彫刻家・和南城孝志(わなじょう たかし)
Wanajo takashi
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和南城孝志(わなじょう たかし)
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大川美術館
2011年7月7日筆
大川美術館は、桐生市出身の大川栄二が約40年にわたって収集した日本・海外の作家のコレクションを中心に,市の支援を
得て、平成元年に市内を一望できる水道山の中腹に開館したところです。
写真でも判るように閑静な山の中腹に建てられた5階建てのユニークな建物で、階段を下りながら作品を観るようになって
います。
現在、日本近代洋画を中心に約6500点を数える収蔵作品と、またそれら作家に強い影響を与えたピカソ、ミロ、ルオーらの
代表海外作品など独自のコレクションがあります。
独特の展示は「絵は人格」であると、その「人脈」をたどるような展示がなされることです。
昨年暮、亡夫(群馬県桐生市出身の彫刻家和南城孝志・1949~2003)の作品を大川美術館に寄贈していただけないかと
桐生市在住の知人から声がかかりました。
寄贈というと普通、簡単に考えますが、お金と違い美術作品の場合、各美術館の規定や審査があり、ある一定以上の作品で
ないと受け付けられません。今回は、桐生市のサンロードに設置されていたシンボル彫刻「輝ける太陽」(大理石・
和南城孝志作)が桐生ガスへと移行されたのが、大川美術館館長の寺田勝彦氏の目に留まり、是非にと請われ話が
進んだようです。
私の方も7回忌が済み、我が家蔵の作品もそろそろ落ち着き場所を決めておきたいと考えていた所でもありました。
個人蔵の場合、長い年月の間に当時のオーナーやコレクターが亡くなられ、その後 作品が何処にあるか不明になる
ということもあります。
そこで銀座の画廊の方に相談したりなどし、個人よりも美術館の方が、丁寧に保管、保存をしていただけるということで、
寄贈(3点 女の顔・ひねり・天の軸)を決めました。
彫刻に限らず芸術というものは、それぞれの人の感性や趣向で好き嫌いが決まるように思います。
独断でいえば好き嫌いの巾が広いのは、それだけ個性的だと言えるのでは無いかと考えているのですが。
和南城彫刻にも彫刻が好きという方、また若くしての才能を認めてくださった多くのオーナーやコレクターが
いらっしゃいます。
心から感謝とお礼を申し上げたいと思います。
この6月に出かけた桐生には、野外彫刻の第1号・桐生市立中央公民館・図書館前広場に「溶融感覚」(1981)(上写真左)、
桐生第一高等学校に「重力のファサード」(1985)(写真中)、パークイン桐生に「モチーフ/垂直Ⅰ」(1988)(写真右)など
多数あり、久しぶりに見た目にもさわやかな新鮮さで若々しく元気一杯な作品が目に飛び込んできました。
この3・11のあまりの甚大な衝撃で気力が消失していた私は、人の人生を尊び勇気や希望を与えるこの和南城作品群
であらためて彫刻家和南城孝志を再認識した次第です。
知人や仲間から「男のロマン」と云われ、お金は残さなかったものの、それより大きな価値あるものを遺してくれたことに、
あらためて想いが至りました。作品はもちろんのこと、心豊かな友人・知人の方々です。
何より人にとって一番大切なものが何んであるかを教えてくれました。
『死ぬな 生きろ』(藤原新也著) 2010年11月6日筆
今年7月に刊行された藤原新也氏の新刊『死ぬな 生きろ』は、氏が述べられているように今までの多く
の著書や写真集と、思惑が異なり“写真と書”から成り立っているものです。
この本を手にした時から、自然に自分の側らに置いておきたくなる本でした。そして多くの迷いや、
悩みそして欲望さえもすべて取るに足りないことのように思え生きる勇気と多くの方々への感謝の気持ち
そして明るささえもいただきました。
本の素晴らしさ、そして感動や、読んだ人の受け止め方など、すでに多くの新聞紙上やその他で述べら
れているのですが、私自身、自分史の1ページに書き加えたくなりました。
『死ぬな 生きろ』の本は、忌憚無く心のうちを話せる不思議な力を与えてくれるもので、私には、本そのものが
藤原新也その人だという気がしたのです。
私は、この歳まで足掛け約50年、ピアノ教師という仕事に係わって来ました。その同じ仕事仲間では、「ピアノ演奏は、
その人の裸の姿(人となり)がわかる」とよく話題になります。たとえ何時間をかけて練習しても演奏はその一瞬が
勝負です。
活字の新聞や本は、何度となく見直し書き直しまた出版社とやり取りがなされて印刷されるようですが、書は、
