彫刻家・和南城孝志(わなじょう たかし)
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 和南城家のルーツ 前編  (和南城洋子筆)


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 和南城孝志が集めた資料  家紋 丸に剣花菱      深谷弘典著
       

和南城家の先祖が武士だったことは、昔から言い伝えられていた。家宝として数本の刀もごく最近まで遺されていたという。また高校の社会科の先生が、「和南城という苗字は珍しいが、ルーツを辿っていくと、どうも室町時代の豪族の落ち武者ではないか」と云われたことがある。それらを一つのきっかけとして、和南城家ルーツの色々な資料を集めだし、それをファイルにした。(写真左上)
和南城の城跡はひとつの証拠で、現在の滋賀県東近江市永源寺の和南町に和南城があったことが深谷弘典『永源寺町の歴史探訪Ⅰ』(写真右上)に記載されている。和南城一族の先祖が、戦国時代にこの辺りから、戦いに敗れ落ち延びた先が、現在の群馬県利根郡昭和村糸井であったとの推論するにいたった。(和南城孝志のファイルより)

 今回、和南城孝志の結論を基にして、古くなった資料を改訂し、新たに出てきたものを追加し、整理して、
 「和南城家のルーツ」を物語風にまとめてみました。

    和南城という姓は、珍しく、全国を探しても、群馬県出身者以外はほとんど見当たりません。

 ● 森岡浩編『難読・稀少名字大事典』で調べると以下のように書かれています。

    和南城:群馬県にみられる名字。前橋市や沼田市などにある。

和南城孝志の父親も、群馬県利根郡昭和村糸井(沼田市に隣接)で生まれ育ち現在も本家が糸井に在ります。

 ● 昭和33年発行の『糸之瀬村誌』によると

「江戸時代末期の文化8年(1811年)には、上野国勢多郡糸井村(現在の群馬県利根郡昭和村糸井)に、和南城の姓が31戸あったとあります。現在は糸井で10戸位ですから大分減少しています。が当時糸井村の全戸数は267戸でしたから31戸は10%強の占有で、加藤(60戸)、高橋(34戸)に次いで3番目の戸数でした。」

明治3年(1870年)の平民苗字許容令で(士=武士)農工商(=平民)国民全員に苗字をつけることが決められた以前に、和南城姓が存在したことは、先祖が武士だった証でもあるわけです。

 糸井に在る和南城本家の菩提寺、清雲寺は江戸時代後期に炎上し、残念ながら過去帳などすべて延焼し、記録が残っていませ
 んが、中には跡継ぎの男子が生まれず家が絶えた例もあると伝わっています。これらのことから江戸末期にして31戸という
 ことは、江戸時代初期には、もっと多くの和南城姓の人々が住んでいた事が憶測されます。糸井に落ち着くまでには戦国の
 厳しい戦いがあり、住みなれた地を離れ、一族の殆どの人々が、当時の上毛野国(上野国)に移り住んで土塁を築きその中
 で生活したものと思われます。そして村の人々がその城の中で生活する一族の者を、和南城氏と称したのではないだろうか
 というのが、一つの考えです。

糸井村の土地柄を(糸井地方の歴史については後編で触れます)見てみますと、現在は上越新幹線の駅からも遠く、高速道路からも距離があり、鄙びた村になっていますが、利根郡の最南端にあって赤城北麓に位置し、東は沼田市利根町(旧利根村)、北は片品川をへだてて沼田市に接し、南は渋川市赤城町(旧勢多郡赤城村)に隣接していて、赤城高原地帯を形成しており、北東から片品川が北西から利根川が流れきて合流して南西に流れます。
『糸之瀬村誌』の「地勢」より

