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モロッコの旅 (2009年10月)
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モロッコ9日間の旅

 旅行記を書き始めて約1年が経過しました。
 旅先によって直ぐに活字に出来るところと、そうでない所があるように思います。
 それは旅行の興奮の勢いによる所と、ある程度鎮静化してから、思い出
 (=印象深く刻み込まれた所)を純化あるいは咀嚼して書ける所に分かれるようです。
  突き詰めて考えると訪れた国のカルチャーショックに強く左右されるのではないか
 という気がします。

 今回書くモロッコは、[2009年10月19日~27日の9日間]、娘と旅したところで、
  ようやく心の内で楽しい思い出が膨らみ始めたので、書いてみようと思いました。

  モロッコ・カサブランカの名前は、私の子供の頃観たハリウッド映画で、一世を風靡した
  ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマン主演の映画『カサブランカ』を覚えていました。
  奇しくも私の故郷宝塚の沿線にある宝塚歌劇(宙組)で昨秋(2009年)より小池修一郎演出の
  『カサブランカ』が上演中でした。

  地図でもよく判るように、モロッコはアフリカ大陸の最北西端に位置し、東はアルジェリア、
  西は大西洋、サハラ砂漠を挟んで南はモーリタニア、北はジブラルタル海峡を挟んで
  ヨーロッパと隣接しています。(スペインとは高速船で約1時間の距離です。)
  総面積は日本の約1.2倍。国土のほぼ中央にアトラスと呼ばれる4000m級の高い峰が連なる山脈が走っており、
  冬には雪で覆われ氷点下になります。アトラスから南東は砂漠とオアシスの世界。夏には45度を越します。
  大西洋や地中海岸にかけては、肥沃な平野が広がっていて穀倉地帯となっています。

  以上で判るように、地域で貧富の差が激しく砂漠地帯では学校にも行けない子供たちがおり、
  病気になってもなかなか医者に診て貰えず、ジプシーとなりヨーロッパに流れ出ていく人達もいるようです。
  言語はアラビア語とフランス語で小学校から両方を教えます。

「歴史の概略」

古代ローマ遺跡
最初のイスラム王朝の首都フェズ
17世紀頃の首都メクネス

 モロッコには、紀元前3000年頃から先住民族ベルベル人が住んでいたと伝えられています。
  紀元前12世紀頃、フェニキア人がシリア沿岸から到来、その後ローマ帝国や
  ゲルマン民族に征服され(遺跡・メクネス近郊のカラカラ帝の凱旋門)、
  5世紀半ばには、ヨーロッパ大陸の民族大移動の影響を受け侵略や分裂の波に
  もまれていきます。
  610年頃(日本では大和時代)、西アジア(現、サウジアラビアにあるメッカ)で、
  イスラム教が誕生、その影響でアラブ人がアラビア半島やエジプトを征服すると
  その勢いでモロッコへ侵入し、地中海沿岸も征服され、その頃から
  ベルベル人のイスラム化が始まります。
  幾多の反乱、侵略を得て、808年頃(日本・平安時代)にはモロッコ最初の
  イスラム王朝(首都フェズ)が誕生。
  1031年頃にはエジプトやスペインと戦火を交え王国は分裂。
    1056年ごろにはベルベル人のイスラム王朝(首都マラケシュ)が誕生。
  その頃の文化は、ベルベル、アラブ、アンダルース(南スペイン)の
  融合文化となっています。
  1212年頃(日本・鎌倉時代)まで戦火の連続で王朝が没落後、現在のモロッコ
  アルジェリアチュニジアの3国になる。
  1500年(室町後期時代)ごろには、ヨーロッパのキリスト教国土回復運動に巻き込まれ、
  キリスト教勢力が入り込みポルトガルの支配下に置かれることもあり混乱が続く。
  1666年(江戸時代)以後現在までヨーロッパ列強と国交を結び争いに巻き込まれていくが
   1912年(明治時代)フランスとスペインの二重保護国となり、その支配下に入る。
   今のモロッコは、第2次世界大戦後独立したもの。



 さて旅行に出発です。

  当時は、直行便が無く、乗り継ぎ乗り継ぎでした。
  東京(羽田)→関西国際空港→(約10時間半)ドバイ→(約8時間)モロッコのカサブランカときつい強行軍

  (ドバイはアラブ首長国連邦UAEの経済の最大都市。
  世界一金持ちと聞いていたが、その飛行場の大きさと規模はさすがです。
  乗り継ぎも含めて多くの空港を見てきましたが、ドバイ国際空港では、あらゆる免税店はもちろん、自動車・
  スポーツカーまで販売していました。)

モロッコの首都ラバト
   大西洋岸に位置する商業貿易の中心地。別名「庭園都市」という。
   上記に記した如くこの町の歴史も古く、波乱に富んでいるが、フランスの保護国となり
   フェズに替わってモロッコの首都となり、町並みも「エレガント」なフランス風になっている。  
   しかし一歩新市街を離れると、新市街とメディナと呼ばれる昔のままの旧市街のコントラストに圧倒される。

     
  王宮 ハッサンの塔(未完のミナレット・尖塔)
  城壁跡 

   世界遺産フェズの旧市街
   フェズと下記のメクネスは、1000年以上前に建設された町並みが今も残っていて、それらの建物が
   人々の生活の場となり今もなお息づいている。

   世界一複雑な迷路の町フェズは、道は狭く起伏が多く、人がやっとすれ違えるような所なので
   輸送手段として今でもロバを使っている。

  タンネリという、なめし革染色職人街は、中世そのままに今でも手仕事で革を染めている。
   見学者には、臭い消しのハーブを配られるが、慣れない者にはたとえ数分であっても耐えられない臭さだ。

     
  ブー・ジュルード門   なめし革染色職人街・タンネリ   輸送手段のロバ

 世界遺産メクネス
  「オリーブのメクネッサ」とも言われ10世紀頃ベルベル人が街の周辺にオリーブやブドウなどの農業地帯を造った。
  この町の最盛期は、17世紀。
  イスラムの国の中で“お酒解禁”的な町。
  アラブ地方では水が命で、建物の中に噴水があるのが一番贅沢なことだった。
  またコーランのなかにもオリーブが出てくるが、オリーブは聖なる物、そして食べ物・油となり、
  そのかすは燃料となっていた。

マンスール門(勝利門)
   北アフリカで最も美しく、有名な門の一つ。1732年完成
ムーレイ・イスマイル廟
   17世紀に彼の死後建てられたもの。イスラム建築の最高傑作
「ファティマの手」
   町の民家のドアの多くに手のひらの形のドアノッカーがついている。
   悪魔から身を守るというお守り。

     
  マンスール門   ムーレイ・イスマイル廟    ファティマの手

 世界遺産ヴォルビリス
   モロッコに現存する最大の古代ローマ遺跡。野原と畑のなかにある。
   紀元前40年にローマ帝国の属領となった町。
    当時すでに下水道があり、大通りがあり、油の製造所があったということに驚きそして感動する。

