先輩の回顧録
目次    BGM リンゴの唄
「ニキジン電車」
セピア色の寫眞
戦 後 の 頃
模型作りの思い出

昭和一桁時代の中央線電車の様子は


「ニキジン電車」                 T.I

私が生まれ育った横浜久保山辺りは当時まだ寂しい場末、久保山線のFHが往き来する市電も電鉄時代からの老朽車や震災で被災した応急改造車等オープンデッキのボロ車が多く走っていたようです。こんな電車達でしたが私は大変気に入って親にせがんでは電車見物にでかけていたそうです。何しろ老朽車揃いのため上り坂を物凄い音で喘ぎ上っていて、子供の私には「ニキジン・ニキジン」ときこえたらしく、家に帰ってからもブリキの玩具を押しながら「ニキジン・ニキジン」と遊んでいたそうです。「ニキジン」は親戚中に知れ亘り、今でも法事に集ると「ニキジン」が話題になる程で「ニキジン」は電車の代名詞にもなった訳です。この「ニキジン電車」も学校へあがって読み書き出きる頃には全部が200号台の番号になっていましたし、その頃までには久保山線には、ドア付で屋根に梯子のある「スイセン電車」(市電最初の密閉式300形300〜309)や、これによく似た仲間達(330形、340形 )もよく見かけるようになり、坂を下って初音町交叉点に行くと、Gの「ガーラン電車」(旧310形であった400形 400〜419)が甲高くピーポー(ホイッスル)と鳴らし左右に首を振りながら走っていました。交叉点のそばには「プーオン電車」(湘南電鉄デ1形)の黄金町駅があります。この電車が私の初めて見る郊外電車でしたが、なかなか乗る機会がなく、「トコトン電車」(京浜電鉄デ41形)も乗った思い出がやはりありません。太田橋を渡って阪東橋へ出ると大きな「ドトロン電車」(当時唯一のボギー車1000形)に出会います。「ドトロン電車」は私にとって憧れの市電、父親の所要でよく連れ立って弘明寺へ出かけましたが「ドトロン電車」が来る迄、根気よく待ってから乗車したものでした。しかし何故か、横浜市電の主力500形や、鋼製365形に縁遠く、420形に至っては見た覚えもなく、神中鉄道や省線電車、東横電車は全く知らずに就学期を迎えました。     【2001年2月記】


−セピア色の寫眞−                           Y.M

 戦前、横浜の伊勢佐木町に「寿百貨店」というデパートがあった。今は「松坂屋西館」となっているが、目下改装のため休館中である。小学校2・3年(昭和14〜15年)の頃、よく母親の”デパート巡り”に付き合わされて、年に何回かこのデパートを訪れた。
あるとき、そこの確か5階だったと思うのだが、玩具売場に置いてあったガラスケースの中に、模型の機関車や客車が十数両並んでいるのを発見した。中でも、流線型の電気機関車とマルーンの車体に一際鮮やかな白帯の展望車が特に強く目立っていたのが、今でもうっすらと脳裏に残っている。形式などは無論分かるはずはなかったが、今にして思うと、電気機関車の方は紛れもなくEF55であり、展望車の方はスイテ37040[後のスイテ49]ではなかったかと思われる。ほかに、青帯をめぐらした二等車[スロ30960→オロ36か]や、食堂車[スシ37800→スシ37またはスシ37850→マシ38か]、派手な赤帯の3等車[スハ33650→オハ35]などもあったような気がする。これらは昭和9〜14年の製造で、恐らく当時の花形だった特急「富士」あたりを、模型用に短く編成替えしたものが置かれてあったのではないかと想像される。3線のブリキレールに載っていたので多分”Oゲージ”だったんだろうが、それよりももっと大きな車体に感じられたし、今でもまだそうであったような気がしている。
 昨今の天賞堂に代表される”精密模型”とまではいかないまでも、初めて見る”精密な造形美”はそのときまでゼンマイ仕掛けのEF53まがいのブリキ製のおもちゃしか見たことのない目には、物凄く崇高な物として写った。少し大袈裟な言い方だが、全身に電気が走ったような衝撃を受けてその場にしゃがみ込み、かなりの時間、ガラスケースにへばり付くようにしてジッと見惚れていたようである。母はそんな私に気づかずどんどん行ってしまったものだから、危うく迷子になりかけたことを覚えている。それ以前は、なにがしかの小遣いを貰って屋上に上がり、電動の馬に乗ったり大人がやってる「射的」を眺めたりして母の買い物が済むのを待っていたが、その日から後は、このガラスケース前が”待機場所”となった。毎回、「こんなのが家にあったらいいな。買ってもらえたらいいな」と思いながら見とれていたが、子供心にも「相当に高いんだろうな」と感じられたものだから『買ってもらおう』なんて大それた考えは持ったことがなかった。
 これが鉄道模型との初めての出会いであった。それから何年か経って戦争が熾烈さを増してきた頃、これらの車両群は、いつの間にか、ガラスケースの中から忽然とその姿を消してしまったのである。色褪せてセピア色に変色してしまった”古い寫眞”のアルバムを見ているような、遙か遠い昔の”淡い想い出”である。    【1999.9.20 記】

