私が賭けた方針
『沖縄決戦』 八原博通 著 1972年 読売新聞社
沖縄守備の第32軍高級参謀の手になる戦記である。神直道航空参謀は、命令により本土に帰還したが、八原博通高級参謀は、軍司令官と参謀長の自決で司令部が解体したのち、脱出。難民にまぎれて北へ向かううち、米軍に収容されたが、身分が露見して捕虜となった。
司令官らの自決の前に、参謀たちは、ある者は遊撃戦を、ある者は本土へ帰還して戦況・戦訓の報告といった具合に司令官から命令を受け、司令部を脱出していた。八原高級参謀の場合は、「本土決戦参加」であった。このとき脱出した参謀の中で生き延びることができたのは八原高級参謀のみであり、先に本土に帰還していた神直道航空参謀とともに司令部の実情を後世に伝えることとなった。
「戦時中ならびに戦争直後にかけて書き留めておいた記録」に依拠して書いたものだけあって、本書の記述は詳細を極める。
沖縄守備軍は米軍の上陸開始に際し、ただちに反撃を加えなかった。
――いま首里山上に立つ日本軍首脳部は、全然その気配を見せない。ある者は談笑し、また他の者は煙草をふかしながら、悠々敵の上陸作戦を眺めている。何故だろうか? 我々日本軍は、すでに数か月来、首里北方高地帯に堅陣を布き、アメリカ軍をここに誘因し、一泡も二泡も吹かせる決意であり、その準備は整っているからなのだ。状況は、まさに予想した通り進行している。我々は敵が嘉手納に上陸した後、南下して来るのを待っておればよいのだ。――
神航空参謀の言う「私自身は決戦と解していたが沖縄軍は持久戦と解していた」というありようは、沖縄本島での緒戦の場で、はっきりあらわれていた。そして、沖縄軍の作戦の中心に位置したのが八原高級参謀であった。二人は作戦をめぐって対立していた。
神航空参謀の脱出にあたって、八原高級参謀は、岳父へのメモを託すが、そのときの不安感を、こう書き留めている。
――私と立場を異にし、常に日本軍の側に立っていた彼。その彼が天運を全うして、万一東京に帰着した際、私の主義主張を、どのように中央部に報告してくれるかに多大な不安を抱かざるを得なかった。彼の報告いかんによっては、私が賭けた沖縄作戦指導方針に対する論理が、永久に葬り去られる懸念なきにしもあらずだからである。――
神直道の『沖縄かくて壊滅す』と八原博通の『沖縄決戦』。もし、どちらか一方を手にとったなら、もう一方にも必ず目を通す必要があるようだ。
(2012.5.26)
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