2014

3月

3月2日(日)

牧馬にて

 大雪の余波は、少しずつ収まりつつある。前回の日記で牧馬峠の除雪状況について、1車線ぶんしか除雪がされていないと写真付きで書いたけど、その後、この道も再度除雪作業が入り、2車線ぶんの除雪が完了した。先週は、わりあいと暖かい日々が続き、降水も心配されていた雪ではなく雨で終わった為、雪を解かしてくれる一週間だった。
 それでも、あいかわらず、そこらじゅうに雪はどっさりと残っているし、暖かくなったらなったで、今度は雪崩の心配が必用になり、市の防災放送もさかんに雪崩の危険を訴えていた。

 この雪では、いろいろ中止や延期になったイベントも多い。シーゲル堂でも、2月は2度に渡る大雪で店を開けられない状態が続いた為、2月の企画展を3月も引き続いて延長する事にした。
3月もやってます>>

 また、この大雪で臨時に行われたイベントもあった。雪でビニールハウスを壊された農家を支援する、イチゴや野菜を販売するイベントもあったらしい。平日に行われたので私は行けませんでしたが。

 3月は年度末で、藤野の各自治会でも総会がある。その時には、この大雪の問題は議論が百出するだろうなァと、今から容易に想像できる。フジノが災害の渦中に投じられた時の、情報の伝達や集約のありかた。指揮のありかた。住民への情報の周知のありかた。露見した問題点は多かったし、今回は大雪だったけど、例えば集中豪雨でも似たような事態に見舞われる事だってありうる。
 まあ、課題があらわになった事を前向きに捉えて、改善の機会にすれば・・・。

道志川

 前回の日記では、この大雪で個人的にいろいろ思った事について書いたけど、少し書き漏らした事がある。それは、やはり山里では、地元に密着した小さな土木業者が存在する事は、災害時にはとても心強いという点。
 税金を食い物にして国を財政的に破綻させかねない土建国家的な現状は困ったものだけど、かといって山里には、土木業者は欠かせない存在ではあり続けるのだろう。それも、その土地の地理に精通していて、その土地の住民とも日常的に接している業者であれば、災害時にも住民の要望に対して柔軟に対応しやすい。

 この豪雪事件で埼玉県の知事が、秩父からの自衛隊の派遣の要請を断り続けた事が、後に批判の対象になったが、確かに自衛隊は災害救助のプロだけど、雪のような物質を重機でかき集めたり運んだりダンプで運搬したりといった作業に関しては、土木業者こそがプロ中のプロだ。
 今回の豪雪では自衛隊の派遣は妥当だと思うけれど、まずは地元の業者の力量で事態に対処する道も考えておいた方が良いと思う。何しろ、どんなに自衛隊の派遣が迅速に行われたとしても、地元の土木業者の方が、既に現場にいるだけに作業に取り掛かるのは早い。
 今回の大雪で、藤野で似たような事例があった。国道や県道よりも、地元の業者が存在している市道の方が、いち早く除雪が終わった場所が幾つかある。

 ただまあイロイロと問題点は浮かび上がってきたものの、私の印象では、こんな前代未聞の豪雪に対して、さすがに時間はかかったが、地元の業者による除雪は、その力量を十分に発揮していたと思う。なんだかんだ言っても、毎年数回は道路の除雪に出動してきた経験がある。フジノは雪国ではないけれど、雪に対する備えの体制があるだけ、全国平均から見れば、雪には強い土地と言ってもいいのではないか。

峠にて

 もう一つ、今回の大雪で考えた事を加えると、フジノでは稀な積雪で、車庫や倉庫の屋根が壊れる事例が多かったが、もし富士山が噴火した場合、どのくらいの火山灰が降ってきたら、同様な被害が生まれるのだろうか、という事。雪よりも火山灰はずっと比重があるだろうから、1メートルどころか、20センチも積ろうなら、屋根が落ちる家だってあるんじゃなかろうか。
 あまり考えたくない想定だけど、「ありえない」と断言できる事態ではない。富士山の噴火は関東では数百年ごとに起きている事実で、「次」だって、いつになるかは判らないけど絶対にあるだろう。

