私たちの昭和20〜40年代前半
20.蟻の街のマリア 昭和33年1月27日 朝日新聞朝刊 天声人語より国産車の画像:サイト 「カタログで見る昭和30年代の車」 より拝借しました目 次
番外 先輩達の証言 子供の頃戦争体験をしてきた昭和一桁代の先輩達の証言集
1. こんな時代でした 昭和22〜40年代前半まで あんなこと こんなこと ありました
2.物のお値段など 昭和30年代 子どものお小遣い5円10円で買ったのはこれ
3.昭和32年(1957)8月15日 朝日新聞 社説記事(抜粋) に思う
4.路面電車 時代 時代 時代 時代の証人
5.少年M 小学生の頃
6.グラマーな電車 昭和29年阪神電車
7.続少年M 国産車
8.続々少年M ダイエー ルノー2018.11 追記
9.少年Mのカーグラフィック キャノネット 1960年代のアメリカ車 日本車
10.日本の交通 昭和29年発行 講談社の学習図鑑 より
11.新しい憲法のはなし 昭和22年8月 文部省発行
12.完全給食 昭和25年8月15日 朝日新聞記事より
13.サンフランシスコ講和会議 参加国、欠席国
14.もはや「戦後ではない」 昭和31年度経済白書より
15.昭和38年10月22日 朝日新聞神戸版 記事より
番組表
企業広告
株価一覧
社会面記事
16.物の値段 その2 参考資料:値段史年表 週間朝日より
17.テレビ時代 昭和34年 朝日新聞夕刊 今日の問題より
18.三輪禍 昭和33年 朝日新聞夕刊 今日の問題より
19.民衆 昭和34年8月15日 朝日新聞朝刊 天声人語より
21.女教師の150センチ・ライン 昭和30年12月15日 朝日新聞朝刊 天声人語より
22.デザイン盗用 昭和33年6月30日朝日新聞朝刊 天声人語より
24. 昭和33年11月時刻表より ビジネス特急こだま 寝台特急ブルートレイン あさかぜ 誕生
25. 昭和40年11月時刻表より 東海道新幹線増発・スピードアップ(こだま4時間、ひかり3時間10分に)
26. 記事の大小軽重 昭和31年10月2日朝日新聞朝刊 天声人語より
27. 北京の祭典 昭和29年10月2日朝日新聞朝刊 天声人語より
28.あの音にあいたい ユースホステルのミーティング
1.こんな時代でした
参考資料:昭和・平成家庭史年表、 BS時代の歌1000曲、自動車アーカイヴ、1億人の昭和史、 朝日新聞等
そして40年代に 夢中になりました
深夜放送 オールナイトパートナー: ラジオ関東
オーサカオールナイト夜明けまでご一緒に: ラジオ大阪
オールナイトニッポン 、パックインミュージック、ヤンタンビートルズ イェスタディ レットイットビー イエローサブマリン GS スパイダース:夕陽が泣いている ザ・ワイルドワンズ:思い出の渚
ザ・サベージ:いつまでもいつまでも タイガース:花の首飾り歌謡曲 園まり:逢いたくて逢いたくて 伊東ゆかり:小指の想い出 山本リンダ:こまっちゃうナ
ジャッキー吉川とブルーコメッツ:ブルーシャトー
美空ひばり:真っ赤な太陽 世界は二人のために:佐良直美 恋のハレルヤ:黛ジュン
加山雄三(弾厚作): 君といつまでも お嫁においで 夜空の星和製ポップス&フォーク マイク真木:バラが咲いた 荒木一郎:空に星があるように 森山良子:この広い野原いっぱい
フォーククルセダーズ:帰ってきたヨッパライ
ピンキーとキラーズ:恋の季節愛読書 少年サンデー:天才バカボン 少年マガジン:モーレツア太郎 巨人の星
少年キング 平凡パンチテレビ 若者たち(フジ) 氷点(NET) おはなはん(NHK) 銭形平次(フジ) 笑点(NTV)
トッポジージョ 魔法使いサリー コメットさんスポーツ ボーリング:須田、中山、並木 車 HONDA S500 サニー カローラ 白いクラウン CM 大きいことはいいことだ イェイェ ファッション ミニスカート ミリタリールック 学園紛争 ベトナム戦争 アングラ ヒッピー 原宿族
お小遣いは 5円〜10円でした
遠足のお菓子 ねだん 解説 森永ミルクキャラメル 小10円 大20円
黄色い箱でおなじみ 今もあります明治クリームキャラメル 同上
こちらは赤い箱
見かけること少なくなりましたが健在です。アーモンドグリコ 10円 おまけの切手が目当てです カバヤ キャラメル 10円 カバヤ文庫 ミルキー 10円 ペコちゃん ミルキーはママの味 不二家 フランスキャラメル
3色(赤白青)の箱に入って大変美味でした明治クールカルミン 10円20円 今もあります ハリス ガム 10円 このメーカー今はカネボウに吸収されて グリコ ビスコ 20円 サンドビスケットの最高 駄菓子 ココアシガレット 1箱5円 たばこをくわえる真似をしたかったのです ぽん菓子 こめはじきとかばくだんと呼んでました みずあめ 1本5円 街頭紙芝居とセットです 後ろのほうでただ見しました にっき 5円 わらびもち 5円 するめ(足のみ) 5円 はったいこ 関東では麦焦がし すこんぶ あてもん 1回5円 一等たい 二等かつお 三等たこ 四等あなご 五等えび
等級に応じた大きさのチョコやわらびもちが当たります私は昭和30年代の駄菓子を思っている。
いったい、あのころの駄菓子はなんだったのかと。
私には菓子といえば、あの駄菓子屋のガラス箱やガラス瓶にはいった変わり玉だとか、
ラムネ菓子、10円のカバヤキャラメルが、真っ先に目に浮かんでしまうのである。
昭和40年代から始まったこの国の変化はどこか間違っていたのではないか。
ただモノさえ身のまわりに増えれば豊かになると信じて、やみくもに働いた男たち、
ようやく家から開放されて、社会的に羽ばたく場が生まれ、社会参加へと道が開かれ、
消費を通じて自己実現の未来が近づいたと、目を輝かせた女性たち、学歴が高ければ
幸せになれると、ひたすら子どもの尻を叩いた親たち、いろいろな人が一生懸命築いたつもりの
半世紀は、ほんとうに日本人を豊かにしたのだろうか。
モノはたしかにあふれている。しかし、それに反比例して、われわれの心は、
小さく小さく縮んでしまったのではないか。
貧しくても、目が澄んで輝いていた時代、どこにあるのかわからないが、
それでもすばらしい未来がどこかに待っているように思えて、
気分だけはのびのびしていた時代、あの時代はなんだったんだろう。
そこへ戻りたいとは思わないにしても、すべてを考え直す原点として、
昭和30年代はあったように思うのである。
そして私にとって駄菓子は、間違いなくあの時代のシンボルなのである。
松平 誠著 駄菓子屋横丁の昭和史 小学館 2005年8月20日第1版より抜粋文房具
コーリン鉛筆 1本5円 残念なことにこのメーカー今やありません 色鉛筆 1本10円 落ち着いた感じの三菱、鮮やかなトンボ 学習帳 1冊20円 竹定規 30センチ、親のは尺目盛り 三角定規 20円 目盛りはすぐに消えてしまいました コンパス 30円 鉛筆を挟みます すぐにぐらぐらになりました わら半紙 2枚1円 習字筆 100円 馬の尻尾の毛がいいとか
先生は大きな筆に水を含ませて黒板に手本をしめしました
先生はみな達筆でした墨 墨は授業の前に一生懸命磨りました
教室全体に墨のにおいが
画用紙 薄2円 厚5円 ぺんてる絵の具 12色入り150円 ギターペイントやさくらマットもありました 筆箱 150円〜 セルロイドからビニールのチャック付に変わってきました
セルロイドの発火危険性が問題になり始めた頃でした消しゴム 5円 香りのついたカラフルなものが人気でした フエキのり 10円 あまりくっつかなかった ほのかに甘いかおりがしました セメダインC 20円 あのにおいはたまらない 木工工作の必需品 肥後守 50円位??
