2013

8月

8月21日(水)

夏山

 今年の夏は暑かった。全国で40度を超える酷暑を記録し、私もフジノに棲むようになって20年近くなるけど、この暑さは今まで経験したなかで最高かもしれない。それでも、さすがに山里は夜になると涼しくなってくれる。
 前回の日記(7月29日)の時は、まだ夏らしい天気になってない地域もあったけど、まあ今回の夏の大平洋高気圧の熱波は強力だった。

 この夏も、福島の子供たちが夏休みの保養に篠原へやってきて、今日、また福島へ帰っていった(こちら>>)。私もね、たった一日だけどボランティアに参加しましたよ。
 ただなァ、福島の問題は、日を追うに従って東京電力にも政府にも解決能力がない事があらわになって来ている。どうやら三年目にして白旗だろうか。
 まあいずれ、最後には問題解決能力のある組織なりが、他の場所から浮上してくるだろう。

 これは今までも何度か書いて来たけど、持続可能な社会を作れる団体なり組織なりでないと、持続可能な政権にはなれない。この点に関しては私は楽観しているのですが、むしろ私が心配しているのは、持続可能な社会が成立してからの事です。随分、今から遠い未来の事を心配していると笑われそうですが。
 そういえば、今年の正月にも似たような話をして笑われたっけ。

 牧馬のお祭り。といっても神輿をかつぐでもなく、木陰で会食をする程度。神輿(写真の右端)が集落の人々に担がれて、牧馬を回ったのは遥か昔。

 私が、持続可能社会が成立した時に生じるであろうと思っている問題について、この機会に書いてみようと思うのですが、ちょっと長くなりそうです。なので回を分けて書いていきたいと思いますが、さてどこから書こうか。

 まず、持続可能社会と言うのが「停滞した社会」と同義にならないか、という不安。持続可能社会と言うのは諸問題が解決され、完成された社会でもある。こういう社会と言うのは、何か新しい事をするのが難しくなる。何か新しい事をしようとしたら、周囲の人間から「せっかく諸問題が解決され、完成された社会になっているのに、わざわざ面倒なタネをまき散らすやっかいなやつ」と思われる。そして、実際にやっかいな事を起こす割合の方が多いだろう。
 完成された社会に対して、その完成度をより向上させるのは難しい。たいがいは「余計な事をしやがって」と反発をくらう結果になってしまう。

 持続可能社会が完成したら、その社会の目的は、持続可能性を維持する事に限られる。これは、新しい挑戦や変革の行動は好まれない。昨日と同じ今日、今日と同じ明日。去年と同じ今年、今年と同じ来年を維持する事が美徳とされる。
 これは、見方を変えれば停滞した社会ということになるだろう。

 沸き上がる雷雲

 この日本は、停滞した社会と言うのを、ここ数十年、もしくは100年以上経験していない。それだけに、停滞した社会の怖さについて、自覚的に用心できる人は少ないのではないか。特に、東京などの大都市で生活している人には、想像もつかないだろう。

 逆に、ホントに究極まで寂れた地方の町、未来にこれといった希望を見出せない町で暮した経験のある人なら、少しは想像つくかもな。

 停滞は頽廃を産み、大人のやる気の無さは子供に伝染してヤンキーばかりが増える。
 前々回の日記で、江戸時代を一種の理想郷のように紹介したけれど、決してそんな単純なものではなく、実は江戸時代はヤクザが成立し、博打が横行した時代でもあった。

 昭和の高度経済成長期、地方の若者は故郷を離れて都市へと流入した。これは地方では「食っていけない」という事情もあったが、やはり都会に出て、電気もガスも水道も完備され、自家用車や家電に囲まれた、地方では得られない生活をしたいという気持も強かっただろう。これは物質的な欲望が原因とはいえ「向上心」には違い無い。

