氷の封印 第二章(1)





関東医大の廊下にリズミカルな足音が響いた。
茶封筒を手に白衣を来た男性が歩いている。
その白衣に包まれた上半身は筋肉質そうでがっしりしており医者にしておくにはもったいないような逆三角形をしていて、その 袖から覗く腕も逞しかった。
ただその表情は暗く、眉間に皺がよっていたけれども。



今日の検死結果が椿の脳裏によみがえった。
―――――――――― この頃、仕事が多すぎる。
椿は胸の中で溜息を付く。
尊い犠牲を払って未確認は殲滅された筈だったのに。


人々は荒らされた町の復興に勤めた。
目を見張るような速さで何もかもが甦っていく。
けれど、喉もと過ぎれば熱さを忘れるのか、嫌な事は記憶から消してしまいたいのか。
大人達は口を噤み、未確認の話を表立ってするものは直ぐに居なくなった。
だが、その分、心に負った疵は深くなっていった。
あまりにも急激に普通になってしまった現実に神経がついていけない。
自分の中の恐怖と向き合えないうちに、アレは夢の中のことじゃないか、と思うようになって。
口に出すと現実になってしまいそうだから・・・・・口に出さない。
でも、出さないと恐怖が自分の中にドンドンと巣食っていって自分を内側から溶かしていってしまいそうになる。
神経が蝕まれていく。
それが夢なのか、現実だったのか、その境目がどんどんと消えていく。
心に残された目に見えない傷。
それが表面化してきたのもその頃だった。
未確認に身内を殺されたもの。
襲われた地区に住んでいたもの。
幼く、感受性豊かな子供達が負った疵は。
未確認の話が一切表に出なくなればなるほど、心に植え付けられた恐怖が増幅していたのだ。
メンタルケアの重要性は十分理解されているはずだった。
各所に設置された無料の診療所。
そこに配置された精神科医が相談に来た者達の対応を行ったけれども、悲しい事に彼等には経験が足りなかった。
海に囲まれて守られていた平和なれした国、日本。
これまでにそんな凄惨な経験のない大人たちに本当の心の痛みや疵を理解してやれる者は少なくって。
なにもかもが後手後手に回っていた。
予想していたよりも疵は深く膿んでいた。
自分の心が恐怖に侵されていることすら気付かない者達の精神は気付かぬまにドンドン恐怖に侵されていく。
ゆっくりと心が腐敗して ――――――――――― そして。
何かを切欠に膿が一気に溢れ出すのだ。
フラッシュバックによる恐怖の再来。
脳裏によみがえる血なまぐさい光景、悲鳴。
もう、全てが終わって平和になったのに、自分の今いる場所がどこだか判らなくなって。
―――――――――― 殺さなければ殺される・・・・・・そんな脅迫観念にかられて、自分の身を守る為に凶器を手に取 る。



今日の検死対象は複数だった。
四十代の女性と十代の男性。
自分の子供に滅多刺しにされ、出血多量で絶命した母親とその子供・・・・・・まだ、14歳になったばかりの中学生だった。
事件後、学校に行かず外出も一切しなくなって引きこもり状態になった子供に心を痛め、何とか病院に連れて行こうとした 時のことだったらしい。
『もう人間なんて1人も残っていないかもしれない、全部未確認に殺されているかもしれない』
そういって怯える子供。
外にいるのは全て未確認、そう思い込んでしまって。
この世にたった一人、自分だけが取り残された、そう考えたのだろうか。
『未確認だったんだ。母さんのふりして部屋に入ってきて俺のことを殺そうとしたんだ』
悲鳴を聞きつけた近所の人の通報で警官が駆けつけたとき、子供は血まみれになった自分の母親の死体にそれでも未だ 凶器を振り上げていた。
呆然と宙を見つめる虚ろな瞳。
『殺さなければ殺される』
『母さんに化けていたんだ。だって俺の事殺そうとしたんだ』
『きっと母さん、殺されちゃったんだ』
『俺が敵をとらなきゃ・・・・』
そんな事を呟きながら。
取り押さえようとした警官に気付いて彼は恐慌に陥った。
彼の目には警官の姿が恐ろしい未確認の姿に写ったのだろう。
怯えて凶器を振り回して・・・・・・自分の喉を付いた。
慌てる警官の前で逆手に取った出刃包丁を喉元に突き刺し一気に引き抜いて、死んだ。
激しい痛みが襲っただろうに、その顔は恐怖から開放されて穏やかなものだった。



椿は眉間に皺を寄せる。
誰も悪くなかったからこそ、遣りきれないのだ。

それだけではない。
未確認の名を騙った者が引き起こす事件も後を立たない。
中には胸糞が悪くなるような事件だってある。
あまりにも大きかった恐怖に人々の感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。
人の命があまりにも簡単に奪われすぎて。