現在もお一人が製作されております。 男子はみんな持ってましたボンナイフ 5円 片刃のかみそりで折りたためました そろばん 850円 親の使っていたのは5つ珠です
授業で使うのは4つ珠で学校で一括購入しました
ランドセル いくらしたのでしょうか? 安くなかったでしょう 教科書 無償ではありませんでした 紙せっけん 30円
給食の前には必ず手を洗います 当時はまだまだ衛生状態がよくありません学習雑誌「小学*年生」 *:1〜6
130円 付録が楽しみでした 少年朝日年鑑 240円 読み応えあり 社会の勉強になりました ナショナル乾電池 単1 35円(紙筒)
40円(ハイパー)豆電球の点灯だけではつまらなかった
マブチのモーターが出始めて動く工作が出来るようになってきました
電池はすぐにからっぽに
ゴム動力模型飛行機キット 150円 竹ひごはろうそくの火であぶって曲げます 紙ヒコーキ 10円 厚紙でできています。
切り込みが入っているので簡単に組み立てられました。
飛ばし方は自分で見つける楽しみがあります。
ぶつかったりするとすぐに折れてしまいます。コマ 50円 手のひらに載せることができました やっこ凧 30円 広場であげることができました 日光写真 ドッヂボール 300円 道路は放課後の子供の遊び場でした グローブ 700円 子供用は布製か豚革でした プラモデル 300円〜 昭和33年マルサンから登場しました
アメリカ製は高嶺の花でしたダッコちゃん ウィンキーが正式名称です
180円 ウィンクしない偽物が氾濫してました 昆虫網、とりもち、虫かご 20円 5円 50円 たべもの お肉屋さんのコロッケ 5円
バナナ 多分1房60円 4房現在の価値
1000円相当
感想:病気になったときに食べさせてもらった、 皆で分け合って食べた
昭和青春グラフィティーより
食パン 半斤 15円 給食に出たパサパサしたコッペパンよりは美味しい あんパン ジャムパン クリームパン 10円 ろばのパン 蒸しパンです
昭和30年パン売りのロバさんの歌とともにチンカラリン支那そば 35円 チキンラーメン 35円 インスタントラーメンの元祖 アイスキャンデー 5円 夏だけの限定ものでした
ソフトクリームは喫茶店で食べるものです三ツ矢サイダー 35円 リボンシトロンもありました キリンレモンはもっと後から バヤリースオレンジ 40円 タケダのプラッシーも登場 渡辺のジュースの素 CM:ほほいのほいっともう一杯渡辺のジュースの素ですもう一杯 のりもの 市電 13円 市バス 15円 国鉄 1区間10円 タクシー ダットサン70円(基本) 自転車 1万8000円 子供は大人用に三角乗りしました げた 80円 学校へはズック靴、放課後は下駄に履き替えて 参考 トヨペットクラウンRS型 101万4860円 昭和30年 ソニー トランジスタラジオ 1万8900円 昭和30年
16.物の値段 その2に続く
つつましく、まじめに生きていく日本人の姿が読み取れます
復興から発展へ日本全体が一つの目標に向かってました。
約50年後の現在 目標のなくなった日本人はどこへ行くのでしょう。
【2005.11記】
社説
『 ある日のラジオであった。世代の違う人々が「幸福について」話し合っていた。
そのとき読みあげられたある投書に、こんなのがあったのを、いま思い出す。
その人の家庭は六人暮しで、戦災で家を失った。親類の一部屋を借りて、苦しい生活のなかから、子どもを学校に通わせていた。
夕飯の時など、一家顔を合わせると、どんなに小さくとも、一軒の家に親子で住みたいと、ときには自作の設計図まで持ち寄って話し合った。
みんなの一致した願いと、希望に向かって、親はわずかずつでも貯蓄に努め、子どもはムダづかいをつつしんできた。
その子どもも、一人ひとり職に就くようになって、とうとう敗戦十年の記念の日には、3部屋の家を建て、
”小さな幸福”を味わっているというのであった。
これを果たして”小さな幸福”ということができるであろうか。
どこの家庭にも、これに近いような計画や、努力はあったと思うし、いまなお続いているであろう。
終戦から十二年たって、小さいながら自分の家を持ちえた人々は、幸運にも恵まれたかと思うが、さて毎日の生活で、
衣食のことはどうであろうか。食料不足のころを思い出すと、野菜も果物も豊富になった。
子どものオヤツなども、むかしに比べるとずいぶん違っているようだ。化繊の発達も手伝って、男女共に、服装は見違えるほどに変わってきている。
と同様に、家庭生活に電気器具などはいってきたことも、少し気をつけると驚くほどである。ラジオや扇風機やミキサーの時代から、テレビ、
電気洗濯機、電気冷蔵庫のことがさわがれている。この三つを「神武景気の三種の神器」というそうであるが、神武景気はともかくとして、
そういう品が、なんとか実用の傾向にあることは事実である。
【中略】
その家庭には、一家のなかに共通な願いとか、希望とかがまずあった。それを実現させるための積極的な意欲があった。
そのためには、具体的な計画が用意されていた。そして、その計画を貫かないではやまない一家総員の協力、勤勉、節約、努力が
積み重ねられて、ついには十年の願いがかなえられて、間借りから、独立の家に住むことができたのであった。
これは決して”小さな幸福”ではないであろう。』
この日のラジオ番組より
NHK第1 ラジオ東京 文化放送 ニッポン放送 午後6時台 三太の大手柄
おやおやなあに
スポーツだより
劇「一丁目一番地」
岸旗江、黒柳徹子赤胴鈴乃助
「鬼面党の巻」
歌う三人娘
美空ひばり
雪村いずみ
江利チエミ
司会 志摩夕起夫
スポーツタイムピアノ
クレージー・オットー
マントバーニー楽団他
声の夕刊ポッポちゃん物語
少年探偵団
「黄金仮面」
歌
東海林太郎
池真理子
奈良光枝 他午後7時台 ニュース
録音ニュース
浪花演芸館特集
AスケBスケ
いとし、こいし
ワカサ、ひろしニュース
録音ニュース
歌
春日八郎、ローズ
落語
林家正蔵歌
美空ひばり
石原裕次郎
島倉千代子 他ラジオ夕刊
歌の祭典
生田恵子
藤島恒夫
春日八郎
吉仲桂子
4.路面電車 時代 時代 時代
・生活必需品は配給に 電車は日増しに混んでくる 座席は半分に減って 停留所も減って 急行運転
戦局は悪化 空襲の標的に半数は焼損 そして終戦 暗黒の昭和10年代〜20年
湖畔の宿 愛染かつら 国家総動員令 超特急燕
・生きていかなければならなかった。 買出しに乗れた電車の窓にはガラスはなかった。
闇市がマーケットにかわり 少しづつ生活はましに
映画館に行くとき乗ったのは新型車 復興の昭和20年〜30年
りんごの唄 君の名は 朝鮮動乱 湘南電車
われ等ベビーブーマーの誕生
・おしゃれしてデパートへ、家族揃って遊園地へ。うちにもテレビがやってきた。
路線も充実、高性能車も出現 路面電車がもっとも輝いた昭和30年代
いつでも夢を 南国土佐を後にして 新幹線 東京オリンピック
常に競争 受験戦争時代
・マイカーを持てるようになった。エコノミックアニマルと言われながらも猛烈に突っ走った
渋滞の犯人にされて路面電車は消えざるを得なかった昭和40年代。
瀬戸の花嫁 男はつらいよ オイルショック discover Japan
モーレツ社員は企業戦士
・受難の時代を生き抜いた路面電車はいまや最先端の人に優しい乗り物LRTに姿をかえた。
各地で復活の市民運動も。消えていった路面電車よ甦れ・・・・・・・
会社人間から自由人に変身
5.−少年M−
1950年代 湊川公園
