歴史の中に消えた路線・列車・車両・駅を巡る旅

【2018年4月30日 更新】

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JR西日本 三江線 

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←2017年7月10日 石見川本にて

 


 広島県の三次と島根県の江津を、江
の川沿いに結んでいた。
 
 沿線のほとんどは山間の農村地帯で
、運行本数は極めて少なく、途中下車す
るのに難儀するダイヤだった。
 
 利用客減少のため2018年3月31日で
廃止されたが、JR発足後に本州で
100kmを超える長大路線が廃止される
のは初めてとあってか、その模様は全
国ニュースになった。


阪堺電軌 住吉公園駅 

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←2010年2月20日 住吉公園にて

 


 南海電鉄の高架に寄り添うようにしてヒッソリと佇む電停。昭和の時代から時が止まったかのような雰囲気があった。

ここを訪れたのは土曜日の朝方だったが、利用客は意外と少なくて閑散としていた。

 施設の老朽化に伴い、ここと住吉の間の0.2kmが2016年1月30日に廃線となり、住吉付近の平面クロスともども姿を消した。


JR北海道 江差線(江差−木古内間) 

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←2013年9月13日 湯ノ岱にて

 


 久々に訪れた北海道は、意外にも本州並みに暑かった。

 単行のディーゼルカーは乗り鉄で賑わっていて、ノンビリとしたローカル線の雰囲気には似つかわしくなかった。途中の小さな無人駅には車掌車の廃車を活用した小さな待合室が目立ち、北海道に来たことを実感した。

 この長閑なローカル線も、2014年5月11日に姿を消した。


寝台特急「あけぼの」  

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←2013年11月24日 JR上野駅にて

 


  長らく上野と秋田・青森を結んでいた夜行列車。カシオペアや北斗星のような華やかさは無いが、国鉄の古き良き時代の雰囲気を残す列車であった。

 しかし、東北新幹線の延伸と車体の老朽化で利用客は減少し、ついに定期運行は廃止となった。

 2014年3月14日、多くの人々に見送られて44年の歴史に幕を下ろした。


十和田観光電鉄  

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←1991年7月26日 三沢にて

 


  青森県の南部を走る小私鉄。社名に「観光」を冠しているものの、車内に観光客らしい姿は無く、地元のお年寄りや通学の高校生が主なお客のようだった。
  電車は東急からのお下がりだが、赤・濃紺・ベージュの3トーンカラーは、中小私鉄にしてはなかなか垢抜けた配色だ。
 しかしこのハイセンスなカラーの旧型車も寄る年波には勝てず、2002年10月11日に東急払い下げのステンレスカーと交替した。その後、東北新幹線七戸十和田駅開業に伴う利用客減少で、2012年3月31日限りで廃止された。


特急「はやぶさ」 

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1997年11月26日 JR東京駅にて

 


 1958年に誕生した、東京と九州を結ぶ寝台特急である。

 一度だけ広島から東京まで利用したことがある。夜が明けて、同じボックスになった人と語らいながら東京まで行ったことが、この列車の想い出である。
 かつては食堂車も営業していたが、飛行機・新幹線・長距離バスに客を奪われて凋落し、末期には本州内は「富士」との併結になった。

 2009年3月13日、多くの人々に見送られて最後の旅に出た。


国鉄/JR 0系新幹線  

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1976年8月8日 国鉄三島駅にて

 


 団子っ鼻で丸いヘッドライトの可愛らしい顔で老若男女に人気があった0系。昭和懐古を取り上げたテレビ番組には必ずと言ってほど開業時の映像が登場し、高度経済成長期の日本のシンボル的存在であった。
 しかし、さらに高速性が高められた後輩達が次々と登場すると、次第に各駅停車の「こだま」運用が増え、一族は次々と廃車になった。

 1999年に古巣の東海道新幹線から撤退した後、ついに2008年11月30日に定期運用を終えた。


国鉄相模線 西寒川支線  

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←1984年3月27日 西寒川駅にて

 


