2018

2月

2月5日(月)

丹沢の雪

 1日の夕方から降り出した雪は、翌朝には15センチほどの積雪になっていた。前回の雪が解けきっていない所に、また雪が降るのかぁと不安な気持ちにもなったが、その後、わりと暖かめな空気になり、雪は速やかに解けて行った。前回の雪も、一緒に溶かしてくれるような雪だった。
 4日は立春だったが、寒中も過ぎて、どこか春めいた気配は確かに進んでいるようです。まあ今週は寒波が厳しいようですが。

 前回の日記で、牧馬から中沢に至る道のような、県道から枝別れした細道は、除雪がされていない、と書いた。
 本来、牧馬も含む篠原の自治会では、そのような細道であっても、人家のある所までは除雪をする、と市と取り決めている。なので、たとえ担当の業者が廃業したと言っても、その後継の業者を決めて除雪はするものだと思っていたので、今回の件では不思議に思っていた。

 牧馬の住民が、役所に問い合わせてみたら、「予算が無いのでそのような細道は、今回は除雪できない」という返答があったという。にわかには信じられないが、嘘をつく人とも思えないので、そのような雰囲気の会話はあったのかもしれない。まあこれは、ちゃんと確認しなければならない話で、下手をすると、住民と役所の間で、「そんな事は言っていない」「いや、言った」の、言い争いになりかねない。

夕空

 だいたい、「予算が無いから除雪できない」という理由は、どう考えてもおかしい。何しろ、まだ初回の雪なのだ。たいがい例年、数回分の除雪の費用は予算に組んでいるはずで、初回の雪で予算切れなんてはずがない。
 またたとえ、酷く何度も雪が降って、除雪用の予算が切れたとしても、このような生活に(というか生存に)直接関わるような問題なら、予備費なり何なりからお金を引き出すだろう。

 結局、再度役所に問い合わせてみたら、どうやら手違いがあったらしい、というところで落ち着いた。篠原の自治会に対しても、今後も今まで通り、支線の除雪も行って行く、との回答を得たとのこと。

 ただなぁ、今回の件。住民と役所と業者の間の会話に行き違いがあったのかもしれないが、「予算が無いから●●できなくなった」という表現が、簡単に信じ込みやすい環境が整っていた、という側面もあるのではないか。
 実際、市の財政は楽観できる状態ではないらしく、あちこちの場で「今年は3割カット」みたいな話は多く聞くし、公民館も有料化になるそうな。

 なんか、取れる所からは取る、切れる所は切る、みたいな雰囲気になってきたからねえ、相模原市は。

あかね雲

 人口減少で、篠原が岐路に立たされている話題がある。最近、新聞にも記事が出た。

「乗り合い」取りやめ危機 山あいの相模原・牧野地区 自家用有償運送も検討
こちら>>

 かつては藤野駅から篠原までは、路線バスの直通便があったが、利用者の減少で、やまなみ温泉で乗り換える、という形になり、そのやまなみ温泉から篠原までの路線も、赤字がかさんで経営できないという事で「乗り合いタクシー」という形態に代わった。

 相模原市が路線バスの無い地域に、乗り合いタクシーを導入する地域は各所にある。順調に地域の足として稼動している所もあるが、篠原は乗り合いタクシー方式には不向きな土地柄だったようで、実績はあげられぬまま、それでは他の手法を模索しましょうという事になる。

 その手法の一つとして浮上したのが、記事にもある通り、地域の住民が作る組織が運営主体となって、自ら交通を担って行くというやりかた。

午後の相模湖

 記事では「残されている時間は長くない」と結んでいるけれど、まあそこは、どうかなぁ。時間切れだからといって、その地域の公共交通が翌日から皆無になって、はいそれまでよ、とは市も言えまい。

 ただ、人口が減少した集落では、住民自らが知恵を絞って、工夫をこらして、何らかの手法をあみ出す必要に迫られて来る。今回の乗り合いタクシーの件も、そんな現象の一つだと思う。

 ここまで事態が深刻化して今さらだが、市には、もうちょっと観光開発に力を注いで欲しかったなぁ。
 丹沢の山々を広く紹介して登山を盛り上げたら、藤野駅や、三ヶ木のバスターミナルから北丹沢の登山口までのバスの乗客が増えるだろう。仕事を退職された高齢者の登山者だったら、平日だって山登りを楽しむはずだ。
 そんなバスの利用者が増えたら、路線バスだって衰退の一途とはならなかったろうに。人口減少社会ではあっても、交流人口の増加を狙う事はできたのではないか。

 神奈川県の最高峰が、相模原市にあるなんて、どの程度の市民が知っているだろうか。

2月12日(月)