少年Mの家は電車道に面している。戦中に少年Hが通っていた神戸二中の近くである。市電が早朝から深夜までひっきりなしに行き交う幹線沿いで、大正時代の車両、戦前黄金期にできたロマンスカー、終戦後に急造された大きな車両など、ありとあらゆる形式の市電が次々に前を通る。いやがおうでも詳しくなっていく環境である。近くの市場のスピーカーからいつも最新の流行歌が電車道に向かって流れてくる。「上海帰りのリル」「街のサンドイッチマン」「りんご追分」「この世の花」などなど。少年Mは先生のいない自習時間に、意味も解らないのに歌って隣りの学級の先生に叱られた。授業風景 恩師級友の顔がうかんできます
幹線を通る自動車は黒いアメリカ車が目に付く。シボレー、ビュイック、キャデラック、フォード、マーキュリー、ダッジ、プリマス とにかく大きくてかっこいい。車名は英語で勿論読めないがボンネットの先端に付いている独特のマークで区別ができる。あとは名前の知らない欧州車。これらの外国車は外交官ナンバーが多い。
1950 Cadillac (ブリキのおもちゃ)
国産車はダットサンとトヨペットスーパーがたまに走っている。でも国産車はなんといってもバタコ(オート三輪の事)の天国。ダイハツ、マツダ、ヂャイアン ト、くろがね、みずしま、オリエント などそれぞれ固有の塗り分けされている。荷台に幌をつけたトラックと後ろにも座席をつけたタクシーの2種類 バタコとはうまい名前がついている。進駐軍のジープも時々通る。長い無線アンテナを揺らせながらサングラスのMPの運転するウィリスjeep。時たま戦車、装甲車、兵員輸送車の一群が物凄い轟音をたてて電車の軌道上を通っていく。敷石にはキャタピラの痕が残っている。いったいどこへいくのだろうか?
少年Mは学校から帰るといつもこの電車道で近所の子等と夕暮れまで遊ぶのが日課である。少年Mはこんな市電と自動車の走っている停留所まわりの景色を好んで描いた。画用紙は貴重で図画工作の授業でしか使えない。藁半紙だけではもの足りず算数国語のノートや下敷きにまで描いた。宿題をさきに済ませたときはお小遣いが10円もらえた。子供にはおもちゃと模型の区別はない。0ゲージの鉄道模型の木製キットが100円から300円くらい。2〜3ヶ月小遣いを貯めては模型やさんに飛んでいく。花形特急つばめ はとを牽く電気機関車EF58が300円。模型屋のおっちゃんが言う。「こんな難しいのは小学生には無理や。こっちのトロッコにしとき。」食べたいお菓子を買わず我慢してやっと貯めてきた少年Mには、忠告など聞き入れる耳は持っていない。EF58を買ってしまう。案の定無惨なEF58もどきができる。懲りずにまたしても買う。やはり箱に描かれた端正なスタイルにはほど遠い姿になっている。まともな工具それに腕前がない小学生には所詮無理なのである。見かねて母が元町6丁目の三越デパートで湘南電車(クハ86)の木製キットを買ってくれた。屋根と正面 は加工が必要であった。こんどは叔父が一晩かかって作ってくれた。茶色とクリーム色の急行電車が手許にやってきた。小学校の3階の教室の窓からみえるあの姿そっくり。うれしかった。みんなに見せてまわった。
1956 国鉄湘南電車
しばらくしてトヨペットクラウンが誕生。アメリカ車にはテールフィンがはえてきた。
1955 CROWN1960年 CHRYSLER 生田神社前PCCカーという新しい市電が現れる。阪急にも阪神にも新型車が、国鉄の急行(快速)が湘南カラー(グリーンとオレンジのツートンカラー)にかわりはじめた。本物のEF58にグリーンのツートンの仲間があらわれる。友達がブラジルに移住することになった。りおでじゃねいろ丸で となりにはプレジデント ウィルソン号を見る。乗物すべてが華やかになりはじめ少年Mにはたまらない時代の到来である。
しかし現実は厳しかった。少年Mは受験戦争に駆り立てられていく。好きだった図画や工作とは次第に縁遠くなっていった。あれから40数年。いつも遊んだ電車道は地下鉄の開通と阪神大震災で激変してしまった。アールデコ調の阪急三宮ターミナルビルも消えた。
画:鈴木 城氏
街並みも時代風潮も価値観もみんな変わってしまった。
でも少年Mの図画工作への情熱は少しも萎えていない。模型の電車を手に取るとタイムスリップが出来るのである。・・・・・・・・・停留所、特急つばめ、快速電車、小学校の担任の先生、友達 みーんな往時のままに生きている。
割烹着姿の母が市場から帰ってきました。
うしろから美空ひばりの「港町13番地」が
♪なーがい旅路の航海終えて 船が港に泊まる頃〜〜♪
またあした 笛吹童子がはじまるよ もうすぐ晩ごはん ・・・・・・・・・・・・・・
少年Mはこんな思いで今も模型(タイムマシン)をつくり続ける。 【1999.10.25 記】
6.グラマーな電車 阪神電車301型(昭和29年)
戦後の混乱も落ち着き始めてきた昭和20年代の後半の頃の阪神間での話です。
子供達は「阪神電車ボロ電車」と呼んでいました。
阪神電車851型(喫茶店)
”喫茶店”の愛称で呼ばれる阪神電車の851型や861型などは電車ファンの間で評価が高くても、一般の人には幅が狭く短い小型電車ばかりの阪神電車の評判は決してよくありませんでした。私鉄王国と云われる関西の人の電車に対する選択眼は厳しいものが昔からありました。神戸(三ノ宮)と大阪(梅田)の間を移動するとき、阪急電車の特急ではスピードを味わう事が、国鉄の快速電車(勿論急行料金など不要)では列車の旅行気分を味わうことが出来ました。しかし阪神を選択するこれといった理由は無かったと記憶してます。”待たずに乗れる阪神電車”とせっかちな関西人気質をくすぐってはいましたが人気はいまひとつでした。わが家では茶色とクリーム色の国鉄の快速をよく利用したものです。
大阪人は甲子園球場へ阪神電車に乗っての名門タイガースの応援観戦に行きます。あのころは今と違って強いチームで応援のし甲斐もありました。だから巨人に負けようものなら大変でした。「こんなボロ電走らせるから負けるんや・・・」口の悪い大阪のファンは電車に八つ当たりです。甲子園から梅田に着くまでそりゃもう大騒ぎでした。オンボロ電車なのだと子供にも印象づけました。小学校の校長先生の子息がタイガースの現役選手でした。小山、村山、吉田、並木、鎌田選手達が小学校を訪問してくれ小生も熱心なタイガースファンになった次第です。でも野球のファンにはなっても阪神電車のファンになる気は起きませんでした。
1954年阪神電車301型 2001年阪神電車9300型
こんな阪神に昭和29年9月起死回生 9回裏のさよなら逆転満塁ホームランのようにデビューしたのが301型でした。それまでの対国鉄、阪急劣勢を挽回しようとする阪神電鉄の並々ならぬ心意気を感じさせる車両でした。子供には技術的なすばらしさは解りませんが、格段に巾の広くなった大きな車体、青みがかったガラス窓、ソファーのようにふかふかで赤いクロスシート、天井に煌々と輝く蛍光灯、ツートンカラーの外観、曲面ガラスの正面二枚窓などこれはもう大事件でした。しかもノンストップ特急とくれば”待っても乗りたい阪神電車”になったわけで それ以来阪神電車ファンにもなったわけです。
こののち、赤胴車、青胴車の出現で近代化が一挙に進み、震災復興を機にステンレス車も投入されて、赤胴青胴も過去ものとなりつつありますが、これ程にもエポックメーキングな車両はその後の阪神電車には現れておりません。こんな車両も昭和30年代の深刻化する通勤混雑には対処できず、3両連結を4両に更に5両にしましたがそれでも対処できず貫通扉のある平凡な顔をした3扉ロングシート車に改造され、冷房も取り付けられるなど時代要請に対処してきましたが遂に全車廃車されてしまいました。目元ぱっちりグラマーな電車 阪神301型は美人薄命の諺通り原型をとどめていたのは昭和39年まで10年の命でした。現在ではJR西日本の新快速が神戸大阪京都間で圧倒的優勢を誇っています。でも奢れるもの久からず。