  その線は、相模線の寒川から剃り残しのヒゲのように伸びていた。住宅が建ち並ぶ街の中を、朝夕だけタラコ色のキハ30系が行き来していた。終点の西寒川駅は駅舎の無い無人駅で、ずいぶん寂しい感じがした。
 拙者が訪れた当時は廃止の4日前で、寒川から西寒川まで列車に乗ったが、車内は「鉄」で超満員であった。

 それなりに利用客がいそうな路線だったが、1984年3月31日限りで廃線となった。
 


三木鉄道  

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←1989年5月27日 三木にて

 


  町はずれの小さな駅で人待ち顔のミキ180型レールバス。生まれて初めて乗った2軸車両だ。

 さすがに車内は狭くてマイクロバスのようだが、乗り心地は思っていたよりも良かった。

 三木駅に発着番線を新設したりボギー車を導入したりと経営努力をしたが、利用客減少に歯止めがかからず、2008年3月31日限りで廃線となった。

 



高千穂鉄道  

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←1990年9月2日  高千穂にて

 


 
南阿蘇鉄道の高森駅前を発車した路線バスは、峠を越えて高千穂にやってきた。
 切り通しの途中のようなところにある高千穂駅では、1両だけのディーゼルカーが発車を待っていた。神話の里を走る車両にしては、車体の色使いは艶やかであった。

 2005年9月に当地を襲った台風によって鉄道施設は大きな痛手を受け、
延岡〜槇峰間は廃止・残りの区間は休止となった。


栗原電鉄  

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←1991年7月23日 石越にて

 


 かつては、細倉鉱山から産出された鉱石の輸送が主な任務であった。しかし鉱山の閉鎖で貨物輸送は無くなり、マイカーの普及で旅客も大幅に減った。

 普通なら、とっくの昔に廃止されていたてもおかしくないような路線だったが、地元の人々の熱意で第3セクター会社「くりはら田園鉄道」として生まれ変わり、電気運転から内燃運転となった。

 しかし利用客減少に歯止めがかからず、おまけに補助金も減ったため、ついに2007年3月31日限りで廃線となった。


鹿島鉄道 

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←1987年5月4日 鉾田にて

 


 
筑波鉄道同様、ここもかつては関東鉄道の一路線だった。

  霞ヶ浦の北辺をコトコト走り、かつては航空自衛隊百里基地への燃料輸送用貨物列車もあった。

 この日はゴールデンウィーク中とあってか、乗客は結構多かった。この鉾田駅の近くには鹿島臨海鉄道新鉾田駅があるが、歩いたらたっぷり20分はかかって、乗り換えは不便だった。

 利用客減少に伴い、2007年3月31日限りで廃線となった。


国鉄 日中線  

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←1984年2月27日 喜多方にて

 


 喜多方駅の片隅に停まっていた列車は、DE10が旧客をしたがえた客車列車で、当時でも珍しくなった古風な編成だった。
 一面の銀世界の中をコトコト走る列車の中は「鉄」ばかりで、地元の人らしい姿は見られなかった。
 終点の熱塩に着いても雪は深く、何人かの「鉄」と一緒に機回し作業を見守った。

 時間の流れが止まったかのような路線だったが、1984年3月31日限りで廃線となった。


北陸鉄道 小松線  

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←1986年1月23日 小松にて

 


 その電車の乗り場は、小松駅の南側にあった。もしかしたら開業当時からそのままらしい古びた駅舎やホーム上屋は、ローカル私鉄のムード満点であった。

 小松を出た電車は、通学の高校生を乗せて、雪原の中をひた走った。終点の鵜川遊泉寺駅も雪の中に埋もれていて、どこまでが駅なのか釈然としなかった。

 小さな電車が行き来していたこの路線も、拙者が乗ってから約4ヶ月後の1986年5月31日限りで廃線となった。


京王帝都電鉄 2000系  

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←1978年8月6日 京王線下高井戸にて

 


 かつて京王線を走り回っていた湘南窓の電車。当時は既にクリーム色に茶色い帯を巻いた5000系と6000系が主力で、グリーン一色の2000系は徐々に勢力を弱めつつあった。