 山梨の大雪では、除雪になれた新潟県から除雪車の支援が来てくれたけど、その時は鹿児島の桜島から、火山灰の除去に慣れた人や業者の支援をお願いする事になるのかな。

 雪にせよ、火山灰にせよ、また地震や台風や大雨にせよ、災害というのは、常に人間の「健全性」を試す所がある。
 家は丈夫な作りなのか、設計は正しく、また施工も正しく行われたのか。さらに、そこに住んでいる人々は、正しい家の維持や補修を行っているのか。
 また、そこに住んでいる人々は、災害に対して、速やかに効果的な対処ができるのかどうか。人々の間に調和のとれた協力態勢はあるのか。

 健全性とか正しさとか正義とかいう言葉を聞くと、そんな考えに冷笑的に距離を置く人々もいる。「健全性とか正義とか言っている人間が、『現実』を知らずに馬鹿をみるのだ」と。特に、権力にぶら下がって依存していれば我が身は安泰であると考えるタイプの人はそうだろう。
 しかし、そういう人は「正しさ」の真の価値を知らない。「正しさ」の真の価値は、それが「生き残る」という事だ。

光る水滴

 言い方を換えれば、その人がやっている事、その地域がやっている事が正しいかどうかが判るのは、危機を通過しても生き残れたかどうか、未来が決める事でもある。「時間の経過」とは、健全性の高いものを残し、低いものを淘汰する、残酷なフィルターだ。

 時代の混乱期ほど、自分の周囲の流れに巻き込まれたり、もしくは自らその流れに同調したりして、自分自身で何が正しく、何が健全かを考える事を放棄する人々が増える。これは当人の未来にとっても危険な事なのだが。

 こういう時ほど、自分自身の内側に、何が正しいのか、健全とはどういう状態かをじっくりと時間をかけて考えた末の、しっかりとした基準を持っている人間が貴重になってくるが、さてそんな哲学の持ち主は、世の中にどれくらいいるのだろう。

3月10日(月)

桑畑

 やや風の冷たい日々が続いている。北の寒気がまだ力を奮っているのだろう。それでも、あれほどの大雪が降ったとはいえ、着実に雪の無い地面が広がってきた。
 また3月11日がやってくる。この春も、福島の子供たちが篠原に保養にやってくる。私も微力ながら手伝いますが、ホントに微力なんで、すんません。ボランティアは今なお募集中のようです。
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 なんかここ最近、身の回りで変化が激しい。フジノで言えば、今までやっていた店が閉じたり、新しく出店してみたり、フジノから引っ越したり、フジノに引っ越したり。まあ春だから変化が激しいのは当然と言えば当然なのかもしれないけれど、例年以上のような気がするなァ。
 5年あまりに渡って親しまれてきた「野山の食堂」も、3月いっぱいでお休みとか。
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 その一方で、「何か飲食の店をやりたいんだけど、どこかに使えそうな空き店舗とか無い?」という声も聞く。人口減少に悩む山里ならば、こういう人たちに即応できるような厨房と客室のある施設を、あらかじめ作っておくのもいいかもしれないな。

 そういえば牧馬の里にも、久々に若手が引っ越してきたよ。

山の雨

 前回の日記で富士山の火山灰の話について少し書いた。この問題、単なる私の心配性では無く、政府もそれなりに気にして調査研究はしているらしい。これは先月の記事だけど。

富士山噴火で3県避難計画 火山灰で最大47万人
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火山灰が30センチ以上積もると降雨時に水分を吸収した重みで木造住宅が倒壊する恐れがあり、計画では気象庁の予測に基づいて30センチ以上の降灰が見込まれる地域を避難対象とした。
・・・という記事を読むと、先月の大雪で家の屋根が痛んだ現場を数多く目の当たりにした身には、切実な問題として心に響いてくる。火山灰が30センチも積るようだと、もはや家に住むのは危険で、鉄筋コンクリートの建物にでも避難しざるをえなくなるのだろう。

 火山の噴火に関わる影響を、判りやすくまとめたサイトがあった。

噴火が起きるとどうなるの?(噴火.com)
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 火山の噴火で、すぐに思いつく危険性と言ったら、溶岩が流れてくるとか火山弾が飛んでくるとか火砕流が押し寄せてくるとか、いかにも派手めな現象が多いけど、このサイトでも『噴火の最大の被害は「火山灰」』と書いてますね。一見、地味だけど、社会に与える影響の広さと大きさでは、これが一番怖いのだろう。

