彫刻家・和南城孝志(わなじょう たかし)
Wanajo takashi
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和南城家ルーツ後編(糸井村編) (和南城洋子筆)
群馬県利根郡昭和村 | 和南城家の菩提寺 清雲寺周辺の遺跡図 |
昭和村全景・河岸段丘 |
● 群馬県利根郡昭和村糸井の地勢
和南城孝志の父親が生まれ育った(現)群馬県利根郡昭和村糸井は、群馬県の北部に位置する利根郡の最南端にあって、赤城山の北西麓・片品川左岸に位置し、標高は、最低276m、最高1467mです。境界を北から北西へ片品川が流れ、西端を南流する利根川に合流します。南東端の標高700~800mの赤城高原地帯を扇頂とする合成扇状地で、集落が30~50戸単位で形成され河岸段丘上に散在しています。
広大な高原地帯を活用した高原野菜を基幹産業とした純農村地帯となっています。「首都圏の水瓶」である利根川や片品川が四季折々に姿を変え、季節を肌で実感することができる自然豊かな村でもあります。
また、年間を通して収穫される農産物は、農地約2,400ha(専業農家327戸)、全世帯の約28%を占める農家で生産され、特に、こんにゃく芋の生産量は「日本一」を誇り、レタスは群馬県下においても有数の生産量を誇っています。(『角川日本地名大辞典10群馬県』、昭和村広報参照)
現今の昭和村は、1958年(昭和33年)久呂保村と糸之瀬村が合併して昭和村が誕生したものです。そして糸之瀬村は、
1889年(明治22年)行政区画改正により、糸井村、貝野瀬村の二村が合併して糸之瀬村が誕生しました。
これから述べる糸井村は、明治の区画改正以前の糸井のことです。
地勢のことで忘れてならないことは、この地と糸井辺りを流れる片品川の河岸段丘です。ほとんどの人が一度は目にしてい
るだろう中学・高校の社会科の地図(帝国書院)に掲載されている河岸段丘の写真が片品川と昭和村辺りのものです。
下図の写真でも判るように、片品川ぞいに河岸段丘が幾段にも発達して、大きな段丘崖が見られ、その上に糸井が位置して
います。
写真(下左)で見ると、左手に片品川が流れ、手前に糸井、利根川に沿って上越線が走り、左方面が沼田市の台地、右方面が
赤城山となります。
河岸段丘 片品川 | 沼田の台地から糸井方面 | 糸井方面 |
● この河岸段丘のことを簡単に書きます。(糸之瀬村誌参照)
「太古時代に造山作用がおこり、三国山脈などの山脈が生まれ、いたるところで火山が噴火し、火山作用が繰り返されました。その間に奥利根の白根・谷川岳、そして武尊山(ほたか)、子持・赤城の山々が生まれ、山と山の間を利根・片品・薄根川などが流れ溶岩の上に火山灰が積もり川が堰き止められたり、土地の隆起作用も起こったのです。そして激しく地盤が上がるとその境に、川が流れその繰り返しで川水が川底を削り、再びそれが繰り返される、このようにして長い年月の間に、幾段もの河岸段丘が生まれました。」
片品川の歴史を見てみますと、伝わっている1680年ごろから大風・雨・霜・干ばつの歴史が繰り返されていました。が、
この河岸段丘のお蔭で低地が流されると、人々は高台へ避難し川が干ばつになれば、湧き水で凌ぎ、台地と赤城山に挟まれ
た糸井では気温差が激しく片方の斜面に桜が咲き反対の山斜面には雪が残っている土地でした。
戦国時代の記録は何も残っていませんが、当時の糸井は、ほんの狭い土地だったと推測されますが、幾多の天災があったに