     
下水道もあるローマ帝国の「夢の跡」   カラカラ帝の凱旋門に床のモザイク   サハラ砂漠で井戸掘り見学・娘と

 サハラ砂漠入口の街エルフードカスバ街道
   エルフードから4WD車で砂漠へ、砂丘までラクダの背に揺られて夢のような体験。
   砂漠のなかのベルベル人のテントでミントティーをいただく。

 エルフードからワルザザートを結ぶ道をカスバ(城壁で囲まれた要塞の意)街道という。
   ひぼしレンガで造られた大小のカスバがありオアシスの緑と対照的だ。
   昔のキャラバン宿でもあり、多くの商人が訪れ物々交換をしていた。

 余談になるが、サハラ砂漠は、2億年前は海であったので、化石が掘り出されている。

 トドラ峡谷
   モロッコのグランドキャニオンと呼ばれるところで、カスバ街道きっての景勝地。

  アトラス山脈の中間地点ではテーブルマウンテンと呼ばれる頂上が平らになっている山々が多く見られる。
  土地が柔らかく木が無いために長い年月の間に風によって平らにされていったという。

     
サハラ砂漠をらくだの背に揺られ   ベルベル人のテント     トドラ峡谷

 世界遺産アイト・ベン・ハッドゥ(要塞村)
   7世紀にアラブ人の支配を逃れたベルベル人がオアシスにカスバ(城砦)を築いて移り住んだ所で、
   代表的なクサル(カスバで囲まれた村)である。
  映画「アラビアのロレンス」のロケにも使われた。

     
  アイト・ベン・ハッドゥ村    要塞内の土産店   カスバ街道沿いに要塞が続く

 世界遺産マラケシュ旧市街
   フェズに次いで2番目に古い街。
   1070年頃、ベルベル人による最初のイスラム国家の首都になり、その後王朝が変わって2度首都になっている。
   そして今もエネルギッシュで、北から、大西洋岸から、サハラ砂漠から人々が集まり物や情報が集まってくる。
   マラケシュは、赤い町で、対してカサブランカは、白い町といわれる。
   赤い町の云われは、旧市街のすべての建物が赤土の日干しレンガで造られており、どこもかしこも赤茶色である。
 カサブランカは、
   ポルトガル語でカサ(家)ブランカ(白)の意でアフリカで4番目に大きい町。

ベン・ユーセフ・モスク
   メディナ(旧市街)の中にある美しいモスク。12世紀に建てられ19世紀に再建
バヒア宮殿: 
   「輝く宮殿」といわれる。
クトゥビア(塔)
   マラケシュのシンボルで4面それぞれ異なる装飾を持つムーア様式の最高傑作。
   12世紀に着工、1192年完成、高さ約77m。

     
 ベン・ユーセフ・モスク   バヒア宮殿の中庭  ペルシャ絨毯の土産店

       
 観光用のラクダ・大小あり  砂漠の坂をそりで滑り降り    娘と二人


                                          2010年1月17日筆                ページ先頭へ






南イタリア・シチリアの旅  (一部35年前と比較検証あり) 


 今回は、2006年10月21日~10月28日の8日間 南イタリア・シチリア島の旅です。
 イタリアの南(長靴の真ん中に位置する所に首都ローマ、南に下がった所がナポリ)
 ナポリからシチリア島です。

 南イタリアの町は、約35年前ローマに在住中、亡夫と訪れたところでもあり、
 過去の写真と比較し、思い出を呼び起こしながら書こうと思います。
 不思議なもので私の思い出は、正直なところ、各地のローマ遺跡
 (すべてよく似ているせいかも?)よりも、素朴な街のスナップ写真にあります。
 「あっ!?この路地を曲がった所であのお土産のお皿を買ったんだ」とか、
 当時(35年前)の南イタリアの小さな町では日本人が珍しいのか、街中では大人の人が
 集まってこそこそと「何人?チャイナ?ヤーパン?」とうわさし、
     子供達は、人懐っこく近寄ってきて「何処の国の人?」と話しかけてきたことを覚えています。


 下・写真 約35年前の南イタリアの町

       
 昔も今も変わらないナポリの町  パエストゥムの遺跡  生活の場があった洞窟住宅  世界遺産の前のアルベロベッロ

ナポリ     ナポリの町は、ローマ・ミラノに続くイタリア三番目の大都市です。

   紀元前7世紀(エジプトや中国の周国が存在。日本はまだ未知の地)のギリシア人が築いた
  ネアポリス(新しい都市)は、他の都市と同じくローマの支配下に置かれていました。
  その後短い期間ゴート族の支配を受け、ビザンチンの支配を受けた後ナポリ公国として763年に独立。
  (日本・奈良時代) 
  イスラム軍と戦いアラブ人との交易を得て後、1139年(日本・平安後期)ノルマンに屈伏して
  シチリア王国の一部となり、カプアーノ城・卵城(下写真)が建設されます。
  1266年(日本・鎌倉時代)再びナポリ王国として脚光を浴び1503年(日本・室町後期)スペインの属州に失墜、
  1734年(日本・江戸時代)ブルボン家支配のヨーロッパ列国の首都として返り咲き、ナポレオン時代には
  1806年から10年間フランスの統治下に置かれ、その後ブルボン家に政権が戻り19世紀後半、イタリア統一を迎えます。
  移り変わりの激しい歴史から、世渡り上手なナポリ人気質が生まれたようです。

  ナポリ人の生活習慣は、写真でもわかるように35年前とほとんど変わっていないようです。
  今でも路地のアパート上の階の両側の窓と窓に洗濯ロープが張り巡らされています。
  観光地の特に世界遺産に指定された所は、昔より石畳がきれいに整備され、舗装され、遺跡も保存状態がよく、
  また修復も進んでいました。(世界遺産に登録されるとどの国の地も過去より、綺麗に修復されますね。)

     
サンタ・ルチアの卵城 ナポリ港 アナカプリのサン・ミケーレ荘

 卵城   
   呼び名の由来は、城の基礎に埋め込まれた卵が壊れると同時に、町も城も滅びるという伝説による。
   サンタ・ルチアのシンボル。
サン・ミケーレ荘   
   カプリ島の有名な青の洞窟は、天候不良で行けず、アナカプリ地区にあるサン・ミケーレ荘を見学。
   スウェーデン人作家アクセル・ムントがローマ時代の住宅跡に建てた家。庭園やテラスがきれいだった。
  昔カプリ島に行った時は、青の洞窟が、簡単に見られ文字どうり青色で澄んでいました。

ポンペイの遺跡  
   ナポリから約1時間半東に走ると、火山の噴火が時間を止めた古代都市がある。

 ポンペイは紀元前8世紀頃から、商業の町として栄え、古代ローマ帝国の統治下に置かれた紀元前1世紀には
 さらに発展し、約2万人が暮らす商業都市であった。しかし79年のヴェスーヴィオ火山の噴火により壊滅し、
 18世紀からの発掘でその全貌が明るみに出るまでの約1700年間、封印されていた町の跡です。
 公共広場、劇場、体育館等や、馬車のわだちが残る石畳の道、モザイクや壁画で装飾された個人宅もあり、
 当時の町の様子がよくわかります。

