800kmに及ぶマザーロードと呼ばれていた道路です。
   今は、アメリカ大陸横断道路の要衝である。
 
                                    
2014年6月3日筆

                                                                   ページ先頭へ







ロシアハイライト7日間 (黄金の環とモスクワ・サンクトペテルブルク)

 1年4ヶ月ぶりのツアー参加で旅行に出かけました(2013年7月9日~7月15日)。
 出かける前は、少々 体調の(病後でもあり)心配もありましたが、
 旅友の厚意も得て、案ずるより産みが易しで、旅行のお陰で気分一新、
 元気をもらい、免疫力更新になったようです。

 モスクワの世界遺産になっている
トロイツェ・セルギエフ大修道院(聖セルギエフ三位一体修道院)内の
ウスペンスキー大聖堂、鐘楼、聖霊教会などが、2014年に迎える700周年のため、
改装工事が行われおり、入場不可となり、他にも側面や内部が足場やカバーで
   覆われていて、見学が充分出来なかった事が残念でした。
   聖セルギエフは、ロシアの守護聖人となっています。

* 三位一体 キリスト教で、神とキリストと聖霊は、一つの神が三つの姿となって現れたものであるという考え方。
   (例)三者が心を合わせて一つになること。)

  正式国名 ロシア連邦(註・1)  大統領制の共和制国家
  首都 モスクワ 
  面積 1707万キロ㎡(日本の約45倍・アメリカの約1.7倍) ユーラシア大陸北部に位置する。(註・2)
  人口  1.43億人(2011年)
  通貨  ロシア・ルーブル
  時差  広大なロシアには、9つの時間帯があり、今回のツアーで行ったヨーロッパ・ロシア地区
      (註・3)では、マイナス5時間

                       
(下図をクリックすると拡大します)

ロシア国旗
セルギェフ・ポサード ロシア正教の十字架 イコンの絵

                 
ロシア正教  東ローマ帝国(ビザンチン)の国教だったギリシア正教の一派である。    
   他のヨーロッパの国(ローマ・カトリック、プロテスタント教会)との大きな違いは、教会建築で
   丸天井の半円ドーム(別名 タマネギドーム)は、ビザンチン建築の流を汲むものである。
   屋根の上に立つ十字架も写真でも判るように、上に短い横棒が、下に斜めの棒が加えられ、
   計3つの横棒が並ぶ十字架である。
   また 内部に入るとイスやベンチがなく、礼拝の間、信者はずっと立っていなければならない。
   オルガンなどの楽器もなく、賛美歌は肉声のみで歌われる。
   また西欧の教会に見られる彫像もなく、代わりに平板に聖者のイメージを描いたイコンという聖像がある。
   17世紀からは原理主義的改革が始まり、十字を切る手を2本指から3本指になっている。

(註・1)ロシア連邦 ロシアという名称は、かつてのルーシの諸地区
   (現在のヨーロッパ・ロシアに当る地域)を指し、ギリシア語の発音によって生まれた名前である。
  16世紀(日本・戦国時代後半)のイヴァン4世の頃に使われ始め、18世紀初頭(日本・江戸時代)のピョートル1世
  (大帝)がロシア皇帝と称したことで正式国名となる。
  ロシア帝国崩壊後ソ連邦下(1922年ソビエト連邦建国  日本・大正11年)ではロシアは、小共和国とされ、
  ソ連邦の解体(1991年 ソビエト連邦崩壊とともに、ロシア連邦が成立 日本・平成3年)に際しては、
  モスクワ公国の一部分となっていたロシアが、当時 極東への進出、拡張により大国となっていた。
  又、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという説もあり、モスクワ大公国は
  「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えからギリシア風の
  「ロシア」を国号と用いたという。 

(註・2)ユーラシア大陸北部に位置する、世界最大の面積をもつ国土は、ヨーロッパとアジアにまたがり、
  北西からグリーンランド(デンマーク自治領)、ノルウェー、フィンランド、エストニア、ラトビア、
  ベラルーシ、リトアニア、ポーランド(リトアニアとポーランドの国境地にロシアの飛び地領がある)、
  ウクライナ、グルジア、アゼルバイジャン、カザフスタン、中国、モンゴル、北朝鮮、日本、アメリカ、
  カナダと陸上または海上で国境を接しており、北は北極海、東は太平洋に囲まれている。

(註・3)ヨーロッパ・ロシア地区  ロシアの領地の内ヨーロッパに分類される西側部分を指す名称で、
   ロシアの全人口の約77%が居住している。アジア側とは、人口密度10倍の差がある。

 ペトロパヴロフスク聖堂  スモーリヌイ聖堂  血の上の救世主教会

サンクトペテルブルク
  かつての帝政ロシアの首都で(1712年~1914年)、もともと何も無い一面の沼地を、ピョートル大帝が
  オランダ留学で学んだ造船業や運河を参考に、バルト海に港と要塞を築いたのが始まり。
  冬はマイナス35度、夏はプラス35度の気候下で困難を極めたが、ネヴァ川の蛇行する河口に新しい町、
  ドイツ風の「サンクトペテルブルク(聖ペトロの町)」を作った。
  革命の歴史とともに、サンクトペテルブルク→ペトログラード→レニングラード→再びサンクトペテルブルクと
  町の名が変わっていった。

ペトロパヴロフスク要塞  
  サンクトペテルブルクの歴史はこの要塞の建設が開始された1703年から始まった。
  当時うさぎ島と呼ばれる小島に要塞を建設したが、実際には監獄として利用された。
  現在、要塞は複合博物館となっている。
  中に18世紀初めに建設された教会がある。聖堂にはピョートル大帝以後の皇帝が埋葬されている。

スモーリヌイ聖堂  
  18世紀に女子教育の場として修道院を創設、革命時に本部として使われた。

血の上の救世主教会  
  1881年に皇帝アレクサンドル2世が暗殺された場所の上に建っている。
  父の死を惜しんだ息子のアレクサンドル3世が25年の歳月をかけて建てたものである。
  一時 ソ連時代に倉庫として扱われたこともある。

 イサク聖堂  宮殿広場  エルミタージュ美術館

イサク聖堂  
  世界で最も大きな教会建築の一つ。ビザンチンの修道士聖イサクに由来する。
  1819年に始まり40年の歳月が費やされた。元々沼地だった軟弱な地盤の上に、これだけの建物を建てるということは、
  想像に難くない。
  何万本の杭の上に花崗岩や石灰岩を敷き詰め土台作りだけで5年を費やしたといいます。

宮殿広場 
  エルミタージュ美術館と旧参謀本部に囲まれ、中心にナポレオン戦争の勝利を記念したアレクサンドルの円柱が
  そびえ建っている。

エルミタージュ美術館  
  世界三代美術館の一つ(他は、フランス・パリ ルーブル美術館、米国・ニューヨーク メトロポリタン美術館)。
  歴代の皇帝によって集められた約300万点にのぼる美術品が収められている。