もかかわらず村が生き残り続けた理由がこの河岸段丘に在ったと思われます。
また、糸井に小高神社(下記)がありますが、その付近は、以前から、縄文土器や石器がたくさん見つかっていて、大昔か
ら人々が生活していたことがわかります。昭和時代の半ばでも、雨が降った跡に、子供たちが矢じりなど見つけて遊んだと
いうことです。
余談になりますが、糸之瀬村誌によると、明治34年に和南城家の所有地の畑から曲玉、金環、管玉など多くの物が見つかり
、当時の東京帝国博物館に出品されたとあります。
また糸井には、古墳も多く見つかっています。まだこの古墳については、はっきりしたことが判っていませんが、一つ考え
られることは、大和朝廷の勢力が、上毛野国(かみつけぬのくに)へ、中仙道や東山道を通っておよんできたのだろうとい
うことです。
平安時代中ごろには源順という人が倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)をつくりこのなかに「利根郡に四つの郷があ
る」と書いています。(当時の政治の仕組みでは、国をいくつかの郡に、郡をいくつかの里に(後に郷とよぶ)分けました。
平安から鎌倉、室町時代にかけて武士がおこり、力をのばしていく土台となった荘園(私有地)の名残も糸井に残っています
。上野(こうずけ)に九つの牧(牛馬を放し飼いにする土地のこと)があったともいわれ、地形の上からみても、一つが赤城
山の北のふもとといえます。
これらのことから糸井村が古代から郡の中の里=郷であり、平安時代には荘園であり牧場もあった、豊かな土地であることが
わかります。そして力のある武士が住みついてこのあたりを治めていたと思われます。
戦国時代にはこの糸井村も戦にあけ、戦にくれ、なかには戦を避けよそへ移る人も多く、また和南城の先祖のようによそから
移ってきた人も多かったことでしょう。
江戸時代になると幕府の政策で土地にしばられ、よそへ移ることが出来なくなりました。
糸之瀬の歴史をひもとくうちに、面白いことに気づきました。それはこの糸井村が江戸幕府時代にたびたび天領になってい
たことです。わずかなあいだに天領から大名領に、また天領にもどってみたり、糸井が2分されて、領主が組ごとに違って
いたり、たいへん複雑になっていました。そしてこの大名領の城主は、隣接している沼田の城主ではなく家康の古くからの
家来・直参の酒井氏(前橋城主)です。つまり大名領になったといってもこの糸井辺りがいかに大切な重要な土地であった
かがわかります。それはおそらく豊かな土地と、関東八カ国のうちでも、江戸に通じる主な街道の多い上州のせいでしょう
か。
古代より西日本と東日本の政治と文化を結ぶ、交通の要衝であった群馬県。 会津・沼田街道、足尾銅山街道、佐渡奉行街道、古戸・桐生道、十石街道、下仁田道、信州街道、三国街道、日光例幣使街道、鎌倉街道、吾妻の諸街道、清水峠越往還、古河往還、利根川の水運等 |
近江の国に、当時、都へ通じる街道が多く集中していたのと同じく、いみじくも近江から移り住んだ勢多郡糸井村は街道が
多く集まる豊かな土地だったわけです。
もう一つの共通点は、先にも書いた河岸段丘の地勢が似ていることです。近江では、愛知川沿いの和南城城跡辺りが河岸段丘
で、片品川の糸井辺りが河岸段丘の地勢です。
● 清雲寺 (下写真)
和南城家の菩提寺、清雲寺開山は1532年(天文年間)といわれています。世は戦国時代でした。はじめ天台宗(下記1.)