オオイヌフグリ

 心配していた週末の降水は、結局、雪にもみぞれにもならず、暖かい空気を連れた雨となって、山の残雪を溶かしていった。まだ寒波の訪れもあるだろうが、どうやら寒さも峠を越えたらしい。
 日本海側はかなり大変な事になっている。交通機関が動かず、お店に並ぶ商品が減る事態もあったとか。受験生も大変だろう。
 世界的に見て、太陽電池の値段はどんどん下がっているとか。冬でも日射に恵まれた太平洋側で発電して、日本海側の道都や屋根をヒーターで温めるような仕組みとか、できないものかねぇ。

 日射しは徐々に高く、力強さを加えている。真冬の時は、夕方の5時なんて暗くて屋外での作業は難しくなるけれど、今だったら余裕だ。

 この時期、あちこちの小中学校で入学説明会があったりするわけだけど、たいがいそこで、学校指定の制服やカバンや体操着に、けっこうな額のお金が必要と通知される。自治体によっては所得の低い家庭やひとり親家庭には援助もあるらしいが。

 そしたら、東京は銀座にある区立小学校で、高級ブランドの制服を新たに指定した話が出てきた。帽子や靴下など全部揃えたら8万円にもなるとか。冗談みたいな話だ。

丹沢を望む

 なんかなぁ、日本人は金持ちなんだから、この程度の金は簡単に払えるでしょ、と思っているのかな。いや、話題になった区立小学校だけじゃなくて、日本全国の全ての小中学校が。
 本来なら、いかに義務教育を無償にできるかを問わなければならないのに、こうも金を次々と要求されるような世の中じゃあね、少子化が止まらないわけだ。
 これから少しずつ、「払えるかい、こんな金額」と噛み付いて来る保護者も増えてくるだろうし、減る事はないだろう。学校も自治体も、いずれはこの問題と向き合いざるを得なくなるだろうな。

 日本は豊かな国になったのかもしれないけれど、その「豊かさ」のレベルに合わせるだけで収入のほとんどが無くなって、貯蓄のできる余地がない、という人々だって多いだろう。
 いずれ、調整をしなければならない局面がでてくるだろうな。もう少し簡素に、金のかからない生き方を日本の標準とする時期が。

 ただそうなると、学校用の教材を作っている企業とか、制服を作っている企業なんかが、不景気になるんだろうね。ランドセルなんて、未来の小学生は使っているだろうか。

雲ひとつ

 一つ、気になる事がある。まあ、例の区立小学校の話で連想した事だけど。
 なんか日本って、ブランドを借りる事はしても、自らブランドを作るということは、しなくなっているんじゃなかろうか。
 いや、ひと昔前は頑張った時代もあったわけで、そのためにニコンのカメラとかホンダのバイクとか、世界に名の知れたブランドを作ってきたわけだけど。
 自分で何か価値のあるものを作り上げるよりも、価値のあるものを金で買う方が、そりゃあ簡単には違いない。

 これは「権威」についても当てはまり、自らが権威として認められるような実力と実績を積み上げるよりも、既にある権威の配下になって、虎の威を借る狐になる方が楽だろう。
 以前、この日記で、「保守」という言葉に輝きを感じなくなった、といった事を書いた事がある。
 たいがい、「私は保守だ」と自認する人は、「私は保守本流だ」という意味を含んでいる事が多い。私はそこに、脆さを感じている。

 私は本流でいたい、傍流ではいたくない。そんな気持ちが、どこかにないか。
「私は、100人中99人が私の考えに反対しても、私は私の志操を貫く」
 そういった覚悟を決めて、実際に、そんな経験に身を置いた人が、どのくらいいるのかどうか。

山の夕暮れ

 ブランドを作るにしろ、権威を作るにしろ、そういった人には、一度は本流から外れ、傍流の苦境に生きた底力が必要になるのではないか。考えてみれば、江戸幕府は出発点は三河の武士団だったわけだし、明治の新政府だって、江戸幕府から冷遇された薩長の外様大名が源だ。
 日本の工業製品が世界に評価されるまでに至ったのは、かつて、欧米の製品と比べて品質で劣り、なんとかそこに追い付こうという悔しさがあったからだろう。最初から本流にいたわけではない。
 女性のウエストをコルセットで縛り付けるのに反逆したのが、シャネルがブランドになった理由の一つだそうな。

 独り、荒野を往く。そんな個性は、今はもう流行らないのかな(笑)。
 しかし、このままでは、世界から珍重されるような価値を産み出す可能性は、日本から減って行くばかりになるんじゃないのか。