 エカテリーナ宮殿  エカテリーナ宮殿の大広間  ぺテルゴーフ

エカテリーナ宮殿  
  ピョートル大帝の妃、エカテリーナのため建設、その後バロック様式に改築されまたクラシック様式で改装されたり、
  その両スタイルが競演している。
  有名な琥珀の間がある。

ぺテルゴーフ  
   1714年に建設が開始された、ピョートル大帝の夏の宮殿 
   サンクトペテルブルクの南西約30k、フィンランド湾に面した美しい噴水と庭園、宮殿のアンサンブル。
   世界遺産に登録。

  アレクサンドル・ネフスキー大修道院 チフヴィン墓地のドストエフスキーの墓石     青銅の騎士像

アレクサンドル・ネフスキー大修道院  
   ロシアの聖人アレクサンドル・ネフスキー公(1219~1263)を祀るため、1710年に創立された修道院。
   ネフスキーとは、ネヴァ川のという意味。

チフヴィン墓地  
   文学者や作曲家などが、葬られている。
   ドストエフスキー、チャイコフスキー、ムソルグスキーなど多数。

青銅の騎士像  
   デカブリスト広場に建つピョートル大帝像で、1782年エカテリーナ2世によって建てられた。   
   台座はバルト海を表し、踏みつける蛇は北の敵国スウェーデンを具象化している。

   地下鉄入口     ネヴァ川    ドム・クニーギ(書店)

ロシアの鉄道  
   サンクトペテルブルクには5つの鉄道駅があり、メトロの駅がすべての鉄道駅のそばにある。    
   鉄道の駅名が主な行き先の地名でつまり駅名となっている。
   例えば、モスクワ駅は、モスクワまで、フィンランド駅は、フィンランドのヘルシンキまで往復している。

ネヴァ川 
   サンクトペテルブルクはネヴァ川の町といわれるぐらいネヴァ川とともに繁栄した。
   ロシア西北部のラドガ湖からフィンランド湾に注ぐ全長74㎞の川である。

ドム・クニーギ(書店)   
   1904年に建てられた元シンガー社の建物を利用した書店。
   花崗岩で造られた外壁にはさまざまな彫刻が飾られている。ドームの上に地球儀がある。


 * モスクワの古き時代の思い出

  私の若かりし頃(20代後半、ソ連時代)、ピアノ留学のため横浜から船でナホトカ、そしてシベリア鉄道で
 ハバロフスク・モスクワへ。
 モスクワ到着後、現地で大事件=乗り継ぎ便が2日後しか発着無しの旅行社のミスが判明。
 異国の地でしかも鉄のカーテンと言われていた時代、体が震え、頭の中が真っ白になり、途方にくれ、
(当時のモスクワの案内所では、英語も通じず。)あちらこちら日本人はいないかと探したところ、
 外交官と思しき人が、外国の高官らしい人と話しながら歩いて来られるのを見て、必死の思いで話しかけたところ、
「私が、交渉してあげるから、用事が済むまで30分ぐらい待っていらっしゃい」とのこと。
 その方のお蔭で、モスクワのホテルに2泊滞在、外国人に許されていた制限付きの範囲内の観光ツアーに
(当時は、もちろん監視つきです。)参加でき 無事出国(イタリアへ)できました。
 今でも心残りは、その親切な方のお名前を聴けなかったことです。お聞きしても
「困っている日本人・留学生達の手助けをするのも我々の仕事ですから」と、名も告げず去られました。
 当時のモスクワ市内観光は、赤の広場やワシリー寺院、モスクワ大学などです。
 それは、今でも私の頭中深くに思い出に刻み付けられています。が、
 今は昔で、今回の旅では 40数年経たことを痛感しました。
 昔のソ連がロシアへ変貌し、モスクワ市内も別世界に感じました。

  赤の広場    ワシリー寺院(ボクロフスキー聖堂)    クレムリン

赤の広場  
   ロシアの激動の歴史を見続けてきた広場。
   クレムリンの正面、ボクロフスキー聖堂、グム百貨店に囲まれている。
   名前の「赤」は、社会主義とは関係なくロシア語の「クラースナヤ・プローシャチ」は、ロシア語で「赤い」、
   古代スラブ語では「美しい」という意味で、本来「美しい広場」という意だった。
   広場の起源はクレムリン(城壁)が誕生した15世紀末である。

ボクロフスキー聖堂(ワシリー寺院)  
   赤の広場の南側に建つ大聖堂で、対モンゴルの戦勝記念に、イワン雷帝によって1560年に建てられた。
   雷帝に大きな影響を与えたワシリー修道士にちなみ「ワシリー寺院」といわれる。

クレムリン とは本来、城塞を意味するロシア語でロシアの多くの都市にあり、最大がモスクワのクレムリン。     
   1156年ドルゴルーキー公により木造の城塞が建設され16世紀頃に現在の姿になるロシア正教の総本山として
   多くの聖堂が築かれ、他方政治・軍事の中心として繁栄する。
   一時サンクトペテルブルクに首都の地位は移ったが、革命後、首都に返り咲いた。
   世界遺産に登録。

  ウスペンスキー大聖堂   鐘の皇帝     モスクワ大学   救世主キリスト聖堂

ウスペンスキー大聖堂 
   クレムリンの中心に建つ大聖堂。壁と屋根はイコンとフレスコ画で飾られている。

鐘の皇帝  1733~1735年に造られたもの。
   世界最大の鐘であるが、鐘を鋳造中に火災があり鐘にひびが入り、一部分が欠け落ち
   そのためいまだに使用されていない。

モスクワ大学  
   もともとはクレムリン北側に創設されたが、1953年雀が丘近くに移転された。
   スターリン・クラシック様式で建てられた。

救世主キリスト聖堂  
   1838年に着工1883年に完成。
   革命後 宗教弾圧により爆破され跡地に「ソビエト宮殿」の建設予定も独ソ戦で中断、その後
   屋外温水プールとなり2000年モスクワの最大の大聖堂として復活。

    雀が丘で家族連れ    露天土産店    ロシア風水餃子

                                                 2013年8月18日筆
                                                                 ページ先頭へ





リゾート地グアム4日間


2013年6月20日~23日グアムにて吉事があり出かけてきました。
おそらくこのような機会でないと、出かけることは無かった土地です。
グアム島は日本からすぐに行ける(空路約3時間半)日本に一番近い
アメリカン・スーパーリゾートということで、人気があります。

面積(554キロ平米)は、日本の淡路島とほぼ同じ大きさで、日本の南 約2500km 
   西部太平洋 マリアナ諸島南端に位置しています。

気軽に観光に行け、マリンスポーツ(ダイビング・バナナボート・シュノーケル等)や
   ゴルフ(9ヶ所のゴルフ場がある)などスポーツも楽しめるところなので、実際、カップルや
   小さな子連れの家族も大勢見かけました。
   海洋性亜熱帯気候に属しているグアムは、年間を通じてほとんど気温の変化がなく、
   年間の平均気温が約27度という常夏の島です。
   11~5月の乾季と6~10月の雨季に分かれていますが、一年中観光できます。ただ日差しが半端ではないので
   帽子やサングラスが必要です。 
   ゴルフなど早朝に起きてプレーすると最高とのこと。
   また台風の発祥地なので注意が必要です。
 