彼らが命をかけて護ったモノはいったいなんだったのだろう。
椿の頭をそんな思いが掠めて消えた。


目的の場所で椿の脚がとまった。
普通の人間は入ることが出来ない特別病棟。
そこの一番奥詰まった場所にある個室の白いドア。

面会謝絶。

小さな札がかかった扉の前で止まったその男は小さく溜息をつくと、ノックもせずに扉を開けた。
中には。
個室のワリにはゆったりとした造りの部屋。
大きな窓の近くにベットが1つだけ置いてあって。
その上に身体を起して外を見ていた青年がゆっくりと振り返った。
医師の無作法をまるっきり気にしていない様子で笑いかけて、不意に顔を顰めた。
「今日・・・仕事があったんですか? そのワリには来るのが早かったんですね、椿さん」
「・・・・・・・まだ匂うか?」
自分の袖に鼻を当てて嗅いで見る。
血の匂いは全て洗い流した筈だけどな、と呟くと困ったように笑う。
その笑顔は椿の記憶の中のものと何一つ変わっていなかった。
少なくとも表面的なものでは。
で、今日はどうしたんですか?と問い掛けられて椿は肩をすくめながら手にしていた茶封筒をヒラヒラさせた。
「ああ、検査結果が出たから持ってきたんだ」
「結果、ですか?」
「これについて、いろんな話をしたいと思ってな」
「話って、いわれても・・・・・・」
口が堅いのは知っている。
あれだけ辛かった戦いの中においても彼は弱音一つ吐かなかった。
痛みに対する泣き言も一言も漏らさなかったのだ。
それでも、これ以上自分の知らないままにしておくことは椿にできなかったから、今日はどんな手段をつかってもその口を 割らせるつもりだった。
「あれから2週間だ。その間言われたとおり面会謝絶にしている俺の苦労も察してほしいんだけどな」
言葉をさえぎって、すこし強めにいう。
卑怯かもしれないが、いまはどんな手段だって使うつもりでいた。
ベットの上の青年が視線を落とす。
「・・・・・・これ以上、一条を押さえておくのは、俺でも難しいぞ」
その名前に青年の薄い肩が震えた。
「たとえ奴の記憶がなくても、だ。・・・・・・・・・・・五代」


あの日の記憶が脳裏に蘇った。



―――――――――――― 2週間前

会合の後、自分の携帯に一条からの連絡があった事に気付いた。
留守電にしていたのだがなんの伝言も入っていない。
どうしようかと思案したが、まあ緊急の用件ならかけなおしてくるだろう、そう思い直してするのをやめた。
記憶がない、その一点を除けば彼はまるっきり健康体だ。
できるならあまり刺激を与えたくない。
下手に刺激を与えて記憶が蘇るようなことをしたくないのだ。
このまま、五代の事は忘れてしまった方が幸せではないのか・・・・・・傲慢な考え方かもしれない。
けれど五代を失って、その上一条までも失うはめにはなりたくなかったのだ。
なくした記憶を取り戻すという事は、一条にとって死ぬよりつらい事だと知っている。
記憶が蘇った一条など容易に想像できた。
五代を1人で逝かせた己の力不足を悔やみ、でも自分で命を絶つ弱さを許す事もできず、一条の精神だけが死んでいく。
誰も一条を救う事ができない。
椿ですらも・・・・・・・己の力の無さを思い知りながら一条のそんな有様を見なければいけないのなら。


――――――――――――― 今なら、まだ笑っている。
例えその笑みが、かつてのような物でなくても。
一条が思い出さない分は自分が憶えているから、だから許して欲しい。
椿は五代に心の中で詫びるように願っていた。