 ほころぶ梅

 このサイトに出てくる「富士山噴火時の降灰の可能性マップ」では、フジノは10センチから30センチくらいの降灰の可能性があるようだ。これは、雪とは違って、相模原の都市部でも同程度の降灰があるだろう。

 火山灰の影響では、私には意外だった事も多い。火山灰はいわゆる「灰」とは違って、細かなガラス片のような物質なので、健康被害が心配される事。電子機器やコンピュータの被害があり得る事。車はスリップしやすくなって使えなくなる事。大規模な停電もあり得る事。
 こりゃあ、数センチでも降灰があったら、先月の大雪の時のように、何日間も家に閉じ込められるような事もあるかもね。

 唯一、安心できる事といったら、いきなり火山灰が襲ってくる事はない事くらいか。地震や津波と違って、噴火までには多くの前兆と段階がある。心と装備の準備くらいならできるかもしれない。

 ただまあ、可能性は可能性として考慮しておくけれど、やたらと心配ばかりして神経をすり減らすのも問題だろう。世界のどこに暮しても、その土地ならではの不安はあるはずだ。
 それに、確かに地震や火山の噴火は恐ろしいが、それらの地殻変動によって人間は生かされているとも言える。

 もし地球の陸地をきれいにならし、真ったいらにしてしまうと、地球の表面は全て水深2600メートルの海面になってしまうという。風雨が地表の山を削る侵食作用は、地球の50億年の年月に比べると意外なほどに早い。ヒマラヤのような山脈でも、綺麗な平地にしてしまうまでには数千万年程度の時間で終わってしまうとか。

 今なお、この星に海面と陸地の両方があるのは、この星が地震や火山活動を継続できるだけの「生きた星」だからだ。
 地震も火山活動も、それに伴う津波も、恐ろしく困ったものには違いないが、それらが無くなっても恐ろしく困った事になる。地震や火山活動があっても、それほど不安を感じなくてもいい生活様式を、人間の方で創造していくしかないのだろう。

 地震や火山活動、更には津波までも、天からの恵みと思えるような文明の形とは、どんなものだろう。その時、町や都市はどんな形をしているのか。人々がしている生活は、どんな形をしているのか。

 そんな未来を想像し、また創造できるのだとしたら、人間の進歩の余地は、まだまだあると言えるけど。

3月16日(日)

春の雨

 朝には霜や氷が張ったりする事もあるが、季節は明らかに春に移行した感じ。16日(日曜日)には猛烈な春風が吹き荒れた。私は今の所、縁がないけれど、花粉症の人は大変な思いをしているだろう。
 私はと言えば、とうとう冬の終りに大風邪をひいた。布団の中で丸まりながら、山を揺するような風の音を聞いてましたよ。
 なんか今回は風邪でアタマがふらふらしているので、牧馬とは関係ない事で、最近、思っている事なんかを書きます。別のサイトで書いたものからの転載ですけどね。

 近年、やたらと中国の大気汚染の問題が注目され、「PM2.5」という言葉もやたらと普及したが、「PM2.5」ってどういう意味か聞かれて即答できる人がどのくらいいるかどうか。
(大気中の微小粒子状物質の大きさの単位。粒子径が概ね 2.5μm以下のもの。)

 中国の場合、石炭の利用が主な原因らしい。しかし・・・
 私が小学校の高学年か、中学校の頃だから、もう四半世紀以上前の話になる。石炭火力発電の技術についての本を読んだ時には、こんな事が書いてあった。

 石炭を燃焼させる時に出る硫黄分を除去するのに、炉の中に石灰を射出する。ただ大雑把に射出するのではなく、コンピューターで量を厳密 に計算された量を射出する。すると、炉の中で硫黄と石灰は反応して 石膏になり、これは石膏ボードなどの建材に使用され、またこの反応は吸熱反応なので、炉の温度上昇を抑え、炉の寿命を延ばす。
 日本の石炭火力利用は、このような低公害技術と品質の高さで、世界をリードしている・・・とか。

