2015

9月

9月6日(日)

久しぶりの晴天

 先週は、これまでのように雨続きというわけではなく、晴れ間の日もあった。そんな日を選んで、ずいぶん久しぶりに布団を干した。もっともこれからも、雨がちな天気は続きそうだが。

 前回の日記で、オリンピックのエンブレムの類似の件について書いたけど、あれ、使わない事になっちゃったね。なんだか、このオリンピック関連では変な事件が続くなァ。

 以前にも軽く書いたけど、このところ、「中庸」という言葉について考える事が多い。
 これからも、世の中にはいろんな事件が起こり、不祥事を起こしたり派手な失敗をしたりして、自ら恥をかく形で世の表から消えていく人や組織が出てくるだろう。
 もし、自分がそういう立場になりたくないと思うのなら、「中庸」の精神について、考えたり実践したりして、時間をかけて身に付けておくべきだと思う。

 「中庸」について考えるにあたって、分かりやすい入り口になる話が『列子』にある。

 斧を無くした人がいた。その人は、隣の家の息子が盗んだのではないかと思った。その息子を見ると、歩き方を見ても顔色を見ても言葉使いを見ても、いかにも斧を盗んだように見える。動作態度、すべて斧を盗んだ人としか思えないものばかり。
 ある日、自分の家のくぼ地を掘り返していたら、自分の斧が出て来た。ああそうだ、ここで無くしたんだと思って改めて隣の家の息子を見てみると、動作態度、どれをとっても斧を盗んだらしい所は無かった。
『列子』説府

まだしばらくこんな天気かなァ

 人間は、その人の思惑や立場で、世界を見る目が歪んでくる。
 「中庸」とは、決して、対立する二者の中間を採るだけのような、足して2で割るだけの考え方では無い。思惑や立場、好悪の感情でも歪なまい視点で、世界を正確に見ようとする心の事だ。

 さて、先に書いた、「不祥事を起こしたり派手な失敗をしたりして、自ら恥をかく形で世の表から消えていく人や組織に、自分がそういう立場になりたくないと思うのなら、「中庸」の精神について、考えたり実践したりして、時間をかけて身に付けておくべきだと思う。」という理由も、改めて書く必要があるだろうか。

 自分の思惑や立場、好悪の感情で世界を見る目が歪んでいたら、世界に対して何か働きかけようにも、見当違いの計画を立て、見当違いのまま実行し、見当違いのままの結果に至るだろう。そんな見当違いの行動を繰り返す内に、世の表から消えていく運命になってしまう。

 正しい成長発展には正しい行動が必要で、正しい行動には正しく世界を見る目が必要になる。何かが派手な失敗をした時、そこには世界を見る目の歪みがあったという事になるのだろう。
 そして何より、「自分の世界を見る目は歪んでいないだろうか」と、絶えず注意して、内省する姿勢が無かったという事だろう。

 この内省が更に深まると、「中庸」もより深いものになっていく。

夕暮れの雨

 地震計が何で地震の揺れを正確に記録できるのか。それは、地震計そのものは地震になっても「揺れない」からだ。よく、地震の時の地震計の映像では、流れるように動く紙の上に、地震計の針が揺れて、針先から出てくるインクが紙に地震の揺れを記録しているように見える。けれど、それは逆だ。
 地震で地面と一緒に揺れているのは紙の方で、地震計の針は地震の揺れに対して「揺れない」で静止しているので、地震の揺れを正確に紙に記録している。

 なんで地震計の話なんかを持ち出したかと言うと、「中庸」の精神を深めていくと、世界全体が混乱し、動揺しても、それに動ずる事無く世界を正確に見る視点を得るようになる。100人中99人が視点が歪み、酷い場合には正気を失っても、それに巻き込まれる事なく、世界を正確に見て、正気を保つような精神性になっていく。

 もちろん、人間は機械ではない。どんなに冷静な人間だって、感情に動かされる生き物だ。世界を全く歪まずに見る視点を持つ事は、人間には不可能だろう。問題は、どこまで正確にできるか、その正確さを保持するのにどんな努力をしているか、という話になってくるだろう。

 また、感情に左右されない精神と言っても、それが感情を喪失した機械のような精神になってしまうのも問題で、豊かな感情と動揺しない精神の両立が理想になってくる。これは、望ましいリーダー像の形ではあるけれど、万人に到達できる境地ではないだろうな。