 この写真ではわかりづらいが、行き先は当時終着駅だった「京王多摩センター」である。

 京王での廃車後、一部は四国の伊予鉄道に嫁入りし、後からやってきた5000系とともに今でも健在だ。


寝台特急 「出雲」  

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←2006年1月14日 東京駅にて

 


 東京と山陰地方を結んでいたブルートレイン。

 残念ながら拙者はヒルネ扱いの時にしか乗ったことしか無いが、新幹線が通じていない山陰地方への寝台列車には、九州特急とはまた違った雰囲気があったように感じた。

 1990年代半ばまでは2往復体制だったものの、利用客は減り続ける一方であった。ついに2006年3月17日をもって廃止になり、餘部鉄橋を渡る勇姿も見られなくなってしまった。


国鉄 若桜線  

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←1985年3月13日 若桜にて

 


 鳥取県の内陸部を走るローカル線。

 
シーナリィガイドという本で紹介されていて、その素朴な姿に惹かれた。
 
 旅のスケジュールの関係で、乗るのが夜になってしまったために沿線風景を眺めることができなかったのがチト心残りだ。

 国鉄改革の波に飲み込まれて廃線候補に挙がったが、第3セクターの若桜鉄道として生まれ変わったのは幸いである。


のと鉄道 能登線  

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←2004年9月26日 鹿波−甲間にて

 


 JR能登線を引き継いだ第3セクター路線。大半は戦後に開業した区間なので、地形に沿って線路がクネクネ曲がっているということは少なく、トンネルが非常に多いところであった。

 沿線各駅もコンクリートや鉄骨造りの味気ないところが多かったが、波並駅付近で見える海の美しさと、鹿波・白丸両駅の秘境度は格別だった。

 利用客減少により、2005年3月31日に廃線となってしまった。


名鉄 岐阜市内線  

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←1995年7月12日 黒野にて

 


 JR岐阜駅前から繁華街を通り、郊外の黒野に至る路線だった。しかし、路面電車とはいいながら、忠節を過ぎるあたりから郊外電車の趣が強くなった。
 谷汲・揖斐の両線の乗り潰しも兼ねて訪れた日は、雨が強く降るあいにくの天気であった。写真の電車は、当時某航空会社が機体にイラストを描いた点を真似たのか、派手なイラストが描かれていた。

 路面電車復権に兆しが見え始めた頃の2005年3月31日に、残念ながら廃線となった。


日立電鉄  

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←1986年5月4日 鮎川にて

 


 茨城県北部をコトコト走っていた路線。晩年は営団銀座線の中古車を改造した派手な塗装の車両が主力だったが、1986年当時は雑多な旧型車が数多く活躍していた。

 鮎川駅の側線で休んでいるのは、相模鉄道のディーゼルカーを切妻化・電車化したという珍車。ローカル私鉄らしく、車体も小ぶりだ。

 路線存続のため、早くから合理化を手がけてきたが、ついに力尽きて2005年3月いっぱいで廃止となった。


国鉄 岩日線 

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←1985年3月12日  北河内にて 

 


 国鉄岩徳線の川西から分岐し、錦町目指して北へ向かうローカル線。歴史が浅い路線なので、駅や築堤などにはコンクリートが多用されていて、近代的な感じがする。

 錦町以北では、山口線の日原を目指して建設が進められていた延長部分の遺構が見られた。まるで単線の新幹線のような、立派な高架橋であった。

 国鉄改革により、1987年7月24日限りで廃止。第3セクターの錦川鉄道に引き継がれた。


国鉄 天北線 

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←1986年8月5日  猿払にて 

 


 音威子府で宗谷本線と別れ、南稚内でまた合流するローカル線であった。

 車窓からは、廃線になった町営軌道の跡や、廃業したらしい牧場のサイロの跡が見えて、沿線の過疎化を痛感させられた。確か乗客も少なかったと記憶している。
 写真は、そんな過疎ローカル線の華であった急行「天北」である。

 国鉄の合理化に伴う赤字線廃止の波に巻き込まれ、1989年4月30日限りで廃線になった。


加悦鉄道 

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←1985年3月14日  加悦にて 

 