梅の木

 こういった技術は、あらかた特許は切れているだろう。中国だって、まねしようと思えばまねできる実力はあるはずだ。それに建設ラッシュの中国にとって、石膏の副産物は魅力的だろう。
 石炭火力利用のクリーン化は、決して無駄な投資ではなく、一石二鳥や三鳥や四鳥だけど、なんでこういう話は出てこないのかな。やはり大陸的な大国なので、何かを始めるにも時間がかかるのだろうか。

 以下は余談。
 石炭を燃やせば二酸化炭素が排出されるが、昨年、自動車メーカーのアウディが、工場から排出される二酸化炭素を回収して、それに水素と結びつけて自動車燃料にする計画を発表していた。
こちら>>

 世界のエネルギーに関する研究は、従来の常識をどんどん刷新する勢いで、「石炭を燃やす」、イコール「大気汚染」「温室効果ガスの排出」と簡単に決めつけるのは、とうに時代遅れになっている。

 エネルギーの話では、既に先月の始めの話になるけど、こんなニュースがあった。

 高速増殖炉の「もんじゅ」を開発・運営する機関でもある日本原子力研究開発機構(JAEA)が、世界で初めて、リチウムを海水から分離・回収する技術を確立することに成功したとのこと。
 多分、本来は海水中から核燃料を抽出する技術を目的としているのだろう。重水や三重水素でも回収しようとしていたのだろうか。
こちら>>

 皮肉なもので、この研究成果が,安価なリチウム電池の普及に結びついたら、ますます原子力の必要性は無くなってきますが。

里の梅

 3月14日の午前2時7分頃、伊予灘を震源としたマグニチュード6.1の地震があり、愛媛県で震度5強、対岸の広島県や山口県で震度5弱を観測した。この震源と言うのが、山口県の上関に建設が予定されている原発の場所に妙に近い。
こちら>>

 私は、自分が迷信深い人間だとは思ってないし、むしろガリガリの科学的思考大好きスピリチュアル苦手の人間だと思っているのですが。なんか、あの311よりもずっと前から、天は、日本の原子力村の連中に恥をかかせて立場を失わせるようなはからいを、たびたびしているような気がしてならない。

 脱原発論者からすれば、今の政府による原発再稼動の話だって、そうとうアタマにきていると思いますが、これが視点を一転して、原発を推進してきた立場の人にしてみれば、この10年ばかり、皮肉な運命が続いているようにも私には見えるのです。「もんじゅ」にしても、六ヶ所村の再処理施設にしても、あと一歩で安定的な運用にこぎつけるという瞬間で、何かつまづいて、恥をかいて立場を失い、先に進めなくなる。
 これが「恥」ですめばいいのですが。第二の福島が生まれないことを祈るばかりです。

 ヘイトスピーチとか、極端な排外主義活動に参加する人々の事が問題になっているけど、そういう人たちが、この動画に出てくる話を聞いたら。どんな感情を持つかな。まあ、なんの感情の変化も無いかもしれないけど。
こちら>>

 このバシャールという人。先日、人から教えてもらったけど、宇宙人のイタコ(口寄せ)みたいな事が出来ると言う人らしい。嘘かホントか判らないけど。

オオイヌフグリ

 言っている内容は、唯心論・独我論っぽくもあり、禅的でもある。始めの2分頃までは。

 排外主義活動に夢中になる人が、聴いてみたらどうかと思われる部分は、2分からの後半部分。

 どんな人の振る舞いであろうと、それが倫理的・社会的に問題がある振る舞いであろうと、その振る舞いをする当人にとっては、その人の現時点での「自分らしい表現」だという。

 他人を罵倒する人は、何よりも前に自分自身を罵倒している人であり、自分自身に価値があると確信のある人は、他人を罵倒する事も無くなる。
 自分自身に価値があると確信した人であれば、もはや「私は他人を罵倒して人生を終えるような人間ではない」と思うようになって、別の一歩を踏み出すだろう。