 正式国名は、アメリカ合衆国準州 グアム
 首都 ハガリア
 公用語 英語
 時差 日本との時差は1時間(進んでいる)
 人種 グアム住民の40%がチャモロ人
 国花 ブーゲンビリア

                         (下の写真をクリックすると拡大します)

グアムの旗
ホテル庭から夜景 セレモニー会場

 歴史
    チャモロ人の起源については、未だ解明されていないが、B.C.3000年~2000年ごろ、東南アジア系民族が
  マレーシアやインドネシア、フィリピンから航海カヌーに乗って移住してきたことに始まるといわれている。

スペインの統治時代
   1521年(日本室町時代)3月6日、マゼランが世界一周航海中にグアムを発見。
   44年後の1565年スペインの領土にされ、以後333年間 スペインの統治が続く。

アメリカの統治時代
     1898年(明治31年)、米西戦争の結果、グアム島はアメリカの領地となる。

日本軍の占領時代

   1941年、真珠湾攻撃後まもなく侵攻してきた日本軍の手に落ちグアムを占領する。
   その後31ヶ月間(約2年7ヶ月)にわたり日本の占領時代になります。

再びアメリカ時代へ

   1944年アメリカ軍が日本軍からグアムを取り戻し、再びアメリカの統治下に入りました。
   1950年にアメリカの自治属領(準州)となり今日までアメリカ軍の太平洋上の基地として
   活用されている。(グアムの北部には空軍基地 南部には海軍基地)

タロフォフォの滝

タロフォフォの滝 滝を見下ろしながら下る 吊り橋のある遊歩道


  滝へはロープウェイに乗ってジャングルに囲まれた滝を見下ろしながら入口へ。
  吊り橋が作られていて遊歩道になっている。
  ジャングルの奥に横井庄一氏が28年間の潜伏生活を送っていた洞窟がある。

ソレダット砦(孤独の聖母の意)

ソレダット砦 スペイン国旗が刻まれた大砲 現地人と水牛


   スペイン統治時代に交易船を海賊から守るために築かれた。
   ウマタック湾を見下ろす丘の上にある。

フィッシュアイ・マリンパーク(海中展望台)

水深10mの海中 フィリッピン海の澄んだ海


  太平洋戦争時に落とされた爆弾によってできた深い穴がポム・ホールで水深10mの美しい海中が見られる。
  熱帯魚やサンゴが生息。

  世界最深地点は、グアム近くの西太平洋にあるマリアナ海溝のチャレンジャー海淵で、海面下 10,920 m。
  世界で一番高い山は、中国とネパール国の国境にある、チョモランマ(エベレスト)8,848mが
  世界最高峰であることから海面下がいかに深いかが分かります。

アサン展望台

南太平洋戦没慰霊記念公苑(ジーゴ)
恋人岬

慰霊塔 恋人岬 願掛けの鍵やハートマークの絵馬


   ジーゴから北東にかけては、太平洋戦争時、日米の激戦地となったところ。
  旧日本軍兵士の霊を祀る、高さ15メートルの慰霊塔がある。
  日米友好のシンボルを表す「合掌する手」のモチーフ。

恋人岬 
   タモン湾の北側にある岬。スペイン統治時代の恋人達の悲恋伝説に由来する。
   願掛けの鍵やハートマークの絵馬がたくさん掛けられていた。

ヤシの実 ディナーショー レッドジンジャー・生姜科


ヤシの実
   ヤシの木は、葉っぱから実・皮まで全てが生活に役立つので「命の水」といわれている。
  木は木材に、葉は屋根ぶきや帽子の材料に ヤシの繊維は、たわしに 実の硬い殻は器に、
  硬い実の中の水は、ココナッツジュースになり、飲み終えた後は、殻を割り中の果肉に日本の醤油をかけると、
  いかさしの味になって美味しいです。

                            2013年7月2日筆  
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思い出のギリシア旅行  2005年9月24日~10月1日の8日間娘と出かけた所です。思い出に書き記します。

          アテネ・メテオラ・デルフィ・サロニコス諸島(イドラ・ポロス・エギナ島)クルーズ

 年月が過ぎると記憶の方も薄れていき、戸惑うこともありますが、2005年の思い出です。
 当時 カメラも不慣れでよく取れていず、その上、日にちが定かでなく、
 手元に残っているツアーの日程表を見ながら写真と照らし合わせ書きました。
 入場券などの切れ端も残っていたのでたすかりました。
 当時の写真と最近のカタログの写真を見比べると、かなり変化している所もありました。
 この旅行記は、あくまで自分史の一つとして書きまとめるので、当時の記録として
 おぼろげな思い出の流れもよしとしましょう。

 2005年9月24日出発 8日間のギリシア世界遺産(アテネ・メテオラ・デルフィ)と

 国旗
 

   エーゲ海クルーズ(イドラ・ポロス・エギナ各島)です。
 直行便が無く、アリタリア航空で東京成田発ローマへ 乗り継ぎでアテネへ(アテネ泊)
 ギリシアはバルカン半島の突端の本土と、エーゲ海に散らばる大小合わせて3000近い島々
(国土の約20%を占める)からなる共和国です。
 面積は日本の約3分の1強、北海道と九州を足したぐらいです。
 宗教はギリシア正教。
 言語
はギリシア語。
 首都
はアテネです。
 
国旗の意味 青は海を、白は空を、カントン部分の青十字はギリシャ正教への信仰を象徴し、1821年にトルコからの
     独立闘争の際にパトラの総主教であったゲルマノス総大主教が青地に白十字を掲げたことに由来する。
     9本の横縞は独立戦争時の鬨の声である(自由か、しからずんば死を)の9音節を意味 している。

パルテノン神殿 デルフィ遺跡アポロン神殿 メテオラ修道院 サロニコス諸島
パルテノン神殿  デルフィ遺跡アポロン神殿  メテオラ修道院  サロニコス諸島 

 ヨーロッパ文化の基礎を築いた国で、彫刻、演劇等の芸術や、哲学、自然科学などの学問のほか、政治・言語体系など、
 ここで生まれた文化は現代社会に大きな影響を及ぼしています。
 海運の国としても名高いが、現在の主要産業は農業と観光業です。
 残念ながら最今は、ユーロ危機の最前線でもあります。

 紀元前3000年ごろから(日本・縄文文化)エーゲ海で文明が開花し、紀元前16世紀ごろに、ぺロポネソス半島
 (地中海・イオリア海に面しているところ)にミケーネ文明が興る。
  その後各地で都市国家(ポリス)が創られ、紀元前5世紀には、イオリア人のアテネと、ドリス人のスパルタが
  2強として台頭し、ギリシアの黄金時代を迎えます。

