2016

3・4月

3月2日(水)

淡雪

 先週の半ばに雪が降り、牧馬も3センチほど積もった。これは冬の雪ではなく、あきらかに春の雪で、大きめのボタン雪は粉砂糖を振りまいたように山々を飾り、あっというまに跡形もなく消えて行った。
 3月に入り、これからも時々、寒の戻りもあるだろうが、春も本番になっていくのだろう。

 梅の花もあちこちで満開になっている。もっとも、今年の梅は開花も妙に早かったので、なんだかずいぶん長い時間をかけて、じっくりと花を楽しませてもらったような気がするな。この日記でも書いたけれど、1月の半ばから咲いていたから。
 杉の花粉も飛び始めたね。朝、車の窓ガラスを見てみると、うっすらと黄色い粉が付着している。

 以前、ここの日記でも紹介した、藤野周辺の農家、それも新規就農者が主体の朝市が、引き続いて好評のまま継続している。場所の変更とかはありましたが。私ままだ一度も行けてないんだよなァ。

ビオ市・野菜市
こちら>>

 世の中、いろんな取り組みがあるけれど、企画しても実行できずにお蔵入りするものもあれば、実行しても振るわずに衰退して終わりになるものもあれば、続けて行く内に参加者も増えて更に発展して行くものもある。この朝市は、おそらく三つの内の最後のそれだろう。

谷間の雪

 このところ、大量生産・大量消費・大量廃棄の経済では世の中が成り立たなくなって来て、じゃあこれから何で食っていけばいいんだ、と言った事を続けて書いてきたけれど、正直言って私にもよく判りません。まあひとそれぞれ、組織も団体もそれぞれ、自分の長所を活かして何かをやっていくしかないんじゃないかなァ・・・と。
 こんな答えはバカにでもできますね。

 ただなんとなく、これからは結果が早く出るような世の中になる予感がするので、この商売は見込みがあるのか無いのか、見きわめは速やかにできるんじゃないかしらん。
 将来の見込みのある所には、さっとお客や賛同者が集まったり、またそんなお客や賛同者が、その企画を更に発展させる手助けをしてくれたり。

 これって、人間の人柄についても言えるんでしょうね。人の心が離れていく人もいれば、人の心が集まってくる人というのも、これからは結果が出るのが早くなるでしょう。
 今までのやり方では世の中が回せなくなったとなれば、どうしても世の中は混乱して人々の心はバラバラに離散していく。でもそんな中から、「人の心が集まる人」というのが浮き上がってくるんじゃないのか。

 さて、じゃあ混乱の中から現れてくる「人の心が集まる人」って、どんな人なのよ、という話になって来るけれど、一口で言ってしまえば「人格者」という事になりますね。これもまた、バカにでもできる答えだ。

 問題はそこからだろう。人格者って、どんな人なのか。人格者の条件ってなんなのか。
 この件に関しても、私にはよく判らない。ただこの手の話は、過去何千年に渡って、沢山の書籍があるから、資料には困らないだろう。逆に、資料がありすぎて何を選んでいいのか困るくらいだ。
 混乱した時代なんて、何も今に始まったわけではない。今よりももっと激しい混乱の時代もあったわけで、そんな時代でも、人々の心を引き付けて、人々がバラバラにならずにまとめあげて成功した人はいるわけで。
 もちろん、そんな時代に、更に輪をかけるように人の心をバラバラにして滅んでいった組織の方が多いとは思いますが、その歴史も大事な参考資料ですね。

 そんな事を考えていたら思い出した言葉があった。『易経』の渙の卦。

 易経はこの世界の森羅万象を64種類の形に分類して解説を加えた中国の古典で、「渙」は一度バラバラに散らしてしまう、という意味だけど、同時に、散らしてしまったものを再び集めるという意味もある。
 特にこの渙の卦で言う「再び集める」とは、祭祀を行って祖先の霊魂を集め、同時にそれによって民衆の心も集める、という政祭一致の時代の「まつりごと」の意味だ。