 ヴェスーヴィオ火山を背景にしたポンペイの町

     
ポンペイ遺跡・バジリカ 道路は舗装され下には水道管がある

パエストゥムの遺跡   
   ポンペイの南、約90㎞にある小さな町に世界屈指の保存状態を誇るギリシア神殿がある。

   紀元前600年頃に古代ギリシア人たちがイタリア南部に築いた街。
   街にはアテナ女神の神殿や二つのヘラ神殿などが建設されその後、古代ローマの支配下に入った街は
   パエストゥムと呼ばれました。 
   紀元前にこれだけ大きな神殿が建てられたことに改めて驚嘆します。      

マテ-ラ   
   ナポリから東方向山間部へ(約254km)バスで約4時間 洞窟住宅“サッシ”のあるマテ-ラに到着。
   現在は、世界遺産に登録され住む人も無く、見学用につくられた家に入れるだけになっていますが、
   35年前は、写真でもわかるようにまだ数件の洞窟住宅で生活する住民がいて、牛を飼い鶏を飼い、
   洗濯物が干されていました。

 マテーラの歴史は古く、先史時代に遡ることが出来るそうです。その後の歩みは、他の南イタリアの街と
 同様にギリシアの支配を受ける時代が続きました。
 この時期、ターラント湾に面した二つの古代ギリシアの植民都市メタポントゥムとエラクレアの住民の一部が
 この地に流れ着いてきたことから、この二つの都市名の頭の部分を取ってマテーラ(Matera)と名付けられたと
 言われています。
  旧市街は二つの地盤沈下で出来た岩の突出部の頂上と斜面に広がり、目前には
  断崖絶壁のグラヴィ-ナ渓谷がありその反対側の高台には新市街地が広がっていて、サッシ地区とは異なる
  現代のマテーラの顔を見ることが出来ます。

         
マテーラ 一面に広がるサッシの旧市街 岩山にそびえ建つイドリス教会

アルベロベッロ  
  「トゥルッリ」というとんがり屋根に白い壁のまるで童話の世界の町、しかし歴史をたどると他の
  イタリアの町同様決して平坦な道ではありません。
  15世紀ごろ当時の伯爵によって建設されたといわれ、大土地所有者の権力の乱用から王国の調査があると
  素早く破壊できる工法で、モルタルなど接合剤を使わない先史時代から伝わる建築方法で造られていました。 
  「トゥルッリ」の普及は、17世紀といわれ、標高415mの丘の上の村に、立派な樫の木が覆い茂っていたことから、  
   イタリア語の「すばらしい木」の意味のアルベロベッロと名付けられました。

   屋根には、魔よけの意味がある鳥や魚などの模様が描かれ、一軒一軒の模様が微妙に違います。
   私が最初に訪れた35年前より、建物や石畳が綺麗に修復され舗装され、観光客が圧倒的に増え、
   土産物店が増え観光地化されていました。

     
 魔よけのあるとんがり屋根 綺麗に修復されたアルベロベッロ  

   南イタリアよりシチリア島へ500kmの道のりを移動(半島を南下し、メッシ-ナ海峡をフェリーで)

シチリア島

  「地中海の十字路」と呼ばれるこの地は、幾多の民族に支配された複雑な歴史を持ち、異文化が融合した
   多くの文化遺産が残っています。
   パレルモを州都として地中海最大の島で、総面積は四国の約1.5倍。
   長い複雑な歴史を持っている。
   
   紀元前6世紀、フェニキア人の住む地が、ギリシアの植民都市となり、ローマ帝国に支配され、
   東・西の分裂から、ビザンチン帝国へ、アフリカ人そしてスペイン人、フランス人による度重なる
   侵略によって奇妙な興味深い文化が形成されました。
   ギリシア神殿、ローマ遺跡、イスラム・バロック・ルネッサンス様式と数え上げることができないほどです。

タオルミーナ   
    イオリア海エトナ山を一望するイタリアの代表的な保養地。
   メッシーナ海峡から55㎞に位置している。
   高台には、紀元前3世紀に建てられた古代のギリシア劇場(円形劇場)がある。

     
 メッシーナ海峡  高級リゾート地タオルミーナ  海を借景するギリシア劇場の私

 ピアッツァ・アルメリーナ   
    タオルミーナから海岸線を南下した所の旧市街から約5㎞離れた丘の上に世界遺産に登録された
   「カサーレの別荘」がある。
   ローマ皇帝通称ヘラクレスの狩りの別荘で3500㎡の床のモザイクが圧巻。

 アグリジェント    
    アルメリーナから100㎞。古代には30万人の人々が住んでいたといわれており、海から数キロに渡って
   せり上がる斜面に古代ギリシアの神殿群が建ち並んでいる。

 コンコルディア神殿   
   ドーリス式神殿で名前は「和解・平和・調和」を象徴するローマの女神のこと。
   ゼウスの息子カストルとポルクスに捧げられた神殿で6世紀にキリスト教会として使用された。

     
カサーレの別荘床のモザイク エルコレ神殿(ヘラクレス神殿)  コンコルディア神殿

 パレルモ    
   シチリア州最大の都市で、地中海文明の十字路といわれる。

   地中海の中心地にあたるこの地は、古代からフェニキアやアラブなどの異民族から支配された歴史を物語る
   エキゾチックな建物が並び異文化の香りが漂う。

 クアットロ・カンティ(四つ辻=十字路の意味
   「パレルモのへそ」といわれる。パレルモで最も歴史あるエリア。    
   17世紀にバロック都市計画の一環として造営。人と車が絶えず行きかう十字路の角一つ一つをバロック様式の
   噴水が飾っている。

   周囲の4つの3階建て建物の壁面を利用した彫刻があり、1段目四季(春夏秋冬)を表現した噴水、
   2段目歴代スペイン総督、3段目町の守護聖人の像となっている。

 カテドラーレ  
   1184年シチリア・ノルマン様式で建てられたもの。
   以後600年に渡る外国支配の中で、さまざまな建築様式が複合され、度重なる増改築でノルマン・イスラムの
   折衷様式となっている、パレルモの代表的建築物。

 プレトーリア広場(噴水)   
   アラブ色の濃いパレルモに、ルネッサンス様式を町に持ち込んだフィレンツェの彫刻家によるもの。
   噴水の周りに30を超える彫刻が置かれている。

     
パレルモ:クアットロ・カンティ 代表的建築物・カテドラーレ

 モンレアーレ   
   パレルモ南西の標高310mの山頂にある町
   ビザンチン様式のモザイクの傑作があり、イスラム・ビザンチン・ロマネスクの影響を強く受けたところで
   中世には首都大司教座が置かれた。