のお寺だったのが、迦葉山(下記2.)の影響で禅宗のうち曹洞宗(下記3.)になりました。本尊は、釈迦如来で、本山は
永平寺(福井県)です。
天保の頃(1830年頃?)火災にあって本堂、庫裡などほとんど焼失しました。楼門だけが今でも残っています。
清雲寺の朱塗りの楼門の屋根は修復されていますが、楼門を見上げると表に竜、うらに牡丹の立派な彫像が見られます。
1.天台宗 (奈良泰明編著『日本の仏教を知る事典』参照)
「天台宗 中国の天台大師智顗(ちぎ)によって開かれた宗派で、『法華経』をよりどころの経典としている。平安時代(804年)、最澄38歳のときに唐に渡り、天台教学を授かり更に、合わせて真言密教、禅、戒律も学んで帰朝した。この時、同じ船ではなかったが、真言宗の空海も同じ一団として、唐に渡っていたのである。帰国後、朝廷に認められ、比叡山を賜り「天台宗」を開く。
その後、円仁、円珍の活躍により、密教が極められ、現在の天台宗の形が完成する。江戸時代にも、天海という名僧が出現。江戸城や日光東照宮などの建設の際も風水や密教占星術を用いて、「江戸曼荼羅」を完成させます。また、日蓮宗の「日蓮」、浄土宗の「法然」、浄土真宗の「親鸞」、曹洞宗の「道元」、臨済宗の「栄西」や時宗の「一遍」などが天台宗を学び、そこからひとり立ちして各宗を開宗しており、天台宗は、日本仏教の母胎として、後世に多大な影響を与えました。」
2.迦葉山(かしょうざん) (沼田市広報参照)
迦葉山は、沼田市街地から北方約16km、武尊山系に連なる深山幽谷の浄域にあり、春は新緑、夏は霊鳥「仏法僧」の声を聞き、秋は全山紅葉、冬は白雪四囲をおおいます。
弥勒寺(みろくじ)は嘉祥元(848)年に開創。桓武天皇の皇子・葛原親王の発願により天台宗比叡山座主・慈覚大師を招いて第一世とされ、康正2(1456)年、曹洞宗に改宗され、徳川初代将軍の祈願所として御朱印百石・十万石の格式を許された由緒あるお寺です。
3.曹洞宗 (奈良泰明編著『日本の仏教を知る事典』参照)
「中国の唐代におこった禅宗の五家(曹洞、臨済、瀉仰、雲門、法眼)の1つである。日本曹洞宗は、永平寺を開いた道元(1200~53)を高祖(開祖)とし、総持寺を開いた塋山紹瑾(けいざんじょうきん)(1264~1325)を太祖とする両祖、両本山を立てる独自な教団である。
道元が14歳の時、比叡山延暦寺で、天台教学を学んだが、それだけに満足せず、京都建仁寺の栄西に参禅した。その後、師と共に宋に渡り曹洞禅の法を継承した。日本においては禅宗の1つであり、専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴としている。
特に今一つの中国禅宗の流れをくむ臨済宗(りんざいしゅう)が、幕府や貴族階級など、時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や農民層に浸透して、全国的に広がっていった。」
昔は村の中に、神社とお寺の両方が必ず存在していました。近江の和南町の多度神社と光明寺(旧和南寺)のごとく。
糸井には、上記の清雲寺に対して小高神社があります。
● 小高神社 祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) (下写真)
860年頃の『三代実録』という歴史書によると、「本社のいわれは遠く平安時代にさかのぼることが出来、しかも、世々大
きな尊崇をうけてきたといえる」とあります。
この神社一帯には、たくさんの石斧(せきふ)、石鏃(せきぞく)土器が出土しています。
土地の豊かなこの辺りは、紀元前から深いいわれのあったところと思われます。
本殿左の空き地に「宮ノ前縄文遺跡」の立札が立っています。また本殿左脇に元禄時代の二つの石灯篭があります。これを
よく見れば、火袋のところに、日と月が彫りぬいてあり竿のところに、元禄三の年号や北上州勢多郡拝仕荘糸井村の文字が
見られます。このことから平安時代に糸井の辺が荘園だったことがわかります。つまりその時代のころから豊かな土地で、
世が乱れ戦国時代になると、武士の成長に大きな力添えを与えたことでしょう。また、明治16年の記録には、氏子総代に
和南城姓がみられます。
沼田駅 | 迦葉山の天狗の面 | 片品川 |
清雲寺楼門表・竜 | 清雲寺楼門・裏・牡丹 | 小高神社・宮前縄文遺跡 |