 日本三景のひとつ、天橋立のすぐ近くを走っていた京都の小私鉄。

 終点の加悦には、かつて使用していたクラシックな鉄道車両が保存されている「加悦SLの広場」があった。また、本社社屋を兼ねた駅舎は、なかなか趣のあるスタイルをしていた。

 大正時代から時が止まったかのような雰囲気を持つ鉄道だったが、国鉄の貨物合理化と利用客減少には勝てず、1985年4月30日限りで廃線になった。


東急東横線 横浜−桜木町間 

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←2004年1月16日  桜木町にて 

 


 渋谷から東横線の特急で30分あまりで着く桜木町は、横浜観光の拠点とも言える。山下公園や中華街、みなとみらい地区は比較的近く、駅近くには拙者お気に入りの飲み屋もある。
 しかし、地下鉄の「みなとみらい線」の開業と引き替えに、横浜−桜木町間は廃線となることが決定した。利用客が多い大手私鉄の路線が廃止になるのは、極めて珍しい。

 2004年1月30日深夜、桜木町発の最終電車は大勢の人達に見送られて旅立っていった。


国鉄 清水港線 

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←1982年9月6日  三保にて 

 


 当時、旅客列車が1日1往復しか走らないことで有名だった路線である。

 夏の終わりの頃に乗ったが、その旅客列車は旧客と貨車が一緒の混合列車で、本来は入れ換えが専門のDD13が牽いていた。写真は、その「始発列車兼終列車」の清水行きである。

 並行してバスが頻発していたためか、廃止が公表されてもさしたる反対運動も無く、1984年3月31日限りで廃線となった。


JR西日本  可部線(非電化区間) 

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←1994年2月26日  三段峡にて 

 


 広島駅から電車とディーゼルカーを乗り継いでやってきた三段峡の駅。発車待ちしているのは非電化区間の最終列車で、乗客はわずかに2人だった。
 広島駅には全く無かった雪がここではチラついていて、実に寒かった。この列車は加計駅止まりで、そこから先は1時間の待ち合わせで可部行きに乗り換えである。加計駅の待合い室で、自販機の日本酒をすすって暖をとった。

 存続か廃止かで長年もめたが、結局2003年11月30日で廃線となってしまった。


JR西日本 本山線 クモハ42 

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←1999年12月30日 
  JR小野田線本山支線 長門本山にて

 


 冬の夕陽を受けて終着駅に佇む単行電車は、昭和初期に製造されて以来、70年近くも黙々と働き続けた古老だ。

 車内にはクロスシートがズラリと並び、窓枠などは木製で、丁寧にニスが塗られていた。

 本州西端の地で乗客を細々と運んでいたが、寄る年波には勝てず、2003年3月14日限りでその役目を終えた。これにより、JR線上から「旧型国電による定期列車」は姿を消した。



国鉄常磐線の旧客鈍行 

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←1980年7月23日 
      国鉄常磐線 三河島付近にて

 


 今では電車ばかりの常磐線にも、1980年代までは上野口に1日3往復の旧客鈍行も顔を見せていた。

 10数両の長い編成で、上野方には郵便車も連結していた。同じ常磐線でも、103系の快速や401系の中距離電車とはまた違った雰囲気で、古き良き時代の国鉄の姿があった。

 この愛すべき列車も、科学万博直前の1985年頃に姿を消してしまった。


有田鉄道  

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←1993年3月10日 藤並にて

 


 底抜けに明るい紀州路を走る小私鉄だった。末期は2軸レールバスが主力だったが、撮影当時は富士急からやってきた両運転台のキハ58003が活躍していた。車体はかなりクタびれているが、船のようにゆったりとした揺れが何とも心地よかった。

 しかしその後利用客は激減し、1日わずか数十人になった。列車の運行本数も1日2往復に減り、日曜祝日運休となった後、ついに2002年12月31日に87年の歴史を閉じた。


国鉄 土浦駅 旧駅舎 

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←1981年3月4日 国鉄土浦駅前にて

 