 現在でも、春や秋には天然の食材が周囲の山々から豊富に取れます。クマやいのししの獣肉や鳥など昔は狩猟で捕獲でき、
 谷川では豊富な魚が捕れ、天然の水が湧き出るところで、戦国時代では農耕をしなくてもある程度の生活は維持できたの
 ではないでしょうか。そしてこのような群馬の山々に囲まれた村は、政治や宗教の騒乱、戦乱があるたびに、安住の地を
 戦火に蹂躙されたであろう近江の和南城辺りの豪族の人々にとって、終の棲家になったことが想像できます。

 それでは和南城を調べていきましょう。

 ● まず、和南城という名前が珍しいので漢字から調べてみました。

  『広辞苑』をひもとくと、  
    和南(わな・わなん・オナンとも):梵語[仏]稽首
               (首が地につくまで体を屈して拝すること)
                   礼拝.敬礼の意。

      和南ということばは、佛教用語で、意味のある言葉でした。

上述の『永源寺町の歴史探訪Ⅰ』の五和南の光明寺文書と小倉氏の合戦、72ページにもっと詳しく書かれています。
(下図)

 ● 和南城を日本地図などで調べてみました。

和南町という地名で探すと滋賀県東近江市永源寺に現在も和南町や和南川があり(写真下)、和南町内にある多度神社裏山に
和南城城跡があります。そして和南町内の光明寺が昔、和南寺と称したということです。
和南町には、現在約200世帯が住んでいるそうですが、和南や和南城という名の家は1軒もみあたりません。
昔、戦に破れこの近江の和南町の土地を捨て、外へ逃げたり姓を変えたりした人もいただろうと思われます。その内の一族が
郷土を追われ落ち延びた先が群馬の糸井村かと思われます。

和南城は、「代々和南氏が常住した城で、創建年代は南北朝時代」とされています。 「永禄元年(1558)、京都・堺を離れて帰途についた織田信長を、小倉右京亮実治が相谷からの八風越の道案内をしたが、佐々木六角承禎はこれを怒り、小倉右京亮実治を攻撃した。これが今に残る和南山の合戦である」 と記されています。
(『中世城郭辞典』より)

別の『滋賀県中世城郭分布調査』からの引用文は長いのでそのまま以下に掲載します

和南城
  
多度神社の北側に接する脇山に残る山城で南北朝争乱の頃より小倉氏の一族、和南大炊助実経、同弥三郎等が在城したようで、その後の城主は不詳ながら山続きの山田城や八尾城と密接な連携を保っていたと推測される。降って永禄3年から同7年にわたる戦乱、すなわち山上の最大穀倉地域、上の腰の用水問題に端を発する蒲生郡の佐久良城主小倉実隆、同郡市原の小倉氏、甲津畑の速水氏、桜谷の寺倉氏など蒲生郡側の連合軍に対し、神崎郡側の山上城主小倉右近太夫、山田城主小倉右京享良秀、和南城主小倉源兵衛(各郡志の次兵衛は誤り)と八尾城、相谷城の小倉一族が連合し、市原から山上の上の腰、和南へと激戦場が拡大、神崎郡側では小倉源兵衛が討ち取られ、六角義賢から速水勘六左衛門尉に感謝状も贈られてはいるが、蒲生郡側の連合軍の総帥、佐久良城主の小倉実隆が戦死を遂げ蒲生郡側の敗北に終わっている。
また応仁文明の乱世に英傑小倉実澄が永源寺本山と深く結縁した事によるか否か不明ながら、小倉左京助と共に永源寺が蒲生軍勢に力をかしたとして永禄6年、永源寺は小倉右京太夫の攻撃を受け、翌7年3月23日には塔頭の永安、興源、退蔵の三大寺を始として永源寺全山各堂塔伽藍悉く放火消滅させられている。更に和南城の落城と共に鎌倉期より存続した和南寺も消失し、永源寺町内にては前後共に類例を見ない数度の激戦に甚だ荒廃したが、程なく平和確立を山上惣分組織の開始により早める好結果を招いた。