晴れ間

 これまで書いて来た「中庸」の精神についてだけど、こんなふうに書いてしまえばあっと言う間だけど、実践となるとかなり難しい。
 これは四書の中でも『中庸』ではなく『大学』に出てくる言葉だが、「好きな人の中にも欠点を認め、嫌いな人の中にも美点を認める事が出来るのは、世界でも稀だ」というのがあった。

 感情によって視点が歪まない境地にある人間なら、そんな事も可能だろうけれど、さていざ実際にできるかとなると、こりゃ大変だなと思う。

『大学』
故好而知其悪、悪而知其美者、天下鮮矣、

9月15日(火)

大雨の後の道志川

 やけに長雨が続くと思ったら、とんでもない災害まで引き起こした。茨城県や宮城県で河川の堤防が決壊し、広範囲で浸水の被害が起きた。濁流に飲まれる人家や収穫を前にした水田を見ると心が痛む。
 この光景、2011年3月11日の津波の被害の映像を思い出した人も多いみたいだ。

 しばらくして関東で最大で震度5の地震があり、阿蘇山が噴火したりと、こんな事が続くと、やはり日本は災害の多い土地なんだなと思う。今度の日曜日は自分の住む地域でも防災訓練があるけれど、どのくらいの参加者が出るかな。
 防災訓練に参加したくても、体力に自信がなくて参加を辞退するお年寄りも多いのだけれど、いざ実際に災害が発生したら、一番心配なのは、そんな体力に自信のないお年寄りの支援になるだろう。

 鬼怒川の堤防の決壊の事件を見て思った事がある。こういう事件があると、「もっと堤防の高さを上げるべきだ」という意見が出ると思う。
 ただ私は、堤防の高さを例えば2倍にするのではなく、堤防と堤防の間隔、つまり河川敷の幅を2倍にしたらどうかと考える。
「それでは、かなりの土地が河川敷に使われて無駄になる」という反論も多いだろうな。

 でも、これからしばらく日本は人口が減少していくし、土地も建物も余り気味になるのだろう。これからの時代の流れを考えれば、必ずしも無茶な提案ではないと思うんですけどねえ。広大な河川敷は、台風シーズンは気にしなくてもいい小麦畑に利用するとかして。

 以前ここの日記で、「日本の中心」が時代の流れの中で、どう変遷していったかについて、愚見を書いた事がある。そこでは、縄文時代には日当たりの良い丘陵地に人が住んでいたのが、稲作の普及によって低湿地に住むようになり、さらに海外と貿易をするようになると海岸沿いの港町の価値が上がり、人々は山や丘陵から海沿いの低地に降りてくる流れが続いて来た、と書いた。そして今後の未来について考えてみると、大量生産・大量消費の時代が終わっていくにつれ、港町の価値は減じていくのではないか、とも書いた。

 こんな水害の悲惨な事件を見ると、これからまた、人々は丘陵地へと帰って行くのではないかと、少し思った。

 今後の日本の国土利用の形を考えてみると、後退とか縮退とかいった、攻戦よりも防戦の印象がある。
 これまでは豊富な資金と物資を注ぎ込んで、ダムも造る堤防も造る、ちょっと人が住むには不向きな所でも、様々な技術とエネルギーを投入して快適に住めるようにしてしまう。
 確かに、技術としては素晴らしいが、はたしてそれは永続可能な形なのか。資金とエネルギーの流入が止まった場合、維持可能なのか。

 ローマ帝国のような昔の帝国の歴史を見ると、国の成長拡大期の勢いが終わり、守成から停滞、退廃から衰亡へと時代が移って行くと、領土の外縁部から領有を諦めて放棄していく地域が出て来て、徐々に領土が縮小して行く。
 日本の国土利用も、そんな形になっていくのかもしれない。

ツルボの花

 これはまことに大きなお世話かもしれないが、これから家や土地を買おうと考えるのなら、その土地が、国力の衰退によって放棄されかねない所なのか、たとえ国力が衰退しても、残りの国力を投入して「守りを固める」拠点になりうる所なのか、念のため考えておいた方がいいかもしれない。