 昔は、宗教的な儀式も、なんとか人々の心がバラバラにならないようにと、必死になってやってたんだろうな。

だいぶ陽も高くなりました

 渙の卦にはこんな言葉がある。「その大号を汗にす」
 君主が民衆に対して、心をまとめようと号令を発する時、その号令は汗のようでなければならない。汗とは、一度体から出たものは二度と自分の体に戻す事は出来ない、という比喩だ。号令を発する以上、安易に取り消しや変更などしない覚悟で、熟慮の上で首尾一貫した発言をすれば、混乱の時代でも民心が離れる事はないだろう、と易経は記す。

 まあこれも、実際には民心の離反を防ぐ事ができないまま、滅んでいった政権がいかに多かったか、政権が行き詰まった時に限って、その場限りの嘘をついて、その場を取り繕うとして、かえって滅びを速めた政権がいかに多かったか。
 そんな歴史の実例を多く踏まえた上での言葉に違いない。

※『易経』渙卦九五
渙汗其大號。渙王居无咎。

3月10日(木)

雨に煙る

 妙に暖かいなと思う日が続くと、今度は雨が通り過ぎて石油ストーブの出番になる。そう簡単に春本番にはならないが、来週にはもう彼岸入りがやってくる。冬の間、固まっていた畑を耕し、ジャガイモの植えつけの準備も始まっている。コレから、野山も徐々に活気付いてくるだろう。

 牧馬でいえば、イノシシの猖獗が今から激しい。道路わきの崖が夜間にイノシシに掘り返されて、大きな岩が道路にごろごろと落ちている。たぶん、葛の根でも食べているのだろう。
 藤野でも北部の道では、道路の下側の崖がイノシシに掘り返されて、道路のアスファルトの下に空洞が出来てしまった所もあるそうな。これは市にも連絡が行ったようだけど、こんな事を繰り返されたら、イノシシが原因で道路が通行止めになるような勢いだ。

 やっぱりね、いいかげん、イノシシや鹿や猿といった山の動物対策に本腰を入れなければならない状態になってきたけれど、なかなか相模原市はそのへんの危機意識が伝わらないようだ。なにしろ人口の大半が都市部にあるために、山里ならではの課題については、どうしても優先順位が低くなるようだ。

 市が頼れないとなるとなァ、あとは地元の猟師にお願いする事になるのだろうか。いっそ自分も、罠の免許ぐらいは取った方がいいのかな。

春がすみ

 アメリカの大統領選の行方を見てみると、なんだかアメリカの有権者って、殺気だってない?、と思うような印象を受ける。有力候補と思われた候補が振るわず、ダークホースばかりが前に出てくる。「今までの延長だけの政治なんて、もうたくさんだ」と言わんばかりの雰囲気と申しますか。
 先日、別の所でこんな文章を書いたんですけどね。

神が死んだ時

 ロッド・スチュアートの代表的な歌の「マギー・メイ」。歌詞の和訳は以下のサイトが詳しい。
こちら>> もしくは こちら>>

 若い男(というより少年)が、ひととき年上の女性に誘われてつきあったが、やがて幻滅して自分自身の日常へと帰ろうとする。歌の内容はそれだけなんだけど、それだけで古典的な評価を得た歌になるわけでもないだろう。
 そんな具体的な事例とは離れた、何か普遍的な心の叫びのようなものが、確かにこの歌にあり、人はそこに共感しているのだと思う。

 自分なりの答えを先に言ってしまうと、これは「神が死んだ時」の歌だ。
 大げさな言い方になってしまったが、例えば、この歌の内容をこんなふうに変えてみたらどうだろう。

 憧れていた業界がある。そこで輝かしく働いて、その世界で生きて行きたいと思った。その業界も、自分の業界がいかに輝かしい所かを、盛んに宣伝して若者を誘った。
 誘われて入ってはみたが、しばらくすると幻滅を感じ始める。

