氷の封印 最終章(10)





「すみません、強引に」
近くの喫茶店で一条は強引にさそってしまった正面の女性に深く頭を下げた。
「いえ」
警察手帳をみせて身元をあかした一条はその女性をじっと見詰めた。
一条の記憶の何処にも残っているわけでもない。
犯罪者としてリストに上げられているわけでもない。なのに、何故こんなに気になるのだろうか。
一目惚れとか、そんなものでもない。
たしかに美しい女性だとは思うが、なにも一条の心を揺さぶるものはないし、あくまでも客観的な感想でしかない。

では、なにが気になるのか。

(・・・そうだな・・・ただひとつ、引っ掛かるものがあるとしたら・・・・)

ふと、女性が動く度に一条の元に届く甘い香り。
薔薇の、香り。

「・・・で、話ってなんでしょう」
ふと物思いに浸りそうになってしまった一条を女性の声が引き戻した。
「いえ・・その」
なんといえばいいのか、一条は迷った。第六感に引っ掛かるものがありました、などといえるはずもないが。だが何故か正 直に言わなければならないような気がして、一条は口を開いた。
「・・・どこかで、自分と会ったことはないでしょうか」
「・・・え?」
「すみません、変な事を言っているとは重々承知しています。ですが・・・こう、ひっかかるものがあって・・・」
「・・・・・」
「あなたとすれ違ったとき、薔薇の香りがしました」
「かおり、ですか?」
「ええ」
何をどういって良いのかわからず一条はテーブル両肘をつくともどかしげに互いの手を組み合わせた。そのまま口元に当 てる。
「・・・この香りは、私の恋人から貰った物なんですよ」
「恋人・・・」
「ええ」
ふと、寂しげに笑うと女性は一条から視線を外した。そのままガラス窓から外を眺める。
「もう、この世にはいませんが」
一条が顔をあげる。予想もつかなかった言葉に何を言っていいか判らず口を開いては閉じる動作を繰り返した。
「・・・薔薇からとった香りですから、どこかでその薔薇の香りをかいだのではないですか?」
「・・・いえ、香りがどうのという問題ではなくて・・・・」
懸命に言葉を綴る一条を黒い瞳が見詰めた。
「・・・・・・この世界は平和で・・・・・・」
「平和なのは素晴らしいことじゃないですか・・・・」
「判ってます」

胸を締め付ける何かがある。

「それは素晴らしいことですが・・・・」
「・・・・」
もどかしくなった一条は組んだ手に顔を伏せた。


毎夜見る夢がある。
おそらくそれは幸せな夢のはずなのだ。
朝、目が醒めるとひとかけらも残っていない夢の欠片は、覚醒とともに一条の指からすり抜けてしまっていてなにも残して はくれない。
だから、忘れてしまう。
忘れて、毎日平和な日を過ごす。