 しかし、持続可能社会が完成し、後はその社会を維持するだけとなると「向上心」の目標が無い。昨日と同じ今日、今日と同じ明日を繰り返すだけだ。こんな事を書くと、何やら持続可能社会と言うのが絶望に満ちた世界に見えてくる。
 もちろん、そんな事は無い。持続不可能な社会に比べれば持続可能な社会の方が良いに決まっている。ただ、今現在、持続可能社会を作ろうと活動している人の多くは、持続可能社会が完成してからの問題については無自覚だと私は思っています。

 私の知っている、持続可能社会を作ろうと活動している人々は、みんな夢があって楽しそうに活動を続けている。でもそれは、今現在の所、持続可能社会を作る活動には、新しい挑戦や変革が満ちているからだ。
 でも、持続可能社会を作る活動は、持続可能ではない。持続可能社会が実現した時点で、役目を終えて終了する運命の活動だ。それ以降には、新しい挑戦や変革はそこには無い。

雨上がり

 持続可能社会が完成しても、それが停滞と頽廃の社会にならないためには工夫がいる。私が今一番考えているのは、そういう話です。何も持続可能社会が完成しているわけでもないのに、今からそんな事を考えるのも、ずいぶん気の長い話に感じられるかもしれませんが。

 それでも、足りないアタマでもイロイロと考えていたら、幾つか思い当たる知恵も出て来た。もっとも、私が考えた知恵ではなく、昔の人が考えた知恵ですけどね。何だかんだ言っても、人間が陥るような問題の解決法は、遥か昔から先人が何十世紀もかけて考え続けて来ているわけですよ。そこにはもちろん、停滞した社会に対する対処法もある。結局、確かに科学は進んでも、人間そのものは、そう進化しているわけではなさそうです。

 やっぱり今回の日記では書ききれないな。続きはまた次回に。

夕焼け

8月27日(火)

ススキ

 週末に雨が降ったら、北から涼しい空気を運んでくれたらしく、ホッと一息できるような気候になった。もちろん、このまま秋になるとは思えんが。
 ホッとしてたら夏の疲れが一気に出たのか、日曜日は寝込んだまま起きられず、一日中寝てましたよ。気がつけば空は高くなり、ススキの花が風に揺れている。陽の位置もだいぶ秋めいて来た。

 さて、前回の日記の続きで、持続可能社会が成立しても、それが停滞と頽廃の社会にならないようにするには、どんな工夫が必用かと言う話ですが、その前にちょっと長い前置きを書いておきます。もしかしたら今回は前置きで終わるかもしれない。

 これは私が20代の始め頃に教わった事で、「もしあなたが、誰かから嫌な思いをさせられた場合、次のように考えてご覧なさい」と言われた。

(1) まず、その人の背後には悪魔がいると考えてみる。悪魔は自分と同じような仲間が地上に増える事を望んでいる。できれば、この世の全ての人々が、「人間なんて最低だ、私は人間なんて信じない、私は人に優しさなんか傾けないし、逆に優しい人間を見つけたら、そいつを騙して利益を得てやる」と考えるようになる事を悪魔は望んでいる。
 だいたい、人は他人から嫌な思いをさせられたら人間不信になってしまい、その人間不信の性格を引きずったまま他の誰かと接し、今度はその他の誰かに嫌な思いをさせる。嫌な思いの伝染が起こる。

 さてそこで、「私はそんな悪魔の手には乗らない」と思えるかどうか。人から嫌な思いをさせられても、「私は世の中を暗くしていく連中の仲間にはならず、明るくしていく人々の仲間であり続ける」と考え、実行できるかどうか。

密をむさぼる蝶と蜂

(2) その次に、今度はその人の背後に神様がいると考える。その神様はこう考えている。「こいつは日頃から『人には優しく』とか『嫌な出来事があっても冷静に対処してみせる』とか言っているが、本物かどうか試してみよう」と抜き打ちテストを実行してくる。
 さて、自分はそのテストに、100点満点で何点だったか。我ながら上手に対応できたと思う所もあれば、ここは力が及ばなかったと思う所もあるだろう。「結局、何も出来なかった」と自分の無力さを強烈に突き付けられる事もあると思う。