 ドゥオーモ   
   11~12世紀のノルマン朝時代に建てられたもので旧約聖書を描いたビザンチン様式のモザイク壁画が素晴らしい。
   祭壇正面の全能の神、キリストを描いたモザイクは圧巻。
   壁面を覆いつくす金箔のモザイク。現存する教会の中で、世界一モザイク装飾表面積が大きく、6000㎡を
   超えます。2番目はヴェネツィアのサン・マルコ寺院。

     
モザイクで描かれたキリスト モンレアーレ 土産売りの馬車

       
 壺飾り  露店の土産屋  港  路地

                                            2010年6月4日筆              ページ先頭へ






トルコ旅行の思い出


 
2008年4月2日~9日、友人(山田京子さん)と出かけたトルコ8日間の旅を
 振り返りまとめてみました。
 トルコ共和国の位置を一言で表現すると「東と西の出会う場所」、
 そして自然では三方を海(北に黒海、西にエーゲ海、南に地中海)に
 囲われている位置にあります。
 アナトリアと言われるトルコのアジア部分には、古代遺跡がひしめき、
 ギリシャ文明が栄えた、ヘレニズム時代の都市遺跡や、ローマ時代の遺跡は、
  エーゲ海や地中海地方に多くあります。
  トルコ各地の遺跡に触れる時、歴史の概略を少しでも頭に止めておくと、旅の感動も増幅するように思われます。

トロイ遺跡 
 トロイ遺跡
 エフェソス都市遺跡
 エフェソス都市遺跡
 ハドリアヌス神殿跡
 エフェソス・ベルガマ遺跡
 アヤソフィア
 アヤソフィア等
 コンヤ
 当時の遺跡や神学校
 ブルーモスク
 トプカプ宮殿


 歴史 
  新石器時代・青銅器時代(紀元前8000~2000年・日本史=原始時代)
  ホメロスの叙事詩イーリアスに書かれた『トロイ戦争』のトロイは紀元前3000年頃が最盛期

 ヒッタイト(紀元前2000~700年)
  黒海を渡ってきた北方系民族のヒッタイト古王国が現れ鉄器を初めて使用する。
  紀元前1400年頃帝国となるが、いったん崩壊し、その後末裔が各地で国家を造り
  新ヒッタイト時代になる。

 ペルシア帝国による征服(紀元前700~334年)
  フリギア、リディアなどが国家を造る。世界最古の鋳造貨幣を使用したとされている。


 
ヘレニズム・ローマ時代(紀元前334~紀元後395年・日本史=大和・古墳時代)
  アレキサンダー大王の東方遠征で支配下に入り、その死後分割されペルガモン王国を経て
  ローマ帝国に支配される。

 ビザンツ帝国時代(395~1071年・日本史=飛鳥、奈良,平安前期時代)
  ローマ帝国のコンスタンティヌス帝はビザンティウムに遷都を行い
  コンスタンティノーブル(現インスタンブール)に改名。
  ローマと東方とを結ぶ基点となる。

 ローマ帝国が東西に分裂
  アナトリアは東ローマ(ビザンチン)帝国の領土となる。

 セルジューク朝時代(1071~1243年・日本史=平安,鎌倉、南北朝時代)
  中央アジアに興ったイスラームのトルコ系民族のセルジューク朝は首都をコンヤに置く。


 オスマン・トルコ帝国時代(1299~1922年・日本史=室町、安土・桃山、江戸時代)
  幾多の戦いを経て小アジア西部に建国したイスラム国家。
  コンスタンティノーブルをイスタンブールと改名して遷都し、一時は
  3大陸にまたがる大帝国を形成。

  (イスタンブールのトプカプ宮殿・スルタンアフメット・ジャミィ=ブルーモスク等)

 共和国時代(1922~年・日本史=大正、昭和~)

   
  オスマン朝末期の混乱後アンカラに首都を移し共和国となる。







  
さて旅に出発です。

 1日目 成田から直行便でイスタンブールへ(約13時間)

 2日目 早朝トロイへバスで出発(約6時間半)。
  イスタンブールから逆時計回りでテキルダ-で休憩をとりマルマラ海エーゲ海を隔てるダーダネルス海峡
  渡りチャナッカレで昼食後、世界遺産のトロイの古代遺跡観光
  夜はエーゲ海の港町アイワルク泊

     
  トロイの木馬   野外劇場   古代の轍の跡

 3日目 エーゲ海を南下しイズミルを通過しエフェス遺跡

     
アルカディアン通り大理石の道・友人と ニケのレリーフ、門のアーチの飾り ケルスス図書館120万冊の蔵書があった

  ギリシア時代・ローマ時代などの遺跡が数多く残っている。
  イタリアのポンペイと同じように噴火や戦争・地震で崩壊した所もあるが、比較的きれいに保存されていた。

 4日目 
   内陸にある世界遺産パムッカレ「綿の城」という石灰棚のある温泉保養地へ

     
  石灰棚  靴を脱いで入ります。友人と  石灰棚が段々畑のようです

  丘の上にはペルガモン王国やローマ時代の遺跡ヒエラポリス(紀元前190年に始まる)がある。

     
  ヒエラポリス入り口   ペルガモン王国遺跡  円形劇場・紀元前2世紀に造られた

 その後、約5時間半バスに乗りコンヤ
   11~13世紀にかけてセルジューク・トルコの首都が置かれていた。
   学者や芸術家、建築家が集まりコンヤ文化が花開いた。
   イスラム神秘主義教団「メブラーナ教」発祥の地でもある。

     
 インジェ・ミナ-レ博物館  コンヤを代表するミナ-レ(尖塔)

  5日目 アナトリア高原の中心にあるギョレメ地方カッパドキア

     
ウチヒサル(鳩の家)糞を肥料にする  キノコ岩と  キノコ岩の連なり

   トルコのアジア地方に入ると、途中のアクサライの町や道端にも女性の姿は殆ど目にしなくなり、昼間、
   お店でトルコのお茶チャイを飲んでいる人も全て男性だった。
   女性は、結婚すると家事、育児をしながら畑で農業をし、夫は当番制で畑と家の送迎だけをするそうだ。
   地方では今なお昔ながらの風習が残り近代化の遅れを感じた。

 カッパドキアの大奇岩地帯は、数億年前に起きたエルジェス山(富士山に似た山)の噴火によって
 造られたといわれている。
 火山灰と溶岩が積み重なり凝灰岩や溶岩層になり雨風に打たれ浸食が進み固い部分だけが残されて
 不思議な形の岩となったもの。

     
 カイマルク(地下都市)  カッパドキアを代表する奇観  洞窟住居や教会がある

 ギョレメ谷の辺りは4世紀頃からキリスト教徒が住み始め、岩の中に数多くの洞窟教会が遺された。
   今では洞窟レストランや宿屋にも利用されている。

 6・7日目 カイセリから空路イスタンブールへもどり市内観光

     
新市街の塔から金角湾の新ガラタ橋  ローマ帝国時代の地下宮殿・メドゥーサ    ブルーモスク

  「ヨーロッパとアジアの架け橋」といわれるイスタンブールは、ボスポラス海峡によってヨーロッパ側と
   アジア側に分かれている。
   ヨーロッパ側に観光スポットが多くまたそこが金角湾で新市街と旧市街に分かれる。