『日本の歴史』の「戦国大名」の章には

「応仁・文明の大乱以来、諸国の守護配下の武士や国人・地侍たちによる、寺社や公家の荘園押領が目だち、幕府が守護を通じてその返還を命じてもいっこうにききめがなかった。……(将軍の命にしたがわぬ守護……が多くいた)山城の隣国、いわば将軍の膝元ともいえる近江で、将軍の命令に従わぬ守護がのさばっていた」とあり当時の近江は、武士と僧兵と地侍等の戦の連続で和南城城主も幾度となく入れ替わり、和南寺の僧侶も例外なく武器を持って戦い、和南城が落城し和南寺が消失したときに、主だった一族が安住の土地を求めて落ち延びたことが推測されます。

 ● 和南城を近江の歴史で調べてみました。

「近江盆地は、はやくから文化が開け、日本各地を結ぶ交通の要衝として、幾度も歴史の表舞台に登場してきました。雄大な自然と、それぞれの時代を代表する豊かな歴史文化資源に恵まれ、滋賀県の保有する国宝や国指定文化財の数は全国でも有数を誇っています。」(淡海文化を育てる会編『近江戦国の道』の「近江歴史回廊」より

また、同書「道の国―近江」には次のように書かれています。

近江は地形的に日本列島の東と西、北と南を結ぶほぼ中心に位置している。そして近江の地名の由来ともなった淡海=琵琶湖が、近江の中央に南北に細長く横たわる。この恵まれた地理的立地を背景に、奈良時代から東国・西国・北国をつなぐ主要な道が近江をめぐっていた。(中略)
近江の歴史と文化の重層性を考える場合、近江が交通の要衝であるとともに、およそ千年にわたる朝廷のあった大都市京都に隣接していたことが大きな要因となっていた。 (中略)
平治元年(1195)の平治の乱、寿永三年(1184)の寿永の合戦、承久三年(1221)の承久の乱などいずれも近江を舞台にした戦乱であり、その勝敗が時の政権に大きな影響を及ぼしたことは言をまたない。これがより顕著になったのは、戦国時代に入ってからである。ほぼ16世紀の中葉から17世紀の初頭までおよそ60年間のことであった。いわゆる織田信長・豊臣秀吉そして徳川家康が近江を舞台にして勝利を得て、政権の座についたときと軌を一にしているといえるだろう。

 以上のように、近江が当時歴史的に重要な土地であったことがわかります。
 和南城も当時は以下のごとく要の役を担っていたのではないでしょうか。

「応仁の乱以降に愛知川沿いに展開する土豪の城砦や館のうちの一つの和南城は、最も愛知川の上流に位置しています。ここは、伊勢の国に通じる間道が集中しているところで、佐々木氏の部将小倉氏が君が畑越え、八風峠越え、千草越えといった交通の要衝に目付役を置き監視に当たらせた所です。愛知川の河岸段丘上に有り、この八風峠越え(現在の根の平峠)を滋賀県側に下った通称八風街道と対峙する位置にあり、愛知川が天然の要害となっています。」(安土城郭調査研究所編『淡海の城』より)

 ● 現在の近江の和南町

 7月始め、近江(滋賀県)の和南町に実際に出かけ足で現地を観察してきました。

 朝、東京を発ち新幹線で米原へ、東海道本線に乗り換え、近江八幡へ(写真左下から)。そこで単線の近江鉄道八日市線で
 八日市へ。約40分に1本の永源寺線のバスに揺られタクシーに乗れる山上新田口バス停で下車。(約16km)タクシーで和南
 町周辺を一巡りして、途中見つけた 永源寺図書館で和南城の城跡地図や「和南の光明寺文書と小倉氏の合戦」が掲載され
 ている『永源寺町の歴史探訪Ⅰ』 を見ることができました。

近江鉄道八日市駅→バス永源寺路線→山上新田口バス停下車→右下花印和南町
 

  近江鉄道近江八幡駅 近江盆地 昔、山城だった辺り 近江鉄道は単線。無人駅が多い
  近江鉄道八日市駅  和南町を流れている和南川  和南町入り口の標識
 多度神社裏山に和南城跡    多度神社の鳥居 光明寺(昔、和南寺だった)

