2013

9月

9月1日(日)

牧野の八幡神社にて

 一時の涼しさは一時で終わり、また猛烈な暑さに打ちのめされる。私の周りでも夏バテで体調を崩す人が多い。今週の土曜日に「こもりく」というイベントがあるのですが、その頃までには、もう少し涼しくなってくれないかなァ。このフジノでも有数の変態的なイベントについては、「芸術の小径」でも紹介されています(こちら>>)。
 私が手伝っているイベントは、この「こもりく」と、「ぐるっとお散歩篠原展」の2つだけと固く心に決めている。そうでもないと、イベントだらけのこの土地では身体が幾つあっても足りないや。

 さて、前回・前々回に引き続いて、持続可能社会が成立しても、それが停滞と頽廃の社会にならないようにするには、どんな工夫が必用かと言う話の続きです。
 ただちょっと、前回の文章は、あまりにも人間に対して、自発的な精神的向上を求める、禁欲主義的と言うか良い子主義的な印象があるので、もうちょっと補足します。

 前回の文章では、なんだか人間はクソ真面目に努力して向上しなければならないかのような感じですが、私は、「向上」というのは誰でも進んで求めて、それを喜ぶものだと思っています。「向上」は決して、人間性に反するものではない。

炭焼き小屋の道

 例えば、ここに広い池があって、そこに子供たちが遊びに来たとする。ある子供が石を水面に投げて、その石が水面を2つ3つ跳ねていく。すると他の子供たちも真似して石を投げ、ある石は跳ねる事もなく水に沈み、ある石は5つも6つも跳ねる。ある石などは10以上も跳ねて、それを見た子供達も歓声をあげる。
 そうしている内に、良く跳ねる石はどんな形でどんな重さが最適なのか、水面に投げる角度はどの辺りが最適なのか、子供達の間でも話に花が咲く。そして、そんな子供達の中から「名人」と呼ばれる人間も出てくる。

 他愛のない例だけど、人間は基本的にこんなものだと思う。この世界に何か働きかけ、始めは素朴な成功から、やがては奇跡のような大成功に至るまで、人はいろいろ手を変え品を変え挑戦して、向上していくのが好きな生き物だと。
 ただ現実世界では、人々の「向上」は他人との「競争」という形になり、一部の勝者と多数の敗残者を作り、多数の敗残者には惨めな境遇が定められる。この現実が、多くの人々にとって、「向上」なんて言葉を聞くと、ちょっと鼻白む思いをさせる。

 残念ながら、現在の政治家や思想家には、「この世界は戦いだ、勝ち組もいれば負け組も当然いる」と、敗残者が惨めな境遇に陥る事を是認する人も多い。しかし、それでは未来は開けないだろう。
 人々が、ごく普通に「進歩」とか「向上」を愛せるような世の中の在り方を作る事に成功した地域や集団から、次の社会の流れは成長して行くのだろうと思います。

 夏の道

 さて、人間は基本的に自発的に向上するのが好きな生き物だ、という前提で話を進めます。前回の日記の終りに、「人々に、自発的に精神的な向上を目指すように働きかけるには、わかりやすい目標が必用になる」と書き、その目標として、「職人」と「マツリ」と「音楽」を提示してみました。

 まず最初に「職人」について書きます。とは言うものの、これに関しては説明しなくても想像はつくんじゃないでしょうか。
 大工の棟梁とか、酒造りの杜氏とかは分かりやすい例ですが、工業の世界でも「この人でないとこの部品は作れない」という名人もいますし、普通の農家だったら「できるはずがない」と思うような、無農薬栽培を実現してしまう名人もいる。

 その存在が、まるで生きた神様みたいなレベルになると、多くの人々にとっての分かりやすい目標になる。

 「職人」が、世の中の混乱期を乗り越える一つの拠点になる、と強く私に印象づけた本がある。山本七平著「日本はなぜ敗れるのか−−敗因21カ条」という本の第4章「暴力と秩序」という所なんですが、中間部分をばっさりと中略してしまいましたが引用してみましたので、興味のある方はこちらをご覧下さい。
 まあ、この本は、他にもいろいろ示唆に富んでいるので、一読して損はないと思います。