 近代ギリシア史は、1830年(日本・江戸時代・天保)トルコから独立を果たし幕が開けられるが、クーデタや
   第一次世界大戦そして第二次世界大戦と政局は混乱を極め、1974年に王政が廃止され共和国が誕生。
   1981年EU加盟国、2002年欧州統一通貨ユーロへの参加。
 気候は地中海性気候で温和で過ごしやすく、夏でも湿度は低い。

アテネ市内観光  アクロポリスの丘・古代アゴラ・オリンピック競技場・国会議事堂前等

 
   アクロポリスの丘   パルテノン神殿 ヘロド・アティクス音楽堂 左崖下

アクロポリスの丘  
   アクロポリスとは「高い丘の上の都市」という意味。
  最初の神殿が建てられたのは紀元前12世紀ごろ。紀元前447年からパルテノン神殿をはじめとする建物が建てられる。
  その後戦いなどで破壊され、現在も修復作業が続けられている。

パルテノン神殿   
   ドリス式建築の最高傑作、世界遺産に登録

ヘロド・アティクス音楽堂  
   ヘロド・アティクスが父の遺産を受け継ぎ音楽堂を建て、161年にアテネ市に寄付したもの。
   5000人を収容できローマ様式で造られている。

  古代アゴラ遺跡   アギィ・アポストリ教会

古代アゴラ遺跡   
   古代アテネの中心地で神殿や気象台が残っている。
   アゴラとは、市場の意で、古代では、政治・経済・文化の中心的な意味をもっていた。
   哲学者ソクラテスやプラトンをはじめ多くの作家・歴史家がこの時代にこの場所で活躍したのではないだろうか。
 アギィ・アポストリ教会  
   ビザンティン様式の12世紀に建てられた小さな教会

  オリンピック競技場    大統領官邸の衛兵     ポスト

アラホバの街並み
    アテネから183kmバスで約3時間のデルフィへ その途中にアラホバの街がある。  
   山の斜面に、まるでおもちゃの家を並べたような風景が見られた。

ギリシア中部  
   ギリシア本土を背骨のように南北を貫くピンドス山脈。東はエーゲ海、西はイオリア海に面しており、
   山脈の東側に、紀元前6世紀ごろから聖地として信仰を集めアポロンの神託(神のお告げ)が行われていた
   デルフィがある。
   周囲にはパルナッソスの険しい山々、目前にはブレイストス河の深い渓谷で神秘的雰囲気が漂っている。

デルフィ遺跡・アポロン神殿   アポロンの聖域の柱廊   劇場

デルフィ遺跡 
   首都アテネから北西へ約180㎞のところにある世界遺産。
   古代世界ではギリシアだけでなく、全世界の中心「世界のヘソ」と考えられていた。

 アポロン神殿   
   ギリシア最古のアポロン神殿は「汝自身を知れ」「過ぎたるは及ばざるがごとし」などの格言が刻まれた壁が
   残っている。

   柱廊 3本のドリス式の柱が残っている。
   劇場  紀元前4世紀ごろの建築で5000人収容できた。

神様と英雄の国 メテオラ・カランバカを目指してテッサリア平原をバスで移動。

アギア・トリアダ修道院 メガロ・メテオロン修道院 ヴァルラーム修道院

メテオラ 修道院群 
   メテオラ(「空中につり上げられた」の意)

     断崖絶壁の巨大な岩山の上のビザンチン芸術の宝庫でもある修道院で有名。

  最初にこの地に人が住み始めたのは、9世紀頃といわれている。
  空と大地をつなぐ架け橋のようなメテオラの岩山は祈りと瞑想に身を捧げるギリシア正教の修道士に
  うってつけの場だった。
  14世紀には規律や組織が作られ共同生活を行うようになりいくつもの修道院が建てられるようになる。
  当時はその数24にも達していたという。現在では6つの修道院で厳かな生活が続けられている。

アギア・トリアダ修道院はきのこ状に直立している岩の上にあります。下に見えるのはカランバカの街並みです。

メガロ・メテオロン修道院には115段の階段を上って入ることが出来ます。

メテオラからアテネの移動は、バスで約5時間=345km 少々疲れました。

ミニエーゲ海クルーズ サロニコス諸島(イドラ島・ポロス島・エギナ島)
                          (アテネ パリオ・ファリロン港から 出港)
    紺碧の海と輝く太陽、海や空のブルーに映える白い建物 憧れのエーゲ海です。

 
  エーゲ海 イドラ島でロバの背に揺られて 白壁とオレンジ色の屋根

イドラ島  
   18~19世紀に巨万の富を得た海運の島。島内は自動車バイクの乗り入れが一切禁止なのでロバタクシーがある。

ポロス島  
   ポロスとは、狭い通過点の意で対岸のペロポネソス半島から400mの海峡

エギナ島  
   古代に巨大なポリスとして栄え、1827年ギリシアの最初の首都が置かれたこともある。 
   ビスタチオの産地としても有名。

                                                          写真・文 Y・W (2019年11月筆)
               ページ先頭へ






JALで行く!スペイン8日間   2001年5月25日~6月1日姉と2人で (当時 姉妹とも元気で若かった。)

  2001年の当時まだスペインの地方都市は、観光化されておらず、トイレ休憩では数少ない
  女子トイレに長蛇の列が出来たこと(もっとも30名の団体でしたが)、外国の旅行客に
  地中海を隔てた隣国のアルジェリア人を多く見かけたことを思い出します。
  アンダルシア地方のバス移動では、まだ早いかもといわれたヒマワリの花が満開でラッキーでした。
  アムステルダムでの乗り継ぎがあり、少々疲れたことを覚えています。でも楽しい思い出が多く
  もう一度出かけてみたいです。
  
  スペインは現在、世界遺産が41(文化遺産37・自然遺産2・複合遺産2 2010年現在)と、
  世界の中で2番目に世界遺産が多い国です。今回は以下の世界遺産が含まれています。
     アントニ・ガウディの作品(バルセロナ)
     アルハンブラ(グラナダ)
     セビーリャ大聖堂
     古都トレド
     コルドバ歴史地区
     マドリッド・エルエスコリアル修道院

 国旗
 

【国旗】赤とホザキモクセイソウの黄色は、「血と金の旗」と呼ばれ、赤、黄、赤に並んだ
  横三色の中央・旗竿寄りに国章が配してある旗。民間では普通国章のないものを使用する。
  