  


−戦 後 の 頃−                               K.M

 横浜駅 もともと東海道の道筋に作られ、市の中心部からは外れた場所にあった横浜駅と、相模鉄道の砂利置き場、運河沿いの倉庫などその周辺部は、戦災には遭ったものの他の大部分の市街地に比べれば被害は少なく、ほぼ戦前の姿をとどめていた。 しかしその実、駅舎などは当時の日本を象徴するかのように荒れるにまかせており、誰が活けたのであろうか、ホームの柱に吊された六角形の焼夷弾の残骸に挿された名もない一輪の花が、荒んだ心を和ませる唯一の救いであった。 
 危惧された米軍の進駐も、当時のパニックの中で私たちが想像していたものとは異なり、恐れていた婦女に対する暴行、略奪などは殆ど杞憂に終わり、日焼けした赤ら顔ながらる恐る接してみると、それは陽気で明るい紳士の国の兵隊たちであった。兵站線を軽視たが故に苦戦を強いられた日本軍と異なり、膨大な物資に恵まれ、軍隊とはいえデモクラシーをベースにした環境が彼らをそうさせたのであろうか。  かっては礼儀正しく清潔好きであった日本人も、敗戦を境に環境は一変し、虱が媒介する疹チフス全国的に蔓延した。一役買ったのが米国で開発されたDDT。主要駅の改札を通れば、待ち構えた米兵たちによるDDTの洗礼は避けられなかった。誰彼の区別無く、頭と云わず中と云わず白い粉を吹きかけられ、有り難さと迷惑さとが入り交じった心境であった。 これと時を同じくして、全国の国鉄の主な駅には赤いネオンも鮮やかな RTO の文字が輝いた。米軍鉄道輸送司令部の略称で、彼等とその家族向けの旅行案内所も兼ねていたのではなかろうか。 街一帯に広がる暗い焼け跡,焼けトタンづくりのバラックにはおよそそぐわない光景であった。
  街角の米兵 ガムを噛み噛み街を闊歩する GI(一般の兵士たちの)達は底抜けに明るい。市電に乗れば、運転手が唱える「出発進行」をまねて「パッチンー」と素っ頓狂な声を張り上げ乗客を笑わす。これがついこの間まで命を懸けて戦った相手だとはとても思えない親善の一齣である。 一方、ジープを運転しては気軽に路地の奥まで入り込んでくる連中もあり、子供達もこんな米兵にすぐに馴れ、誰から教わったのか「ギブミー・チョコレート」を口々に手を差し出す。笑ってこれに応じる姿にかっての鬼畜アメリカは、今や暗い世相に明るい光を投げかける救世主にも思えた。 ブルドーザーとセスナ機 伊勢佐木町の裏通り若葉町あたりの焼け跡に、キャタビラのついた奇妙な機械が動いている。登校時に京浜電車の窓から見た光景であった。帰りに見ると、そこは一面きれいに片づいているではないか。乗客達も一様に感嘆の声を上げた。整地の部分は日を追って広がって行き、一週間も経たない中に舗装された滑走路が出来上がり、軍用のセスナ機が離着陸を始めた。見ている者は皆一様に思ったことであろう「これじゃ負けるはずだよ」と。今では珍しくもないこの奇妙な機械が「ブルドーザー」と云う物であることは後になって知った。セスナ機が飛んだこのミニ飛行場も、五十数年後の今は平凡な町並みに戻ってしまった。