谷間の梅

 確かに自分は、この業界に憧れて入った。当初は、それなりに楽しさもあった。
 でも実際は、中身はそれほど輝かしいものではなかった。よく見てみれば、すでにこの業界は、輝かしさの最盛期はとうに過ぎ、内部では陳腐化と劣化が進んでいた。だからこそ、自分がこの業界を欲していたのではなく、「この業界が」、自分のような安く働く若者を欲して、そんな若者に依存していただけだと気づく。
 そこで、若者はこう告げる。
「もうここにはいたくないんだよ」

 かつては夢と憧れだった。自分の人生のすべてだった。でも違った。その世界も、結局は自分と同じ、つたない人間がささやかに動かしているだけの世界だった。それは神ではなかったし、そこに神はいなかった。
 先に「神が死んだ時」と書いたが、正確には「神も自分と同じ人間に過ぎなかったと判って、メッキがはげる時」といったところだ。

 似たような連想は、ほかにも応用ができるだろう。
 子供にとって、親は一時は神に等しい。しかしいつか、自分と同じ人間にすぎないと悟る時が来る。
 スピリチュアルが流行る世の中だが、ある宗教に飛び込んで、幻滅して脱退する人もいるだろう。
 あんなに憧れていたはずのブランドものに、いつしか心が冷めてしまった時を迎えるとか。

 なんでこんな事を考えたかというと、これからしばらくの間、日本の様々な組織や人物に、「神の死」が訪れて、「もうここにはいたくないんだよ」と、そこから別れを告げて、自分自身の道を歩き出し始める事が増えるんじゃないかと思ったから。
 例えてみれば、戦後の天皇の人間宣言みたいな、メッキのはげる時といったものか。

 「神の死」と言うと悲劇みたいだが、幻想が壊れて自分自身に戻るという事は、悪い事ではないだろう。

タネツケバナ

 最近、子供を保育園に入れられなかった親が、自身のブログで「日本死ね」と書いて、それが大きな反響を巻き起こして政治の舞台に出て来ると、今度はそれを政治家がまともに取り上げなかったり揶揄したりして、更に火に油を注ぐ結果になった。
 こういう、民衆から自然に発生した言葉、それも、民衆の間で急速に拡散と反響を巻き起こした言葉と言うのは、嘘がない率直な心情だけに、下手に取り扱うと大やけどを負う。始めは「日本死ね」とは不届きな、と権力をかさにきて上から目線でバカにしてかかってきた政治家も、死ぬのは自分かもしれないと思うと、急に静かになって、低姿勢になるよな。

 まあ、まだまだこれからだろうな。シャープも東芝も、ジャイアンツもスマップも。日本の神々が死んで行くのはこれからだろう。
 もちろん、神々が死んで、「もうここにはいたくないんだよ」と、そこから決別して自分の道を歩むにしても、それは新しい再生の道でなければならないが。

 それにしても、あの震災から5年にもなるのに、日本って精神的な成長がまるで見られないのは、どういうことだ。

3月20日(日)

淡雪

 春分の日。暑さ寒さも彼岸までと言うが、先週の前半は意外な雪が舞ったりして驚いたが、その週の後半は一気に春を追いこすような気温になったりと、なかなか慌ただしい。まあ藤野では、4月でも雪が降る事はあるけどね。

 この春にも福島から子供たちが篠原に保養にやってくる。

うえるかむ! しのばらんど
こちら>>

 このような活動も、持続させるのはなかなか難しいそうで、関係者の方々も、持続させる為に頻繁に会議を開いては、意見を交換しあって知恵をしぼっている。今回の特徴は、「ボランティアさんを極力少なくし、 みんなでご飯を作ったり運動会したりと、 共に作り上げるスタイルに生まれ変わります」とのこと。これも、何度も会議を重ねた末の結論なのでしょう。

 篠原ネタをもう一つ。実は既にオープンしてだいぶ経つのですが、篠原にギャラリーができています。

〇△gallery
こちら>>

 冬季休業中でしたが、4月からまた始まります。基本、開廊日は木・金・土曜日なのですが、それ以外の日にも開いてる時もあれば、その日でも閉っている時もあるみたいで、正確な情報は、リンク先のカテゴリー「営業日」を確認して下さい。

