つらい時代

『私の少年時代』 金達寿 1982年 ポプラ社

 作家・金達寿には、『わがアリランの歌』という半生記があり、またその少年時代の回想として、『私の少年時代』がある。また、40歳ごろの著作である『朝鮮』(1960年・岩波新書)においても、その生い立ちと日本への渡航のいきさつが簡単に触れられている。
 慶尚南道の馬山近くの農村で、中農の子として生まれた。その後、日韓併合とそれにともなう社会の変動と、それに翻弄された父が走った放蕩の結果、祖母と幼かった金達寿、そのすぐ上の兄を残して、両親と長兄は日本に出稼ぎに出る。最初はひと稼ぎして戻るつもりだったらしいが、結局、父は日本で病没。すぐ上の兄も病気で亡くなったあと、迎えに来た長兄に伴われて日本に渡った。10歳のことである。祖母は親類の家に身を寄せたという。
 日本に来たものの、日本語はまったくわからないまま、まずは納豆売り、屑拾いで家計を助けることになった。あるときは印刷工場に奉公に出たこともある。ちなみに印刷工場への奉公は、顔を出してからわずかの間に兄に連れ戻され、事実上仕事らしい仕事はしていない。著者はこんな風に回想している――それにしても、いま考えてもふしぎなような気がするが、いったいその印刷工場の主人は、日本語もまだ知らなければ、「あいうえお」の「あ」の字一つ知らない私を雇って、どうするつもりだったのであろうか――
 この間、教育らしいことは故郷にいるときに父から『千字文』を少し教わったくらいで、学校はおろか私塾にも通っていない。
 だが、これではいけないという考えが、周囲の者にはあったようだ。ことに長兄は、まだ裕福だったころに故郷で4年制の公立普通学校に通っていたこともある。――私の集落でそんな学校にかようことができたのは、長兄声寿のほか一人しかいなかった――という。「おまえも学校へ行くんだ」、そう言って夜学へ通うことを勧めたのは、その長兄だった。
 夜学は、未就学者対策のために設置されていた公立の夜間小学校だった。12歳以上を対象に、6年の課程を3年で終わらせるというものだった。そこに1年近く通ってから、今度は本人の希望で普通の小学校に通うようになった。3年の終わりから通い、結局、6年生になったところで中退している。
 この学校では、日本人の同級生と喧嘩を繰り返したという。一方、遠足の費用が払えず、あきらめようとしたとき、同級生たちのカンパでいっしょにいくことになったこともあったという。また、『少年倶楽部』や『立川文庫』などの読み物を借りて読むこともあり、のちに創作を志す下地がつくられていったようだ。
 学校を中途でよしてからは、乾電池工場の臨時工、個人経営の町工場での奉公、風呂屋のカマ焚き、映写技師見習い、そしてまた屑屋と、働く機会をみつけては働き続けた。朝鮮人であることで決まりかけたにみえた就職を断られた経験も記されている。一方、まったく気にせずに雇いいれられた経験も記している。風呂屋へ住み込んだ件については――さきの印刷工場と同じように、よくも朝鮮人である私を雇ってくれたものだと思うが――と振り返っている。この風呂屋では、仕事が終わると男女の奉公人が、そろって一つの湯船にくつろいで入浴するするのを見て仰天している。
 その後、屑屋を続けながら県立横須賀中学夜間部明徳中学に入学するが、屑屋と学業は時間的に両立せず、数ヶ月で通学を断念している。それからは早稲田大学の文学講義録を独習するなどしながら、朝鮮人集落の文学仲間と親交を深め、屑物として買った謄写版で同人誌を発行するようになる。タイトルは『雄叫び』。
――念のため辞書を引いてみたところ、日本語のそれは「おさけび(雄叫び)」ではなく、「おたけび(雄叫び)」であったということだった。……(引用中略)……そういうことでも、私たちは日本語を一つおぼえ直したわけだった――
 こうした日々を送るなか、日大専門部芸術科創作科に入学する。入学資格として中等学校4年修了の学歴が要求されたが、それは詐称して試験を受けたのだという。同じ年、文学仲間もまた同じ日大の法文学部専門部に入学を果たしているが、こちらは中等学校に4年まで通ってはいたらしい。
 入学の翌年、校内誌に処女作を発表したことに触れ、この回想記、『私の少年時代』は終わる。少年時代の苦労が、ひょうひょうとした筆致で、ただただ現実としてたんたんと記されたこの本の副題は、「差別の中に生きる」だが、著者は「はじめに」で、自分の少年時代は、ただ単に「甘ずっぱいもの」というものではなかったとしたうえで、こんなことも書いている。
――いわゆる戦前・戦中の私の少年時代は、一部の者を別にすると、日本人にとってもつらい時代で、そのうえさらに、私は「差別される」在日朝鮮人であったから、といったほうが、真実に近いのではないかと思われる。――
 「買ってあげたいんだけどねぇ」、そう言って金がないので納豆を買うのをためらう町の人、金達寿に通称をつけようとする長兄に、本名のままがよいとすすめる教師、「朝鮮の人はねぇ」と就職を断る本屋の主人、「今日から社会主義者になる」と宣言する風呂屋の番頭……たしかに、当時の日本人の庶民生活が、海を渡ってきた少年の目を通して垣間見える本でもある。

 (2012.5.18)

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