  バラック電車 戦災によって多くの車両を失い修理もままならない鉄道も、食料や職を求めて移動する群衆の前に大混乱を呈した。まともな入口からは乗ることもできず、窓から乗り降りすることは日常茶飯事。挙げ句の果てには連結器の上、屋根の上まで鈴なりの状態であった。私も横浜から東京へ行く折、混雑に好奇心も手伝ってEF53であったろうか、前部のデッキに一人の黒人兵とともに乗り込んだ。動き出すとそのクッションの悪さ、猛スピードと烈風、何しろ運転手より前にいるという感覚が「何か起こったら」の恐怖に駆られ、品川まで生きた心地もなかった。その後暫くしてこれらの施設への立ち入りは進駐軍の命により禁止(OFF LIMIT)された。  さながら阿鼻叫喚のごとき車内とは裏腹に、扉一つ隔てた隣は全面総ガラス張りの窓、綺麗なモケット張りのシートに整備され、車体窓下に白帯を巻いた進駐軍専用車。被占領国の悲しさ、苦い思いでのみがよみがえる。
 赤い電車 今では12両編成の大型車両が快走する京浜急行(当時は東急京浜線)も戦災で多くの車両を焼かれ、230型などの小型電車が夏草の生い茂る街中を単車でトコトコ走っていた。それも同じ線でありながら横浜以南を走る旧湘南線よりはましで、塗装、窓ガラスなどもポツポツ整備され始めていた。これに比べ私が通学に利用していた湘南線の如きは、既に戦時中から遭難電車の異名が付けられ、窓から乗り降りする乗客によってガラスはおろか、窓枠に至るまで全て剥ぎ取られ、朝夕の混雑時には板張りのシートの上にまで全員総立ちになり、座っていようものならそれこそ非国民呼ばわりされた。 標準軌だから済んだものの、若し狭軌であったなら高い重心のための大事故につながったかも知れない。(事実国鉄や東横線ではこの様なことはなかった) 又、雨でも降ろうものなら車内で傘を差さなければならない嘘のような本当の話。余談ながら、太平洋戦争当時の昭和17年 堀之内・京浜久里浜間の新線が開通した。新線とは云え資材の極度に不足していた当時のこと、砂利のない道床、古いレールなど子供の目から見てもひどい線路であることは分かった。途中駅も、当時日本軍が占領した島の日本での呼び名 鳴神(キスカ島?)、昭南(シンガポール島)と名付けられた。当然のことながら戦後は現在の新大津、北久里浜と改められた(2駅の旧駅名がどちらだったかははっきりしない)。 私たち年代の者はこの時代に生き、否応なしに対処させられた。当時のことは今になってみると遙かな思い出にすぎないが、もしもこんな時代が再びなんてことになったら、それこそご免願いたいものである。 あの頃の電車好きの少年は、本年「古希」を迎える。           【2000年4月記】  