平和で、穏やかで。

幸せな日

確かにコレは現実な筈なのに、気付いてしまった。
その薔薇の香りで。

「ただ、この日常は」
「・・・・」
「本当なのかと・・・・・」


夢から覚めた現実の一条が度々感じる不思議な感覚があった。
透明な膜に包まれている、ふと現実感を失う一瞬。

それはほんの一瞬の事だけれども
椿と会っているとき。
杉田達といるとき。
車を運転しているとき。
一条は度々感じるのだ。

だれか、自分の側にいなかったか
だれか、隣に立っていなかったか

だが、ほんの一瞬だけ訪れるそれは、まるで何者かの意志に押し流されるかのようにすぐに消えてしまって。
一条は直ぐに覚えていることができずにいるのだが

だが、それを今は感じている。
それが一条を苦しめている。

カチャリとガラスがぶつかる音がして一条が顔をあげた。

「なにをそんなに気にしているんですか?」

不意に一条の周りから音が消えた。

「何を?」
「ええ・・・貴方はいま、幸せではないのですか?」

周囲の景色も消えた。
あたりを白い闇が包む。
そしてそこに存在してるのは一条と目の前の女性だけ。

「・・・幸せ・・」
「貴方も、貴方の大切な人も幸せなのでは?」

朝の風景が蘇る。
何処にでもあるような幸せな食事の風景。
親友とその妹。
大切な仲間達。

記憶の中の一条の大切な人達は皆幸せそうに笑っているではないか――――――――

「皆・・・・・」

―――――――――――― 皆に笑顔でいてほしいんです

昔、
誰かがそう一条に笑いかけなかっただろうか

「それ以上なにを望む?」

顔をあげた一条の目の前に立つ女性

黒い髪と赤い唇、白いドレス
そして薔薇の香り

―――――――――――― 一条さん

その向けられる笑顔を大切に思ってはいなかったか

「この平和な世界を壊したいのか?」

その問に、一条は答えられない
自分がどうしたいのかもわからないのだ。

何を知りたいのか
自分がどうしたいのか
自分がなにを望んでいるのか

「せっかく手にいれることのできた平和をより何を望む?」

平和?

――――――――――― 一条さんにだって笑っていて欲しいんですから!

俺だって
君にはいつも笑っていてほしいと思っていた

一条の心の其処から言葉が浮かび上がった。

――――――――――― 一条さん

薔薇の
薔薇の文様

―――――――――― 一条さん

「この世界の平和が」
「・・・・」
「俺が幸せであることが誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら」

一条の瞳に、力強い光が宿っていた。
白い闇は切りさかれ、一条の足元には真っ赤な薔薇が敷き詰められたように咲いていた。

一面に薔薇
薔薇

一条の前に立つは薔薇に包まれた女性

「そんな幸せは俺は要らない」
「なんて傲慢な」

一条の言葉に薔薇に包まれた女性は笑った。笑いとともに風がおき薔薇の花弁が舞い上がった。
幾重にも幾重にも舞い上がった花弁はやかて白い雪に変わっていく。

「それがあの方の望みでも?」

舞う花弁はどんどん雪に変わっていく。
一条の足元の薔薇も全て雪に変わった。
雪が一条を包んでいく。

―――――――――― 一条さん

さらに雪が激しくなる。
音が全て雪に吸い込まれてしまうようだった。

「全てを手に入れることはできない」

それなのに一条に耳にはその声がはっきり届いていた。

「それを手に入れる代わりに全てを失ってもいいと?」
「それでも俺は今よりは幸せになれる!!」

声を消されないように、一条は叫んだ。

「俺がいなくったってこの世界は幸せだ!!」

一歩、前に出る。
纏わりつく雪が重かった。

「だが!」

一歩、また一歩前に出る。

「俺はあいつがいなかったら幸せにはなれない!!」

雪を掻き分けて近づいていく。
今度こそ、今度こそ手を離さないと。

――――――――――― 一条さん!

一条の脳裏に、その笑顔が蘇る

「五代!!!!」



「思い出したのか・・・・・」
ふと気が付くとあたりは再び白い闇に包まれていた。
あんなに激しく降っていた雪は一欠片も残っておらず、静けさに包まれていた。

「・・・・五代はどこに・・・・・」
「それを知れば戻れなくなる」
「それでもいい?」
重なる女性の言葉に一条が目を見はると桜子が立っていた。
「沢渡さん・・・!」
「賭けていたの」
一条の驚いた様子など目にはいらないかのように桜子は幸せそうに笑った。
「賭け?」
「ええ。一条さんが記憶を取り戻す事ができなたなら、選択のチャンスをあげてほしいって」
桜子の目には涙すら浮かんでいるように潤んでいる。
「機会は一度しかなかったの・・・もしあの時一条さんが気付いてくれなかったら・・・・」
一条は再び視線を薔薇の女性に向けた。
「なにもかも失っていいと言ったな」
「ああ」
「全てをなくしてもいいと」
一条は黙って頷いた。
「では、この先に待つのは果てしない孤独だとしても?」
「・・・孤独?」
不思議そうな一条の問に桜子が答えた。
「五代くんは・・・眠っているの」
「眠っている?」
桜子が口を開く。
「ええ・・・いつ目が醒めるかわからない眠りよ。それでも・・・」
「構わない」
桜子の言葉を遮り一条が言い放つ。
「五代の側にいる事ができるのなら俺はどんな孤独にも耐えてみせる」
「誰からも忘れられてしまったとしても?」
その言葉に、一条の脳裏にいろんな人の顔がうかんだ。どの人達も大切な人たちで。