7.続 少年M 【通学の足は・・・市電】
少年Mは六甲山の中腹にある中学校に通うことになった。細長い神戸市の東の方にあり、兵庫区の家からはかなりの距離である。海と山に挟まれて拡がる神戸(阪神間も)の交通は東西方向にはどれも近くを走っており、市電、市バス、阪急、国鉄を選択することが出来た。はじめて一人で市電にしかも毎日毎日乗れる、 少年Mには最高の楽しみに思えたがしかし・・・・・
この時には市電の不規則な運行(定刻に来ない)が少年Mにとんでもない試練を与えることになろうとは知る由もなかった。
朝6時40分NHKのラジオ体操を聞きながら朝食を摂り、母の作ってくれる弁当が出来上がるのを待って市電停留所に向かう。まだ通勤通学の人数はさほど多くはないが、だんだんと混み始める兆しが感じ取られる午前7時少し前。三宮に行くのは山手廻りの最短コースを走る4番と8番、そして栄町廻り(海岸通り)の遠回りの9番と12番がある。停留所に待つこと暫し。時になかなか来ないことがある。やっと来たのが遠回りの電車、仕方なく乗っていると路線の分かれ道の湊川公園で後続の本命の電車が追いつくことがある。でも乗り換えは出来ない。悔しーい!学校で一括購入してくれる1ヶ月340円の甲種通学定期券は安い(普通乗車券は13円)が途中下車ができないのである。三宮は距離にして約5km市電の平均時速15km/hで20分、遠回り路線では5分ほど余計にかかっていた。待たされた時間と遠回りした時間で20分の三宮駅への延着は、そのままでは学校に遅刻することになるが、安易に遅刻するわけにはいかなかったのである。厳しい罰が待ちかまえているからである。上半身裸、裸足で校庭を何周も走らされるのは肉体的にも精神的にも辛く、最寄り駅から学校までのきつい登り坂の通学路を全力疾走して遅刻を回避した。滑り込みセーフ。このほうが罰よりましであった。
市電の団子運転、先頭車ばかりがぎゅうぎゅう詰めでますます遅れる 本当に泣かされた。
そもそも市電に運行ダイヤはあったのだろうか?少なくとも停留所にはそれらしきものは掲示されていなかった。同じ系統が続いて来るのを何度も見たことがある。自動車はそれほど多くはない。渋滞で遅れるのではなく、乗客でぎゅうぎゅうになるからだ。市電の乗降扉は折り戸のためステップまで混み合うと扉が閉められなくなり発車が遅れる。ようやく発車しても降車客がいればまた停車また扉を開けるのに一騒動。さらに降りる停留所の近づいた客が前もって出入り口に近づこうとするので出入り口付近は全く身動きがとれないほど混み合う。小柄な中学1年生になったばかりの少年Mは大人の間にもまれてつぶされんばかり。まさに世の荒波の試練を体験した。
全長14m日本一大きな3扉の大型車両も中央の扉は締め切ったままであった。この扉は市電廃止の昭和46年まで開くことはなかった。なかには扉を撤去し座席に置換された車両もあり外見はスマートになり、着座者が増えたのはよかったが・・・・・・開かずの扉 ご丁寧に締切と書かれた看板をつけていたのを思い出す。
運賃は13円 これは小銭を必要とした。ぎゅうぎゅう詰めでは車掌さんもキップを売りに来れないし、車掌のいる後扉へも行けない。前扉から降車の際に15円あるいは20円を出すとどうなるか? 運転手は小銭の持ち合わせはない。15円を受け取って、大きな声で車掌に2円お釣りを渡すように連絡する。一人や二人だけではなかった。客は降りてから車掌のところまで2円を受け取りに行く。こんなことをしてますます運行が遅くなる。乗降客の多い停留所にはおばちゃんが切符を売っていた。11枚綴りで130円の回数券をばらして売っていた。頭には手拭いを巻き、着物に白い上っ張りを着て、手提げカバンを持っていつも停留所(安全地帯)に立っていた。このおばちゃんは路線案内もしてくれていた。定時運行の陰の協力者だと思う。しかしいつの間にか姿を見ることは無くなっていた。運賃は13円から15円20円25円へと上昇するとともに混雑の度合いは減っていった。天井に扇風機がつくようになり、照明が蛍光灯になって明るくなって本が読めるようになり、女性車掌さんが乗るようになって何となく和んできたが、自動車に邪魔されて急ブレーキをかけることも増えてきた。その自動車はオート3輪からトラックの国民車トヨエースへ、ダットサン オースチン ヒルマン ルノーからパブリカ コロナ クラウン ブルーバード セドリック へと役者は次々と華麗に変身していった。ベレル コンテッサ などは通行人A、Bのように現れては消え去っていった。それからミゼットがちょこまかと路地まで入り込み、ロバのパン屋さんは馬車スタイルで悠然と幹線道路を流していた。(「パン売りのロバさん」歌詞 MIDI付はこちらからリンク)
いすゞ ベレル 日野 コンテッサ トヨエース ダイハツ ミゼット ダットサン
ブルーバードニッサン セドリック トヨペット クラウン トヨタ パブリカ
日本が高度経済成長へまっしぐらに突き進んでいった時代でした。
8.続々少年M(神戸の街並みー昭和30年代ー)
少年Mは毎日の通学時市電の窓を通して神戸の街並みの変わっていく姿を眺めていました。
主婦の店ダイエー
三宮神社の近く三宮町1丁目の電車通りにスーパーマーケットのさきがけダイエーの2号店がオープンしました。昭和33年12月のことでした。
神戸の兵庫区でサカエ薬局からスタート 大阪旭区千林でスーパーマーケットの1号店主婦の店ダイエー薬局を昭和32年9月にオープン
その後破竹の勢いで博多、岡山、松山そして東京へと全国展開していったあのダイエーです。
神戸には三越、大丸、そごうといった大手の百貨店や会員制で配達してくれる神戸生協、灘生協が充実していましたが、何もかも新しい方式のこの店には珍しさも手伝って大変な客でいつも賑わうようになりました。主婦の店ダイエーのスタートです。
小学館「昭和の時代」より神戸新聞総合出版中内力著選択より
売り場に並べられた日用品や食品や家庭用品などを客が自分でかごにいれて(セルフサービスのはじまり)レジにもっていくと精算してオリジナルの大きな紙袋に詰めて渡してくれます。インスタントラーメンの元祖チキンラーメンもこの頃誕生しました。マルタイラーメンやエースコックなど類似のインスタントラーメンが続々発売されダイエーの売り場を賑わしました。インスタントコーヒーもこの頃誕生です。ダイエーは次々と新商品、競合商品を安価で提供してくれる魅力ある店舗でした。主婦の店ダイエーは神戸市内に次々とオープンさせていきましたが特に三宮店はその後大発展しメンズ館、レディース館、電器館等々と独立したビルへと拡張していきました。
この紙袋を抱えた主婦が市電に乗り込んできました。抱えきれないほど買い込んでタクシーで帰る人もいます。
ルノー(RENAULT 4CV)
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自動車王国アメリカの最高級車
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1961年型 CADILLAC deVille カタログ |
Fourteen hundred separate inspections assure that every Cadillac car is
the most carefully-built,precision-crafted automobile on the world's highways.