 さすがに今回の水害では、その県や自治体では、元通りに人が住めるように復旧作業を進めるだろう。戦後の高度経済成長期では、たとえ災害に見舞われれも、災害に見舞われる以前よりも立派な町を造ってしまうのが普通だった。でもこれからはどうだろうか。
 災害に見舞われる以前よりも立派な町に復興する、という事は、もはやあるまい。ただでさえ人口減少社会に入っている。復興と言っても、災害に見舞われる以前よりも縮小した形への復興が、これからの標準になるのではないか。

 国力の衰退によって放棄されかねない所として思い浮かぶのは、案外、お洒落で高級感があって、その時代の先端を行っている所だ。ひと昔前の言葉を使えば、トレンディードラマに出てくるような町と住居、といった感じ。
 時代の先端を行っているような町や住居や暮らし方というのは、新奇な新鮮さはあるけれど、それを実現するのには色々と無理がある。

 災害が発生すると、新しい住宅地が被害に遭い、昔からの住宅が被害に遭わない事が多い。昨年の広島の土砂崩れの時もそうだったが。

彼岸花

 いつ頃の未来の話になるか解らないが、その人の「本質を見る目」の確かさが問われる場面が来るかもしれないな。

 派手で新奇な世界が、まさに衰退に向かう直前。その世界から静かに、そして迷う事なく立ち去って行く人と、その世界に未練を残して離れられない人。

 また、そんな派手で新奇な世界が衰退に差し掛かった時には、その世界の値段が下落して、ある人には値ごろ感を感じて、その世界を買う人も出てくるだろうし、たとえ値段が下がっても手を出さない人もいるだろう。

 まあ、こんな偉そうな事を、他人事みたいに言ってても仕方がない。果たして自分自身は、そんな時にババを引かずにいられるかどうか。

9月20日(日)

篠原の防災訓練

 篠原牧馬自治会の自主防災組織による防災訓練があった。消防の職員の方々の指導のもと、消化器の訓練をしたり、AEDを使ってみたり心臓マッサージをしてみたり。最近やたらと災害が多いからな。

 以前ここの日記で、このような防災訓練での三角巾の講習について、「こういう訓練の場で三角巾の使い方を習っても、日常ではほとんど使わない技術なので、たちまち忘れてしまい、災害が起きた現場では使う事ができないんじゃないか」と言った事を書いた事がある。
 消防の現場でも、それに類する事は考えていたみたいで、今回の防災訓練では、ストッキングを使ったり、食品を包むラップを使った方法を教えていた。例えば、腕の傷口をガーゼで覆ったら、そこを手ごろな大きさに切ったストッキングでかぶせて包帯の代用にしたり、腕の骨を折った場合は、腕を段ボール等で作った支えを当て、それをラップでぐるぐると巻いて固定したり。

 なるほど、いろんなやり方があるもんですね。ラップは湿気を通さないので、このような使い方の場合、蒸れるのが難点かもしれないけれど、これなら素人でも簡単そうだ。

 この講習の場で、粉末を使うタイプの消化器を横に傾けたり、上下を逆さまにしたりした時に、消化器の中の粉末がサラサラと流れる感触がない場合は、いざ使おうと思った時に使えないと言ってた。粉末が消化器の底に沈澱して固着している証拠らしい。
 やべえ、うちの消化器が、まさにその状態だ。

谷間の秋

 時の政権が安保関連法を今度は参院で強硬に通したわけだが、それにしても無理を通せば通すほど、友を失って敵を作っていくな。
 もっとも、当人たちは「友を失って敵を作っている」という実感はないだろう。虎の威を借る狐たちは、虎さえいれば、あとは全て敵でもかまわないと言う考え方なんだろうな。
 ただなぁ、虎だって、いつまで虎のままでいられるかどうか。

 ある日、虎が「今さらネコになるつもりはないが、さすがに虎でい続けるのはやめます」と言い出したら、狐たちはどうするつもりだろう。それまでさんざん民衆をバカにしといて、その時になって「友達になってくれ」と言うのだろうか。

 これからは自衛隊だって政権の自由には使えなくなるかもしれない。今回の騒動は、自衛隊を米軍に吸収合併させるようなものだと私は認識しています。

 また経済界の反応も酷い。これからは武器を売って儲けようと、この流れを歓迎している。
 わたしゃ、ろくな事にはならないと思いますね。世界の軍需産業なんて、そりゃあワルの中のワルが揃っている世界だろう。そんな中に日本企業がノコノコと乗り出して無事で済むとは思えないし、日本企業を支える人たちが、そんな世界で渡り合えるタイプの人とも思えない。虎よりも狐のタイプの人たちだろう。
 当初は「よく来てくれた」と歓迎されるかもしれないが、途中から態度が急変して、「日本なんて、金と技術だけ黙って出してりゃいいんだ」と身ぐるみ剥がされるかもしれないし、それだけならまだマシで、帰れない人も出てくるかもしれない。