小高神社・神楽殿 | 小高神社・本堂 | 元禄時代の石灯篭 |
● 日本の姓の誕生 (『日本大百科全集13巻』渡邊静夫編著 小学館1994年参照)
日本の古代には、姓という字はカバネという語にあてられ、姓は氏族の家格を示す称号であったといいます。時代を経るにつれ、多くの氏族集団が栄え姓制度は乱雑になっていきます。氏は祖先を同じくする血族集団といわれ同一の氏神を祀っていました。しかしこれも時代の流れと共に大小が入り混じり、同じ氏族であってもかならずしも血族とはいえないものもあったようです。中世時代の氏名(うじめい)の代表は源氏や平氏、藤原氏、橘氏があげられます。やがて武家政治も終わり明治時代(1870年)になると、平民の苗字を差し許すとの新法が発布されます。
『清和源氏740氏族系図』 千葉琢穂編著 |
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以上のことや言い伝えなどを参考に氏について調べているうちに源氏について書いてある本に
たどり着きました。(『清和源氏740氏族系図』)
源氏といっても十六流もあってそこを丹念に見ていくと和南城への繋がりがありました。
十六流の一つ清和源氏の流れで源経基の子満季(長子・満仲の異母弟)の流れつまり
清和源氏満季流の末・子孫に実賢という人がおりその流れの中に和南氏が存在しました。
近江の和南城跡からたどってきて和南氏と繋がりがあるなら次に述べる家紋とも結びつくわけ
です。
* 次に家紋を調べてみましょう。
● 家紋
『姓氏家紋大事典 東日本編 群馬県家紋分布表』によると12番目の順位で
丸に剣花菱があり和南城家の名前も載っています。
「花菱紋は別名を唐花菱紋ともいう。割り菱の四隅の形を花弁のように美化したものである。唐花と同じく、実在する花ではなく、中国から渡来した想像的な文様である。大変美しい形をしているので、文様として盛んに用いられた……。家紋としてはじめて歴史上にあらわれるのは、『見聞諸家紋』で、清和源氏義光流の武田氏、大内氏族の多々良氏、奈良氏、細川氏族の東条、松田、三須の諸氏が載っている。清和源氏義光流の代表家紋で、武田氏族、小笠原氏族に特に使用家が多い。徳川時代の『寛政譜』には大名家、旗本家などに多数見られる。また分布を調査すると、山梨県が最も多く、長野、静岡、群馬、埼玉、神奈川などの隣接県も比較的多い。」
上記の清和源氏義光流は満季流と同じ先祖の経基です。同じ清和源氏一族の満季流の和南氏が剣花菱を家紋としていたこと
がうかがえます。
● 和南城家の家風
中世時代の清和源氏満季流の係累から考えると、同じ清和源氏の一族でも満季流の中では歴史上にほとんど名前が上りま
せん。
鎌倉時代から室町、戦国時代と常に朝廷や幕府にある距離を置いて接していたように思われます。
和南城一族が、糸井の地に移り住んだ後、大名に仕えることなく逆らうことなく、それでいて武士としての矜持を最後まで
持ち続けていたことと、似ているように思われます。
江戸幕府時代の糸井の大名、前橋藩酒井氏一族の家風が『三百藩家臣人名事典 2』に「末々に至るまで志正しく、幼年よ
り道を守り法令を重んずる家風を見習い諸士の鑑と賞された」と載っています。
天領や大名領を繰り返すうちに酒井氏の家風もその土地=糸井に溶け込んでいったことでしょう。
江戸時代の幕府の政策が落ち着いてくると、戦いがなくなり武士が必要でなくなってきます。糸井のような土地の豊かなと
ころでは、武士が兼業で農業や林業で生活を支えていたことが窺えます。そして中には家や土地を捨て長脇差になった人も
いたでしょう。よく知られている「上州長脇差」は、他の渡世人と一線を画し、それなりの「道」を重んじ堅気の人からも
畏敬の念を抱かれたといいます。剛情で納得すると情に弱く、臍を曲げると梃でも動かない。
そのような気風が上州人の中に在るように思います。
上州の中でも、糸井を含む昭和村の村民に、昔から受け継がれてきた気風が、一番色濃く残っているように思います。
それは、戦国時代の荒れ果てた時代にも、また天災で家、土地を失っても、江戸幕府の多くの弾圧にも屈することなく、
片品川流域の河岸段丘のこの土地を愛しこの土地に住み続けたことでも判る気がします。
また、このルーツを調べている内に、平成の市町村大合併で沼田市近辺の町村が、沼田市に合併したおりも、昭和村が
以前のままを維持したという事を知りました。