2月26日(月)

 一回、更新が空いちゃったな。まあ、いろいろと忙しかったし。
 2週間も季節が違うと、この時期は変化を強く感じる。もう明らかに「冬の終わり頃」から「春の始め」へと変わった感じだ。これから花の数も増えて行くだろうし、さっそく杉花粉が舞い始めているらしい。

 それでも、未だ雪国では、まだまだ豪雪が続いているそうだ。
 今回の冬は、まあ例年よりも厳しい冬、という所で決まりそうだ。少なくとも、暖冬ではあるまい。
 水道管の凍結やら湯沸かし器の故障やら、久々の厳しい寒さに、あちこちが壊れる話が多かったけれど、高齢者の訃報も多かった気がする。心配なのは、冬を乗り切って春が来て心が弛んだ時に、体を壊す人も多いとのこと。冬の疲れが一気に出て来るのだろう。
 どうかのんびりと、心と体を休めつつ、無理をしないで春を迎えて欲しい。

 冬の寒さと言えば、最近、こんな動画を見たんだけど。
こちら>>

 野良猫にとって、冬は寒かろうと、家の軒下に猫用の小屋を作り、冬を暖かく過ごせる様にしている。毛布に湯たんぽまで使って、なんだか私の家よりも幸福そうだ(笑)。

 めばえ

 よく、家の軒下にツバメが巣を作りやすいように棚を作ってあげる事があるが、それの猫版だろうか。

 ただなぁ、以前、この動画とは違うサイトで、野良猫用の小屋を作っている人々について、賛否両論あったのを思い出す。
「そんな事をして野良猫や余計に繁殖したら、結局、殺処分されてしまうんだろう。そんな野良猫用の家なんて、将来の保健所行きの猫を増やすだけだ」とか。
 そんな意見に対して、「なんて愛情の無いことを言う人なんだ」と炎上したり。
 まあ世の中、猫嫌いもいれば猫アレルギーもいるだろうしね。

 中には野良猫を「地域猫」として、地域で可愛がろうとする活動もある。その場合は、過剰に繁殖しない処置をするそうだけど。

 私としては、基本的に、野良猫を寒さから守ってやろうとする人の心は、温かく良いものだと思う。

 しかし・・・
 あるお年寄りが亡くなった時、その家に、やたらと猫がうじゃうじゃいて、その処置に困ったという遺族の話はよく聞く。
 猫に愛情を注ぐのにしても、自制と責任感と、バランス感覚は必要になるのではないか。

 いや、逆かな。
 自制とか責任感とか、バランス感覚と言った物は、その人に精神的・身体的な体力がある時には問題なく機能している。しかし、精神的・身体的な体力を失った時、その人の家が猫屋敷になる入り口が現れるのだろう。
 その意味では、猫屋敷とゴミ屋敷は似ている。

谷間の家

 改めて強調しておくけれど、私は、か弱いものに対して「あわれ」という慈悲の念を抱く、人間の感情を良いものと捉えている。
 もし、人間と言う生き物に、他の生き物にはない長所をあげるとしたら、そんな慈悲の念ではないのか。
 まあ昨今は、平然と弱肉強食を肯定する人も増えたけどね。そういえば、昨年の10月下旬11月初旬に、そんな事を書いたっけ。

 今でこそ、ブラック企業が横行して、人の生き血を絞れるだけ絞ってやれと言う風潮が大手を振り、政治家もそんな風潮を是正するどころか助長に手を貸す御時世だが、いずれ反動が来るだろう。
 そもそも、人はいかに在るべきか、という問いかけに対して、人々が真摯に考えるようになれば。

 これは同時に、リーダーはどういう存在であるべきか、という問いにも繋がっていくのだけど。

日暮れ

 最近、思い出したエピソードがある。
 孔子の弟子の子華が、孔子の代理で斉の国に出張に往く際、別の弟子の冉有が、子華の母親の為に手当てを出して欲しいと願った。孔子は釜(約12リットルの穀物)を与えるように言ったが、冉有はもっと増やして欲しいと願う。そこで孔子は倍増させたが、結局、冉有は120倍にして届けた。

 この行為に、孔子はこう言った。
「子華は斉の国に出発する時、肥えた馬に乗り、上等な毛皮を着ていた。私はこう聞いている。『君子は生活に困っている人を助けるが、金持ちを更に富ませるような仕事はしないものだ』と。」

 今で言えば、「あいつは高級車に乗り、ブランド物の服を来ていたぞ」といった所か。
 江戸時代の武士だったら、こういった教養も身につけていたと思うのだけど。

※『論語』:雍也