     
 市場  有名なトルコアイス  バスの運転手さん

  7日目 夕方、帰国の途へ(約12時間)
                     
                    2009年8月21日筆              ページ先頭へ  

                  




クロアチア・スロベニア周遊の旅
                                                        
 2009年6月29日~7月8日 10日間の旅です。友人・山田京子さんと出かけました。
 私の学生時代にはユーゴスラヴィア連邦だった国から、
 1991年にスロベニアが独立し、
 1992年にクロアチアが独立、モンテネグロはなんと3年前の
 2006年独立です。
  ヨーロッパ大陸の南、アドリア海に面した位置にあり風光明媚で、
 からっとしていて、人々の気質は明るく、戦乱がつい最近まで行われていたことなど、
 観光客には想像すら出来ません。ほんの少し歴史に目を通すだけで、この国には
 ヨーロッパ全土の名前が出てきます。
 ほぼ同一民族で島国の日本からは、考えられない侵略、破壊、民族・宗教争い等、
 それらにもまれ、数多くの遺跡にローマ帝国やオーストリア・ハンガリー帝国
 (ハプスブルク家)など多くの国々の影響が遺されています。
 (余談になりますが、このヨーロッパに絶大な影響を与えたハプスブルク家の名前は、娘の学生時代の
  自由研究“顔”でお世話になった元東京大学教授、日本顔学会会長原島博氏から頂いた資料の中に出てきます。
  ハプスブルク家の顔の骨格が遺伝的に貴重なものになるそうで、13世紀頃から現代まで影響を与えている力に
  驚きを感じます。)

さて旅に出発しましょう。
 1日目
  成田から直行便がないので、イタリア・ローマで乗り継ぎイタリアのトリエステへ。
  飛行機は、アリタリア航空(伊)なので心地よい音楽的な伊語が、耳に入ってきます。
  イタリアは私にとって懐かしい国です。約2年の留学、約1年の新婚生活、旅行を含めた10回以上の渡伊。
  今回の旅行では、同じラテン系のためでしょうか、つたない片言のイタリア語が通じることが度々ありました。
  (ラッキー)

 2日目 
   スロベニアブレッド湖首都リュブリャ-ナ

     
 ブレッド湖・聖マリア教会   ブレッド城 フランシスコ教会と三本橋・友人と

  トリエステからバスでスロベニアのブレッドへ。
  その間、国境を越えるも同じユーロの国なのでいとも簡単。ここでは“アルプスの瞳”と称されるブレッド湖を
  ボート(15人乗り)に乗って聖マリア教会がある島へ、そして断崖に建つブレッド城へ。

 午後スロベニアの首都リュブリャーナ市内観光
   (ピンク色のフランシスコ教会は、1646年から1660年に建てられたもので新市街と旧市街が
    小さな三本の橋で結ばれている。)

 3日目  
   ヨーロッパ最大の鍾乳洞ポストイナ
   午後クロアチアのオパティヤへ)

     
 ポストイナ鍾乳洞   ボストイナ鍾乳洞内  クロアチアのオパティア

  洞内へは黄色いトロッコに乗って、下車後約1.7kの遊歩道を洞内の専属ガイドの案内
  (独語・伊語・英語などの標識あり。世界各国からの観光客でごったがえっていました。)で観光、
   洞窟に生息する“類人魚”と呼ばれるプロテウス(1年近く何も食べなくても生きていける生き物)を見学。

 午後、スロベニアとクロアチアの国境を越え“クロアチアの貴婦人”とも云われる高級リゾート地オパティヤへ。
  (クロアチアの通貨は、まだユーロではなくクーナで1ユーロ≒7クーナです。)

 4日目
   約5時間バスに揺られ中世の面影が残るザダル
   午後、世界遺産のシベニク

     
 ザダル・ドナト教会と鐘楼  鐘楼上から眺めたザダルの町 シベニクの世界遺産聖ヤコブ教会

 ザダルの歴史は古く紀元前9世紀にイリュリア人によって作られ、その後ローマ帝国、ビザンツ帝国、
   ヴェネツィア共和国に支配され、20世紀にはイタリアの支配にもあう。
   9世紀初めに建てられたプレ・ロマネスクの円形の聖ドナト教会や後方にある鐘楼に登り市内を望観。
 午後、クルカ川の河口に開けた歴史あるシベニクヘ。
 [世界遺産] 聖ヤコブ大聖堂 
   15~16世紀にかけて建てられたもので、ゴシックとルネサンス様式が見事に融合されている。

 5日目 
   途中ピックニア(断崖の上)で写真を撮りながら、[世界遺産]古都トロギ-ルヘ。

     
 ピックニアからプリモシュテンの町  町の鐘楼  鐘楼の上から古都を眺める

 世界遺産トロギールの町は、周りを城壁に囲まれた小さな島で、橋によって本土と結ばれている。
   起源はギリシア時代にまでさかのぼる。
   ここでも鐘楼へ登り歴史的建造物がひしめく街並を楽しむ。
   街中にある青果市場は、地中海性気候のため、野菜、果物、魚が豊富で賑わっていた。

 午後 [世界遺産]古代要塞都市スプリットへ、
  夕方ドブロヴニク到着

     
 ディオクレティアヌス宮殿の広場  宮殿地下 ドブロヴニク旧市街の入り口・ピレ門

 スプリットの旧市街には、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの退位後の宮殿跡があり、今はその中で人々が生活し
   町が作られている。
   地下では今でも発掘が行われ、見学も出来るが、地下室の天井上部は、現在、生活している人の住居があるため、
   それ以上の発掘は、出来なくなっている。
   宮殿と一体となった神秘的な不思議な町である。

 その後、バスで約5時間のドブロヴニクへ。
   途中、国境を越え、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ国を9km走る。
   その間、ネウムの町で休憩。再びクロアチアに入りブレラ町の展望台で休憩。
 夕方、ドブロヴニクに到着。

 6日目
   [世界遺産]ドブロヴニク観光

     
‘アドリア海の真珠’ドブロヴニクの町 旧市街を囲む城壁で物思いに耽る私  色々な国の人々で賑わう

 ドブロヴニクは、
   クロアチアの最南端に位置し、“アドリア海の真珠”と呼ばれる小さな町です。
   15~16世紀には、ラグーサ共和国と称してヴェネツィアと並ぶ貿易都市として栄え幾多の戦火からも免れ、
   自分達の町を守り通したという誇りを持つ町でもある。
   8~16世紀に増改築を繰り返して建造された城壁は、旧市街を取り囲む約2kmの長さで、今は遊歩道になっている。
   そこからの眺めは、オレンジ色の瓦屋根がぎっしりと並ぶ旧市街の家並みと紺碧のアドリア海に浮かぶ
   ロクルム島や行き交うフェリーの姿……。
   絵に描いた以上の美しさに、しばしタイムトリップの境におちいった。
   ボートに乗ってアドリア海からも街を眺めることができた。

