2017

10月

10月15日(日)

 台風で倒れたニセアカシア。この木はどういうわけか、よく倒れる。電柱の上には、停電の復旧作業の人。

 まただいぶ更新が空いた。すでに秋も深まりつつある。

 今年の天候、それも雨に関する傾向は、前半はずっと少雨が続き、梅雨時でも、九州では大変な集中豪雨が被害をもたらし、他にも新潟や秋田でも豪雨の被害を出している一方で、藤野はカラ梅雨のまま終わった。そりゃア、多少は降る事は降ったけど、それまでのカラ梅雨で乾いた山には、多少の雨はしみ込んで吸収されるだけで、川の水量が増えるほどではなかった。

 水不足で困る田んぼも多かった。ある田んぼは、自前でエンジン式の揚水ポンプを使って、川から水を上げていた。

 初秋に台風が通過した時も、それなりに雨は降ったけど、川は増水しない感じだった。それでも、例によって木が倒れて停電した地域はあったけど。

 以前から同じような事を書いているけれど、やはり一度、道路沿いの木は伐っておいたほうが、いいような気がするなぁ。大木になってから伐るのは大変だよ。

 

山の雨

 最近、知った話でこんなのがあった。このサイトの記事に、「テキサスゲート」という言葉と、その説明がある。
こちら>>

 一見、ただ単に、道路に溝が並んでいるだけのようだけど、これがあると、鹿やイノシシが、その道を通れなくなるそうな。

 鹿やイノシシの害を防ぐために、集落全体を網や柵で囲ってしまう手法も採られるけれど、道路が問題になる。いくらイノシシを集落に入れたくないからって、道路を柵で塞いで通行止めにして、車が通る時だけ柵を開けるなんてことをしたら大変だ。
 でも、こんな簡単な設備で、イノシシや鹿が入らなくなるのなら、有り難いなぁ。いずれ、道路のあちこちにこんな溝が出来るのが、山里の光景の一つになるのだろうか。

 イノシシや鹿の害を考えると、山里に住むのも絶望的になりつつある昨今だけど、いろいろと新しい技術も脚光を浴び始めているんだな。たぶん、このテキサスゲートだって、発明されたのは、けっこう前なんじゃないか。

 ミズヒキ

 イノシシや鹿がらみの話をもう一つ。

 個人的は、いろんな恩義のある信州の泰阜村。その村の広報に、ジビエ加工施設が出来たという記事があった。リンクした「広報やすおか」の179号で、PDFで見られます。
こちら>>

 これで、これまで河で解体していたような鹿やイノシシも、衛生的な場所で解体でき、肉の熟成も冷蔵も加工もその場でできるようになる。何でも記事によると、これまでは鹿を捕獲しても加工までは手が回らず、その場に埋めてしまう事も多かったとか。
 おまけに、安定した場所で解体できると、皮も商品として使える品質の物が得られるとのこと。皮の商品化も視野に入れている。

 泰阜村は小さな村だけど、なんかねえ、この記事を読んでいると、そりゃあ、大規模開発、大規模事業だって必要な事はあるでしょう、でも、少ないお金を上手に使って、投資したお金以上の価値を生み出せる力ってものは、案外、こういう小さな組織にこそ宿っているのではないかと思った。

秋の陽

 なんだかまた選挙だそうだけど、やってることは無茶苦茶だなァ。

 私としては、次の時代の主役になる人のイメージは既にある。たぶんそれは、人口がどんどん減って行く社会において、ただ消滅していくだけの町が次々と現れるなか、どういうわけか、人口の減少を停止させて、その地域の活力を復活させる事に成功した町の人だ。それも、企業の誘致とか大規模開発とかに頼らずに、独力で。

 そのためには、自分で考えて自分で行動できる人々の集団、それでいて、不思議と仲たがいはしない集団のいる地域である必要がある。

(自分で考えて自分で行動する独立心旺盛なタイプが、仲たがいせずに集団を維持するのは難しいが、その方法も無いわけではなさそうだ)
 その方法を上手に見つけた組織が、これからは強いのだろう。

10月23日(月)

雨けむる

 先週は、水曜日を除いてほとんど雨だった。その最後のだめ押しに、日曜日の夜には台風が通過した。
 今年は、前半はカラ梅雨もあって、少々の雨が降っても川の増水もないような時期が続いたが、8月以降、今度は雨が良く降り、少々の雨でも川が増水するようになった。
 今回の台風は、風はそれほど吹かなかったが、雨は十分に降らせましたよ。山の沢が増水して、道路に流れ込んで、まるで道路が川みたいになった場所も多い。