紋章は5つの王国(カスティーリャ、レオン、アラゴン、ナバーラ、グラナダ)を表す。
 【正式国名】 エスパーニャ王国
 【首都】 マドリード
 【面積】 約50.6万km2 ・日本の約1.3倍
 【言語】 主にスペイン語
 【人口】 日本の約1/3
【宗教】 キリスト教(カトリック教徒が圧倒的多数)
【史略】 
BC30c古代イベリア人が定住(日本・新石器時代)/BC9cケルト人が定住/BC201年ローマ帝国がイベリアの支配権とる/
415年西ゴート王国建国(日本・大和朝廷の時代)/711年イスラム勢力がイベリア半島に進出、西ゴート王国崩壊/
716年イスラム・ウマイヤ朝支配(日本・天平文化)/1492年グラナダ王国陥落(キリスト教徒による国土回復)コロンブス、
アメリカ大陸到着(日本・戦国時代)/1516年ハプスブルク朝スペインの成立/~1588年無敵艦隊、英海軍に敗北~/
1805年ナポレオン侵攻、スペイン独立戦争(~14年)(日本・江戸時代)/~1873年第一次共和制(~74年)/
1931年第二次共和制(~39年)(日本・昭和6年)/1939年フランコ政権(~75年)/~1978年新憲法の制定/
1986年EC加盟/1992年バルセロナ五輪/1999年ユーロに参加

さあ!旅行に出発で~す。
   JALにてアムステルダムへ乗り継ぎ便・イベリア航空にてバルセロナへ近郊カレーナのホテル1泊
バルセロナ市内観光
  
バルセロナはカタルーニャ州の州都で、芸術と建築で有名な国際都市です。市内にはアントニオ・ガウディが設計した
  幻想的なサグラダ ファミリア教会をはじめとしたモダニズム建築があります。

  

     
 サクラダ・ファミリア聖堂    グエル公園         洗濯女の回廊  姉と  


ガウディ建築 バルセロナの風景はガウディに尽きるといえる。アントニ・ガウディ・イ・コルネット(1852年~1926年)
     詳細な設計図を引かずに、教会の聖堂やファサード、塔など、部分ごとに必要に応じた設計図を書いていったと
   いわれています。
   
現在では、技術革新により大幅に作業は短縮され、ガウディ没後100年にあたる2026年の完成を目指しています。
   しかし、スペインの人々は「作り続けることに意義がある」と考えているんだそうです。(それも一つの考えですね)
 

 サクラダ・ファミリア聖堂 1882年に着工、亡くなった後も引き続き進められている。
  
 グエル公園 
1900~1914年にかけてガウディのデザインによって建設。1984年世界遺産に
       上・写真の屋根が白い建物は、ヘンゼルとグレーテルの物語の中に出てくる「お菓子の家」がモデルです。
 洗濯女の回廊(柱廊) 傾斜地のある公園に道路を通すために建設された擁壁(ようへき)

     
モンジュイック  オリンピックスタジアム  タラゴナ・悪魔の橋

 モンジュイック  モンジュイックの丘とは、「ユダヤ人の山」という意味を持ち、この丘にはかつて墓地があり、
   こう呼ばれていた。フランコ独裁政治時代までは、モンジュイック城を刑務所として使用し、銃殺刑に処された
   政治犯は近くの墓地に埋葬されていたそうです。

 オリンピックスタジアム  もとは1,929年の万国博覧会の会場、バルセロナ五輪では開会式など行われた。

タラゴナ バルセロナから南へ約90㎞、黄金海岸の美しい海岸線をくだるとローマ時代の町に着く。
    紀元前3世紀にローマ人によってつくられた。当時イベリア半島最大の都市。
  悪魔の橋 紀元前2世紀頃つくられた水道橋。スペインではセゴビアに次ぐ規模。

ペニスコラ 白壁の町ペニスコラは、スペイン・バレンシア州北部の地中海に面した街です。
   15世紀には、ローマ法皇が住んだことから有名になりました。「11世紀後半のレコンキスタの英雄」を
   描いたハリウッド映画『エル・シド』のロケ地でも知られています。
   ギリシア人が名付けた名前をローマ人が「ほとんど +島」という意味のラテン語(paene + insula)に訳したものが、
   地元のバレンシア語の影響で、ペニスコラになったと言われています。

     
 ペニスコラ  ペニスコラの街  


バレンシアへ オレンジと火祭りで有名なスペイン第3の都市。スペイン南東部に位置する港湾都市で、地中海に面した
  トゥリア川の河口があります。芸術科学都市として知られ、プラネタリウム、海洋水族館、参加型の美術館などの
  近未来的な建物が並んでいる。

     
 バレンシアの闘牛場 スペイン料理・パエリア


  プラザデトロスデバレンシアは、スペインのバレンシアにある闘牛場。 1850年から1859年にかけて新古典主義様式で
  建てられ、ローマのコロッセオやニームのアリーナなどのローマの市民建築に触発された。
  バレンシアの建築家セバスチャン・モンレオン・エステレスによって建てられた。
 パエリア
  スペイン料理の代表格で、バレンシア地方の郷土料理である。バレンシアの人々にとってパエリアは
 日曜日に家族で集まって食べるほど愛されるソウルフードです。

バレンシアからグラナダに向かう途中に〝乾いた大地″ ラ・マンチャ地方がある。

     
    アマポーラの花     ラマンチャ地方  

  アマポーラの花 ヨーロッパ原産のケシ科の一年草で、日本ではひなげしや虞美人草と呼ばれている。
      スペイン内陸部の春を彩る花として多くの人に愛されており、スペインからアメリカに移住した作曲家の
      ホセ・ラカジェが1900年代前半につくった曲にスペイン語や英語の歌詞がつけられ、今も歌われています。
      日本では戦前に淡谷のり子が、その後は沢田研二も歌ったとか。
  

  スペイン内陸部、マドリードの南東部に位置する標高約700mの広大な乾燥高原:メセタ(Meseta)の南東部分、
 ラ・マンチャ(この名前はアラビア語の「乾いた土地」を意味する “manxa” に由来します。)

     
 カンポデクリプターナ  今も残る風車  プエルト・ラピセ


 カンポデクリプターナ 風車のある村。今も残る9基の風車。
       セルバンテスが著した小説『ドン・キホーテ』で主人公が巨人と勘違いして突進した風車群のモデルとされる。

 プエルト・ラピセ ドン・キホーテゆかりのレストラン・郷土料理   
   スペイン中南部、カスティーリャ・ラ・マンチャ州シウダ・レアル県の町にある。
  「ドン・キホーテの旅籠」があり、ドン・キホーテ作者のセルバンテスも泊ったといわれる。

グラナダ スペイン南部ーアンダルシア地方にあるグラナダ市、ローマ時代に起源をもつ歴史的な街並みや建造物で
   有名な観光都市です。かつてはイスラムの支配地であったグラナダには、グラナダ王国と(建国されたのは1238年)
   呼ばれていたナスル朝時代の遺産が数多くあります。当時のイスラム教寺院は、接収されてキリスト教徒の礼拝所に
   なり、アラブ様式は、キリスト教文化に繰り込まれます。アラブ人支配の歴史は、今なお町の中に残っている。