『昭和村議会だより27号』を読むと「合併について住民アンケート(18才以上の住民対象)を取り、賛成は19%、
反対は60%という結果をふまえて、村議会は住民の意見を尊重し、参加をしないと決めた」とありました。
つまり合併に参加しなかったことは、昭和村の村民の自主自立の道で選んで決めたことなのです。
以上の経緯を知り、糸之瀬の歴史と照らし合わせて、なるほどと感じたのは私だけではないでしょう。
「志正しく、幼年より道を守り」その反面、「剛情で信念を持ちかたくななまでに道を通し、組織に属さず、孤高の人として
孤独を愛した苦労人」その気質が、和南城孝志の体の中にも流れているように思います。そして芸術的素質は、群馬県桐生市
の古くからの機織だった家に生まれた母方の血を受け継いだのではないでしょうか。京都友禅からも問い合わせがくるほど、
染色に力を注いだ人や、画家の人達もその家系にいます。(完)
あとがき
故和南城孝志のファイルを基にして書き始めたものが、新たに資料を加えたり古くなったものを変えたり、また現地に出かけ
写真撮影をしているうちに、楽しく面白く書けるようになりました。これは始めに述べたように、あくまで私見で物語風に
まとめたものです。
歴史は時代と共に歩んでいます。今後また別の違ったルーツが見つかるかもしれません。それもまた面白いことだと思いま
す。和南城孝志の遣り残した「和南城家のルーツ」は、これで一応終りにしたいと思います。
滋賀県東近江市、群馬県沼田市、利根郡昭和村等の各教育委員会のご厚意とご指導、及び各地の図書館の方々のご協力と
ご厚意に感謝するとともに、文章の添削をしてくださった友人・中川慶子様にここで深くお礼申し上げます。
2008年9月 筆・和南城洋子
参考資料
『糸之瀬村誌』群馬県利根郡糸之瀬村役場 1958年、角川日本地名大辞典編著『角川日本地名大辞典10 群馬県』角川書店
1993年、奈良泰明編著『日本の仏教を知る事典』東京書籍 2005年、千鹿野茂著『姓氏家紋大事典 東日本編 群馬県家紋
分布表』柏書房 2004年、渡邊静夫編著『日本大百科全集13巻』 小学館 1994年、千葉琢穂編著『清和源氏740氏族系図』
展望社刊 1985年、家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 2』新人物往来社 1998年、群馬県教育委員会、
昭和村広報、沼田市広報 2008年、昭和村議会だより27号 2003年
追後記 他ページより転写
「和南城家のルーツ」を調べて
「和南城です」というとほとんどの人が「はぁ?」と聞き返し「わなじょうです。平和の和にみなみの南にお城と書きます」と
答えると、「珍しいですね。沖縄の方ですか?」あるいは「どちら出身ですか?」と言われます。たまに旅先などで名前を名
乗って何の反応も来ないときは、逆に 先方の方に「群馬県の方でしょう?」と聞き返します。
それがほとんど当たっています。「学校に/会社に/知り合いに、和南城さんがいらっしゃるから」と。
和南城の親戚の集まりで、名前の話題が出ると和南城姓の全員が同じ質問(「珍しい名前ですね」など)に合っていました。
もちろん群馬県以外の地でです。
亡夫も以前から名前の由来に興味を持っていたようで、少しずつ調べた資料が「和南城家のルーツ」のファイルに遺されて
いました。もうまる5年が経つので資料も古くなり使えない物が多く在りました。そこで私が、現地や都立の各図書館で調べ
たり、知人に尋ねたり、写真撮影に出かけたりして、あらたに資料集めをして、『和南城家のルーツ』として物語り風にまとめ
ました。
そして「彫刻 和南城孝志の世界」のホームページに掲載しました。
書き始めは確かに亡夫の遺志を継ぐとか、供養とか多分にそのような気持がありましたが、調べたり書き始めたりしている
間に、そのような気持ちは超越し、調べ纏めそれを書くこと自体に面白みを感じている自分に気づきました。
正直いって、はじめは書く自信もなく、ここまでのめり込めるとは予測さえしませんでした。
今、書き終えて振り返ってみると、これこそ藤原新也氏が、「なにも願わない手を合わせる」(文芸春秋・文春文庫)
の本の‘水に還る’に書かれた「負(死)の力」のおよぼした結果ではないかと思います。
皆様方の温かい協力と支援と励ましに、深く感謝いたします。
2008年10月6日 和南城洋子筆