−模型作りの思い出−                       H.K

 私は小学校1年から6年生まで父の仕事の関係で中国ですごしました。当時男の子は誰でもがチャンバラごっこをしました。使用する刀は自分のナイフで削ったものです。ナイフに糸をつけてバンドに縛りポケットに入れていました。絶対に他人に刃を向けたりはしませんでしたし、事故もありませんでした。取り調べもない時代でした。高学年になると航空隊や高射砲隊に遊びに行きました。兵隊さん達はレンガにタガネで飛行機の型を掘りジュラルミンを溶かして流し込み、冷ましてから取り出しヤスリで削りアクセサリーを作っていました。私は木で飛行機の胴体や翼を削り出しメシツブで貼り合わせたり釘を打ち付けたりしていました。
 工業高校を出て太平洋炭砿に入社(今全国で二砿しか残ってません)坑内に入りました。坑内で使用する坑木の中にカツラや朴の木がありました。これを持ち帰り乾燥させ図面をひいて本格的に削り始めました。今から48年前のことです。それからっずっと飛行機ばかり作ってきました。作り始めの頃はよく人にプレゼントしてましたが、目標を立てました。それは日本の空を飛んだ飛行機を100機種製作しようと。国産機は勿論B29やジャンボ機などこれらは1/50の縮尺で、現在90機、来年の航空100年に向けて制作中です。材料費はほとんどゼロ、塗装費(ラッカー)が少々かかる程度です。

 5年か6年前に木工雑誌に機関車の模型がでていました。この程度なら自分も作れると飛行機製作の合間に作りました。こちらも材料費はあまりかかっておりません。JRで釧網線に蒸気機関車を走らせまた展示会もすると新聞に出ていましたので、机の上に積み上げられている機関車模型に日の目を見せてやりたいと思い、JRに連絡し今回の展示に至りました。これもNHKのドラマ”すずらん”のおかげです。

 わたしは廃材を多く使用し、部品を一つ一つ削り貼り合わせ組み立て色を調合したりして楽しみながら完成させるのが模型作りの醍醐味と思っております。
                                          【2000年1月記】



- 昭和一桁時代の中央線電車の様子は・・・・・その他思い出すまま -       A.K

 鉄道に魅せられ、昭和の始めにこの世に生を受けてより七十年余りを過ぎ、職業は心ならずも建築という無縁のものを選び、戦時中の一時期はその頃の風潮に流されて艦船模型に目が行った事もありましたが、やはり本命は鉄道車両であり、その模型でありました。今でもつくづく此の趣味を持っていてよかったと思って居ります。

 当初、記憶を辿ると東中野に住んでおりましたので、現在と同じく列車線を使って快速運転(当時は急行と称して居りました)が朝と夕方だけでしたが行われており、運転間隔もかなり頻繁でその為か当時存在した踏切はなかなか開かず、通行人等が無理に通ろうとした為の事故も時々起きたとの事です。車両の形式はは所謂関東型と称された17m車の5両または7両編成車で木造車も多く、殊に上り側の先頭車には旧モハ10が使用された編成が沢山あり、まるで身を揉む様にして高速で走る様は子供心にも随分無理をしているように思われました。更に昭和10、11年には旧モハ51型が新製と同時に全車東ミツ配属となり、編成の下り側先頭に連結された時には、関東ではスカ線以外には見られぬ堂々たるものになりました。しかし、それと共に編成美の点から言うと上述の旧モハ10等の木造車群の存在は如何ともし難く、殊に更に後年、戦時となって、京浜線の二等車の運用が中止され、旧サロ35、同37が三等代用車として当線でラッシュ時の増結編成に組み込まれて使用され始めた時は、最新式から最旧式、更に格下げになったとはいえ二等の青帯、標記を消しただけの旧優等車と正に百 鬼夜行の有様で後年の戦後の大混乱の予兆を示す様なものでした。一方総武直通の緩行線は20m車のモハ40、クハ55等が新設の津田沼区(東ツヌ)に配属され、MTMTの四連でラッシュ時には中野まで乗り入れて来ていて折り返しで運用されており、車両だけに限定して考えれば、17m車も多用されているとは言いながら、急行線より質は良かったと考えられます。
 中央線はラッシュ時以外はMTMが基本編成で前述の旧モハ51が付いておりましたが、一時期国分寺以西では中間の付随車を旧クハ38とし、東京寄りのMを切り離してMTとして運用したこともあったそうです。但し私は実見しておりません。又、増結用の編成は17m車で、MT,MTT,MTMT等と各種各様で前述の旧モハ10は何故か必ず先頭車になるように組み込まれて居ました。

