この会の当日、5〜6人も集まればいいかと思ってたけど、12人の参加者があった。対話の環境としては、多すぎず、少なすぎずで理想的だったと思う。時間も夜の7時から9時までと限られていたし。
内容が内容だけに、簡単に結論が出る話ではない。議論の方向性として、これといった明確な切り口を用意したわけでもない。とりあえず、自己紹介をしながら、それぞれの政治に対する思いを話しながら、対話はゆっくりと始まったのだけど。
「政治の話をしようとすると、避けられたり、気味悪がれたり、距離を置かれたりする。」
人が複数集まれば、そこには考え方の違いも出てくる。どちらかの考え方に方針を決めようとしたら、ケンカも生じ、勝ち負けも出てくる。政治は闘争だとなると、政治は怖いものだと言われても仕方が無いし、できるだけ距離を置きたくもなる。
「しかし、そもそも人が複数集まって集団を作るのは、お互いが幸福になるためだ。一人で衣食住を含めたすべての作業をこなすよりも、一人一人が得意分野を活かした専門職を担う事によって、文化的な暮らしが出来ている。」
たしかに、国の発生の由来は、そんな素朴な助け合いの場からだったかもしれない。ただ、その規模が大きくなるに従って、支配と被支配、命令と服従の関係は厳しくなり、一般の民衆は人格を失った「コマ」に過ぎなくなってくる。規模が大きくなるに従って、政治は非人間的になっていく。
「そんな状況で政治に対して発言できる人間であるには、『個』の確立した人間でないと難しい。」
集団の中で、たとえ自分の意見が少数派であろうと、自分の考えを言い、行動を起こす。これには大変な勇気が必用で、結局、できれば政治には関わりたくないという人々を増やす結果になる。政治に対して自分の考えを述べるというのは、ただでさえ一般の人にはハードルが高い。
「政治を行っている当事者も、実は『個』が確立されているとは言えない。」
国も県も市町村も、多くの政治の場では、ろくな議論も行わず、強引に方針を決めようとし、仲間も『異議なし』のシャンシャンで決めることを望んでいるし、そのやり方に慣れている。決して、自分たちと異なる考えの人々と、粘り強い対話をして、双方が納得のいくような議論が出来る人格の持ち主というわけではない。
これは、政治の話題を避ける人々と相似の関係にある。自分とは異なる意見の持ち主に対して、対話の試みをする勇気がないという点で一致している。政治を行う側も、政治に服従する側も、「勇気」と「個」を失った同調圧力で動いている。
民衆の同調圧力によって選出された議員が、同調圧力による議会を運営し、同調圧力の政治が進められていく。政治は民衆のレベルの正確な反映といえる。