 今週の雨と台風。土日を直撃した事もあって、中止になったイベントも多いと聞く。まあ、そりゃあそうだろう。私も、参加している田んぼの稲刈りは延期になった。

 土曜日に選挙の期日前の投票に行ったけど、妙に混んでたな。まあ、翌日が台風となったら当然か。その割には、ずいぶんと投票率が悪かったと聞くが。

 台風一過の道志川

 選挙の結果だけど、相当、日本もカオス(渾沌)化が進んでいるなぁと思った。皆が皆、何を信じて良いのか確信が持てなくなり、集団で迷走を始めている。

 こんな時は、昨日まで満々と水をたたえていた湖が今朝は干上がっていたり、昨日まで砂漠だった所に、いきなり巨大な湖が現れたり、現れたかと思ったらまた消えたりと、混乱が激しい。

 選挙は終わっても、混乱の基本的な原因は解消されているわけでは無い。混乱は今後も続くだろうし、混乱に巻き込まれて、それまでの立場を失う人も出て来るだろう。

 こんな時、自分は何をすべき人間なのか、しっかりと軸足のある人ならいいのだけど。
 というか、こういったカオスの時というのは、今までの自分の人生観や哲学が、本物なのかメッキなのか、試される時なんだろうな。

 個人的には、なんか、今の世の中の雰囲気や流れを見ていて、「保守」という言葉の持つ輝きや力にも、賞味期限が切れてきたように感じている。

 太平洋戦争の敗戦後、それまでの狂信的な全体主義からの反省として、長らく革新系の思想や主張が力を保ち続けてきたが、これが妙な事に、どういうわけか日本が経済的にも技術的にも大国になってしまい、変な自信をつけてしまったのだろう。「日本はエラい」と。
 一方で、物質的に満たされて、一応のゴールに達してしまった日本人には、次の目標が見つけられなかった。そこで、当座の目標として、「保守」しか想像も創造もできなかった。

 日本の右傾化なんて、その程度の理由だと思う。

まるで川みたいになった道

 ただ、何でも革新すればいいというのは無思慮なだけのように、何でも保守にしなければいいというのも思考停止で、世の中はどんどん劣化して行く。結局、創造性を無くした保守は、どんな社会問題があっても、どんな失政であっても、「我慢しろ」しか言えなくなってしまう。「なんとかしましょう」と、言えるには、現状を変える創造性が必要になる。

 で、次に輝きを発揮する言葉って、何かなぁと思ったら、「中道」じゃないかなぁと思い浮かんだ。
 中道って、保守と革新を足して2で割るとか、右と左の間とか、そんな単純な話ではない。中道って、何が正しいかを、感情ではなく理性で語りかける資質が必要になるのね。

 感情の奴隷になって「私が正しい」と言うのは、誰にでもできる。でも、考え方の違う人に対して、感情ではなくて理性的な言葉によって、「何が正しいのか」を語れる人間となると、急に少なくなる。
 なぜなら、そのような人間は、何よりも自分自身に対して「果たして自分は正しいのか」と懐疑の念を持ち、刀鍛冶が赤熱した刀を右と左から打ち付けて鍛え上げるように、自分の考える「正しさ」に、絶えず磨きをかけている人だから。

 他人に厳しく自分に甘い、という人間ならいくらでもいるけれど、「何よりも自分自身に対して厳しい」という性質が中道には求められる。けっこう厳しい境地なのよ。

ススキ

 「中道」という言葉が出てくると、「私は中道です」と安易に答える人も出てくるかもしれない。
 でも、本当の中道の人って、自分は「中」から、どの程度ずれているかを、いつも正確に把握するように努めている人だ。その意味で、「私は中道です」と自認して公言する人は、実は真の中道ではないかもしれない。

 例えば、人間は神様じゃないんだから、「私は100%正しい」なんて言う人は、無知か痴呆かのどちらかだろう。
 でも、真に中道の道を進んでいる人だったら、野球の打者が自分の打率を正確にわきまえているように、自分は何%正しく、何%間違ってきたか、正確にわきまえているような人だ。

 そんな、自分自身に対する謙虚さ、厳しさを感じさせる人は、なかなかいない。

10月31日(火)

