彫刻家・和南城孝志(わなじょう たかし)
Wanajo takashi
トップ(目次) プロフィール 展覧会(個展・グループ展) パブリックワーク(野外彫刻Ⅰ ・ 野外彫刻Ⅱ) 彫刻小作品集
旅立ち マップ 近況 コンセプト 遺稿・追悼集 思い出シリーズ(新聞評 カタログ 制作現場
思い出の地(イタリア・日本) 亡き後の世界 寄稿文 皆様からのお便り 和南城家ルーツ前編 ・ 後編
沼田市(群馬県)メモリアルパークの碑 トップページへ
この山の山頂は、300度近くの眺望が開けており、
北から大峰山・谷川岳に始まり武尊山そして尾瀬の山々に赤城山等、
麓が水上町から沼田市などの関東平野が見渡せられる指折りの素晴らしい場所です。
群馬県沼田市に仕事場を持った当時、娘もまだ小さく親子3人で、朝、トーストと
ポットを籠に入れ山頂近くまで登り、崖に足を投げ出し、この素晴らしい景色と
鳥の声をデザートに朝食を食べました。
その思い出多い、孝志さんが大好きだった場所に、㈱サンポウの平井良明氏の
御厚意で碑を立てて戴きました。
また碑の字は、沼田時代の知人の著名な書家柏木白光様による隷書体です。
下記の写真は、山頂からの眺望を撮ったもの。
大家さんは塩野さんとおっしゃるのですが、あの有名な作家の塩野七生さんの親戚筋にあたられ、
七生さんも戦争中、東京を離れてこの沼田の親戚の家に疎開されていたそうです。
ご本人は覚えておいでではないでしょうが、物置(昔はお風呂やお手洗い?)の壁や屋根裏に塩野七生さん幼き日の
落書きが残っていました。
この‘てっせん’は山々の木々や庭木や草花の中に埋もれたままひっそりと息吹続けていたようです。
もし花が咲いているときに見つけていなければ、ずっと埋もれたままになっていたかもしれません。
これは紫の花ですが、白の花も数年後に見つけ印をつけておきました。
けれどそれは周りの木々や雑草に紛れてしまってとうとうそのままになり株分けできませんでした。
今、目の前にあるこの‘てっせん’が塩野七生さんの子供の頃や夫が住んでいた頃を経て、現在まで
ずっと世の移り変わりを眺めてきたのかと想像すると、なんとなく物悲しく不思議な気持ちになります。
いつまでも大切に育てていこうと思っています。
地方の文化 2009年3月26日
はやいものでこの3月が亡夫の七回忌になります。
亡夫は、イタリア・ダンテ国際彫刻ビエンナーレ(ラヴェンナ・イタリア)の第4回・第6回に於いて金賞受賞した
彫刻家でしたので、各地にファン・支援者がいてくださいます。
数箇所でその土地の在住者が集まってくださり、彫刻家和南城孝志を偲ぶ会がありました。
その内の一つのことを書いてみようと思います。
それは群馬県桐生市の「芭蕉」です。(図をクリックすると拡大します)
昔風にいうと洋食屋というのでしょうか、戦前に造られた建物で(ちなみに桐生は、戦災にあっていません)
当時からよく文化人が利用していたそうです。
朝日新聞の記事にも載った老舗で、棟方志功のうずもれていた「幻の壁画」が半世紀ぶりに全体像を
現した所です。
私たち夫婦も高崎の「メセナ」といわれる芸術文化支援財団を始められた、先駆者・井上房一郎さんに
連れて行っていただいたのがはじまりです。
その御縁で、地方文化に力を注いでおられる奈良彰一さん、山鹿英助さん(日本古来の凧の収集で知られておられます。)ら
と繋がりを持つことが出来、桐生市文化センターの野外彫刻「溶融感覚」(和南城孝志作)が生まれた因縁の場所でも
あります。
奇しくも、末期がんの闘病中、最後に訪れた「芭蕉」の同じ部屋で偲ぶ会がありました。
イタリア・ローマ郊外のアトリエ (農家離れ)
ローマのアパートから20年間通い制作していた。
当時 一人娘(1歳半)を連れて夏休み中 家族で過ごした思い出の場所でもあります。
ローマのアパート部屋
国立ローマアカデミ―彫刻科在籍中から帰国間際まで長年の間住んでいた所
まるでフランス人画家ユトリロの絵を彷彿させるようだと思いませんか。
(写真・和南城孝志撮影)
群馬県吾妻郡高山の大理石
イタリアからはるばる船とトレーラで高山村まで運んできたまま取残されてしまった大理石群。
今なお眠っている。
群馬県高山のメモリアール事務所、借家が見つかるまで寝泊まりしていた場所。
建築途中だった高山村のアトリエ
群馬県高山村に自分で設計、建築中だった仕事場 ようやく日本での仕事場が出来上がりかけ、作品も製作途中で 完成を見ずに亡くなり、未完の物がたくさん遺されていた。 このアトリエも山の持ち主の意向で、今は幻と消えてしまった。 |