 国鉄幹線らしい佇まいを見せていた駅で、右側にある時計台?らしきものが特徴的だった。

 改札を抜けるとすぐ下りホームに出て、昔ながらの駅弁の売り子が声をあげて歩き、改札左側には
筑波鉄道の乗り場があった。

 しかし1980年代半ばになると、風情があった駅舎は味気ない駅ビルに建て替えられ、筑波鉄道は廃線になってしまった。実に残念だ。


南部縦貫鉄道  

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←1991年7月26日 七戸にて

 


 小さくてクラシックな機械式2軸レールバスが余りにも有名だった。実際に乗ってみると、レールの継ぎ目でのショックは相当なものである。

 写真撮影当時は既に貨物営業は廃止され、わずかばかりの乗客を健気に運んでいた。

 しかし、年々増大する赤字には勝てず、ついに1997年5月5日に休止となった。廃止でなく休止としたのは、将来の復活を夢見たものだったが、結局は2002年8月に廃止が決定した。


長野電鉄 木島(河東)線  

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←2001年11月23日 赤岩にて

 


 夜間瀬・千曲川に沿ってコトコトのんびりと走るローカル線だった。

 列車の運行本数・旅客とも多い長野−信州中野間と異なり、ここ木島線は約90分ヘッドで、旅客もまばらである。沿線風景も、実に長閑である。

 かつては長野から直通の特急電車も走っていたようであるが、末期は線内折り返しの2両編成電車が走るだけになってしまった。この長閑な路線も、誠に残念ながら2002年3月31日をもって廃止になった。


野上電気鉄道  

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←1993年3月11日  登山口にて  

 


 古風な電車が数多く在籍していた和歌山のローカル私鉄。ワンマン化やCTC化などの合理化はほとんどなされておらず、旧き良き時代のローカル私鉄の味を残した路線でもあった。

 しかしながら、モータリゼイションの嵐はここ野上路にも吹き荒れて利用客は激減した。加えて、頼みの綱であった運輸省(当時)の欠損補助金が打ち切りとなったため、1994年3月31日限りで路線廃止・会社解散という末路を辿った。


国鉄 富内線  

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←1986年8月8日  日高町にて  

 


 北海道の内陸部を走っていたローカル線。沿線には有名な観光地は無く、地元の人の足に徹した地味な路線であった。

 折しもこの頃は夏休みの真っ直中。廃止を間近に控え、お別れ乗車をしようとする人で、駅も車内も時ならぬ混雑を見せていた。

 この路線も国鉄赤字線整理の波に飲み込まれ、大勢の人に見送られながら1986年10月31日に廃線となった。


片上鉄道

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←1990年9月1日  柵原にて  

 


 かつて、瀬戸内の片上港と柵原鉱山を結んでいた鉱業鉄道だ。

 長い貨物列車と交換するためか、各駅の行き違い線は非常に長い。ローカル私鉄というよりも、どことなく国鉄ローカル線のような感じがした。

 柵原鉱山の閉鎖で貨物輸送が無くなり、乗客もマイカーやバスに移って賑わいは消えた。観光鉄道に変身する構想があったが、結局1991年6月30日限りで廃線となった。


名鉄 八百津線

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←2001年1月19日  八百津にて  

 


 愛知と岐阜に長大な路線網を持つ名鉄には、いくつかのローカル線がある。ここ八百津線もそのひとつで、もともとは電化路線だったが、合理化のために電化設備を撤去し、小さなディーゼルカーが走っていた。
 乗車した時は、折しも高校生の登校時にあたり、車内は黄色い声につつまれていた。
 しかし、この暖かみがある路線も、残念ながら2001年9月末をもって廃線になった。


国鉄 広尾線

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←1986年8月8日 幸福にて

 


 かつて、北海道の内陸部である帯広と、海沿いの街である広尾とを結んでいたローカル線だ。

 帯広寄りには、かつて入場券がバカ売れして全国的に名を馳せた幸福駅があった。左の写真は、その幸福駅に進入する帯広行き列車である。

 そんな広尾線も、残念ながら国鉄赤字線整理の波に飲み込まれ、1987年2月1日に廃線となった。


京成 旧AE車

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←1978年8月17日 千住大橋にて

 