     
     アルハンブラ宮殿         カルロス5世宮殿

  アルハンブラ宮殿 アルハンブラというのはアラビア語に由来する「赤い城」イスラムの栄華を伝えている。
     宮殿といっても内部は、王の宮殿、貴族の館、モスク、市場など城塞都市を形成していた。
  カルロス5世宮殿  カトリック両王の孫(カルロス5世)が16世紀に建設を命じた。その後資金不足や反乱などで
     建設は困難を経て18世紀に完成。ルネッサンス様式のもの。
  ナスル宮殿  イスラム芸術の装飾でナスル朝時代に歴代の王によって造られた。
  ライオンの中庭 十字に水路が走り中央に水盤と12頭のライオン像がある。当時水時計としてつかわれ
     1時には1頭、2時には2頭の口から水が噴き出したという。
  二姉妹の間  同じ形の2枚の敷石があることからこう呼ばれる。天井の鍾乳石飾りは見事だ。
  ヘネラリーフェ庭園 ヘネラリーフェとは「天の楽園」や「すべてを見尽くすものの楽園」という意味。
     14世紀に建てられた夏の別荘。。
     太陽の丘と呼ばれる丘の上にあり、シエラネバダ山脈の雪解け水を利用した水は、イスラム建築独特の
     技法を使って堀や噴水に引き込み、樹木や花々に満ちた、その名の通り楽園を想起させる美しい名所で
    「水の宮殿」ともいわれる。アルハンブラ宮殿やアルバイシンと合わせて、ユネスコの世界遺産に登録
     されています。20世紀前半に、伝統的なグラナダ様式でモザイク歩道を作るなど、美しく改修されています。 

     
   ライオンの中庭    二姉妹の間・鍾乳石飾り    ヘネラリーフェ庭園

アンダルシア地方 スペイン最南部に位置する地理的条件は、ジブラルタル海峡を挟んで北アフリカとわずか15kmに
    位置します。グラナダと以下の町、コスタ・デル・ソル、ミハス、ロンダ、セビリア、コルドバ等が含まれる。

コスタ・デル・ソル  南スペインのアンダルシア地方が地中海と接するあたり約300㎞の海岸線で「太陽の海岸」と
    いわれるリゾート地。
ミハス  地中海を望むイベリア半島の南に位置し、山の中腹にある白い村。
     ミハスならではの、土産は 「ラ ハリータ(La Jarita)」です。南スペイン独特のかわいらしい陶器

     
   白い町・ミハス    レストランのバルコニーから  

ロンダ   峡谷の上にある白い町・崖の上に町が広がり、グアダレビン川の深い峡谷によって新・旧市街に分かれる。
    2つの町をヌエボ橋がつないでいる。18世紀に架けられたもので高さは約100m。
    断崖絶壁の町ともいわれる。
   
 セビリアへ向かう途中に満開のヒマワリ畑がバス窓から見ることが出来た。ラッキー!!!!

     
    ロンダ     ヌエボ橋   アンダルシアのヒマワリ畑

  セビリアに夕方到着し夕食後、哀愁のリズムにのって踊る情熱的なフラメンコショーを観る。

セビリア   アンダルシア地方の中心都市でスペイン第4の都市。。
     712年西ゴート王国の首都だったセビリアが、ジブラルタル海峡を渡ってきたモーロ人に征服され、
     以降500年以上にわたって町はイスラム化する。ヒラルダの塔や黄金の塔など当時の建造物。
     13世紀末、イスラム勢力は一掃されるがキリスト教徒によって、新たな躍進の時代に入り新世界との
     交易独占権を確保。ヨーロッパ最強国になるカスティリャ王国の繁栄を支える町となる。
     闘牛やフラメンコショーも盛ん。 
  セビリア大聖堂とは、カテドラルのこと。1402年から1世紀かけて建設。
     スペイン最大で、世界では3位の大きさの大聖堂。 ちなみに1位はローマのサン・ピエトロ大聖堂、
     2位はロンドンのセント・ポール大聖堂である。ギネス世界記録認定に限っていえば世界一ともいえる。

     
 セビリアのカテドラル    ヒラルダの塔の展望台から

   ヒラルダの塔  ヒラルダとは風見のこと。風を受けると、頂上のブロンズの女神像が回転することからよばれる。
      塔の高さは97.5m。12世紀末イスラム教徒によって創建。
      展望台から遠く広がる都市が見える。
コルドバ イスラム文化が花開いた町。かって盛んに生産されたコードバンという革製品に由来。
    昔ローマ時代に築かれ、756年~1031年まで後ウマイヤ朝の首都・「西方の真珠」とよばれた。イスラム文化の
    頂点が、メスキータと呼ばれる大モスク。後キリスト教の大聖堂が造られふたつの宗教が共存する。
  メスキータ(大モスク)
       後ウマイヤ朝を開いたアブド・アッラフマーン1世により785年建設、その後約200年間に拡張、
       2万5千人収容できる大モスクとなる。
  ローマ橋  初代ローマ皇帝アウグストゥスの時代に築かれたもので、全長223mある。 

     
 メスキータとローマ橋間にある門  ローマ橋  メスキータ・馬蹄形アーチ

マドリッド  マドリードはスペイン中心部に位置する(イベリア半島の真ん中、海抜650m)首都で、経済や文化の
    中心地。メセタという乾燥した台地にあり、夏冬、昼夜の寒暖差が激しい内陸性気候。
    町の起源は、9世紀半ばウマイヤ朝ムハンマド1世が宮殿と要塞を築いたことから始まる。
    語源は、近くのマンサナーレス川をアラビア語で「アル・マジュリート(水の源の意)」ということからきている。
    1085年、カスティリャ王国のアルフォンソ6世によってモスクは教会に建て替えられ1561年にフェリペ2世が
    宮廷を移し、首都になる。
 プエルタ・デル・ソル (太陽の門) スペインの真ん中、0㎞地点。スペインの道はここから始まる。
 スペイン広場  1930年セルバンテスを記念して造られた広場。中央にセルバンテス像が、下にドン・キホーテと
     サンチョ・パンサ像がある。

     
   マドリッド スペイン広場  スペイン広場  アンダルシア地方の糸杉


エルエスコリアル  マドリッドから51㎞の所にある小さな町、グアダラマ山脈の麓。スペイン黄金期を
    象徴する修道院が造られた。イタリア・ルネッサンス様式を手本にしたエレーラ様式で装飾を省かれている。。
    日本の天正少年使節はこの宮殿に3日滞在した。  

     
   エルエスコリアル修道院 姉と  レストラン入り口


トレド  スペインの中部にあるカステリーチャ・ラ・マンチャ―州の平原地帯から丘の上にかけて広がる古代都市
   トレドは、三方をタホ川に囲まれ岩山に築かれた天然の要塞都市。世界遺産、イスラム教・ユダヤ教・
   キリスト教の文化が入り混じった建築物が残っている。
   ローマ時代に築かれたトレドが、560年西ゴート王国の首都になり約150年後イスラム軍により崩壊、11世紀、
   再びキリスト教国の首都になる。自由を尊重する国柄で、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒が共存。
   1561年フェリペ2世がマドリッドに遷都し時代は終わる。