ススキ

 田舎のヤンキーが故郷でじっとしてればいいものを、都会で腕試しなんてしようとしたら、そこにはヤンキーどころか本物のヤクザがいて、ある者は身を滅ぼし、ある者は慌てて故郷に逃げ帰る。私には、そんなイメージがあるのです。

 ここらで本気になって、日本人は、これから何で御飯を食べていくのか、真剣に考えた方がいいように思う。世界のどこかで子供達が泣くような仕事で御飯を食べるのか、世界全体が幸福に近付くような仕事で御飯を食べていくのか。
 人間の精神が気高い方向に進むのか、悪魔に魂を売り渡す方向に行くのか、それによって決まってくるだろう。

 「虎の威を借る狐」の対になる存在としては、「自分で考えて、自分で行動し、その行動の結果に自分で責任を持つ」という人を想像するけれど、それだけでは不十分で、その上に更に「至誠」のような心が必要になるかな、と思う。古臭い言葉になってしまうが。

 その人に至誠があるかどうかの判断の基準に、その人の話し方や書く文章に、冷笑的な雰囲気があるかどうかを私は考えている。
 自分に嘘をつかず、真心で生きようと誠実になったら、必ず、逆に自分は真の意味で誠実かどうか、内省をするようになる。そうなると、もはや自分よりも弱い立場の人間を見つけて威張ったり、他人を小馬鹿にしたりはしないだろう。たとえ100歳になっても、私にはまだまだ学ぶべき事柄がある、といった謙虚さを失うまい。

 逆に言えば、人間、威張るようになったらおしまいだ。井の中の蛙、お山の大将で満足し切っている姿だから。

やまなみ

 「冷笑」とは自己満足の世界だ。自分の言いたい事だけを言い、相手を傷つけてしまえばいいという態度。
 「至誠」は、それとは異なる。たとえ自分とは立場も考え方も異なる相手だとしても、心の底からの気持ちを語りかけ、相手の言葉にも心の底から受け止める。

 瓶のビールを、相手のコップに注ぐのに似ているかな。瓶を持って注ぐ人がよそ見をしていたり、瓶を持つ手がガタガタと震えていたらコップに注げないし、またコップを持っている方も、よそ見をしていたりコップを持つ手がガタガタ震えていたら、注がれるビールを上手く受け止められない。

 これから仲間を増やそうと思ったら、ちゃんと相手に対して言葉を注ぎ、またちゃんと相手の言葉を受け止める誠実さが重要になってくるだろう。言い方を変えれば、これまで、その誠実さが、だいぶ粗末に扱われてきたことになる。

9月27日(日)

改装前の店

 藤野は日連地区にある、長らく営業はしていなかった食堂で、新しい動きが始まった。藤野在住の中華料理のシェフが、この店鋪を買い取り、ここでお店を開こうというもの。長年、この土地でお店を開きたい希望はあったけど、これまで、なかなかいい物件と巡り合えなかったそうな。

 さて、店鋪は手に入ったけれど、これから店内の改装やら、外観のペンキ塗りやら、いろいろ更に出費もかさむ。そこで、地域の仲間の力を借りて、お金を集めようという企画が先日の連休にあった。
 二日間に渡って試食会を開き、そこでお店の改装資金の出資を募る。手作りの金券を用意し、3000円分とか、10000円分とかを、関心のある方に買ってもらう。3000円分の金券を買ってくれた人には、その金券で、3300円分の食事が、このお店が開店したら食べられるという仕組み。

 当初の予定では200万円を集めようと希望していたけれど、結果、120万円を超える金額が集まったとのこと。予定額には足りなかったけれど、まずは上出来でしょうね。
 もちろん、これは誰にでも出来るという話ではあるまい。これから店主になる方が、長年に渡ってこの地域に馴染み、信頼と好意を集める存在になっていたから、それだけの金額が集まったのだと思う。

