11月7日(火) | |
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11月14日(火) | |
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11月21日(火) 谷の秋 11月も半ばになって、ぐっと冷えてきた。
これは昨年も同じ傾向で、おまけに昨年は11月の末頃に、とても11月とは思えない大雪が降ったんだっけ。もう忘れている人も多いと思うけれど。
「うわー、車のタイヤを冬用に換えてない」と、あちこちで大慌てだったな。あの時は。もっとも昨年は、12月は穏やかな気温が続いたけれど。今年はどうだろう。
このところの暖冬傾向で、12月中旬頃までは小型の電気ストーブでもなんとかなる感じだったけど、今回は11月半ばから灯油ストーブを使い始めました。明日は二十四節季の「小雪」。大雪にならなきゃいいが(笑)。あちこちでクリスマスの電飾が始まり、そろそろ、この一年を振り返るような季節になってきた。
個人的に、いろいろ考えた話の一つに、こんな出来事がある。初秋の話なんだけど、もうすっかり忘れてしまった人も多いかな。日野さんというジャズトランペット奏者が、自身が指導している中学生のドラム奏者を、コンサートの実演中に往復ビンタをしたとかで騒ぎになった事件があった。何でも、そのドラム奏者が、勝手に暴走的に演奏を続けて、日野さんの注意も制止もきかずにドラムを叩き続けようとしてたから、とか。
この件、日野さんが悪いとか、その中学生が悪いとか、いろいろ意見があるようだ。小春日 この話、いろんな切り口から考えが可能だけれど、そのドラム奏者も暴走だったかもしれないけれど、観客が注視している晴れの舞台での暴力沙汰も、十分に暴走行為といっていいだろう。その意味では、このドラム奏者も日野さんも、似た者同士とも言える。
個人的に、いろんな切り口で語ってみたいのだけど、まず一つ。晴れの舞台で自分の能力を存分に発揮して、周囲を驚かせてやろうという若者の姿勢は、否定できるものなのか。
その姿勢は、時には暴走し、周囲の迷惑も顧みず、集団の調和を乱し、自己の利益だけを追求する我がまま勝手な悪事として捉えられる。
しかし逆に、すべての若者が、年上の指導者の意見に逆らう事無く従い、集団の調和を守る行為しかしなくなったら、それは、その芸術の分野は死んだといってもいい。予定調和からの反逆精神は、芸術に限らず、文化や科学の進歩の原動力で、大事なのは、その反逆精神を押さえつけるのではなく、社会にとっても、その人自身にとっても、幸福な形に反逆精神を活かせる道を探る事だろう。
山道の家 さて、我が身を省みて。
もし、私が、この時の日野さんの立場だったら、どう行動しただろうか。
たぶん、とりあえず、5分でも10分でも、1時間でも、そのドラム奏者に暴走させるままにしたと思う。周囲の仲間もしらけるだろう。観客もしらけるだろう。そこで、どんな才能の発揮のさせ方でも、客の気持ちを台無しにする事もある事、そして、自分の評価も台無しにする事もあることを、これもまあ、いい機会だと思って、学んでもらおうと思う。
逆に言えば、たとえ暴走でも、客を沸かせてしまったら、その人の勝ちだ。これはもう、実力の世界なんだから。以下の動画は、映画「天使にラブソングを 2」の一場面。
こちら>>ここで歌う少年は、最後の方で、声を一段と高く張り上げるが、これはこの少年のアドリブだったらしい。映画の監督も、周囲の役者も、この少年がそこまでやるとは想像もしていなかった。
しかし、一見、暴走行為かもしれないが、周囲を沸かせてしまえば、その人が勝者だ。どうも日本よりもアメリカは、そんな若者の、時には「調子に乗りすぎる」くらいの暴走にも、寛容な気がするし、その寛容さが、新しい才能を育てているようにも思う。だいぶ葉も落ちてきました 組織は、大きく分けて二つの種類がある。
一つはピラミッド型。最高権力者がそれ以外の人々を従わせるやり方。
もう一つは横型。その組織に集う人々には上下の身分差はなく、それぞれが協調して何かを成し遂げるやりかた。
この二つには、それぞれに長所と欠点があるが。
集団で音楽を奏でる場合、ピラミッド型がいいのか横型がいいのか。
これもにわかには判断しかねる問題だ。偉大な指揮者が指揮をする音楽は素晴らしいものだろうけれど、指揮者不在の室内楽もあるからね。
そこで有名なのが、オルフェウス室内管弦楽団なんだけど、ここの組織論が、音楽界の中でも実に独特で、そして、個人的には最も先進的だと思っている。まあ、横型組織の理想型のモデルといっていい。
興味のある方は、以下のサイトをご覧ください。