 世の中には、けしからんと思うような事件もあると思う。
 野口整体の考え方では、風邪をひいた時は,無理に薬などで症状を押さえ込まずに、ぞんぶんに風邪を「ひかせてしまう」。そのほうが、病後の健康の回復も良好なのだとか。
 私も、基本的には、世の中が風邪をひいたら、押さえ込まずに症状を素直に出し切ってやる方がいい、という考え方です。

 私の風邪も、そろそろ治る頃だけど、世の中の風邪も、そろそろ症状を出し切って、免疫反応が始まる頃でしょう。

3月23日(日)

花盛り

 2月の大雪のせいだろうか。今年は春の植物の動きが例年よりも遅い感じがする。オオイヌフグリやタネツケバナやフキノトウの開花時期も、木々の芽吹きも、種類にもよるけど2〜3週間は遅いようだ。積雪が解けて、地表があらわになって、ようやく大急ぎで春の行動を開始した感じ。
 彼岸を過ぎたが、このところ風は意外に強く冷たい。北国では大雪だそうな。

 先日、ある会合でこんな事をしゃべった。

「フジノもその一つだけど、どういうわけか、持続可能な世の中を求める活動が盛んな地域というのがる。私にはそれが、東京を中心にした半径50キロの円周上に点在しているように見える。神奈川県で言えば三浦半島や湘南地域、埼玉県では小川町あたり、茨城県では筑波や霞ヶ浦周辺、千葉県では房総半島の南部、といった具合に。

 恐らく、この都会でもなく、また田舎でもない土地には、従来の都会の生き方にも飽き足らず、また従来の田舎の生き方にも飽き足らない、新しい生き方を模索している人が特に集中しているのではないか。
 なので、こういう地域では、なにか持続可能な生き方を模索する活動や団体が産まれると、積極的に参加する人が多いので、そんな活動や団体が成立しやすい。」

 どんなに持続可能な社会を目指そうと理想を掲げても、それに賛同する人々が、その人の周囲にどの程度いるかどうかで、その活動が成立するか立ち消えで終わるかが決まってくる。

早春の花

 次の時代の「形」を自分なりに定義してみると、「良い意味で都会的であり、同時に良い意味で田舎的でもある」という感じかな。「都会的」にも良い側面と悪い側面があり、「田舎的」にも良い側面と悪い側面がある。その両者の良い部分を、文字通り良いとこ取りできないものか。

 例えば田舎の良い所といえば、持続可能な世の中の前提が既に揃っている所がある。食料やエネルギーといった資源の自給が可能で、災害時にも弾力性をもって対応できる。都会ではこれらを全て外部からの依存に頼っているので、災害時の脆弱性が大きい。
 また人口過密な都会では人があまりにも多い為、人々の助け合いのコミュニティーが生まれにくい。これが田舎になると、そこに住んでいる人がだいたい顔なじみの仲間なので、自然と助け合いのコミュニティーも生まれやすくなる。

 もっとも、これは良い事ばかりではなく、田舎のコミュニティーは「顔なじみの仲間」から発生しているだけに、顔なじみではない人に対しては極度に警戒したりして、閉鎖性を発揮する。新しい人、新しい考え方、新しい生き方に対して悪い意味で保守的だ。
 これが都会になると、流行を追いかけたり新しいライフスタイルをそもそも好む性質があるので、国内のみならず世界の最新の潮流にも関心を失わない。良い意味で革新的で、芸術的なセンスも洗練されている。

 だんだん答えが見えてきたかな。理想的な未来の形とは、災害時にも安定して対応できる田園地帯で、人々は程よい人口密度で互いに助け合えるコミュニティーを形成しているが、それは決して閉鎖性に陥らず、進取の気性に富み、世界の先端にも通じている。

風の強い日

 以前だったら絵空事のように思われる、そんな未来の形だけど、それを実現可能にする条件がこの10年くらいで揃ってきている。太陽電池の低価格化もそうだし、インターネットの普及もそうだ。そういえば、フジノに光回線がやってきたのは、ちょうど今年の5月で10年目ではなかったか。