「滋賀県東近江市の愛知川の上流に位置している和南城は、昔の「城屋敷」という小字名が残っています。応仁の乱以降に愛知川沿いに展開する土豪の城砦や館のうちの一つです。またここは、伊勢の国に通じる間道が集中しているところで、今も通称で八風街道、千種街道といわれるところが残っています。」
(安土城郭調査研究所編『淡海の城』より)

 ● 当時の街道(間道)を上げると、

北国街道・北国脇往還、朝鮮人街道、御代参街道・八風街道、伊賀道・杣街道・信楽道、鯖街道などがあり都から近江を通っていました。
当時、日本には「七道駅路」と総称される七つの「駅路」(間道より大きい)、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道があり、その内の東山道が近江から現在の群馬県に通じていました。
古代の日本では、地方は大きく七つの地域に区分されていて、その区分を「道(どう)」といいました。現在の東海道新幹線の東海道はその名残です。「道」という字は、道路そのものを示すとともに、古代では地域区分の単位として使用したのです。

 東山道も一つの地域区分で、滋賀県(近江)も群馬県も入っています。

「東山道」と呼ばれた地域は西から近江、美濃、飛騨、信濃、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、陸奥(むつ)、出羽(でわ)の八つの国です。
ちなみに、近江=滋賀県、美濃・飛騨=岐阜県、信濃=長野県、上野(こうずけ)=群馬県、下野(しもつけ)=栃木県、陸奥=青森県、出羽=秋田県となります。

 これらの国々と都を結ぶ道路として建設されたのが東山道駅路でした。これらの国々を結ぶには、碓氷峠や神坂峠に代表さ
 れる険しい山坂を越えていかなければなりませんでした。そのためにも東山道は山坂越えに大切な道でした。

 この東山道という区分、そして地域を結ぶ道路が成立したのは七世紀後半と考えられています。この時代は天皇を中心とす
 る中央集権国家の形成期で、律令(法律)も定められました。その中に駅路についての規定もあります。

概略をいいますと、約16キロごとに駅家(うまや)と呼ばれる施設が設置され、都と地方との緊急通信のために派遣される使者が駅馬(えきば)を利用して通行する道路が駅路でした。 
また、当時の東北地方には国家に服さない蝦夷(えみし)と呼ばれる人々が住んでいました。蝦夷を国家に従わせる目的で交渉したり、時には武力を用いたりしました。そのための軍事道路としても、駅路は重要な役割を果たしていたのです。(県立歴史博物館企画展より)

 つまり、「東山道」は、山坂越えの道と軍事道路として二つの重要な役割をもっていました。

 近江の地に和南城が在った室町時代の守護大名、あるいは豪族、戦国時代の戦国大名が上記の「東山道」を軍事道路として
 利用し、近江の地と群馬県の糸井村の途中に在る険しい山坂を「東山道」のお蔭で越えることが出来、身近な地域として結
 んでいたことが想像できます。戦国時代に近江の地で戦いに敗れた豪族や守護大名が、「東山道」を伝わって現在の群馬県
 利根郡昭和村糸井に落ち延びたと考えられるわけです。(後編へ続く)

 ● 後編で群馬県利根郡昭和村糸井周辺を見ていきます。


参考資料

杉山博編『日本の歴史』中央公論社 1965年、新村出編『広辞苑』岩波書店 1972年、深谷弘典著『永源寺町の歴史探訪 Ⅰ』
永源寺町教育委員会 1993年、森岡浩編『難読・稀少名字大事典』東京堂出版2007年、 『糸之瀬村誌』群馬県利根郡糸之瀬
村役場 1958年、鳥羽正雄監修、『中世城郭辞典』東京堂出版1976年、淡海文化を育てる会編『近江歴史回廊』2004年、
安土城郭調査研究所編『淡海の城」、滋賀県教育委員会2005年


 

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