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1962年型
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1961年型
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1960年型
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1961年型
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1962年型
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二玄社発行 62年のアメリカ車 より
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昭和37年型トヨペットクラウン1900スタンダード
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左から昭和37,38,39年式ニッサンセドリック
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昭和35年式初代セドリック 日産80周年ヘリテージカー横浜パレード |
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昭和38年式いすゞベレル
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昭和37年式プリンスグロリア
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昭和33年式 ダットサン211
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昭和36年式 ブルーバード311
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昭和38年9月 24日の新聞広告
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昭和39年3月 週刊朝日 より
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←昭和42年式ダットサンブルーバード510
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10.日本の交通 昭和29年(1954)発行 講談社の学習図鑑 を紹介しましょう
鉄道、自動車、船舶、飛行機 50年以上経過した現在と比較すると・・・・
A5版72ページ 色彩画を中心とした図鑑ですが 右開き縦書きの読本の形態を採っています。 昭和29年3月発行 定価200円 編纂:交通博物館 発行所:大日本雄弁会講談社 |
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当時のレイルスター 左から C62型蒸気機関車 80系湘南型電車 D62型蒸気機関車 EF58型電気機関車 |
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いろいろな機関車 C62型蒸気機関車(旅客用) D62型蒸気機関車(貨物用) EF58型電気機関車(旅客用) DD50型ディーゼル機関車 蓄電池機関車 ED42型アプト式電気機関車 E10型蒸気機関車 |
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電車のいろいろ 郊外電車(小田急) 国電(湘南電車) 登山電車(ケーブル式) 登山電車(ロープ式) 国電(東京) トロリーバス(東京) 市電(神戸) 地下鉄道(東京) 塗色は茶色からカラフルになりはじめた頃です。 湘南電車が一世を風靡していました。 |
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神戸市電 昭和26年頃 国鉄 80系(湘南電車) 昭和25年登場 |
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新幹線、青函トンネル、鳴門海峡大橋が予見されています。 | 平均時速110km毎時は予測が大きく狂いました |
交通道徳もきちんと説明しています | |
マイカーなど夢のまた夢 ボンネットタイプのトラック全盛時代でした 米軍払い下げ軍用トラック改造車であることがそのスタイルから推定できます 乗用車は米車がほとんどでした。 |
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昭和26年に日本航空が発足しました ジェット旅客機コメットが就航したのは昭和28年(1953)です。 デビューまもなく空中分解事故が繰り返され、胴体の疲労破壊が原因とわかりました。 後世に貴重な教訓を残した旅客機でした。 |
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ロッキード L−1049C スーパーコンステレーション 1950 |
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捕鯨母船「図南丸」が活躍していました。 給食の鯨肉はこの船団が南氷洋で捕ってきました |
11.新しい憲法のはなし 昭和22年8月 文部省発行
みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。
ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。
くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。
いまやっと戦争はおわりました。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。
何もありません。だから、こんどの戦争をしかけた国には大きな責任があるといわなければなりません。
そこでこんどの憲法では、日本の国がけっして戦争をしないように、二つのことをきめました。
その一つは、兵隊も軍隊も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。
これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。
しかしみなさんは、けっして心細く思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。
世の中に正しいことぐらい強いものはありません。
もう一つは、よそのくにと争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかしてじぶんのいいぶんを
とおそうとしないことをきめたのです。
12.完全給食 昭和25年8月15日 朝日新聞記事
新学期から学童に完全給食
文部省では九月の新学期から八大都市(東京、大阪、京都、名古屋、横浜、神戸、広島、福岡)の学童百二十八万人にパンによる
完全給食を実施すると十四日発表した。これによって学童は家庭から弁当を持ってこなくても、副食物と合せて熱量約八百カロリー、
たんぱく質二五グラム、その他一食分に必要な栄養量をとることになる。給食の費用は一人の一食当たり約七円、月二十回として約
百四、五十円となる。
参加国: 52
参加したが平和条約に反対して調印しなかった国:3 ソ連、ポーランド、チェコスロバキア
平和条約に不満で会議に参加しなかった国:3 インド、ビルマ、ユーゴスラビア
会議に招請されなかった国: 中華人民共和国、中華民国、ベトナム
14.もはや「戦後ではない」 昭和31年度経済白書より抜粋
昭和30年度の経済は貿易を除けば戦前水準を大幅に上回った。一人当たりの実質国民所得でみれば、昭和9〜11年の113%であって、
これは戦争中の最も高かった水準、14年のそれと偶然ながら全く一致している。鉱工業の生産も戦争中の最高は19年であったが、30年度の
生産水準はこれを凌駕した。
もはや「戦後」ではない。われわれはいまや異なった事態に当面しようとしている。
回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。
そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。
15.昭和38年10月21日、22日 朝日新聞神戸版 記事より
懐かしい番組がいっぱい月曜夜のテレビ、ラヂオ番組
音楽番組が溢れていました
火曜日のテレビ番組
火曜日ラヂオ番組
企業広告より
トヨタパブリカ 空冷2気筒700cc 28馬力
映画
東証株価
記事より ”当世女子大生ことば”
