そうなると、人々が、そして社会が欲しがる資源や労力の量は減少する。大量生産・大量消費の世の中からの移転が、結果的に生ずる。
もう一つ、別の一例もあげてみる。再度、同じ文章をあげてみるが。
「もし、無理してやらなければならない労役も無く、衣食住にも不自由なく、好きなように、やりたいことやって生きていいよと言われた時、人は幸せな生き方を自ら見つける事ができるかどうか」
一見、理想郷の実現のような状態だけど、実は、この状態と言うのは、最も人々に対して、「死」の自覚を強いるものでもある。これは、上述の文章を逆にしてみれば、すぐに判るだろう。
「日々、無理してやらなければならない労役が続き、衣食住にも不自由を強いられ、好きなように、やりたいことやって生きるのが極めて難しい時、人は幸せな生き方を絶えず思い描く」
が、その間、自分がやがて死に至る存在だという事は、あまりアタマに浮かばなくなる。日々の生活に追われる状態というのは、死を忘れられる状態と言ってもいい。
考えてみれば、釈迦が幼少の頃から「やがて死ぬべき身」である事を思い悩み、ついには出家して僧になってしまったのも、何不自由ない王宮で暮している王子様だったからではなかろうか。