 上野と成田空港を結ぶべく誕生した特急電車で、「スカイライナー」は子供達からの公募で決まった。

 現在の新型AE車は、白・赤・青の派手な色だが、旧型の登場当時はクリームにマルーンのツートンという、なかなかシックな色づかいであった。

 運行開始から20年以上経ち、リムジンバス・JRのNEXとともに、都心と成田空港を結ぶ重要な交通機関となっている。


蒲原鉄道

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←1998年9月5日 村松にて

 


 磐越西線の五泉と村松を結んでいた小私鉄。

 かつては信越本線の加茂まで伸びていて、その区間にも乗車したことがあるが、鄙びた山間部を走るローカル路線であった。

 古き良き時代のローカル私鉄の雰囲気を残す好ましい路線であったが、利用客の減少と施設の老朽化により、1999年10月3日限りで廃止になった。


国鉄 倉吉線

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←1985年3月13日 山守にて

 


 倉吉を発車したディーゼルカーは、たんたんとした田園風景の中を走り、山間の終着駅である山守に着いた。

 この山守駅は、ご覧の通りの実に殺風景なところで、駅前にはコレといって何も無いところであった。もちろん無人駅である。

 コレといって特に特長が無い地味なローカル線であったが、1985年4月1日に静かに消えていった。


JR東日本 横軽

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←1997年9月21日 横川−軽井沢間

 


 当ホームページにいらっしゃる方ならここがどんなところであったか、説明の必要は無かろう。横川の駅弁「峠の釜飯」とともに、古き良き時代の国鉄の姿を残していた区間であった。

 野生の猿が出没する静かな山間のトンネル付近で待っていたら、2台のEF63が轟音をたてて列車を押し上げていった。しかし、撮影10日後の1997年9月30日にその任務を終え、長野新幹線にバトンタッチした。


JR九州 オランダ村特急

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←1990年9月4日 鳥栖にて

 


 かつて、オランダ村への観光客を博多から運んでいた特別列車だ。

 車内には子供向けの遊戯施設があって、また女性乗務員の制服も、オランダを強く意識した可憐なものであった。

 今ではオランダ村の近くには「ハウステンボス」なるものができ、この車両自体も「ゆふいんの森II」に改造された後に、「シーボルト」に再改造された。


国鉄 73系

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←1978年6月11日
        国鉄鶴見線 扇町にて

 


 現在ではすべて廃車になった73系電車である。101・103系といった新興勢力に追われ、晩年は「大都会のローカル線」である
鶴見線で、静かに余生を送っていた。

 釣掛モーターの音を響かせながらノンビリと走っていたが、「これでもまだまだ若いもんには負けんよ」とつぶやいているようでもあった。


名鉄 美濃駅

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←1995年7月11日 
   名古屋鉄道美濃町線 美濃にて 

 


 その小さな駅は、長良川鉄道美濃市
駅からちょっと歩いたところにあり、ま
るで人に知られるのを拒むかのように
ひっそりと佇んでいた。あたりは静かな
田舎町である。

 1999年3月31日に新関−美濃間が
廃止されるのに伴ってこの小さな駅も
その役目を終えたが、幸い地元の手
で保存されることになったのは嬉しい。


小田急電鉄 NSE車

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←1998年5月23日 小田急新宿にて

 


 関東初の前面展望席を持つ特急車
両は、1960〜1970年代に幼少期をお
くった子供達の憧れのひとつであった。
 オレンジ・ホワイト・グレーの3トーン
カラーは今見ても新鮮だ。

 日本の私鉄特急電車史に残るこの
名車もさすがに老朽化には勝てず、
1999年7月17日に定期営業運転から
撤退した。


新潟交通

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←1998年9月5日 
       味方−味方中学前間にて

 