 その後、昭和15年に世田谷区内に転居致しましたが、丁度小田急の沿線で此の線を使う事が多くなり省電とは一味違ったスタイルにすっかり魅せられました。とは言ってもドアエンジン装備車は僅か数両で手動が主流でしたが、それも又結構面白いものでした。又そろそろ戦時色が濃厚になり、車両不足を補う為か、国鉄のモハ1型の払い下げを受けモハ51型と称して使用していたのにはびっくりしました。これは中央線のラッシュ時の総武線乗り入れ用に使われていたのを見たことがあり、大変懐かしく思いましたが、走行音の凄まじさは相変わらずでした。何でも社内ではギャングと呼ばれていたそうです。またこの頃はクロスシート車もかなり沢山あり、結構乗り歩いたりして楽しめました。編成はMMかMTが多くMTMやMTMT等の長いものはラッシュ時や海水浴客輸送以外には余りありませんでした。それどころか、閑散時など新宿発片瀬江ノ島行きがたった1両のこともあり、今では想像も出来ない事もありました。しかしこれも短期間で激しい戦時輸送と空襲の被害で何もかも目茶苦茶になってしまい、復興は迅速で助かりましたが、戦後の輸送需要は凄まじく戦前ののんびりとした雰 囲気は失われてしまいました。これは確かに社会の発展に他ならない事ですが、余りにも性急で少し残念です。

 鉄道模型の話しとなると所謂Oゲージから始まります。これは極めて当然で系統立った発展はこの段階から始まった訳ですが、実はこの前段階にに30分の1、35mmがありましたが、これは余りにも巨大な為、縮尺のみを40分の1とした規格が出現し、これが商業的に成功して当時のデパート等でも販売されました。車種はかなり多くC51型、C54型、スハ32600型(いずれも短縮型)、貨車(米国風のカラフルな自由型)等で客の注目を引いて居りました。小生も数両を所有しておりまいたが、数回の引っ越し等で紛失してしまったものが多く残念に思って居ります。それはさておき、幼児のころは知りませんでしたが、ある時本屋で科学と模型という本を見つけ、鉄道模型の記事が沢山ありましたので大変気に入り毎号購読するようになり、そのうちHOゲージも顔を出し始め、益々夢中になりました。初めは執筆者はまちまちでしたが、段々まとまって来てまくらぎ会というグループが活動するようになりました。これは今鉄道模型趣味等を発行している会社の発足当時の形です。小生も学生の気楽さで何回か其処へ遊びに行っている内に敗戦となり、暫く時間を置くうちにTMSが発行 されるようになり、ひょっこり顔を出した所、簡単な図面を書いてみないかと誘われました。自信は全く有りませんでしたが、丁度戦後のインフレの激しい時で、少しでも収入の欲しい時でしたので恐る恐る指導を受けながら作図を始めました。大体四,五年も続いたでしょうか通巻28号から80号までで今でも時折自製の図を目にすると恥ずかしいながらも懐かしく感じております。

 模型の製作は生来不器用ですので専門の会社に出入りしながら実物の方に気を取られて殆どやらず、折角のチャンスを無駄にしたと後年になって悔やみました。今ではその穴埋め?に既製品をボツボツと買い集め自宅の小さなレイアウトで時々運転して楽しんで居ります。手持ちの車両はEF58、スハニ35、スハ44等かっての特急の編成を真似た短縮型やら旧モハ41、同クハ55、蒸機ではタンクロコや貨車が若干、それに京急のデハ101がある位であとは輸入品のメルクリン車の小型蒸機や二軸の旧型客車や貨車が戸棚の隅であくびをしております。小生の夢としては、何時の日かこれらの車両が同時に走行出来るような大レイアウトを実現させたいとは思って居りますが果たしてどうなりますことやら?

 長々書き連ねましたが、鉄道を、そして模型を愛する気持ちは若年の頃と比べても少しも変わって居りません。いや寧ろ強くなっているとさえ昨今は感じて居ります。    【2000年1月記】