こちら>>それにしても、世界にはこんな組織もある一方で、やれ音楽に体罰は是か非かといった議論を聞くと、なんとも日本の音楽が、中世的な野蛮さを残しているように見えてしまう。
かといって、日本の伝統音楽の雅楽は、指揮者不在の音楽でもあるというのは興味深い。
11月28日(火) 雨の紅葉 一週間に一日くらいの割合で、雨が通り過ぎ、山の木々は落葉を加速させて行く。今年の紅葉は、特別綺麗な当たり年という程ではないけれど、例年の平均からすると、綺麗な方なんじゃないかなぁと思う。
自分が参加している田んぼの仲間たちとで、稲の脱穀をして、麦の種を播く。陽の当りの悪い畑では、午前中でも大きな霜柱がごつごつと伸びていて、今回の冬は霜柱の成長も早い感じだ。
秋の藤野はいろんなイベントや祭りが各所で毎週のように行われるけれど、こんな農作業をやってると、なかなかそんなイベントに顔を出す事ができないや。なにしろ相手は生き物なので、こちらの都合なんて待ってくれない。畑が主で、人間が従の関係になる。言い方を換えれば、人がみんな農作業をするようになれば、みんな、少しずつ謙虚な性格になるということなのかな。少なくとも、世界は自分を中心にして回っている、などといった尊大な感覚は薄れると思う。
今年の田んぼの作業も、あとは年末に仲間と餅搗きをするだけだね。
雨雲と山 年末に向けて、そろそろ大掃除の季節にもなるのだけど、今年、いろんな事を考えた中の一つに、「ゴミ屋敷」がありました。家の中がゴミだらけになっている家の事です。テレビとかでも取り上げられる機会が増えたようだし、そんな家の片付けを行う業者も増えたようだ。ネット上の動画なんかでも、時々、見る事があるのですけど。まあ、ユーチューブで「ゴミ屋敷」で検索するとごろごろ出てきます。
たとえばこんなの>>なんでこんな現象が気になるかと言うと、こういった光景が、これからの未来を象徴しているように思えるから。
一つは高齢化。お年寄りの一人暮らしというのは、体力の衰えと共に、家を綺麗に維持できる領域が小さくなってしまう。始めは二階が物で埋まり、やがては自分が暮らす最低限の動線以外の所に物が埋まって行く。
ただ、こういった現象はお年寄りだけではないそうで、仕事がきつすぎる生活をしている若者でも、同じ事が起こるそうな。自分が暮らしている環境を、常に綺麗に整理しておくというのは、その人に体力的・精神的・時間的な余力が必要らしい。生活をしていればどうしてもゴミは発生する。しかし、生活に余力が無いと、日々生まれるゴミの量に対して、片付けるゴミの量が追いつかなくなる。結果、ゴミが増え続けて、どこかで生活が破綻して、清掃業者にお願いする日に至ってしまう。
いや、それはまだ良い方で、たまったゴミが火災の原因になってしまう事もあるとか。ススキの谷 世の中の持続可能性については、今までさんざん書いてきたけれど、身の回りの環境を常に綺麗にしておくというのも、持続可能性の問題だろうし、持続可能性を喪失したところから、ゴミ屋敷は発生するのだろう。
これは個人だけではなく、会社や町といった組織でも、持続可能性を失ったところから、綺麗に整理された場所が減って行き、処理が追いつかなくなったゴミが目立つようになるのではないか。あと、ゴミ屋敷って、未来に対して夢や希望や志を失った時にも現れる現象らしい。
私の心に強く残っている話がある。ある家族が住んでいる家が、何らかの経済的な事情で、家を手放さざるを得なくなり、家が競売に出されることになる。すると、たいてい、その家は、住んでいる家族が掃除や整頓をする気力がなくなり、家の中がゴミだらけになる事が多いとか。似たような印象を、町のあちこちにスプレーで描かれる落書きについても感じている。「来年の自分は、今年の自分よりも確実に良くなっている」という自信と確信のある人や、これから世間と堂々と渡り合って生きて行こうという意欲のある人なら、そんな落書きなんてすまい。
晩秋の陽 高度経済成長期であれば、東京タワーが立ったり新幹線が開通したりテレビや洗濯機やクーラーを買ったりとか、誰にでも判りやすい夢や希望に満ちた明るい未来像を描けたかもしれないが、今はなかなか難しい。
ただ、「難しい、難しい」と言っている間にも、心の空虚と荒廃は徐々に進み、ゴミ屋敷やゴミ会社やゴミ市町村が増えて行ってしまう。この流れを止める一つの方法として、綺麗に整頓する気風を、文化として尊重するようにしたらどうかと思う。
いい仕事をする職人は工房も綺麗で、道具も整備されて整理整頓が行き届いているとか。何代も続いているような老舗は、いつも掃除がなされて清潔感があるとか。続く人、続く家、続く企業、続く町は、いずれも共通して掃除も行き届いているし、整理整頓を心掛ける気風があるものだ・・・という文化が定着すれば、少しは状況が変わってくるように思う。