たとえ何枚も何枚も書きつぶしたとしても、出来上がったものは、たった一枚きりです。
まさにピアノ演奏と同じといえると思います。
今回の『死ぬな 生きろ』の本は、88の写真と言葉と書から成り立っていてその書の字が全部違っています。
それにも関わらず、書の字を見て藤原新也その人だと感じました。
藤原新也氏と私との出会い、それは邂逅という言葉がぴったり当てはまるように思えます。
私が、氏の名前を始めて耳にしたのは、亡夫が余命数ヶ月と告知され闘病生活を送っている時でした。
不勉強だった私は、それまで亡夫の本立てに氏の本が数冊並んでいる事も氏の名前さえも知りませんでした。
亡夫が病床で自身の彫刻作品集第Ⅱ巻の作成を計画している時、画廊の方の関係で、まえがきを
藤原新也氏にお願いしてみようと話が進み、夫が亡くなる1週間前の2003年2月26日、国立がんセンター中央
病院に氏が訪ねてきてくださいました。
その時が初対面です。しかしその当日、夫は、痛み止めのモルヒネ注射開始を、延ばし延ばしし、ただ
精神力だけで生命を保っている有様でした。
そのため私は、夫のことが心配で他のことは、あまりよく覚えていません。
それから夫の死後、氏とは、作品集に載せる原稿などのやり取りや、電話などでお話ししました。
その後、夫が亡くなり随分立った頃、藤原新也氏の写真展でまったく偶然にお目にかかった時は、恥ずかしいことながら、
藤原様から「和南城さん、藤原です」と声をかけていただかなければ、気が付きませんでした。
また1年後の亡夫の遺作展にお出でくださり、お話しすることが出来ました。
夫亡き後のもろもろの雑事が少し片付き、落ち着き始めた頃、藤原新也氏の著書も読み始めました。
藤原氏の著書に出てくる初対面の人との会話、そのすべての人が、亡夫もそうだったように、てらいや、飾り、虚栄
そういうものすべてを消し去って、無垢の心でごく自然に自分の思いを口にされています。
藤原氏を前にした時の亡夫の病床での有様、それは今でも奇跡のように思えるのですが、肉体の苦痛、精神の苦痛
そして対談に対する緊張や不安それらがすべて消え去り、過去一度も見たことが無い清浄無垢の顔かたちでした。
今回の本にある母子のお遍路さんも、亡夫同様、藤原氏の不思議な魅力、空気のように透明で宇宙のような大きな温かい
愛情ある目で見つめやさしく話しかけられると、人は、意識せずに自然に心の想いを口にできる、そのような様子だった
気がします。
藤原氏と対すると、大人も子供も善悪すべての人が心を無にして真の心のうちをさらけ出し、口にできるのではないで
しょうか。
ある作家の方が「藤原さんに自分の自伝を書いて欲しい」といわれたと聞いたように思います。それだけ本人より深く
その内を捉えられる力、それがまた大きな魅力の一つだと思います。
人は悩みや苦しみを抱えている時、他のものを受け入れる心のゆとりも、時間もありません。でもふとこの本の字を
目にした時、その瞬間、たとえ一瞬であっても、心が無になり気持ちが楽になり明るくなる気がします。
亡夫の作品集を通じて、藤原新也氏との出会い、邂逅があったことに感謝するとともに、亡夫・和南城孝志が、
藤原新也氏に「水に還る」(『なにも願わない手を合わせる』に掲載)を書いていただけたこと、本当に幸せでした。
あらためて感謝し深くお礼申し上げます。
哀悼の辞(美術評論家 針生一郎氏ご逝去 2010年5月26日)
針生先生の訃報を知り、人生の師を失ったような悲しみと虚しさを覚えました。
針生先生は、亡夫和南城の彫刻をその出発点からずっと認め見続け理解してくださり、個展の
カタログや作品集に、推薦文を書いてくださいました。
また2003年10月28日~11月9日高崎哲学堂にて開催された和南城孝志遺作展と同時開催された
「語り継ぐ会」で、11月3日針生先生に講演をしていただきました。
そしてその時の録音テープから文字起こしをして先生に添削、加筆をお願いした折の、数度の
やり取りも懐かしい思い出となっています。
その講演のお話は、『空間への旅 ― 彫刻家 和南城孝志を語る』の本に収録されています。
また高崎にての偲ぶ会でもお話をしてくださいました。
奥様を亡くされて後、お一人で家事などされ、お寂しい日々を過ごされている合間も、今まで書きとめた原稿の整理を
し始めているとお便りを頂いたことがあります。
まだまだこれからの日本の美術界を見つめ支えていただきたかったと残念でなりません。
あの世で若くして先に旅立った亡夫が美術論を語りながら、教えをいただくこともあるかと思います。
謹んでご冥福をお祈り致します。
高崎哲学堂にて1903年11月3日 針生一郎氏と洋子 | 空間への旅 |
針生一郎先生に頂いたお悔やみ状 2003年3月末 針生一郎先生から妻洋子へ頂戴した悔み状