(3) さらに次。今度もその人の背後に神様がいると考えるのだけど、前回のとは性質が異なる。今度はどんな神様かと言うと「人は誰でも、産まれた時は神様だった」という考え方。実際、赤ちゃんを見れば誰だってそう思うだろう。
 自分に対して嫌な思いをさせるこの人は、そんな神様の状態から、どういう過程を経て今の状態になったのか。環境のせいだろうか。特殊な事情があったのだろうか。もしかしたら自分自身も、この人と同じ環境と同じ経験を与えられたら、この人と同じ性格になっていたかもしれない、と想像してみる。すると、逆に自分自身のこれまでの人生の環境や経験が、いかに恵まれていたかを再確認もできるだろう。

(4) さらに、今度はその嫌な思いをさせる相手が、自分の前世の姿だと想像してみる。例えばその相手が「虎の威を借る狐」の性格で、他人をいじめるのを楽しむ人間だとしたら、自分はこう考えてみる。
「あ−、自分は前世でこんな事をさんざんやったから、神様が『今度はお前がそれを味わう方になってみろ』と、こんな運命を与えられたんだな」と。

午後の光

(5) 最後に、これが一番難しいけれど、こう考えてみる。
「もしかしたら、ホントに正しいのは、自分に対して嫌な思いをさせる相手の方ではないか」
 なかなか納得し難い考えかもしれないが、とにかく無理矢理にでもそう考えてみる。すると、いろいろ見えてくる事がある。相手にも相手なりの事情もあれば理屈もあるし立場もある。それらが判れば、たとえ嫌な思いをさせられた相手であっても、100パーセント真っ黒な悪人ではないと思えるし、それまで自分が気付かなかった、相手なりの「正義」もあることが判ってくる。

 人から嫌な思いをさせられた時、普通の人間は、自分とその人の「異なる点」を必死になって見つけようとする。そして、その人に対して「理想的な悪人像」を作り上げようとする。「あんなやつ友達なんていないに違いない、隣近所から嫌われているに違いない、職場でも冴えない日々を送っているに違いない」という具合に。しかし、実際にそうなのかどうか。
「もし、広い視野と高い視座を得たいと思うのなら、そんな時こそ『異なる点』ではなく『共通点』を探せる人間になる事だ」
 そんなふうに、教わったのです。

 さて、ここまでだらだらと書いてきましたが、私は神を信じる人間でもないし、霊魂や輪廻転生を信じる人間でもありません。まあ、それらを信じる人々を否定もしません。単純に、私は、それらを信じるに値するような経験をしていないだけなのかもしれない。
 そんな私でも、以上の考え方は、自分を少しでもマシな方向に導くのには、すごく役にたったのです。人間を、より向上させようと考えた場合、「人間以上の存在」を、たとえ信じてなくても、便宜的に想定しておく事は有効だと思いました。

真昼でも光はだいぶ斜めになりました

 これからの世の中は、「次はテレビが欲しい、次はエアコンが欲しい、次は自動車が欲しい」といった、物質的な目標が見つけにくい。そうなると、どうしても次の目標は、外的で物質的なものよりは、内的で精神的なものになっていくだろう。
 もっとも、果たして人間が、自発的に精神的な向上を目指すほど殊勝な生き物か、という疑問は残る。

 人々に、自発的に精神的な向上を目指すように働きかけるには、わかりやすい目標が必用になる。人間は決して、食べて排泄して死ぬだけで終わる存在ではなく、それ以上の何か素晴らしいものだと思わせる目標が。

 以前だったら、これは神とか霊魂とか宗教の仕事になってくるだろう。確かに、こういう「人間以上の存在」を想定すると、人々をより高い目標に誘うのは簡単にできてしまう。でも、私としては、それらを持ち出すのは抵抗があるし、今さら宗教ってのもなァ、もはや万人向きじゃないでしょ、と思うのです。

 私が考えた目標は、「職人」と「マツリ」と「音楽」です。この事は、また次の機会に書きますよ。