篠原のバス停留所の乗り合いタクシー

 とは言うものの、自家用車で篠原に来るのならいいのだけど、「車は無いので公共交通機関を使いたい」となると、篠原に行くのも困難になってくる。上記のギャラリーのサイトのカテゴリーに「アクセス」というのがあるが、それを見てもらえば判る通り、公共交通機関を使う場合は、ギャラリーに行くのにちょうどよく使える便と言ったら、2本しかない。それ以外の便は、子供達の通学用の早朝の便だったりと、観光目的には不向きな便ばかり。

 それも普通のバスではなく、「乗り合いタクシー」という、乗るのには事前に電話で予約が必要なものだ。
 この乗り合いタクシー。路線バスが廃止されて、その換わりの交通機関として市が導入したものだけど、困った事にこれも利用状況が悪かったら廃止されかねない決まりになっている。
 なので、篠原の住民が積極的に使えるように、地元の住民がバスのダイヤを考えたりして努力はしているのだけど。

 実はこの乗り合いタクシー。困った条件があって、路線バスが走っている道路は走る事ができない。なので、篠原から藤野駅までの直通便は設定が不可能で、どうしても乗り換えが必要になる。また、その乗り換えの時間の組み合わせが難しかったりと、利便性の向上をさまたげる足枷が多い。
 その辺りの条件が緩和されれば、地元の人にはもちろん、観光客にも使いやすいものになると思うのだけど。

雨上がりの朝

 山里の交通の問題について、最近、こんな記事を読んだ。

これは限界集落の一つの未来かもしれない。8300枚の棚田を復活させ、最新型モビリティで走る、岡山県「上山集楽」で始まった自立型集落への道
こちら>>

 限界集落での移動手段をどのように作り上げていくのか。この記事では、軽自動車よりも更に小型の自動車が取り上げられている。これなら一般の自動車よりも速度や積載性は落ちるが、高齢者が使うには安全性の点で有利だろう。
 おまけに、こういった小型車だと、軽自動車でも入れないような細道ににも入れる。畑の細道でも肥料や資材が運べたり、伐った木を運ぶ事もできるだろう。案外、山で使うには便利そうだ。

 四輪バギーとかATVと呼ばれる乗り物がある。日本では販売されていないようだが、輸出はしているはずだ。
こんなやつ>>

 こんなのを、屋根付きとか荷台付きで出してくれないかな。山里では使いでがあると思うんだけど。
 もしかして、これも乗り合いタクシー同様、法律上のいろんな制約があって、まさに利用者が望むような形の製品が出せないような条件とかがあるのだろうか。

 あとねえ、前にも書いたけれど、自動車の自動運転技術の普及は、難易度の高い都市部ではなく、山間地の交通弱者向けに力を注いでくれないかな。そっちの方がずっと実現化は早いし簡単だろうに。

篠原の火の見やぐら

 不況だなんだと言いながら、案外、製造業って、人々が「まさにこれが欲しい」と飛びつくようなものを、あれこれ理由を付けては作っていないんじゃないかしらん。まあ、いろいろ事情はあるとは思いますが。

 ああそうだ、わたし自身も、絵書きとしてこんな商売を加えてみましたが。
こちら>>

 こんなのもなァ、ちゃんとお客さんが喜んでくれるのか、ちょっとまだ判らない。喜んでくれる人が多ければ継続していけばいいし、反応がなければそれまでだろう。
 3月2日の日記に書いたけど、どうもこれからは結果が早く出る世の中になるような気がする。この商売は見込みがあるのか無いのか、見きわめは速やかにできるんじゃないのか。

4月3日(日)

雨の山

 牧馬の里でも桜が咲き始めているが、ここ数日の冷たい雨のおかげか、一気に咲いて一気に散るような感じではない。もしかしたら例年よりも、のんびりと咲いてのんびりと散っていくのかもしれない。