 太平洋戦争の敗戦後、フィリピンで捕虜として収容所生活を送った小松真一氏が現地で綴った日記を、山本七平氏が解説を加えた本書。第4章では、収容所で自然発生的に生まれた暴力による政治について書かれている。

「一体、われわれが、最低とはいえ衣食住を保証され、労働から解放され、一切の組織からも義務からも解放され、だれからも命令されず、一つの集団を構成し、自ら秩序をつくって自治をやれ、といわれたら、どんな秩序をつくりあげるかの「実験」の場になっていたわけである」

 そんな収容所の日本人が、自ら作り上げたのは、暴力団に支配された恐怖政治だった。しかし唯一、救いとなる文章があり、それは終盤に出てくる、特に職人の集団を集めて収容した所には
「完全に放置しておいても、すぐに自ら職人的な秩序をつくり出していった。従って暴力的秩序などは皆無であり、そしてそういう場所には、彼ら(暴力団)は絶対に入ってこようとはしなかった。隙がなかったのである。いかなる暴力団もここには勢力をのばすことは不可能であった。」
とある。

夏雲

 どうも私は、たとえその人が、どんなに立派な内容の発言をしていても、その人に職人的な技術がないと、その人を完全に信じられない所がある。
 逆に言うと、私とは主義主張が正反対に異なっていても、職人としての実力のある人には、人間として信じてもいいかなとも思う。職人の価値は理屈ではない。資本主義者だろうが共産主義者だろうが、良い家が作れる大工が良い大工なのだ。

 この実力が本物なら、弟子がその人を尊敬する気持も本物だろう。そこに成立する秩序も本物だろう。
 本物の秩序には、ただ実力と尊敬があるだけで、権力による圧力など必用としないものらしい。

9月12日(木)

雨(9月4日)

 さすがの猛暑も、数日おきの雨を繰り返すに従って、秋の気配が明瞭になって来た。蝉の声よりも秋の虫の声の方が目立つ。
 9月7日に行われたイベント「こもりく」は、雨に降られる事もなく(……昨年は雨、一昨年は台風で中止と、このところ天候には泣かされて来たのです……)、無事に楽しく終わりました。屋外のイベントは、どんなに入念に準備しても、天気にはかなわないからなぁ。

 それでも一時期、雨になるかな、という時もありましたが、「私は晴れ女だ」と豪語する歌手が会場で歌い始めたら、雲間から光が指して蝉が鳴き始めた。こういう人間も実在するもんだと感歎しましたよ。

 さて、またまた、持続可能社会が成立しても、それが停滞と頽廃の社会にならないようにするには、どんな工夫が必用かと言う話の続きです。社会の停滞と頽廃を防ぐには、人々が自発的に精神的な向上を目指すような仕組みが必用になる。人間は決して、食べて排泄して死ぬだけで終わる存在ではなく、それ以上の何か素晴らしいものだと思わせる仕組みが。
 そんな社会の仕組みとして私が例にあげたのが「職人」と「マツリ」と「音楽」でしたが、前回の「職人」に続いて、今回は「マツリ」の話。

 話は脱線しますが、「マツリ」といえば、東京でオリンピックをする事が決まったそうな、2020年に。

 こもりく」にて、子供達を大いに沸かせた人形劇

 私としては、福島の原発事故の収束の具体的な手法も目処も立ってない状態でやるのも、東京が震災に対応できる都市に生まれ変わっていない状態でやるのも、客人を迎えるには礼にかなってないと思うんですけどね。ちと今の政府は暴走気味だ。
 あと、やってる事が国民の気持と噛み合っていないのが危なっかしい。

 でもまあ、私がこれから書こうと思っている、「人々が自発的に精神的な向上を目指すような仕組みとしてのマツリ」とは、このオリンピックは対極の関係にありそうなので、説明がしやすくなったかな。
 対極と言うからには、「人々が自発的に精神的な向上を目指さなくするような仕組みとしてのマツリ」の説明もしておきましょうか。