 午後 
   [世界遺産]モンテネグロの町コトルヘ   
      途中両国の国境の検問で時間がかかる。

     
 コトルの旧市街の入り口 聖トリプン聖堂の塔(バロック様式)  街の背後の山の城壁

 モンテネグロ
   2006年独立した国で、大きさは福島県ぐらい。
   祖先は、スラヴ系の民族で永い歴史の間にビザンツ帝国、ブルガリア帝国、セルビア帝国の支配を受け
   オスマン帝国やヴェネツィア共和国にも支配されながらユーゴ(南)スラヴィア(スラヴ人)連邦共和国となり、
   2006年セルビア・モンテネグロ国から独立。

 世界遺産の街コトルは、
   堅固な城塞港湾都市で複雑に入り組んだ湾の最も深いところに位置している。
   複雑な海岸線(アドリア海)と険しい山に囲まれた天然の要害の地で背後の山に沿って城壁が築かれている。

 7日目(移動日)
   ドブロヴィニクからバスで約9時間、クロアチアの北方面にあるプリトヴィッツェ

 途中の道脇にイタリアによく見られる糸杉が見られた。
 彫刻家亡夫和南城孝志の最初のレリーフ『太陽と糸杉』のモチーフで懐かしさもひとしお。

 8日目 
  [世界遺産]プリトヴィッツエ湖群国立公園

     
 プリトヴィッツエ湖   プリトヴィッツエ湖   滝

 プリトヴィッツエ湖群国立公園 
   唯一内陸にある世界遺産で、大小16の湖と92ヶ所の滝が織りなす、幻想的で美しい自然の美を
   徒歩とボートで堪能する。エメラルドグリーンの水は透きとおり泳いでいる魚も見分けられる。
   周辺には珍しいブルーのトンボが飛んでいた。
   川の流れや滝を眺めながら、日本の十和田湖の奥入瀬渓谷や那智の滝を思い出したのは、一種の郷愁だろうか。

 午後 
   クロアチアの首都ザグレブ

     
 聖母被昇天大聖堂   聖マルコ教会 小高い丘の旧市街から見た新市街

 ザグレブのシンボル聖母被昇天大聖堂は、
   13~18世紀にかけて建てられたもので内部には、ルネッサンス様式、バロック様式、ネオゴシック様式が見られる。
  聖マルコ教会は、13世紀に建てられた美しい屋根が印象的。
   向かって左の紋章はクロアチア王国、右はザグレブ市。
 夕食は
   フォルクロアディナーショー

     
 民族衣装  大道芸人  道端のマリア像

 9日目

 最終日 早朝4時半起床で、ザグレブからアドリア海に出てイタリアのトリエステへ(観光バスで)。
    途中クロアチアとスロベニアとイタリアの国境を越える。約3時間半。
    アリタリア航空でイタリアローマを経て成田へ。所要時間計約14時間

       


     



                                2009年7月21日筆            ページ先頭へ

         



 エジプト旅行記        

 長年の夢だった、エジプトに2008年10月27日~11月3日の8日間 旅してきました。
 エジプトについて、書物や声にして簡単に、今から約4500年前、あるいは
 B.C.2550年頃などといいますが、実際に出かけて行って自分の眼で観察するとそれが、
 どれほどの歴史の重みと深さを意味する物かを実感し「百聞は一見にしかず」だ
 ということを体験します。
 もしこれから行きたいと考えていらっしゃる方は、体力がある今のうちが、お勧めです。
 もちろん私のようなけちけち旅行でなく、優雅で時間とお金をかける旅も多く在るでしょうが、
 エジプトの気候とそして風土も考えに入れ、自分の足で古代遺跡を巡ることが出来るうちが
 最高だと思われます。





 まず成田から直行便エジプト航空カイロへ。
 (☆ヨーロッパやエジプトは、時間的にも 疲れ具合からも、できれば直行便がよいです。)
 深夜ホテル泊。 

(2日目)早朝 飛行機でルクソール(かつてのテーベ)へ
。  

     
ハトシェプスト女王葬祭殿・古代エジプト  メムノンの巨像(荒野に立つ2つの巨像)  ライトアップされたルクソール神殿 

(3日目)
  コムボイ(観光警察)の護送でアスワンへ。
   観光バスの前後を銃装備した車に守られ走行です。(初体験でドキドキ??興味津々??奇妙な感じ)

     

 コム・オンボ神殿 

  ワニの神のレリーフ      ナイル川の帆掛け船のフルーカ

 コム・オンボ神殿
   神殿全体が2重構造。 ホルスとワニの神のために建てられたもの

 (4日目)
    未完のオベリスクを見たあと、アブ・シンベルまでノンストップ3時間。
     もちろんコムボイの護送の下で。
     ほとんどリビア砂漠の荒涼とした風景、そこに蜃気楼が遠くに見え
     昔の旅人が、惑わされたことがよく判る気がした。
   アブ・シンベル大神殿
      
水没の危機から保存される  

     
途中、リビア砂漠に蜃気楼が見える   アブ・シンベル大神殿
 オシリス柱が並ぶ先に至聖所

(5日目)
   早起きしてアブ・シンベル神殿のご来光を見て再びバスで3時間揺られアスワンへ。
     船に乗りイシス神殿へ。
   夜は寝台列車「ナイルエキスプレス」でカイロへ。

     
ご来光で赤々しく輝くアブ・シンベル神殿
      
トラヤヌスのキオスク コプト十字(原始キリスト教?)

(6日目)
   アスワン~ギザ(カイロ)寝台列車は、10代の頃に乗った東海道線(大阪~東京8時間)を思い出しました。
   違いは車両の天井が高く2段ベットでもさほど窮屈でなかったことと、各室に簡易洗面台が備わっていた事です。
   (思うに 現地人は、体格がよく背が高いこと、そして風土と生活習慣の違いからでしょうか)

     
  カイロ駅   ギザの3大ピラミッド  フク王のピラミッド入り口
     
  らくだ乗り体験・友人と   スフィンクス(人面獣身)
ナイル河ディナークルーズ(回転舞踊)

(7日目) いよいよ最終日となりました。カイロ市内の見学です。

     
   エジプト考古学博物館 モハメド・アリ・モスク
 ハン・ハリーリ・バザール

モハメド・アリ・モスク
    イスタンブールのモスクを真似て造られた。
ハン・ハリーリ・バザール

       14世紀末に出来たもの  

     
 民族音楽  土産屋  エジプトの赤いブーゲンビリア

                               2009年1月15日筆          ページ先頭へ






 
憧れのペルーの旅                    

幻の空中都市・マチュピチュ ティティカカ湖の島ウル族人  トトラ製(葦)の舟 リャマ アンデス地方に生息

  2007年10月27日~11月4日(9日間)、憧れのペルーに親子で出かけました。その時の思い出です。

 この年の8月15日に、ペルー大地震が発生、大きな被害がもたらされたことを記憶しておられる方も多いことと思います。
 実際、当時は被害の様子や復興状態もわからず2ヶ月後の旅行も危ぶまれました。
 しかしそこは観光を経済の主たる資本にしている国、伝わってくるニュースでは、観光地及び周辺やそこに通じる
 道路整備などを最優先したとのことで、私たちのツアーもスケジュールになんら変更・支障を生じることなく
 出かけることが出来ました。 