 冷たい雨と言っても霧雨のような小雨で、火を消すような雨ではなかったのは不運だったかもしれない。この日の早朝に、神奈川県でももっとも古い木造校舎の小学校と言われている、青根小学校が全焼した。牧馬からも、わりと近い所にある学校だったが。
 地元の方々にとっては、さぞかし無念な事件だったろう。風情のある校舎で、テレビドラマや映画のロケにたびたび使われてきたという。

 「問題はこれから」という所もあるんじゃないかなぁ。焼け落ちてしまった校舎は残念だけど、今度は校舎をどこまで再建するのか。実の所、既にこの学校の生徒数は、大きな校舎を必要とする人数ではない。近隣の小学校への統合を提案されても不思議ではない規模だ。
 もちろん、地元としては小学校は地元のシンボル的な存在なので、再建を願うだろうけれど、どの規模の再建になるのか。

 昨年、鬼怒川が氾濫して災害を起こした時に、似たような事を日記に書いたな。昭和の時代までは、災害で施設が被害に遭って壊れても、それ以前よりも大きな施設に再建されるのが普通だったが、さて、人口減少社会に入った今は、どうだろう。

野の花

 最近読んだ記事で、興味深かったものがある。

グーグルが突きとめた!社員の「生産性」を高める唯一の方法はこうだ
こちら>>

 能力の高いチームの特徴とは何かを調べてみたら、そんなチームには思いやりのある人情が存在しているそうな。
 ただなぁ、記事を読みながら「何を今さら」という気持ちもあるよなァ。今の今まで、さんざん職場から思いやりも人情もズタズタに痛めつけて捨て去って来た歴史はなんだったんだ。

 まあさすがに大企業と言えども、時代の最先端を切り開こうという会社であれば、思いやりでも人情でも使ってでも、チームの能力を最大限に発揮してもらおうという事に、これからはなるんじゃなかろうか。

 何しろ、これからは何をしたらいいのか判らない時代になっていくと思うから。
 今まではわりと明確な目標が定めやすかった。欧米に追いつけ追い越せ、とか、成長拡大とか。
 こういった状況下なら、チームの中の人情なんか必要無い、というか、チームそのものも必要無い。ただ単に、上の言う事を黙って従うピラミッド型の組織の方が目的に合致しているだろう。

 でも、「上」も何をしたらいいのか確信が持てない状況になると、とにかく上下の差別もなく、みんなが思う存分の考えや提案を発揮できるようにして、アイデアを量産できる体制にしないと道が開けないだろう。

相模湖

 それにしても、思いやりとか人情とか言っても、今さら企業組織の中で再興できるのかしらん。なんだか私には、再興できる前に、再興に失敗して消えていく組織の方が、遥かに多いように思えるのですけど。

 そう言えば、つい先日はエイプリルフールだったけど、ネット上ではいろんな嘘が飛び交ったみたいだが、なんか私には白けた気分の方が大きかった。数年前の私だったら、自分も四月一日に合わせて、ソーシャルネットサービスか何かに、とっておきの嘘でも出そうか、なんてイタズラ心もあったのだけど。

 やっぱりね、「福島の原発はコントロール下にある」とか、一国の首相が平然と嘘をついて恥じない社会が常態化しちゃうと、今さらエイプリルフールもあったもんじゃない、という気分になるんじゃなかろうか。
 逆に、こんな状況だと、四月一日にみんなで「今まで黙っていたけれど、心の底からの本音を吐露する」なんて事をしたら、そっちの方が刺激的かもしれない。もうさすがにみんな、嘘は聞き飽きた頃だろう。

 誠実さのカケラもない嘘が世の中に溢れかえるようになると、相対的に、思いやりや人情に満ちた赤心の存在が、輝きを増してくる。周囲が暗くなれば、ろうそくの灯りも輝いて見えるようなものだ。

つくし

 これまでさんざん流された嘘で、その最たるものは「景気は緩やかに回復している」というやつだろう。
 その一方で、政府も無視できなくなって来た民衆の赤心の代表例が、弱者の貧困の対策を何とかしろ、というやつだろう。これは世界的な流れらしい。