 オリンピックに限らず、近年のマツリの大半は、国や大企業や大マスコミが企画運営する巨大なものが主流になり、人々は受動的にそれらを受け取ったり購入するだけの、「消費者」の存在になっている。この状態を長く続けて、この状態が「あたりまえ」になると、人々の心にある「型」が形成される。

 その「型」とは、「人間は、巨大な組織に従属する形で生きていけばいいんだ」という精神性です。こうなっちゃうと、自分で世界を知り、自分で考え、自分で判断して、自分で行動し、その行動の結果に対して自分で責任を持つ、といった自主独立の気概が無くなってしまい、常に何かに依存しなければ不安になる人間になってしまう。

 でも、本来のマツリには、それとは真逆の効果もあるんですよ。私が「人々が自発的に精神的な向上を目指すような仕組みとしてのマツリ」と言う時、そのマツリは、規模はそれほど大きくなく、人々はマツリの企画運営にできる範囲で参加し、何よりも、マツリの参加者全員が、それを喜び楽しめるような工夫を、常に考え実行しているマツリです。ここでは人々は全て(主催者も客も含めて)、マツリに対して受動的ではなく、能動的になる。

これも「こもりく」にて

 そんなマツリの姿が、以前にも紹介した本にあった。『21世紀は江戸時代』(農文協刊)の50ページから53ページ、「むらの遊び日」という箇所です。ちょっと抜粋してみました。そんなに長い文章ではありません。
こちら>>

 そこには自分達で行動して、自分達で準備をして、自分達で楽しみ、たとえ赤字が出ても自分達でやりくりしながらマツリを企画運営する若者達が描かれている。「何か楽しい事を、自分達でやろう」というエネルギーが、人々に能動的な行動に突き動かしている。

 こんなマツリを何度も繰り替えしていれば、「人間は何かに隷属していればいい」とは思わない。世界を、より楽しく変えるのは自分達だと思うようになる。
 持続可能社会が成立しても、それが停滞と頽廃の社会にならないようにするには、そんな気概が、どうしても必用になると私は思っています。

こんな夏雲も、そろそろ今年は見納めか

 今回の文章では、あえて、マツリで重要になる宗教性については触れませんでした。宗教性が無くても、マツリそれ自体に、人々に、自発的に精神的な向上を目指すように働きかける力学があるということを書きたかったからです。

 あとねー、マツリに宗教性が無くてもいいとか、宗教性はかえって有害だとは言うつもりはありませんが、マツリがあまりにも「儀式」とか「伝統」とかにがんじがらめになると、もはやマツリは人々に喜びや楽しみを与えて精神的な向上に向かわせるよりも、「人々をマツリに隷属させる」ように機能しはじめる。

 マツリにも、そんな負の側面がある事は、注意しておいた方がいいでしょう。人間社会にとって、本来、必用とされるマツリの機能とは何か。今、行われているマツリの形は、理想から外れていないのか。
 世代を超えて話合い、自問自答を忘れない知恵も、必用になると思います。

9月23日(月)

彼岸花

 9月16日に台風が通過して、また一段と涼しい空気が入り込んで来た。朝晩は涼しさを通り越して寒いと感じるほど。秋分の日を迎え、これから秋も徐々に深まっていくのだろう。
 私事になりますが、来月のシーゲル堂での企画展に参加します。今回は水彩画を展示します。10月2日から30日までやってますが、定休日以外にも、12・13日は臨時休業になっています。チラシのようなものもPDFで作ってみましたが、何を間違えたのか6メガもある。
こちら(PDF約6MB)>>

 秋は、ただでさえイベントの多いフジノでも、イベントのピークがやってくる。「ぐるっとお散歩篠原展」とか「ひかり祭り」とか。まあ詳しい事は駅前の観光案内所「ふじのね」のブログとか、藤野観光協会のホームページとかをご覧下さい。
 前回の日記で、持続可能社会が成立しても、それが停滞と頽廃の社会にならないようにする装置のための「マツリ」について書きましたが、フジノには、そんなマツリが既に沢山ある。