 次に望む段階としては、そんな「東京を中心にした半径50キロの円周上に点在」した、未来の形をいち早く実現しかけている人々が、自分達こそが未来の先端にいると「自覚」する事だと思っています。
 ここまで書いてきて意外に思われるかも知れませんが、私が見る所、「東京を中心にした半径50キロの円周上に点在」した、未来の形をいち早く実現しかけている人々は、まだ決して本気では、自分達こそが未来の先端にいるとは「自覚」していない感じです。まあ、やってて楽しい趣味半分くらいの気持でしょうか。

 これが、「『東京』を時代遅れにしてしまうのは、私たちだ」ぐらいの自覚を持ちはじめると、世の中を動かす実際的な力を持ちはじめる。
 そんな時代が、いつ頃から始まるだろうか。

 「良い意味で都会的であり、同時に良い意味で田舎的でもある」という未来の形は、単なる生活様式の変化だけではなく、人間の尊厳の回復も同時平行で行われると思っている。現状の都会も田舎も、人間の尊厳に関しては、悪い意味で都会的であり、悪い意味で田舎的だ。
 田舎は前述の通り、閉鎖的な退嬰が蔓延して、自由で健やかな精神が阻害される。「村社会」という言葉から想像される悪い印象は周知の通り。
 これが都会になると、あまりにも人口が多くて過密になり、そこには過度の競争社会になって、人々は孤立感を強いられ、また自分自身を、誰とでも交換可能な「部品」くらいにしか思えなくなる。 

薄暮の梅

 良い意味で都会的で、同時に良い意味で田舎的な人格を理想とする所から、人間の尊厳の回復は始まっていくのかもしれない。
 例えば、親密なコミュニティーの中で協調はするけども、それが付和雷同には陥らない自由と個性は保持している。過度の競争で人々を振るい落とすだけでなく、人それぞれに役割を見い出し、個性に合わせて人を育てていく事こそが、人格者の役割とするあり方。

 今回は「良い意味で都会的で、同時に良い意味で田舎的」という表現を使ったが、だいたい、この世の「価値」と言われるものは、「相反する要素の理想的な同居」を意味する事が多い。古典から代表例をあげれば・・・

 温和だが同時に厳しさと激しい情熱も持ち、威厳はあるが威圧感は無く、礼儀正しいが堅苦しくは無い。

 20世紀は、あまり人間に高い人格を求める理想は必用とされなかった。しかし、都会も田舎も行き詰まり、都会の良さと田舎の良さの良いとこ取りに未来の形を目指した場合、人に高い人格を求める理想が、徐々に高まっていくと思います。

※ 子温而●。威而不猛。恭而安。(『論語』述而)
●パソコンに無い字 厂(がんだれ)に萬

3月30日(日)

木蓮

 雨と晴が交互に巡り、地面は徐々に芽生えた若葉に覆われ始めた。それでも、2月の大雪で道路の除雪作業をした時、かき分けた雪をまとめて置いた所などは、ようやく雪が消えてきたところ。やっぱり、今まで雪の重しのあった所は低温だったせいか芽吹きが遅い。雪置き場だった所のフキノトウなんか今になって出てくる。

 先日、篠原牧馬地区の自治会の総会があったんだけど、その会場の自治会館の雨樋が、大雪でだいぶ壊れているのを、どうしようかという話もあった。まあ雨樋の修理くらいなら、腕に覚えのある住民もいるはずなので、業者に依頼せずに住民でやってしまうかもしれない。

 似た話で、旧篠原小学校・・・(今では『篠原の里』という保育園と宿泊施設などがある複合施設になっているが)・・・、ここの雨漏りもなんとかせにャァいかんなァという話もあった。これは市が所有している施設なので、修理も市が行う事になると思うけど。
「ああいうコンクリート作りの建物の雨漏りは、いちいち屋上の雨漏りの箇所を探して補修するよりも、屋上にもう一つ屋根をかけてしまうのが、確実で安上がりなんじゃないか」
 建物に詳しい人が、そんな話をしていた。「屋上に屋を架す(重ねる)」と言えば無駄な作業の意味だけど、コンクリート作りの雨漏り対策には良いらしい。

 でもなー、こんな修理の方法を提案しても、市は採用してくれるかしらん。

 フキノトウ。先日、天ぷらをぎょうさん食べたぜ。

 「篠原の里」に限らず、コンクリート作りの建物の老朽化は、どこも進んでいるだろう。あっさりと壊して新しく建て替えるのもいいけど、たぶん、これからの御時世では、そんな建物の延命措置も考える必用が出てくるんだろうな。