     
 タホ川に抱かれたトレドの町。展望台から    カテドラル      免罪の門


  カテドラル  1226年~1493年完成 トレド繁栄の象徴。バロック様式、そして上段がルネッサンス様式、
      下がゴシック様式の聖歌隊席などがある。免罪の門はゴシック様式のファサード。

       
 ホテルで現地の学生に囲まれ  土産屋     フラメンコショー




20年前の東欧3都の思い出
 (ハンガリー・ブダペスト; オーストリア・ウィーン; チェコ・プラハ)


2000年11月13日~20日、当時、仕事に家事に彫刻家和南城の手伝いにと
超多忙な日々を過ごしていましたが、少し時間が取れたので 
久しぶりに海外旅行のツアーに単身参加。
縁あってそのツアーで出会った山田京子さんと、それから以後
ずっと仲良くお付き合いでき、数少ない旅友となりました。
また和南城彫刻の遺作展にも来て頂きました。
旅というのは、観光もしかり、人との出会いもあり本当に
短い小さな期間ですが、凝縮された素晴らしい宝物の一コマですね。




  【ハンガリー】   東ヨーロッパに位置する共和国。

 首都ブダペスト  「ドナウの真珠」と称えられ、世界遺産に登録されている。
    ドナウ川に架かるくさり橋で繋がり、西岸のブダ地区と東岸のペスト地区を合わせて「ブダペスト」と呼ばれる。
 歴史概略  9世紀末、ドナウ川中流の北岸に広がるパンノニア平原に、ウラル語族のマジャール人が定住。
    1000年に王国を建国。一時は大国として周辺に支配を及ぼしたが、16世紀に南部をオスマン帝国、
    北部をハプスブルク帝国に支配され、18世紀にはほぼ全域がハプスブルク帝国領となった。
    1848年の独立運動は抑えられたが、
1867年にオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)を構成する。
    第一次世界大戦後単独の国家となったが、国土は3分の1に縮小。
    ハンガリー革命で社会主義国政権が成立。一時共和国となったが革命失敗で王国に戻りホルティの独裁政治となる。

    第二次世界大戦では枢軸側に参戦、敗北しソ連軍が占領。そのもとで共産政権が成立、ハンガリー人民共和国となる。
    1989年、東欧革命の一環で社会主義政権が崩壊、ハンガリー共和国となった。
 国旗
  

 


   三色旗で、現在の旗は1956年から用いられている。
  赤は血、白は純潔、緑は希望を表す。
    

 通貨  当時、EUに加盟せず ハンガリーはEUに2004年5月に加盟したが、通貨はユーロを使わず、
    今もなおハンガリー独自通貨のforint(フォリント)を使用している。
 気候  大陸性気候

 首都ブダペスト  川を挟んで西側をブダ、東側をペストと呼ぶ。
    ブダ側 いくつもの丘が連なる丘陵地帯。王宮をはじめとする歴史的な建物と落ち着いた家並みと自然が
       広がっている。
     王宮の丘  高さ約60m、長さ約1.5㎞。ドナウ川に面して南北に長い平坦な岩山。丘の南半分を占めているのが
        王宮。13世紀に建設されて以来波乱万丈の歴史の中心舞台だった。

     
 ドナウ川をはさみブダとペスト/     漁夫の砦      砦の窓から

  漁夫の砦 白い石造りのとんがり屋根の5つの丸塔と高い尖塔を回廊が結んでいる。
    ドナウ川を見下ろす古い城塞を土台に1905年シュレックの設計で完成。
    中世に魚の市がたち、ドナウの漁師組合が守っていた伝統から名がついた。

     
  聖イシュトヴァーン像   マーチャーシュ教会   ブダ王宮


 聖イシュトヴァーンは、ハンガリーにキリスト教を導入してキリスト教国家を築いた初代の王様で、
     キリスト教化に貢献したため、聖人に列せられています。
     手には、ハンガリーの国章にも取り入れられている、二重の十字架を持っているのが特徴です。
 マーチャーシュ教会  カラフルなモザイク模様の屋根と細かく装飾された石の塔。正式名「聖処女マリアの教会」
 ブダ王宮 

       
 くさり橋  夜景くさり橋    国立西洋美術館  聖イシュトバーン大聖堂

 くさり橋   1849年、ブダとペストを最初に結んだ橋。
 聖イシュトバーン大聖堂  1851年~1906年完成  ファサードには12使徒の彫像が彫り込まれている。

       
 12使徒の彫像の前  英雄広場               メルキュールホテル隣 公園  当時本に挟み持ち帰った押し葉

英雄広場  1896年~1929年完成。ハンガリー建国千年祭事業の一環として造られた広場。


【オーストリア共和国】
  
    
面積  北海道とほぼ同じぐらい。東に頭があるオタマジャクシのような形をしている。
         国土を東西に貫くようにスイスから続く中央アルプス山脈が横たわり、ドイツから流れ込む
         ドナウ川は、美しいヴァッハウ渓谷を形成し、ハンガリー大平原へと続く。
     首都  ウィーン
     言語  ドイツ語

 
 国旗

 国旗 13世紀にオーストリア公であったバーベンベルク家のフリードリヒ2世が、神聖ローマ皇帝に対して反乱を
    企てた時に制定されたもの。
    デンマークやスコットランドの国旗などとともに、現在まで使用されている世界最古の国旗の一つ。
    故事によると第3回十字軍に参加したオーストリア公レオポルト5世が敵の返り血を浴びて全身赤く染まったが、
    ベルトのため腰の部分だけ白く残ったという。
   


    歴史 概略  
996 年に「オスタリッヒ」という名前ではじめて文書に登場。1273 年から国の権力を握ったのはハプスブルク家です。
          ハプスブルク家は政略結婚により帝国の領土と勢力範囲を拡大していったのです。
          神聖ローマ帝国皇帝フランツ 2 世は、1804 年にオーストリア皇帝フランツ 1 世として即位しましたが、その 2 年後
          ナポレオンがオーストリアを占領した際に神聖ローマ帝国皇帝の地位から退き、神聖ローマ帝国は滅亡しました。
          1867 年にオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立し、2 つの独立した国家がフランツ・ヨーゼフ 1 世を共通の君主として
          連邦国家を形成することになる。
          第一次世界大戦と君主制時代を経て、1918 年に第一共和国が成立。
          1938 年にオーストリアはオストマルクとしてナチス・ドイツに併合され、国家の独立性を失いました。
          第二次世界大戦後、オーストリアは当初は連合国により分割統治されましたが、
          1955 年の国家条約により国家の主権を取り戻しました。
          1995 年 1 月 1 日、オーストリアは EU に加盟しました。