 この日記でこれまで5回に渡って、持続可能社会が成立しても、それが停滞と頽廃の社会にならないようにするには、どんな工夫が必用かと言う話をしてきましたが、今回で一応最後ですね。私があげた工夫は、「職人」「マツリ」「音楽」の3つでしたが、今回は「音楽」です。

 ホントはね、「音楽」とするよりも、もっと範囲を広げて「芸術」としたかったのですが。

 持続可能社会が成立しても、それが停滞と頽廃の社会にならないようにするには、人々が自発的に精神的な向上を目指すような目標が必用になる。人間は決して、食べて出して死ぬだけで終わる存在では無いと思わせる目標が。
 ここで目標として「真善美」とか言い出したら、あまりにも良い子主義的すぎる。ただ、「芸術」として提示されると、クソ真面目に「真善美」とか考えなくても、自然に意識は「真善美」の方向に向くようになるものだ。

 で、なんで「芸術」とせずに「音楽」としたかというと、あらゆる芸術の中でも、音楽が一番馴染みやすく、敷居が低いと思ったからです。
 「私は文学が好きです」とか「私は美術が好きです」とか言われると、私なぞは「ケッ、お高くとまりやがって」と内心で悪態をつくのですが(・・・私以外にも、そんな人は多いと思います)、「音楽が好き」「私は演歌が」「私はロックが」「私はジャズが」となると、それほどお高くとまった感じではない。
 それに音楽は、文学や美術に比べて、遥かに低い年齢からでも、心に働きかける力を持っている。

 始めは打楽器のような、リズムだけの音楽でもいい。人間が始めに聞く音は、母親の胎内にいる時の心音だと言われているが、リズムと言うのはそれだけでも、人間に原初的な何かを感じさせる。たぶん、音楽の始まりはこんなものだったのではないか。

FOLI (there is no movement without rhythm) original version by Thomas Roebers and Floris Leeuwenberg
こちら>>

ススキ

 リズムに旋律が加わり、さらに和音を響かせるようになると、たちまち崇高な雰囲気すら漂いはじめる。古来、宗教が人々に「神」を意識させる為に音楽を使ったのは、なるほど、もっともだと思う。

グレゴリオ聖歌 「死者のためのミサ曲(レクイエム)」
こちら>>

John Taverner "Westron wind"
こちら>>

 なんだか崇高な感じの曲ばかりを紹介しているけど、もちろん音楽の役割はそれだけではない。人々に癒しや安らぎを与えたり、励ましたり勇気づけたり、昔の歌に懐かしさを感じたり、働きながら口ずさんだり。

合唱「刈干切唄」
こちら>>

 時には鋭い風刺を込めたり。

高田渡 値上げ
こちら>>

 つまらない持論だけど、人間は確かに、あまり出来の良い生き物ではないかもしれないが、歌を歌っている間は、まだ成長できる見込みがあるんじゃないのか、と私は考えています。

光る谷間

 孔子が掲げた思想は、人々に「仁(愛情と訳してもいい)」の心を呼び覚まして、それを広く社会全体にまで及ぼす徳治主義だったが、その実践的手法として考えたのが「礼楽」・・・マツリと音楽だった。もっとも、孔子の考える政治は、どうしても権威主義的な所があって、孔子の思想は、あくまでも支配者が民衆を支配しやすくする為の思想である側面が強い。なので、私としても孔子の思想を全面的に評価する事はできないのだけれども。

 ただ、戦乱のちまたで、人が人を信じられなくなる時代、混乱の収束の手段すら想像が出来なくなった困難な時代に生きた孔子が、混乱に終止符を打って、人間が人間性を回復する手段として、マツリと音楽を重視したのが私には興味深いし、結局、人間という生き物は、時代が変わってもそれほど中身は変わっていないものなのだと思う。

 さて、5回に渡って長々と、人々が頽廃に陥らないための手法を書いて来たけど、これだけではないだろう。混乱から秩序を、狂気から正気を取り戻す手法なら、ほかにもいろいろあるはずだ。
 まだこういった話題は、世間の表面では行われていないが、これからだろう。