 このお店、既に改装作業が始まっています。開店は10月下旬とのこと。

喫茶店ハシドイ 店内とシュークリーム

 そういえば、以前ここの日記で紹介した、藤野のお隣の上野原で倉を改装してお店を作ろうという話ですが、9月初旬にめでたく開店しています。これも、地域の仲間たちがワイワイと楽しんで助けながら出来たお店だな。もちろん、それは店主に人望があった事もあるし、ここまでもっていくのに、店主は店主でそうとう苦労したとか。このお店、新聞にも取り上げられました

 以下は、店主のブログにあった、お店の情報。場所は住所をインターネットで検索した方が、分かりやすいと思います。商店街の駐車場の中にあるので、大通りからは入った所にあります。

ハシドイ
9:00〜17:00 日、月定休日
ランチ無

山梨県上野原市上野原3241 (上野原商店街本町無料パーキング内)

 このお店でも聞いた話だけど、空き家や空き店鋪を借りるのも、いろいろと難しい話があるようです。その原因の一つに、以前、その建物を借りていた人が問題を起こしていたというもの。そんな嫌な思い出が、家主に、建物を人に貸そうという気持ちを萎えさせる場合が多いようだ。

 確かに、建物を借りる方も、全てが全て善男善女というわけではあるまい。嫌な思い出を残す人もいるだろう。また「人柄は悪くはないんだけど・・・」家の周りを草刈りもせずに草ぼうぼうにしてしまう人なんかは、山里では「困った人」に入りますよ。

山の雨

 今回の日記で紹介したお二人の場合は、この地域でのイベントでの活動の付き合いも長く、お人柄も知れ渡っているので、家主が知人に「○○さんが、建物を貸して欲しいと言ってきているんだけど・・・」と相談しても、「ああ、あの人なら大丈夫ですよ」と太鼓判を押してくれる人も多かったんじゃないかなぁ。

 これから建物の貸し借りが活発になってくると思うけれど、借りる側、貸す側双方の、信用とか徳のようなものが重視されるかもしれない。
 借りる側の信用や徳については説明するまでもないけれど、貸す側にだって信用や徳が必要になる。「金さえ沢山くれれば誰に貸してもいい」なんて考えで人に貸したら、とんでもない人がそこに住んだりして、その近隣の住民が迷惑するだろう。
 大袈裟な話に聞こえるかもしれないけれど、どんな人に家を貸すかで、その地域の未来が左右される可能性だってある。

 逆に、徳と信用のある人、その地域の課題に積極的に関わってくれそうな人には、家賃は安くてもいいから「是非、住んで欲しい」と呼び掛けるのも、その地域の未来を考える上で、良い戦略になるんじゃなかろうか。
 山里で言えば、耕作放棄地を再生して畑をやってみたいと言う人とか、近所のお年寄りが病院や買い物に行きたい時に、一緒に車に乗せて行ってくれる人とか。

 これからの未来、理想を言えば、お金よりも徳の方が上位にある世の中になってくれないものか。お金は善人でも悪人でも、100万円は100万円として平等に使える。しかし、それは正しい世のあり方なのだろうか。

 こんな事を書いていると、私はまるで、世の中から悪人を排除するべきだ、と言っているように聞こえるかもしれない。私は、たとえ悪人でも、「善人として生きた方が得だ」と思えるような世の中になれば、100%の根絶は不可能だとしても、悪人の減少は可能だと考えていますよ。経済の仕組みが、そんな世の中を推進するような形になってくれればいいんですけどねえ。

 それに、善人だって生涯に渡って善人でいられるとは限らない。仕事を失ったとか、重病を患ったとか、予期せぬ不幸に見舞われたとか、何かの理由で苦境に陥った時、善人が善人のままでいられるというのは、よほどできた人だろう。順境にあっても驕る事なく、苦境にあっても卑屈にならずに身を持していける人が、そんなに多いとは私には思えない。

 徳のある善人が集まった地域とかコミュニティーというのは理想だけれど、それは、苦境に陥った仲間が出た時に、救いの手を差し伸べる人がちゃんといるかどうかが問題になってくるだろうな。そんな地域が持続性を保つためには。

「徳のある善人が集まったコミュニティーなら、当然、苦境に陥った仲間が出た時には助けるだろう」と思う人もいるかもしれない。でも、「私には徳がある」と自認しているのと、実践できるのとでは、かなりの差があるからね。