 南米大陸のほぼ中央部に位置するペルー共和国は、南半球にあるため、
 季節は日本と反対で、10~4月が夏になります。
 そして日本と同じように太平洋プレートが陸地の下にもぐりこんでいる
 プレート境界地域にあるため、過去に何度も大きな地震に襲われています。
 しかし地震国ペルーは、いまだ防災対策途上国にあります。
 地方(特に太平洋に面した海岸砂漠地域)の家の多くは、雨が少ないため
 日干しレンガ造りの家が多く地震に弱いのです。

 ちなみに日本の約3.4倍の面積のペルー共和国は、海岸砂漠地域(首都リマなど)・
 山岳地域(標高3500~4500mクスコ、プーノなど)・熱帯雨林地域(国土の約半分、
 アンデス山脈の東側のアマゾン熱帯密林地帯)の3つの気候を持っています。

 海岸砂漠地域の辺は、雨が降らないため家々のほとんどに屋根が作られてなく驚きました。

 また旅行者にとって最大の問題は、「高山病」です。
 低地の首都リマから山岳地域のクスコ(標高約3400m)ティティカカ湖(約3800m、日本の富士山の標高は約3776m)
 への移動で低気圧・低酸素に体が順応できず起こる症状の一種の山酔いが生じます。
 人それぞれ差が大きく、年齢や体力・経験などに関係なく発症します。特効薬もありません。
 ただ出発前から予防策など取っておくと、和らげることが可能です。

 私たちのグループは、旅行慣れした人が多くいたこともあり、軽症の変調が生じた程度でほとんどの人が普段どおり
 行動できました。

 ペルーの歴史をひもとくと、約3千年前、北部山岳地域にチャビン文化が生まれ、その後モチーカ、ナスカ、チム
  といった各地での文化の移行が進み11世紀末(日本では平安時代)、中部アンデス地域にインカ族が姿を現し
  新たな文化を作ったといわれます。
  彼らは次第に勢力を広げ、12世紀初頭頃には首都クスコを中心にインカ大帝国を形成します。
  しかし1532年(日本では、室町時代)新大陸を目指してやって来たスペイン人により滅ぼされ、
  その後19世紀初頭までスペインの植民地として圧政を受け、1821年(日本では江戸時代)独立気運が高まり
  ペルー共和国として独立。
  独立後もペルーでは、スペインとの戦争、チリとの領土をめぐる戦争、そして幾度となくクーデターが
  繰り返されていました。
 

 日本からペルーの首都リマへは、直行便が無く、ロサンゼルスで乗り継ぎ、ロスからリマへ行く経路が多いようです。
 成田~ロス間、約10時間、ロス~リマ間、約9時間でリマ到着後ホテルで1泊が賢明です。

     
1、パチャカマック 2、古都・クスコ全景・中央カテドラル 3、太陽の神殿だった教会

1 首都リマ郊外・パチャカマック(パチャ=天地、カマック=創造者)プレインカ時代(600年頃)の遺跡
  スペイン人の侵入によって都市は破壊され、砂漠のなかに眠る廃墟となり、現在、発掘、修復作業が行われている。

 リマから空路、クスコへ(所要:約1時間15分)

2 クスコ(標高約3399m):
   昔ここはインカ帝国の首都だった。
  「クスコ」とは“へそ”を意味して太陽神を崇拝する人々にとって世界のそして宇宙観の中心だった。
   16世紀、スペイン人の征服者達によりインカは山奥へと追いやられ、

3 インカの礎石の上にスペインの教会(太陽の神殿だった石組みの上にカトリック教会が建てられた)や
   邸宅が建てられ、 それが今なお残っている。
   インカの石組みは、カミソリの刃1枚通さない精密さで未だになぞめいている。

  クスコから高原列車と混載バスを乗り継ぎ「幻の空中都市・マチュピチュ遺跡」へ。
  標高2280mあり、断崖と尖った山々に囲まれ、奥深いジャングルのなかにあるため、空中からしか存在を
  確認できないため、スペイン軍に見つかることなくほぼ無傷のまま残された。
  インカ帝国の滅亡から400年近くを経て、1911年、ハイラム・ビンガムによって発見され
  「20世紀における人類最大の発見」といわれている。

     
 スイッチバック式の高原列車 空中都市・マチュピチュを背景にして私 花崗岩を切り出して都市が建設された
 クスコからティティカカ湖畔の町プーノへ(バスで約7時間) 
  標高3855mの小さな町プーノは、ペルー南部、アンデス山脈のほぼ中央に位置している。
  ここが富士山よりも高い所とは思えないぐらい。
  途中、古代インカの皇帝達のお墓「シルスタニ遺跡」へ。(写真下)
  遺跡の裏には標高4000mのウマヨ湖が水をたたえている。
        
 静寂のなかの墳墓群  鏡のようなウマヨ湖・親子で 東側の窓から6/21の冬至に太陽が差しこむ

 ティティカカ湖 
   インカの初代皇帝が太陽の島に降り立ったという伝説が残る神秘的な湖。
   アンデス山脈のほぼ中央、海抜3890m、面積は琵琶湖の約12倍、ペルーとボリビアの国境にまたがっている。

 ウロス島 
   プーノの桟橋よりモーターボートで約40分。
   トトラと呼ばれる葦を積み重ねた「浮き島」で大小さまざまな島があり、
   学校や教会もある。人々はウル族と呼ばれ湖に生息する魚や水鳥を捕り、畑で野菜作り生活している。
   観光も収入源の一つとなっている。
   島と島を結ぶ舟も「バルサ」といわれるトトラ製の舟です。
   実際、トトラを束ねて島を作る過程を見学させてもらったが、想像以上に強く、見学用に穴が
   開けられていなければ、トトラの面の下がすぐ湖の水で浮き島だと忘れてしまうぐらいだった。

     
 葦=トトラ製の島や家屋  トトラの浮き島で土産品を売るウル族人  バルサといわれる葦の舟

 プーノ市内には空港が無く、約45k離れたフリアカ空港からクスコ経由にてリマへ戻る。
   その後、パンアメリカハイウェイを南下して、地上絵で有名なナスカへ(移動に約7時間)。
   延々と続く砂漠地帯を危険防止のため(過去にゲリラや、強盗に襲われる事件があった)決められた休憩場所まで、
   ノン・ストップで超スピードを上げて走り通す様に驚いた。

 ナスカ 100~800年、
     海岸から約80kほどの乾燥地帯に、謎の地上絵で知られるナスカ文化が栄えていた。
     彼らは、広大な大平原に空中から見なくてはわからないほどの巨大な図形や線などの絵を描いた。
     今もって、それらが何を意味するのか多くの謎に包まれている。
     地上絵が現在にまで残っているのは、パンパを覆った黒い石や、砂をどけて白っぽい地面を出して描かれていて
     年間を通してほとんど雨が降らない気候のためと云われている。
     セスナ機に乗り上空から見学。
     ナスカを研究し続けたマリア・ライヘ女史が建てたミラドール(展望台)からも見学。