けれど

「それでも俺は五代を手に入れることができる」
そう言って笑った一条の笑顔があまりにも綺麗で。
「・・・そうか・・・・」

一条の言葉を聞いて、額の薔薇の文様に手を当てる。
指先に力をこめると額に指がめり込んだ。
そのまま何かを掴むようにして、額に埋まっていた石を取り出した。
額にあった薔薇の文様が消えている。

「コレを」

すっと手を一条の方に差し伸べ、小さな石を見せた。

「私に埋め込まれた《アマダム》だ・・・あの御方に会いたければこの石をその身に受け入れなければならない」

一条は躊躇うことなしに手を伸ばし、石を掴んだ。

「その身体に受け入れ、《アマダム》を復活させることができたなら・・・・・・・・あの御方を救うことができるかもしれない」
「本当か?」
「かもしれない、といっただろう。どれだけ時間がかかるかわからないし、《アマダム》は復活などしないかもしれない・・それ でもいいか?」

一条は笑った。
「言っただろう? 俺は側にいられるだけでいいと」

その視線は揺るぎなく。
一条は石を腹部に当てた。

かつて五代がアマダムを受け入れた場所
「!」
瞬間焼け付くような痛みに襲われ一条は声をかみ殺した。まばゆい光が一条の腹部から放たれ、消える。

石の記憶が、薔薇の女性のもつ記憶が全て一条に流れ込み、全てを理解した。

そして、そのまま ――――――――――――――



「賭けはお前の勝ちだったな・・・・」
消えた一条のいた場所に立ち小さく呟く声を桜子は聞き返した。
「・・・え?」
「だが・・・私も嬉しく思う・・・・」
振り向いたその笑顔は、桜子が始めてみる笑顔で、とても美しかった。
「私も漸く解放される・・・・・・」
「解放・・・される?」
不安そうに聞き返した桜子の側によりそっと抱き締めた。
甘い薔薇の香りを感じて桜子の胸が不意に締め付けられた。
「辛い思いをさせてすまなかった・・・お前がいて・・・・・私は救われた」
思わず相手の背中に手を廻し同じ様に抱き締めた。
「お前がいなければ・・・・私はあの御方を永遠の孤独に陥れてしまったかもしれない・・・・」
「そんな・・・・」
「人というのも・・・まんざらではないものだな・・・・・」
薔薇の香りが強くなった。
「・・・ねぇ・・・なに? なんなの?」
「・・・・ありがとう・・・・・・」
「・・なによ、突然そんなこと・・・」
「あ・・・」

なにかに気付いたようにあがった声に桜子もつられて後ろを向いたが何もおらず。
再び顔を前に戻すと、真っ赤な薔薇の花弁が空中に舞っていた。
「・・・え?・・薔薇・・・・・?」

――――――― 迎えに・・・きてくれたのね

突然桜子の頭にそんな言葉とともに、かすかな男の声が響いたような気がして。

不意に。
抱き締めていた身体から重みが消えた。
あわててきつく抱き締めようとした腕は中をかき抱く。

腕は宙を舞い、バッ・・・!と目の前に薔薇の花弁が散った。

たくさんの薔薇の花弁が舞う中。
そこには桜子しか存在していなかった。

「・・・・あ・・・・・」

空中に散った薔薇の花弁ははらはらと舞いながら足元に落ちていく。
無数の花弁は桜子の上にも舞い降りて、消えていった。


薔薇の香りに包まれながら、桜子は目を閉じる。


彼女は漸く解放されたのだ。
永い、永い孤独から。







薔薇ねえ、を幸せにしたかったんです。私なりに、
さて、次で本当に最後です!
BY  樹 志乃 

本当に次で最後なのよね。
信じてるわよ。(ひかる)



NEXT   BACK   氷の封印 第一章から   氷の封印 第二章から   氷の封印 第三章から   氷の封印 第四章 はじめから

TOPへ    小説TOPへ