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品目 | 年 | 値段 | |
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ジャムパン あんぱん |
S23 S30 S40 |
25円 60 100 |
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食パン | S21 23 25 28 35 40 |
1.20 6.24 23 30 32 40 |
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アイスクリーム | S23 30 40 |
25 60 100 |
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あんみつ | S21 30 35 38 40 |
5 50 60 80 120 |
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森永キャラメル | S25 44 |
20 30 |
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牛乳(配達) | S24 28 31 36 42 |
11 15 13 15 20 |
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文明堂カステラ | S25 35 40 43 |
400 450 450 500 |
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コロッケ | S24 25 30 33 35 40 43 |
3 5 5 7 10 20 30 |
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豆腐 | S22 23 25 29 35 39 44 |
1 8 12 15 20 25 30 |
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支那ソバ、ラーメン | S21 25 28 31 35 38 40 42 45 |
20 25 35 40 45 55 75 100 150 |
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カレーライス | S23 26 30 36 38 44 |
50 80 100 110 120 130 |
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サイダー | S22 23 24 26 29 37 43 |
40 48 53 50 40 40 45 |
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喫茶店コーヒー | S20 23 25 30 35 40 44 |
5 20 30 50 60 80 100 |
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幕の内弁当 | S23 26 29 38 41 |
30 80 100 150 200 |
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三菱鉛筆 | S22 25 44 |
2 10 15 |
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さくら水彩絵の具 | S22 25 28 36 40 |
54 80 100 120 150 |
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ハーモニカ | S25 31 43 |
350 350 650 |
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学生服 | S25 28 30 35 40 |
850 1350 2600 3700 4500 |
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岩波文庫★ | S25 37 |
30 50 |
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週刊朝日 | S21 22 25 29 35 38 41 44 |
1 5 10 15 30 40 50 70 |
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朝日新聞 | S21 22 25 26 27 29 34 40 43 |
8 20 53 100 280 以降夕刊込み 330 390 580 660 |
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NHK受信料 | S22 23 26 29 34 37 43 |
17.5 35 50 300 以降テレビ代 300 330 465 |
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映画入場料 | S21 22 26 32 38 41 |
3 20 80 150 350 500 |
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白黒フィルム 12枚撮り |
S21 22 23 26 31 37 42 |
24.1 87.8 138 170 170 160 170 |
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乾電池 | S21 23 28 38 44 |
2 16 35 35 40 |
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キンチョー 渦巻き蚊取り線香 |
S22 25 30 35 40 |
19 80 100 100 110 |
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メンソレータム | S23 27 37 40 |
9 50 50 50 |
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銭湯 | S22 23 26 28 35 38 40 44 |
4 10 12 15 17 23 28 35 |
|
化粧石鹸 | S22 24 28 33 47 |
4 10 25 30 50 |
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実用自転車 | S21 24 25 29 35 38 41 |
985 7345 11000 15700 18000 20000 24000 |
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市電 | S22 23 26 28 39 43 |
2 6 10 13 15 20 |
|
ガソリン | S23 25 28 33 37 40 |
14 23 36 38 45 51 |
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東京ー大阪 国鉄普通運賃 |
S20 25 36 43 44 |
15.5 620 1170 1730 2230 |
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東京ー大阪 航空運賃 |
S26 30 36 39 42 |
6000 6300 6800 7000 6800 |
17.テレビ時代 昭和34年1月6日 朝日新聞 より
正月休みを家で過ごした人たちも、各地のにぎわいやら宇宙ロケットの話まで、見たり聞いたりして楽しんだことだろう。
これは十年二十年前には、夢にも考えられなかったことである。テレビ局に至っては、そのうちに全国に108局、除夜の鐘の音ほどに
できる予定で、どうやらテレビも、いやおうでもわたしたちの生活のなかにはいり込んでしまうようである。
いや、現実にわたしたちの生活を変えつつある。テレビを備えた家庭で、食卓の料理が目に見えて変わってきたと言う話を聞いた。
主婦がテレビの料理番組を見ては、新しいものを作り、その結果は、バターや肉を料理にする西洋風の皿が多くなってきたというのである。
これなどは、むろん悪いはずはないが、相変わらず、子どもへの影響という観点から、テレビに対して思いわずらっている家庭も少なくないようである。
その心配はもちろんあるのだが、一方では、去年のはじめに「一億総白痴化」などといわれた言葉も、段々すたれてきたことを見逃してはなるまい。
