目を開けると薔薇の花弁は全て消えて、ほんの少し薔薇の残り香がするだけだった
もう桜子の手にも残っていない。
人ごみの中にもどり、忙しない雑音が桜子を包んでいた。


まるで今までのことは一瞬の夢のようで、桜子は微笑を浮かべた。

――――――― そう、今までもことは夢かもしれないわ

そう呟いて、桜子は歩き出した。
「だって」


それは無意識な呟きだったかもしれない。
桜子の脳裏に、最後にみた、美しい薔薇の人の笑顔が浮かぶ。

「だって」
段々に薄れていくその映像を寂しく思いながら
「最後まで・・・・・」

小さな風が吹き、桜子は無い上がる髪を押さえた。
肌寒さを伝えた風は桜子を包み、薔薇の香りを奪い去っていく。


「名前で呼ぶこともできなかった・・・・・・・・」


その瞬間、桜子から記憶は永遠に失われた。







氷の封印〜最終回〜











その石が、己の身体の中に溶け込んでいくのを一条は感じていた。
かつて、五代の身体に吸い込まれたときもこんなかんじだったのだろうかと、頭の隅でぼんやりと考えた。

石の持つ記憶が一条の中に流れ込んできて、一条は全てを理解した。
あの、雪山で五代が一条の記憶を奪ってから。
どれだけ、辛い思いをしてきたのだろうか、と。

己がなさねばならないことの重さに一人で耐えて。

別に五代が犠牲にならなくてもよかったのだ。
あれだけ傷ついて、苦しんだのだから、次の戦いは人間に任せればいいのだと。

―――――― そう考えてしまうだけ、俺の方がエゴイストなのか

刑事という仕事に誇りを持っている。
だが、いま思い返して見れば、あれだけ未確認生命体の撲滅に勤めようとしたのも五代がいたからだということに気が付 いてしまった。
自分が戦いに巻き込んでしまったから。
その責任感だけではないと一条はとっくに気がついてしまっていたのだ。

もし、あのとき。
五代を見つけることが出来ていたら。

決して戦わせなどしなかった。

一条のためだけだ、と言いつつも五代が一人でこの孤独な道を選んだわけではない事を知っている。
愛する人を、愛しい人たちを、そしてそれをくるむ世界の全てを五代は護りたかったのだ。


――――――― そして、そんなお前を愛しているんだ


己の額に埋め込まれていたのは五代の身体の中にあった石の破片だから、《アマダム》を受け入れる下地は一条の体に 出来ているのだ。現に渡された《アマダム》を受け入れてもなんの違和感も感じない。


――――――― 《アマダム》の復活か・・・・・

もし

一条は考える。
己の額に埋まっていた石を、確かに自分は活性化することが出来ていた。

もしも

復活させるということが一条の考えている通りだとしたら。


あたりの景色が変わっていく。
思考の世界から現実に覚醒しているようだ。
一条を包む暗闇は遠のき、遥かかなたから光が近づいてくる。


その光は一条に向かって手を伸ばし。


「・・・・・・俺は《アマダム》を復活させる事が出来る・・・・・」

思考ではなく
声帯を震わせて、言葉を発する事が出来た瞬間。

一条は、かつて九郎ヶ岳と呼ばれた、あの洞窟の跡地に立っていた。



あの爆発で山は崩れ、無残な爪あとを晒している。
外から見ただけでは何処が洞窟の入り口かはわからなくなってしまっているが、今の一条には訳無い事だったのだ。石を 身体に取り入れて判ったのだ。
《アマダム》はかつて五代の身体の中に入っているものより小さくなってしまっているとはいえ、そのレベルは究極体となっ た五代が身体に取り入れていた段階に近いレベルにまで近づいているのだ。

―――――― おそらく・・・・・・・・

薔薇の女性がそこまで持ってきてくれていたのだろう。
こうなることを見越したか、そうあってほしいと願っていたせいかはわからないが。

ある個所にまできた一条が立ち止まる。
大きな石が無数に重なりあっているそれは普通の人間であれば動かすことなどできはしないだろうが、一条が手をかざす とその周囲の石が一瞬にして消滅した。

その下から現れたのは暗闇だった。
一条はためらいもなく足を踏み入れた。



道は奥まで続いているようだった。
光が射さないせいで、まるで墨を流し込んだかのように真っ暗だ。おそらく顔の前にかざした掌でさえ見えないだろうに一 条はふらつきもせず歩いていく。
洞窟の中は外より気温が低いのかひんやりとしていた。
どこかに通気口でもあるのか流れ込んでくる空気は新鮮ですらある。


どれ位歩いただろうか。

一条の足がとまった。


「・・・・・・・・五代・・・・・・・・」

闇の中、うっすらと光を放つもの。
「やっと、おまえに会えた・・・・・・・・・・・」
一条の口から歓喜の声が漏れた。


五代は静かに寝ていて、まるでいまにも起きだしそうだった。

その肌の色が、周囲の壁と同色でなければ。
その肌の感触が。冷たい石と同じでなければ。


一条の手が伸ばされる。
かすかに震える指先で、そっとその頬に手を触れた。
閉じた瞼に生えている睫毛の一本一本すらわかるのに。
その睫毛を指先でなぞり、一条は手を下ろした。

地面から30cmほどだろうか、宙に浮いている場所で五代は壁に埋め込まれていた。
溶け込んだとでも言った方がいいだろうか。
まるで、硬く冷たい大地に抱かれているかのような五代は、かつて《アマダム》がうまっていた腹部に両手をあてていた。

「・・・五代」
名を呼んでも反応は返らない。
だが、一条はそれでも構わなかった。

「側に、いるからな・・・・」
いつも一条についてきてくれた五代。
いつだって一条のことが優先で、自分のことは後回しだった。

「たまにはいいだろう」
こんどは一条が五代の側にいるのだ。
ずっと。

ずっと。



冬が過ぎ。

春が来て。 

秋が訪れた。



だが、一条にとっては時間の流れなど無意味なものになっていたのだ。
ただ、ひたすら五代の側で五代だけを見詰めつづけた。
毎日五代のことを思い、ときには五代に話し掛け、五代の側で眠る。

五代が目を覚ましたときに空を見る事ができるように洞窟の天井にあけた穴から月の光が差し込んでいた。
一条と五代を照らす。

無造作に伸ばされた髪も肩を過ぎた。
だが、そんなことは全然きにならなかった。

どれだけ見詰めても飽きる事などない五代をひたすら見詰めつづけて一条は幸せすら感じているのだから。
ふと、一条の頭に過ぎる思いがある。

―――――― このままでもいいかもしれない

と。
このままでいれば、永久に五代は一条だけのもので。
永遠に二人だけだ。
そっと頬に手を這わせ、冷たい唇に口付けて。
それだけでも幸せを感じることができる、と。

そんなことをふと考えて一条の口元が歪んだ。

「これぞまさしく人の欲望だな」
ただひたすらにそれを願う。

――――――― そう、《アマダム》を育てるのは俺が一番ふさわしい 

一条はすでに人ではなく。
己の身体の中で脈打つ石の存在を感じて嬉しそうに呟いた。


―――――― お前を独りにはしないから・・・・・・
















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