 コンクリート作りの建物の屋上に屋根を架けると、雨漏り対策以外の利点もある。ちょうど、建物が「日傘」をかぶった状態になるので、夏の強烈な陽射しが、直接コンクリートを照りつけるのを防ぐ。

 陽射しに直接当たるコンクリートは、平気で50度とか60度の温度になってしまうけど、屋根を架けて日陰にすれば、コンクリートは気温以上には温度が上がらない。つまり、建物が高温を溜め込まない。

 むき出しのコンクリートは、日没になっても、昼間に存分に吸収した熱気を周囲に放出し続けて、熱帯夜の原因になるけど、薄い屋根を架けた建物なら、日没と同時に屋根はすぐに冷えてくれる。

 いやいっその事、冬場はこの屋根を利用して暖房にしたらどうだ。屋根に当たった太陽の光によって屋根の内側に暖かい空気が溜る。この暖気を1階に送ってやったら、パッシブソーラーの「そよ風」みたいな暖房設備になる。上手くいけば夏涼しく冬暖かい建物になるけど、あまり、あれもこれもと高性能を求めると、逆にシンプルじゃなくなって、だんだん工事費が高くなるな(笑)。
 まあ、どんな話題であれ、始めは実現不可能な冗談半分みたいな事でも、どんどんしゃべった方がいい。

 これは自分も参加している地元のイベントの話だけど、これもつい先日、今年のイベントの第一回目の会議があった。イベントが行われる初秋に向けて、会議は重ねられていくのだけど。
 この会議と言うのは酷いもので、特に始めの頃の数回は、実現不可能な冗談ばかりが出てくるのが通例で、あたかも、誰が一番酷い冗談を出すかの競争のような観がある。

 でも、こういう過程を経て会議を煮詰めていくと、イベントを毎年続けていく上での陳腐化を防いでくれるんですよ。冗談の競争は、発想の自由さの競争みたいなもので、発想の硬直化とは対極のものですから。
 逆に言えば、会議で冗談が出なくなったら、そのイベントはもう終りが近いと言う事でもあるのでしょう。

フキノトウのアップ

 自由な精神のある所には、たいがい笑いがある。「まさかそんな発想がありうるとは!!」という驚きが笑いの源泉でもあるので、当たり前と言えば当たり前だけど。
 これが「笑いを許さない世界」になると、発想の自由さはかえって敵視され、ひたすら「これまでの形」を頑に守り通す事しかアタマにない人間ばかりになっている。
 その場が笑いが許されるかどうかは、その場が生きているか死んでいるかのリトマス試験紙みたいなものだろう。

 話は更に大袈裟になるが、だいたい人類の進歩なんてものは、冗談みたいな「おふざけ」から始まったものも多いのではないか。
 たとえば、今から5000年以上も前になるかもしれないが、中央アジアのどこかの平原で、どこかのバカが、「あの生き物に乗って、パカパカ走ったら、さぞ楽しかろう」と考えたのが、騎馬民族の発祥となった。

 このバカも、いざ始めてみたら馬に蹴られたり落馬したり、命を落としかけたり、口の悪い村人からは変人扱いされたり(実際、変人ではあるのだが)、ろくな事はなかったはずだが、結局は世界史を大きく変える力の創始者になったのは事実だ。
 世の中を変革する時には、その影には必ず、ちょっとタガの外れた変わり者がいるものだ。

春の午後

 最後に余談になるけど、世界史を概観してみるに、これは私の個人的な印象なのだけど、ジョークの上手い国と、ジョークの下手な国が戦争した場合、ジョークが下手な国が負ける場合が多いようだ。
 ジョークの下手な国は、発想の自由さと革新が無いという事もあるが、国が追いつめられると、いつしかジョークを許さない国に転落してしまうという理由もあるのだろう。ジョークが下手というのは、戦う前に既に負けていると言えるのかもしれない。

 ニホンも戦争に勝ちたかったら、大阪に遷都して関西弁を公用語にして、小学校でボケと突っ込みを必修にするべきかもしれない。