ロカビリーのバカ騒ぎが、テレビを通して家庭に持ち込まれたのは、確かに困りものだったが、これは世論の攻撃や、民間放送関係者の反省によって、
だいぶようすが変わってきたようである。ということは、何でも見せておけばいいという時代は過ぎて、視聴者の耳もこえ、目も高くなってきたという
ことではあるまいか。そのところを放送会社にも、タレントにも、スポンサーにも、よく考えてもらいたい。ビデオテープの時代がきているというのに、
いつまでも紙芝居的な舞台で、お粗末な歌や芸の「ぶっつけ本番」では、大切なお客さんである視聴者が逃げ出そう。
まして、家庭への御用聞きともいわれるコマーシャルの「押し売り」は、ノーサンキューというものである。
「一億総白痴化」などは要求しないが、家庭の皆が、明るく、静かに楽しめる「テレビ時代」を迎えたいものである。
テレビ新時代 地デジ化への切り替えもあと三年弱
バカ騒ぎ、お粗末芸人オンパレードは視聴者が育てた結果かもしれない。
50年前の問題提起が今も同じとは情けない 2008.11 記
18.三輪禍 昭和33年6月17日 朝日新聞 夕刊
神風タクシーの取り締まりには相当に身が入ってきたようだが、交通事故のなかにはオート三輪車にはねられたというのがかなりある。最近、都市におけるオート三輪車の増加はおびただしいものだが、これは中小企業の多い日本の特殊性だろう。
オート三輪車の免許は、比較的簡単にうけられる。素人でも、ちょっと練習すると免許がもらえる。タクシーの運転手などは、旅客自動車の運転免許というので、適性検査もかなり厳重だが、オート三輪車になると、とっさの場合の応急処置などについては、能力を調べない。数が少ないうちはいいが、都市の混雑のなかにこれだけふえてくると、運転者としての資質、適性などもよく検査しなければ、ますます事故をふやすことになるのではないか。
それに、現行規則ではオート三輪車の車体の大きさなどについて、特別の制限がない。そのために、オート三輪車はいくらでも大きくなり、トラック並みのものが、重い荷物を満載して突っ走っている。四輪車にくらべて、三輪車の不安定なことは分かりきったことだが、その大きさを制限していないのは取締り法規の手抜かりである。オート三輪車でハンドルを急に切っても、重量がかかっていると、とたんにひっくりかえって、事故を大きくしている実例が多い。また四輪車では車体の幅が運転者に実感されているが、三輪車だと、自転車に乗っているような気分で、車体の幅や長さが運転者に自覚されない。そのために他の車とぶつかったり、歩行者をはねとばすことが多いと思われる。三輪車というのは小型であるのがほんとうで、大型なものは四輪と決めるのが当然のことだろう。それに道路の混雑しない田舎ならともかく、都市では、運転者の試験なども、よほど厳重にしないと、三輪禍は防げない。
朝日新聞 天声人語 昭和34年8月15日
敗戦の日から十五年目、まわりを見わたせば、めいめいがよくここまで生きてきたという感慨が、だれしも胸にわくだろう。
この復興と建設は、せんじつめれば、やはり国民すべての大きな努力の結実である。戦後の年月には、いろんな苦しい思い出もあり、みにくい事件もあったが、今日の復興の姿は、日本人の勤労が積み築いた動かぬ事実として、受け取っていいかと思う。民族としての自信を、そこに見出すのに十分な成果であろう。
敗戦の年の八月十日から十五日まで、政治の中枢部は、大ゆれにゆらいだ。一切の権威が、積み木のくずれるように、砕けていった。そのなかから、日本にはじめて「民衆」というものが生まれ出たのである。開戦もまた戦争の終結も、国民の意思とは、全く無関係に行われたといっていい。「民草」はいたけれども、人間としての民衆は存在しなかったといえるかも知れない。開戦に肝を奪われた民草は、突然の勅語放送にもまた驚倒した。思えばすべていじらしい限りであった。
日本には、すでに戦争を知らぬ子供たちが、どんどんと成長している。そのころまだ子供だった人たちにとっては、疎開の記憶もむしろ楽しい思い出だけが残っているかも知れない。満州事変から、日中戦争を経て第二次大戦に至る日本の歩みを知らぬ人たちの数も、多くなってきている。青年たちはそのような昔語りも、実感として受け取れないかも知れない。さきごろ広島であばれた右翼といわれる人たちのうちに、十代の少年がまじっていたのは、とりわけ心の痛むことであった。
今の日本の政治家たちは、その年齢からして、大部分が日本の歩いた道を知っているはずである。同じ道を二度と歩かせぬことだけは、肝に銘じてもらいたい。しかし、いまからの日本は、この政治家たちのみにかかってはいない。終戦とともに生まれでた「民衆」が、今後どのように育つかが、大きく日本の運命を左右するであろう。
20.蟻の街のマリア
朝日新聞 天声人語 昭和33年1月27日
東京の墨田公園のなかに「蟻の街」というバタ屋街がある。そこで「蟻の街のマリア」としたわれていた二十八歳の女性が、みすぼらしいバラック小屋で屑に埋もれながら病死した。北原怜子さんというひと。
終戦まもなくのころはこのバタ屋街も、喧嘩のたえまがなく、一人歩きは危ない物騒な所だった。子供たちはもちろん学校にも行かず、生活に追われている親たちにとっても子供の教育どころではなかった。それでも「アリのごとくわき目もふらずに働こう」と、心あるバタ屋さんたちが、「蟻の街」を造って励ましあっていた。そこへこのお嬢さんが二十の齢に飛びこんだ。お父さんは農学博士で大学教授、本人は昭和女子薬専卒業で、何不自由ない家庭に育った人だが、ふとしたことから、見知らぬ外人神父さんのあとを追って「蟻の街」に足をふみ入れ、子供たちの哀れな姿に胸を打たれた。「中途はんぱな気持ちならやめなさい。永住の覚悟ならやりなさい」とお父さんにいわれて、この街の小屋に住みこんだ。“金持ち娘の気まぐれ道楽”と街の人々からも冷たい目でみられたが、とうとう九年間もここで献身的な奉仕をした。子供たちの勉強相手になってやり、オルガンを買って音楽を教え、自分で働いた金で子供たちを箱根につれて行き、バタ屋街の親にも子にも明るい希望をもたせて、“蟻の街のマリア”といわれるまでになった。
醜いことの多い世にも、こういう人が“埋もれた珠玉”のようにひっそりと光っている。バタ屋の株式会社も出来、五千坪の広い新地に移転のこともきまり、そこに新しい町造りをするために「二千五百万円」と書いた紙切れを自室の壁にはっていたそうだ。
アフリカの聖者シュバイツァー博士は大学教授と輝かしいオルガン奏者と文筆の生活を捨て、三十歳になってから医学を修めて、赤道アフリカの原住民を救う生涯に入った。それは世界的に有名だが、それに劣らぬ心境で社会の片すみに埋もれながら立派な社会奉仕に献身する人はこの女性のほかにもあることだろう。
朝日賞は今年から「明るい社会賞」を設けたが、この女性のような人にもっと長くいきていてもらいたかった。
21. 女教師の150センチ・ライン 昭和30年12月19日 朝日新聞朝刊 天声人語より
身長150センチ以下の女性は教師に採用しない-----これは東京都教育庁の設けた“李ライン”である。背の低い女性はこの150センチラインで撃退され、教壇から締め出しをくう。近来これほど馬鹿げた“憂うべき非教育”はない。子供は敏感なもので、この話を伝え聞いた小学生や中学生たちが「あれと、あれと、あれは先生の資格がないんだよ」などと早くも憂うべき話題をしているそうな。この一事だけでも、なんという非教育的なことをしでかしたものかと残念に思う。
150センチとは五尺未満のことだが、今の日本ではそのていどの身長の女性はいくらでもいる。普通並より少し低いだけで、なにか欠陥あつかいするような態度は非人間的である。客商売の採用条件ならまだしも、人格と頭脳の尊ばれる教師に、こんな肉体的条件で通せんぼするのは、教育というものをはき違えている証拠ではないか。教員の経験ある参院議員の高田なほ子さんは、やはり五尺足らずだが、教員のころは“チャボ”の愛称で子供たちから親しまれたと言っている。そんな“チャボ先生”はどこの学校にも一人や二人はいるものだが、教育上それが不都合だという話は聞かない。
背が低いと黒板の上まで字が書けないから、学習活動に支障をきたす、都の職員課長は言う。高田さんにいわせると、椅子に腰掛けている小さい子供たちには、黒板の下の方にかいてやるのがむしろ大切ですとある。遠足や校外指導の時に、背が低くてどこに先生がいるのか分からないのは不便だともいう。いくらノッポの先生でも、ぼんやりして児童・生徒たちを掌握できないでは、せっかくの長身も役に立たない。教師として“頭角”を現すのは、頭と心と人格によるべきで、身長のたけくらべだけではない。
どうやら八頭身ブームにかぶれてるのではないか。それとも“暴力教室”では小さな先生は生徒になぐられるとでも言いたいのか。150センチ未満は、教育者として肉体的に欠陥ではない。教師の価値は背丈で計るものではない。物指しを取り違えてはいけない。
22.デザイン盗用 昭和33年6月30日朝日新聞朝刊 天声人語より