光る川

 また土日に台風が通過した。今回は前回の台風ほどには大雨にはならなかったけれど、それでも台風の雨ですからね。それなりにどっさりと降らせましたよ。それにしても、狙ったように土日に雨が降るなぁ。今回も、あちこちのイベントで中止の知らせが入った。長い時間をかけて準備を重ねてきた関係者には、さぞ無念な事だろう。
 ただこれも、屋外で作業をする仕事をしている人にとっては、わざわざ土日を選んで雨になるというのは僥倖なんだろう。土木工事なんかも、工期の遅れを心配せずにすむ。

 牧馬峠の北側の道路で、工事が始まっている。道路の片側の斜面を覆っていたコンクリートの吹き付けが、長年の風雨や植物の成長で劣化し、ひび割れや剥落が目立つようになっていた。コンクリートを突き破って木が生えている所がある・・・という状態を遥かに越えて、木と木の隙間にコンクリートが残っている、といった状態の箇所さえあった。

 こういうのって、どれくらいの劣化が進んだら補修工事をするものなんだろうか。たぶん、何か基準があると思うんだけど。
 なんか私には、この工事、本来の基準からはだいぶ遅れて、ようやく始められたような印象がある。まあ、あくまでも個人的な印象だけど。
 そんな印象を持つ理由は、このところ、何か災害が発生して道路や橋が通行止めになっても、復旧工事が遅れがちな感じだから。行政の金に余裕がないのだろうか。

道志川

 前回の日記で、「中道」について少し書いた。
 それにしても思うのは、保守とか革新とか、右とか左とか、いろいろと名詞は飛び交うけれど、それぞれの言葉を自分なりに定義できる人が、どのくらい、いるのかどうか。
 もし、そういうことのできる人が多数派だったら、ここまで混沌が進むはずがない。

 私としては、それよりも、もっと分かりやすい主義主張の立場があると思っている。それは、人は助け合う生き物か、それとも弱肉強食の生き物なのか、どちらの立場をとるのか。
 ただ、この分け方、分かりやすいようでいて、けっこう難しい所がある。

 まず、人はその置かれた境遇によって、この二つの立場を普通に移動する。
 自分が貧しい時は、金持ちから高率の税金を取って、貧乏人に分配すべきだと思っている人が、いざ自分が金持ちになった時は、「私は自分の努力と才覚で今の地位を築いたのだから、私の資産は私の物である。それを何で貧乏人に分けなければならないのだ。だいたい、才能のある人間が成功して、才能のない人間が滅んで行くのは、当然の摂理だろう。」と、弱肉強食派に転向する。

 で、その人がまた貧乏になった時には、また転向するんだろうな。

川向こうの家

 また、「人は助け合う生き物だ」と考える人だって、弱肉強食の生き方とは無縁ではいられない。
 町のみんながよく利用するケーキ屋があるとする。そこへ、もっと美味しいケーキを出す店が開店する。日頃は「人は助け合う生き物だ」と考える人も、その新しいケーキ屋に行くようになり、始めにあったケーキ屋はいつのまにか閉店している。
 これだって、まぎれもない弱肉強食だろう。

 かといって、「じゃあ、その点も踏まえて、弱肉強食ではない生き方をみんなでしよう」と、全員が賛同しても、妙な世界になる。
 歌が上手い人が歌手として成功するのは当たり前。でも、あまり歌が上手くない人が歌手として成功したいと願望するとする。
「私の歌を聴いてほしい」と言われれば、周りの人間は「人は助け合いが大事だ」と思っている人間ばかりだから、まあこれも助け合いだと思って聴いてあげる。
「私の作った曲、全曲聴いて欲しい。2時間ほどかかるけれど」と言われれば、そろそろ「人は助け合いが大事だ」と思っている人間でも、その場から距離を置くようになる。
「私の作った曲をCDにしたから買ってくれ」と言われれば、まあこれも助け合いと思って買ってくれる人が少しはいるだろう。

しかし、こうも思うだろう。助け合いと言っても、さすがに限度があるな、と。

相模湖 台風の後とあって、けっこう濁ってます

 このように、「助け合い」と言っても「弱肉強食」と言っても、鮮明に別れるようなものではなく、「どちらかと言えば、自分は助け合い重視派かな(もしくは弱肉強食容認派かな)」といった、灰色の濃淡のような境界のあいまいなものだけれど。

 ただ、ここで書いておきたかったことは、今年になって、もしくは去年あたりからかもしれないけれど、それまでけっこう羽振りをきかせていた弱肉強食容認派の勢いが神通力を失ったように引き潮に移り、「やはり人は助け合いから始めないと」という力が動き始めているように、私は感じているという事。

 この事は、またいつか書いてみたい。