机の上に会合の資料を放りだした。
気の重い内容だった。
事件は凄惨性をまし、その対応に追われて今度は警官ではなく医者が足りない。
特に精神科医が。
日本は海外に比べてその分野では著しく遅れをとっている。
このままでは海外に援助の要請をしなければいけなくなるだろう。
それに今のままではその対応に追われて医者の方が先にやられてしまう。
患者の心のケアをするという事はその人の心の中を覗き込むのと同じ行為だ。
それは感情を共有する事。
痛みも悲しみも苦しみも一緒にもう一度体験するということ、時には激しい苦痛が伴う場合もある。
どんなに経験豊富な医者だって患者の世界に飲み込まれ引きずられてしまう場合だってありうるのだ。
関東医大においても、早急な対応を求められている。
椿は椅子に深く腰掛け再度資料を見直した。
「そういえば・・・・・」
会合の後で同期で精神科医の塚本から聞いて欲しいことがあると言われていたことを思い出して呟いた。
内線でとりあえず時間が空いたことを告げると直ぐにこちらに向かう、と返事が返り、ほんの2.3分も経たないうちにやってきた。
「邪魔するよ」
慌ただしげに部屋に入ると椿が勧めた椅子に幾分乱暴に腰を降ろしたっきり黙ってしまった。
そのまま硬い表情をして黙っているので仕方なしに椿の方から話を促してみる。
「・・・・・・なんだよ、話があるんじゃないの?」
「あ、ウン、そうなんだが・・・・」
なにかを言いよどむような感じに椿は顔を顰めた。
本来塚本と言う男は竹を割ったような性格をしているような男で何かをするときに躊躇したりするようなことは非常に珍し い。
それほどに何か重要なことなのだろうか。
「・・・なあ、椿。お前が第4号の身体を診た事があるから聞くんだが・・・・・」
漸く口を開いた塚本の口からでたのは椿が全然予想もつかなかった内容で。
唖然としている椿に気付きもせず、何から言っていいのかな・・・・・・と頭を掻きつつ口を開いた。
どうやら自分でも考えが纏まっていないらしく、話しながら考えをまとめている節も見受けられた。
「その、お前は超常現象、とかって信じているか?」
「・・・・・・・・は?」
想像もしていなかった言葉に椿が素っ頓狂な声を上げる。
「いや、なんていうかなぁ・・・その、こう常識では説明のつかないっていうかさぁ・・・・」
あー!!といって頭をかきむしると塚本が自分の膝に顔を埋めるのを呆然とみやる。
大体、話の内容も内容だがこの塚本と言う男、非常に現実的で懐疑的というか目に見えるものしか信じない男なのだ。
その男がこんな事言うなんて。
「このごろ外来にさ、ノイローゼらしき患者が増えたんだ」
「らしき・・・・?」
「ん、人の声が聞こえる、ってな。頭の中で何人もの話し声が聞こえるっていうんだ・・・。」
そう言って、一回喉をん、と鳴らした。
「典型的な症状だろ。俺は最初そう診断したんだけどな・・・・・・・・・検査をしているうちに、どうも、俺の考えていることが筒 抜けになっているんじゃないか・・・って思うようなことがあってさ」
「筒抜け?」
「ああ」
椿の返答に塚本がぐっと身を乗り出した。
「どんな声が聞こえるのか書き出してもらったんだよ。その中にさ、時々、医学用語が混じっててさ、ソレも専門用語」
塚本の表情には嘘を言っているような点は見られなかった。
「普通の奴になんかわからん言葉なんだよ。よくよく調べたら、他の言葉もどうやら看護婦の考えてた事みたいでさ。どうやら他に聞こえるって言っていたことも・・・それらしいんだよな」
そこで一旦塚本は言葉を切った。
「俺さ、そういった現象は信じないんだけど、本来人間が持っているだろう能力まで否定する気はないんだ」
塚本はちょっと口をシニカルに歪めると人差し指で自分のこめかみを叩いて見せた。
「なんてったって、人間の脳みその殆どは使用されてないしな・・・・。もし何らかのきっかけがあって、脳の隠された部分ま で使用することができるようになったら・・・・きっと想像もつかないような能力が発揮する、ようなことがあるかもしれない 可能性は認めているんだからな」
「塚本・・・・・」
「なんつーか、さ。お前は俺よりもまあ、そういったものを体験しているわけだし・・・お前の意見を聞きたいなって思ったの さ」
思ってる事を取り合えず述べて一息ついたのか塚本の表情がやわらかくなった。
「・・・・・で、俺はどうすりゃいいんだ? 今ここで思っていることを言えばいいのか」
「いや」
塚本に即答され、だろうね、と椿は肩をすくめる。
「ま、詳しい事はこれに纏めてある」
そう言って分厚い紙の束を椿の机の上に置いた。
「読んでからでいい。お前の率直な意見を聞かせてくれないか」
「・・・・・・わかった。時間のあるときに読んでおくよ」
「すまん」
塚本はそれで用は済んだ、と立ち上がるとそのまま部屋を出ようとして・・・・振り返った。
「それで、椿。このことなんだが・・・」
「内密に、だろ」
「・・・・すまん」
申し訳なさそうに手をあわせる塚本に軽く手を振って答える。
完全に扉が閉まったのを確認してから椿は束を手にとった。
「人の声が聞こえる・・・・ねぇ・・・・」
以前の椿だったら、頭っから否定したかもしれないけれど。
大きくため息をつくと自分の鞄の中に放り込んだ。


それから10分ほどしただろうか。
しばらく書類の整理をしていた椿の内線が鳴った。
『椿先生、御面会希望の方が来られてますが』
予定のない来客をつげる看護婦の声に椿が首をかしげた。
「名前は?」
『五代 みのり様とおしゃってますが?』
「五代みのり!?」
椿が慌てて立ち上がる。
「通して構わないよ」
『わかりました』
内線が切れた後5分後、扉をノックする小さな音が聞こえた。
「どうぞ」
椿が声と同時に扉を開けると、まだ少女といっていいような雰囲気の女性が立っていた。
記憶の中の姿となんらかわりない・・いや、少しだけ大人びただろうか。
「お久しぶりです、椿さん」
にっこりと微笑むその笑顔が五代とよく似ていて、椿の胸を締め付けた。






『氷の〜』第2部です。・・・・・・ふふふ幸せになるか不幸せになるか。
でも、私は幸せのつもりなんですけど。

BY  樹 志乃


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