メイドインジャパンは、とかくデザイン盗用の代名詞のように、先進各国で思いこまれている。残念なことだが、近刊の『アサヒグラフ』を見ると、これも致し方ないという気がする。これは先ごろあるデパートで、特許庁の主催で開かれた「デザインを守る展示会」から選ばれた本物とニセ物とを較べたものだが、全くどちらが本物か分からぬほど、巧みに模倣されている。デンマーク製のサルの玩具まで模倣されている。まさにサル真似そのものだ。
この展覧会は、さすがに被害者側である外国の関心を呼んで、最近の米誌『タイム』にも取り上げられている。デザインを盗用された有名メーカーの名も挙げてあり、また日本では外国製品のための部品まで模造しているといったことも書いている。そして、この展示会を見に来た夫婦の間で、夫が妻に「高い外国品を欲しいと思ったら、買わずに二、三ヶ月待ちなさい。安い日本製がきっと出るからね」という話も紹介している。
このようなデザイン盗用には、悪質な外国人のバイヤーが介在していて、外国品の模造を日本のメーカーに命じることもある。これは一部事実であるが、悪徳バイヤーだけに責任を負わせて知らぬ顔では済まされない。事実、わが国のメーカーの製品が、模倣だとして外国の製造元や配給会社から訴えられている例も少なくない。また、国内の業者同士でもデザイン盗用が起こっている。要は人の創意を真似ることは罪悪だ、という観念が欠けていることに問題の根源があるといってよい。すでに繊維や陶磁器では、東京や大阪に意匠センターが設けられて、業者の意匠を登録させて、盗用を防止しているので、かなり効果が上がっているようだが、まだ雑貨類についてのイザコザが少なくない。輸出拡大は必要だし、安い優良品も結構だが、国民の顔に泥を塗るような盗用は困る。
中国製品で起きている日本製品のそっくりさん 50年前の日本がやってきたことと同じ。外見はすぐに真似ができても、品質は努力が必要。中身を見抜ける賢い消費者に日本人はなれたであろうか。 産地偽装も同じことではなかろうか。
23. 昭和30年8月時刻表より 東海道本線米原まで電化にともなう時刻改正
北米航路(横浜-桑港サンフランシスコー羅府ロサンジェルス)や海外航空便も記載されていました
特急つばめ 東京-大阪間8時間 運賃870円+特急料金600円(3等車) 日本航空 羽田-伊丹 1時間40分 6300円 機種 ダグラスDC6 東京-米原 EF58型電気機関車牽引 米原-大阪 C59またはC62蒸気機関車牽引 (京都以西も電化されていましたが) |
広告より |
24. 昭和33年11月時刻表より ビジネス特急こだまが誕生しました 特急、急行の黄金時代です。東海道山陽道にはほぼ30分おきに走っていました 25. 昭和40年11月時刻表より 東海道新幹線増発・スピードアップ(こだま4時間、ひかり3時間10分に) 東京ー新大阪間所要時間 こだま5時間 ひかり4時間は路盤が固まったとしてスピードアップしました。最高速度210kmは世界最速です。 26. 記事の大小軽重 昭和31年10月2日朝日新聞朝刊 天声人語より 奈良の正倉院に、長さ三、四間もあろうかと思われる細長い箱がある。 何が入っているんですかと聞いたら「袈裟です」という。 袈裟にしては大きすぎるようだがというと、「それが大ゲサというものじゃ」と説明されて、成る程と参った。 インドや中国の僧は野に伏し山に寝て伝導したので、僧衣にまとう袈裟は大きなものにして、 褥(しとね)代わりに使ったのだという。 それが”大ゲサ”の語源そうだが、新聞の報道とかく大ゲサだといってよくしかられる。 ちっぽけなことを、さも大事件のようにセンセーショナルに報道するという。 ある程度そういう非難は当たっている。新聞は読んでもらわねばならぬので、 紙面の編集はなるべく目立つように作られる。記事の書き方も、興味をもって読んでもらうために、 面白く書くことに努める。それが大ゲサになりやすい。 トップ五段抜きの大記事だと、普通の読者は読む前から大問題だろうという暗示を受ける。 すみっこに小さく扱われている記事は、どうでもいいニュースかと思って読み落とす。 それが実質的には逆なことがある。取材記者も、編集者も、事柄の大小軽重を誤って取捨選択に ミスやエラーをすこともあるが、ニュースもまた生き物で、日によって不漁や大漁がある。 内外の重大ニュースが一度にかたまって起きると、紙面に収録しきれなくなって、 相当の大ニュースも小さく圧縮されてしまう。 欠伸の出るほどこれというニュースのない日もある。そんな種切れの日の紙面には、 平素は片隅に押し込まれる記事も、派手にメイキャップして大きく掲載される。 ほんとうはこれはいけないことだ。物事の大小軽重にはおよその標準をつけて、 それぞれの実質的内容にふさわしい大きさににすべきものだろう。が、生きた人間社会の出来事は、 ハカリにかけたように厳密に、軽重を定められるものではないかもしれない。 社会面では、トップか「青鉛筆」か、という言いならわしがある。一つの話題が、 トップ記事にもなり得るし、下のすみの「青鉛筆」欄にもなる。政治面の「記者席」や、外電面の 「海外トピックス」の数行がトップの大記事よりも、人生の真実の面白みを語っていることがいくらでもある。 |
27.北京の祭典 昭和29年10月2日朝日新聞朝刊 天声人語より
中共は十月一日に世界五十カ国から一千余名のお客様を招待して、国慶節の式典を盛大に挙げた。
日本からも約百が招かれて行ったが、「すべての道は北京に通ずる」くらいの盛んな意気込みらしい。
今年は新中国の建国五周年であり、新憲法成立して初の国慶節である。
その憲法もわずか十日前の九月二十日に成立したばかりだ。新しい政府の組織法もできて毛沢東、周恩来氏
らを初め政府の最高人事もきまっての”北京祭典”である。
第一回全国人民代表大会もついこの間開かれた。村から県から省からと順々に下から選び出す人民代表の
総選挙には一年数ヶ月を要している。その”国会議員”の数も千二百二十六名という多勢だ。さすがに人口六億
と称する大陸国家の姿である。その人民代表の中には西蔵(チベット)のダライ.ラマとパンチェン.ラマ、二人の
”生き仏様”もまじっている。「ラサを出てから北京に着くまでに二ヶ月がかかった」とあいさつしたそうだ。
今は西蔵に飛行機も飛ぶし康蔵道路を自動車でこれるが、ラクダの背にでも乗って二ヶ月の旅をしてきたらしい。
北京の天安門広場には五十万人の労働者、農民、市民が集まり、人民解放軍が分列行進をやったそうだ。
ソ連のフルシチョフ、ブルガーニン氏らも列席して、モスクワの”赤い広場”のアジア版といった風景だったろう。
中共の気持ちとしては、朝鮮動乱ではアメリカと少なくとも五分と五分の勝負をし、さらにジュネーブ会議でも
世界の舞台に堂々と出て、ここでもアメリカにひと泡ふかした、という自信があろう。
アトリー英労働党首一行が中国を訪問した時にも、乾杯のたびごとに”ジュネーブの勝利”がさけばれたそうだ。
こんどの祭典には、その強大な威容を国内に大いに示威する意味があるのだろう。
ベヴァン氏は新中国視察の印象の結論として「中共はいつまでもソ連の第二バイオリンを奏でることに満足しないだろう”
と書いている。かといって「中ソ両国の間に不和が表面化することは当分あるまいが、ソ連はもはや共産圏を指導する
唯一の国ではなくなった」とも述べている。やがて中共は何らかの形で日本に平和条約を提案してくるだろうが、新中国との
国交回復なくしてアジアの真の安定は得られない。日本の急務は中国の真姿を正視してよく識ることだろう。
28.あの音にあいたい
ユースホステルの夕食後のミーティングの歓声
ユースホステルの言葉は最近めっきり聞かれなくなりました。
旅番組の老舗旅館、名門ホテルの映像を見るたびに40年程前の質素だったけれど
ユースホステルを利用した楽しかった旅の思い出が甦ります。なかでもミーティングが忘れられません。
夜の食事の後片付けと食堂の掃除を利用者が全員協力して次第に仲間意識が芽生えてきました。
間もなくホステルのオーナー(ペアレント)が主催するミーティングが始まる事が館内放送で流れます。
食堂で宿泊者全員車座に座り、ぎこちない自己紹介に始まってペアレントのその土地の紹介から
翌日のバスの発着案内など至れり尽くせりのレクチャー、そして歌声喫茶の雰囲気で歌を歌います。
“幸せなら指ならそうパチンパチン”“幸せなら手を叩こうパチパチ”、“幸せなら足鳴そうドンドン”と。
簡単なゲーム遊び今もって忘れられないのが抱腹絶倒言葉遊びでした。
予め作成しておいた皆には中身は伏せておいた日記風の文章の形容詞形容動詞を抜いておいて
全員から思いつくまま形容詞形容動詞を出してもらって抜いた部分に順にいれていく。最後に読み合わせをすると。
思いもよらない“けなした表現”、妙に“当を得た表現”も出て会場が大爆笑に包まれました。
8時から9時半の予定の時間があっという間に過ぎてしまいました。
いつの間にか緊張はほぐれ隣にいる異性と会話もはずんでしまうほど。
北海道のユースではペアレントから知床旅情やマリモの歌を直伝で教わったものです。
「遠き山に日は落ちて」を歌う頃には予定の時間が来てしまい余韻を残しながら自分たちの部屋に戻って深い眠りに入るのでした。
豊かではなくても皆が夢を持って頑張った。日本中が高度成長期の真っただ中の頃の若者の元気な声です。