 日車標準型の電車が主力となってい た新潟のローカル私鉄である。この写真を撮ったのは、まだ残暑が厳しい頃であった。

 中之口川に沿って敷かれた線路をコ トコト走る姿は鉄道趣味的には実に好 ましいものであったが、ワンマン化などの経営努力をしても利用客の減少 に歯止めがかからず、ついに1999年4月4日、その歴史に幕を下ろした。


はやぶさ 西鹿児島行

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←1997年11月26日 東京駅にて

 


 かつて、東京−西鹿児島間を約1日
かけて走破した長距離ブルトレであった。

 しかし、1997年11月29日のダイヤ改正で西鹿児島−熊本間が廃止され、東京と鹿児島を乗り換え無しで結ぶ定期列車は姿を消した。そのうえ、2004年3月13日の九州新幹線部分開業時に西鹿児島の駅名は鹿児島中央に改められたため、このサボも2つの意味で想い出と化してしまった。

 

国鉄 キハ25系

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←1979年11月25日 
      国鉄三角線 赤瀬付近にて

 


  現在ではすべて廃車になったキハ25系初期型バス窓車で、この写真は線路に並行した道路を走るバスの中から激写。

 写真のキハ25-36は1957年9月14日に富士重工で製造され、1983年1月26日人吉機関区を最後に廃車となった。


京都市電

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←1977年6月21日 京都市内にて 

 


 中学の修学旅行で初めて京都を訪れた際、乗車していたバスの車窓からスナップしたもの。この修学旅行の時に撮った写真のネガを見てみると、金閣寺や清水寺よりも、京都市電や京阪京津線の方が多く写っている。しかしマトモに撮れたものは実に少ない。

 京都は日本で初めて電車が走った街とのことで、古い街並みを残しながらもハイカラな文化を取り入れるのに積極的な土地柄なのであろう。

  この修学旅行の時にはついに市電に乗れる機会がなかったので、いずれ再訪して乗車するつもりであったが、結局再訪できずに1978年9月30日に全廃となってしまった。その時の模様は、NHKの
『新日本紀行』でも取り上げられた。

 その後に
広島電鉄で、京都市電から移籍した電車に乗る機会を得た。


JR西日本 鍛冶屋線

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←1989年5月27日 鍛冶屋にて

 


  山間の静かな終着駅で折り返し発車待ちのキハ30系。
 乗客は意外と多く、JR加古川線と接続する野村(現・西脇市)に着くまでにロングシートがサラリと埋まった。

 国鉄改革に伴う第3次廃止対象線区に選定されたものの、利用客が多い野村−西脇間だけでも残るのではないかと思ったが、結局1990年3月31日に全線が鬼籍入りした。

 

筑波鉄道

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←1981年3月4日 土浦にて

 


 かつて関東鉄道の一路線であった。通勤線の色が濃い常総線とは異なり、こちらはローカルムードあふれるのんびりした路線だった。観光路線らしく、所属車はクロスシートが大半であった。

  いつまでも走り続けて欲しい路線だったが、乗客減による経営悪化には勝てず、国鉄最後の日と同じ1987年3月31日にひっそりと消えた。

 

大夕張鉄道

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←1986年8月4日 南大夕張にて

 


 昔ながらの旧型客車が活躍していた北海道最後の私鉄であった。
 ここの名物と言えば、3軸ボギー台車を持つ客車で、さてその乗り心地やいかに・・・と思ったら運悪く全検中で、フツーの台車の予備車に乗ることとなってしまったがチト心残り。

 古き良き時代の面影を残す好ましい鉄道だったが、炭坑合理化のあおりをうけて1987年7月22日に廃線となった。


京王帝都電鉄 5000系

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←1996年5月25日 高幡不動付近にて

 


 関東初の冷房装置搭載通勤型車両だった京王5000系も、晩年は緑豊かな動物園線で過ごした。

  1996年12月1日、抽選で選ばれた人々を乗せたさよなら電車が運転されたが、私はその電車に運良く乗ることができた。その日、沿線の各駅にはカメラの放列が敷かれ、5000系は大勢の人に見送られてその使命を終えた。

 一部の仲間が地方私鉄へ転じたのは幸いである。いつの日か再会したい。
 


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