 4人乗りのセスナ機  サルの地上絵  高さ20mほどのミラドール

  ペルーの暮らし

     
 ペルー料理・セピッチェ    *チチャ・モラーダ    土産品屋

* チチャ・モラーザ 紫トウモロコシのジュース

     
   高山植物    屋根の上の厄除け  リャマと現地の子供と

                                                  2009年12月3日筆       ページ先頭へ




 


  アンコール遺跡(カンボジア)とホーチミンの旅         

    2006年3月2日~7日(6日間)、姉と2人でアンコール遺跡を旅した思い出です。

 カンボジアは、インドシナ半島の中央やや南西側に位置し、北西隣にタイ、北隣にラオス、東南隣にベトナムと
   国境を接している国で、面積は日本のほぼ半分です。

 自然地理に大きな特徴があり、全長4200kmのアジアの大河メコン川がカンボジア領内を縦断しています。
 この川の水量は、増水期には渇水期の約20倍にもなり、その影響で中央平原西寄りにあるトンレサップ湖が
 雨季には乾季の約3倍以上にふくれ上がり、周辺の湿地帯や森林を冠水させます。

 気候は、年間を通して高温多湿で年間平均気温は27.6度、雨季前の4月が最も暑く、私たちが行った3月始も
   30度以上はあり、観光の途中昼休みにいったんホテルにもどり汗で汚れた服を着替えていました。

 
 アンコールワット
 
 アンコールトム


 少しアンコール時代の歴史に触れてみましょう。アンコール時代は、日本では、
 だいたい平安時代~鎌倉時代に当たります。
 802年~1431年にジャヤヴァルマン二世が、アンコール朝を創設し、
 889年に即位したヤショーヴァルマン一世が、アンコールの地を王都と定めました。
 その後約550年間にわたり都城と寺院が建築され続けます。
 (アンコール・ワットやバイヨンなどの大石造寺院)

 1181年頃には、建寺王ジャヤヴァルマン七世によりインドシナ半島の大部分に
 勢力を広げるほどのアンコール王朝の最盛期になります。
 1431年七世の死後国力は急激に衰退し王都アンコールは陥落します。

 そして、今から約150年前、フランス人博物学者アンリ・ムオが再発見するまで、
 アンコール遺跡群は、密林の奥深く眠り続けていたのです。

 アンコール遺跡群は、神々の世界から菩提の居城へ、そして永い眠りから
 覚めつつある至宝その物なのです。

 カンボジア総人口の9割を占めるのがクメール人です。
 アンコール・ワット(天空の楽園)などクメール建築の代表物です。
 大きな特色は、神のための宮殿は耐久性のある砂岩やレンガで、
 人間である王の宮殿は自然の恵みを象徴する木造と分けて造られていました。
 また死後に王と神が一体化するデーヴァ・ラジャ(神王)思想に基づき、寺院は信仰の対象物である以上に、
 王が死後に住むための楽園で、天界(宇宙)との交信場所だったのです。

 またクメール建築のもう一つの大きな魅力は、アンコール・ワットの中心部の十字回廊の4つの沐浴場の聖なる池が、
 この地方の上記に書いた天候・乾季に必要な水源を確保するための灌漑装置でもあったわけです。
 そのために一番重要な空間に至るまでの参道=回廊を組み合わせ屋根をかけない空間(池)が造られています。
 地上よりも高い位置に水をたたえた池を造ることは、現代の技術でも容易ではないといわれているのです。


     


     
  第3回廊への急勾配の石段  回廊上から第2回廊を見下ろす   格子がはめ込まれた連子窓(*)
(*)連子窓  時間により模様が変化します。

 * 成田からベトナムのホーチミンへ乗り継ぎカンボジアのシェムリアップへ。
    ここは、トンレサップ湖の北側にある小さな町でアンコール遺跡群の観光拠点となるところです。
    アンコール遺跡の多くが今だ解明されていない神秘性を含んでいる上に、数日の旅行では、
    主だったところのそれもほんの少しを流し見るに止まるわけですが、解説書と写真を再びひもとくと、
    脅威とも感じる隠された魅力に圧倒されるばかりです。
                                    
     
バイヨンの菩薩の温かい眼差しの四面仏   南大門の神々と阿修羅   観世音菩薩の四面塔

 バイヨンは、アンコール・トム(大きな町)の中央にある寺院で12世紀末に造られ、クメール帝国的支配の
   枠組みを造り上げたといわれています。
   そして、穏やかな微笑みをたたえた観世音菩薩のモチーフで有名な寺院です。
  アンコール・ワットが天空の楽園なら、バイヨンは、宇宙の中心です。
   古代インドの宇宙観によると神々の住む聖域で、また神が降臨する場所でもあったわけです。

     
ライ王のテラス・12世紀末創建の前で姉妹 バンテアイ・スレイ「女の砦」の寺院・姉と レリーフ、ゾウの聖水・下ガルータとナーガ

 (下)タ・プロームは、
   1186年ジャヤヴァルマン七世が母のために造った仏教僧院で後にヒンドゥー教の寺院に改宗されたとみられている。
   自然の力(脅威)を示すが如く巨大に成長したスポアン(榕樹)に押しつぶされながらも、
   寺院の体裁を保っています。

      
  タ・プロームの門を背に   大木が遺跡を侵食するさま  自然の猛威・ある種の自然の芸術

     
  参道の果物売り 親子・ほとんどの自転車にブレーキが無い    参道の土産屋

  トンレサップ湖(水上生活見学)

   シェムリアップ南約10キロにある東南アジア最大の湖・トンレサップ湖では、水上家屋があり水上生活や
   水上に浮かぶ教会や学校などを、ボートに乗り見学できました。      
   生活は、漁業がほとんどで、水上家屋で野菜を栽培し、豚や犬を飼っているところもあります。
   また日用品や果物などは、舟で売り廻っています。
   雨季には水位が上がり、山の方まで水面積が広がり乾期の4倍に広がり、「伸縮する湖」ともいわれています。
   水上生活の場は、一つの村と同じで、学校・病院・遊園地・レストランが在り各舟に番号がつけられていて、
   郵便物も配達されるそうです。
   ただ水は濁り、水上の生活は未だ近代的とはいえず、船の舳先にいる子供たちが、頭の虫を(おそらく虱??)
   取り合っている姿を目の当たりにしました。
   トンレサップ湖周辺の地区では雨季に水没するので、引越しが直ぐにできるように簡単なバラック建ての家で、
   電気は通じていず、自家発電でした。

     
雨季に水没する湖畔周辺の家屋・道   水上家屋で生活して漁業を営む 舟に野菜を積んで各舟を廻る

                                                 2009年10月1日筆     ページ先頭へ



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