0系新幹線電車

 東海道新幹線が開業した1964年から、2008年まで運転を行っていた、初代新幹線車両にして、世界初の高速鉄道用車両、それが0系。 12両編成30本、360両の布陣でスタートを切り、最盛期の1976年には2336両が活躍した

 開発にあたり、鉄道総合技術研究所に集められた、旧日本軍の技術者が活躍した。 車体は戦闘機、とりわけ急降下爆撃機のP1Y1「銀河」をモデルにしたと語られている。 車体はアルミという構想もあったようだが、コストや強度、当時の加工技術など様々な理由から見送られ、通常の普通鋼を使用しており、軽量化のため、極力薄めの鋼板を使用した。 一番薄いものでわずか1mmであり、運用のストレスに耐えられるギリギリの強度しか持っていない。 また、窓の大きさの違いから、普通車とグリーン車(当初は一等車)で鋼材の厚さが違うなどの特徴もある。

 台車はIS式を採用し、枕ばねには空気ばねを使用している。これも旧日本軍技術者の研究の成果である。200km/hを超える速度でも蛇行動を発生させず、安定した走行を可能にした。 これには試作車両6両に対して、6種類の台車を試作して試験を行ない、もっとも良好な結果の台車を採用した。 これには相当な苦心があったようで、車輪の仕様や荷重の分散も在来線とは仕様が変わっている。

 塗装は、クリーム地に青色のラインを窓周辺と上部、下部に配したスマートな印象を与えるものとなった。 青色の採用は、当時の日航機や、タバコの「ハイライト」などの青色からイメージを得たという。 国鉄時代は一貫してこの塗装であったが、100系が登場し、JRに以降すると、JR東海車、JR西日本車共にクリーム色が100系と同様のパールホワイトに変更された。ただし両者で違う塗料を使っていたため、同じ0系でも若干の色味の違いがあったという。 またJR西日本では、100系のような、窓周辺の青塗装の下にキャラクターラインを配した編成も、「ウエストひかり」に登場。 この塗装もクリーム地だったが後にパールホワイトに変更した。 2000年代に入ると車両の廃車が進み、6両編成の「こだま」がすべて2000番台として製造された車両に統一されると、グレー地にダークグレーのライン、窓下がライトグリーンという新たなカラースキームも登場した。 最後まで残った3編成は晩年、オリジナルに近いクリーム地と青の塗装に戻された。

 車内は当初、一等車はゴールド系、二等車はシルバー系でまとめられた。 一等車の座席は当初は黄色い大型の回転式リクライニングシート。絨毯は赤系統で、仕切壁も木目調、カーテンには金の糸をあしらっていた。 JR化後にはモケットは黄色からブラウン系、赤系に変更された。また200系タイプの座席や、100系タイプの座席に変更されたものも存在した。二等車のオリジナルの座席はリクライニングのない、転換式のクロスシートで、青色と灰色のモケットであった。これらは後に取り替えられたが、例えばJRに北海道のキハ54系などで再利用された例も見られ、現在でも健在である。2000番台以降ではシートピッチ改善とリクライニング化が行われたが、このために3列席が回転不能なシートが装備された。しかしこれは不評で、JR化後、2列席に取り替えられたり、肘掛を残して本体がぐるりと回転する新型のシートを装備するようになった。

 外観は一貫して同じであるが、1962年から1985年まで長く製造されたため、ロットによって微細な変化・変更を繰り返し、最初の車両と最後の車両では、基本的な仕様は同じなものの、使用している機器はまるで別物、ということが出来るかも知れない。 外観上の変化は、分かりやすいものでは窓で、当初は2列1組の大きな窓で、1000番台から1列独立の小さな窓、2000番台になると、シートピッチが広がった関係で窓もやや広がり、中窓と呼ばれる少し大きな窓になった。 この他にも非常口の廃止。 運転室窓のユニット化が外観上の分かりやすい変化といえる。 機構では、例えばブレーキが電気制動・空気制動の切り替えタイミングが異なり、切り替えが早い車両と遅い車両が混在した編成では、空気制動の方が制動力が大きいことから、制動時にガタガタと揺れが発生するなどした。 またJR化後は屋根上にパンタグラフの防音用衝立が取り付けられた。

 編成は、6両の試作編成から始まり、開業時に12両編成。後に16両編成。分割民営化前後で、6両編成、4両編成、またお召し列車で8両編成での運転も存在し、編成はバラエティに富んだ。 一方で、増結と組み換えを繰り返すうちに編成内の車両の製造年度がバラバラになり、上記の不具合や、保守においても不都合が生じた。 この解消のために後継車両となる100系が登場することになる。
 大まかな組み換えでは、当初12両編成30本でスタートの後、2年後に「ひかり」「こだま」で編成を分離。1969年に「ひかり」編成を16両に増強。 1972年からは「こだま」編成を16両に増強。 1974年になると今度は「ひかり」編成の一部を組み換えて食堂車を連結。 1976年からは老巧置き換えが開始され、0系を0系で置き換える、という状況が始まった。 1984年から「こだま」編成を12両に短縮。1985年に製造終了した。 JR化後は今度はJR東海が「こだま」編成を再度16両に増強、 JR西日本は「こだま」編成を「ウエストひかり」に転用したり、6両、4両に短縮。 編成の中から状態の良い車両をぴくアップして短縮編成を組成していった。

 運転速度は当初は210km/hであったが、実際に210km/hまで加速するとATCブレーキが作動してしまうので、実質は209km/hであった。 後に引き上げられ、220km/hが最高速度となった。

 東海道新幹線からは、1999年9月18日の「こだま473号」をもって引退した。 JR西日本では2008年12月14日の臨時列車「ひかり347号」の運転をもって引退し、0系の営業は完全に終了した。

車両形式・編成

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