 ウィーン  以前 日本でウィーンのことを「緋也納」と書いていた。
        ハプスブルク家は、バーベンベルク家(976~1246年)のあとオーストリアを治め、神聖ローマ帝国の
        皇帝としてオーストリア・ハンガリー帝国時代までの640年間、多民族をも統一、第一次世界大戦のあと
        小国となる。
 

     
 シュテファン寺院 北の塔  北の塔より     ベルヴェデーレ宮殿

 シュテファン寺院 1359年に約65年がかりで完成。ゴシック様式  ウィーンのど真ん中にあり、シンボルとも言える。
         この優美なバロック建築が百戦錬磨の軍人だった人のもの。北の塔に上れる。
 ベルヴェデーレ宮殿  トルコ軍からウィーンを救ったプリンツ・オイゲン公(1663~1736)の夏の離宮。オーストリア風バロック建築
         ベルヴェデーレ=美しい眺め の意 


     
 国会議事堂・パラス・アテナ泉  シェーンブルン宮殿  シェーンブルン宮殿


 国会議事堂・パラス・アテナ泉  1883年、デンマーク人テオフィル・フォン・ハンセンによって造られた。民主主義の象徴として
        ギリシャ神殿風になっている。
パラス・アテナの泉(1902年)は、ドナウ、イン、エルベ、モルダウの川の神を表現している。
 シェーンブルン宮殿  
ハプスブルク王朝の歴代君主が、主に夏の離宮として使用した。 現在、同宮殿と庭園群は世界遺産に登録されている。

       
  ウィーン市庁舎  国立歌劇場入り口  客席 1709席と立見席がある。   オペラ座ロビーシュトラウスの像


 ウィーン市庁舎  1872~83年に建てられたネオ・ゴシック様式。約100mの尖塔がある。
 国立オペラ座  音楽の都を象徴する劇場。
          入り口の赤と白の旗は、歴史的に意義ある建物に掲げられていて、目じるしとなっている。ウィーン市観光局が定めたもの。
          ちなみに市内には約200か所ある。

【チェコ共和国】  ヨーロッパのほぼ中心に位置し、ドイツ、ポーランド、スロヴァキア、オーストリアと接して、海のない国である。
          面積 日本の約5分の1の小さな国。西部のボヘミア地方と東部のモラビア地方に大きく分けられ、モラビア地方は山岳地帯が
           多く、ボヘミア地方は中央を南から北へとヴルタヴァ川が流れ、川に沿ってほぼ中央に首都プラハがある。
       
首都 プラハ
          人口 約1000万人
       
言語 チェコ語
       
気候 大陸性気候
       
歴史概略 9世紀、大モラビア帝国成立。10世紀、大モラビア帝国滅亡、ボヘミア王国成立。1620年、ハプスブルク帝国の支配下に。
        
1918 年、第一次世界大戦後、チェコとスロヴァキア はオーストリア・ハンガリー帝国から独立し、チェコスロヴァキア共和国と
             なった。
          1939 年から 1945 年にかけ て第二次世界大戦中にはナチスドイツの占領下に置かれながらも民族としての誇りと独 自の文化を
          守り抜き、戦後、旧共産圏となったチェコスロヴァキアは、1989 年のビロード革命以降、民主化を願 う強い国民意識とともに
          西側諸国を中心とする欧州への回帰を目指し、
          1993 年にチェコスロバキアがチェ コとスロバキアに分離し成立した。2004 年 5 月 1 日にEUの加盟を果たした。

 

  この国は「ロボット」という言葉が生まれた地であったり、角砂糖や電子レンジ、コンタクトレンズが発明されたり、
  私たちの身近なところにもチェコは深く関わっています。   原爆ドームの設計もチェコ人によるものです。
    

国旗 青、白、赤の三色を用いている。
    前身のチェコスロバキアの国旗を引き継いだデザインであり、
    1993年1月1日のチェコスロバキア分離後も継続して使用されている


 プラハ 街はヴルタヴァ川によって二分されている。「百塔の街」という愛称で親しまれ、歴史地区の中心部にある
      旧市街広場で知られている。この広場は色彩鮮やかなバロック建築、ゴシック様式の教会、1 時間ごとに
      からくりが動き出す中世時代の天文時計で有名です。
      1402 年に完成したカレル橋は、歩行者専用になっており、橋の欄干に沿ってカトリック教の守護聖人の
      彫像が並んでいます。
  プラハ東岸

     
  ティーン教会  旧市庁舎塔の上より  天文時計

   ティーン教会 旧市街広場の東側に建つ、ゴシック様式の教会。1135年創建。正式名称は「ティーン前の聖母マリア教会」である。
       教会名の由来はかつて裏側に税関があったことから。
   
旧市庁舎の塔に登り広場を見下ろすとヤン・フス像が見える。15世紀のチェコ宗教改革者。1915年造られる。
   
天文時計  旧市庁舎の下の方にある。15世紀に作られ、上がプラネタリウムと呼ばれ地球を中心に1年かけて周り、
       下はカレンダリウムで、
9時〜21時の1時間ごとに動き出すからくり時計は必見です。

       
カレル橋塔の上から  カレル通り    ネポムツキー像

   カレル橋  ヴルタヴァ川にかかるプラハ最古の石橋。1357年から60年近くかけて完成したゴシック様式の橋。
        両側の欄干に30体の聖人像がある。彫像はバロック様式。ネポムツキー像は触れると幸運に恵まれるという。
 プラハ西岸

     
 王の道  プラハ城  聖ヴィーと大聖堂

  プラハ城 かつてボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城であり、現在はチェコ共和国の大統領府のある場所である。
      ボヘミア国王の宝冠はここで保管されている。

       歴代の王の戴冠パレードが行われた「王の道」があり、火薬塔からカレル橋を渡りプラハ城までの2,500mを言う。
     聖ヴィーと大聖堂  もともと930年に造られその後改築されゴシック様式になる。(1344年)
   

       
 プラハ城南ファサードの黄金の門       聖イジ―教会   正門脇の衛兵    黄金小路

  聖イジー教会  チェコのプラハ城に残る最も古い教会建築である。921年完成。ロマネスク様式、音響がよい。
  黄金小径 聖イジ―教会を過ぎ坂を下る途中にあるわずか数100mの路地。1597年に出来たもの。チェコ人作家フランツ・カフカの家がある。

 プラハには7つの丘があり、その中でも一番高い丘がペトシーンの丘     

     
 ペトシーンの丘 眺望   ペトシーンタワー  旧市街

 ペトシーンの丘 遠くにヴルタヴァ川にかかるカレル橋が見える。1891年万国博覧会のために作られたものが、ペトシーン公園に移された。
      ペトシーンタワーは、パリ・がある。エッフェル塔のコピーとして作られ、あと鏡の迷路


       
 プラハ市内のレストラン  市内バス  市内を回る馬車   友人と




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