2015

10月

10月4日(日)

工事終了

 牧馬峠の道路わきのコンクリートを吹き付けた所が崩落して、今年の夏から修復工事が行われていたけれど、ようやく終了した(夏の工事現場の様子はこちら>>)。崩落したのが2013年の2月12日。修復工事の始まりが今年の6月で、10月5日に完了との予定だったけれど、実際には数日早く終わった。まあ、もとから余裕をみて工事の予定を組んでいたのだと思うけれど、今年の夏は長雨があっただけに、工事が期日までに間に合うのか、現場ではやきもきする所もあったんじゃなかろうか。

 崩落して一ヶ月あまりの期間は、牧馬峠は通行止めになった。その後、車線を一つに制限して信号機を取り付け、交互通行になった。それも、今度の工事終了で終わった。いやはや、2年半ですか、長い交互通行だったなぁ。

 これが高度経済成長期の日本だったら、どうだろう。ここまで時間はかからなかったんじゃないのか。
 逆に、未来を連想してみると、復旧までに2年半どころか、5年かかるとか、10年かかるとか、そんな時代が来るのだろうか。財政は既に大変な状態だし。
 いや、たとえ時間がかかろうが復旧しようという意志があるだけまだマシで、「この道は復旧工事はせずに、恒久的に片側交互通行にする」という苦渋の決断をする事例だって、あるかもしれない。

 逆に楽観的な想像をしてみると、これからカーボンとか新素材がインフラ整備にも使われるようになって、今よりもずっと安い価格で、橋とか道路とか作れてしまう時代が来るかもしれないが・・・、どうだろう。

 秋の日射し

 これは何度かここで書いてきたけれど、時代の変遷を季節の循環と重ね合わせて考えてみると、今、世の中が置かれている状態と、それが今後どう推移していくかを想像しやすい。

 高度経済成長期が伸び盛りの夏の時代だとすると、バブル崩壊以降は、木々は葉を落とし、草はしおれて行く秋の時代。やがて静かに静止していく冬の時代が来る。私は、とうに冬の時代に入っていると思っていますが。

 冬の時代には大切な役割が合って、それは人々が静かに考え、学ぶ時期だという事。この時期に十分に考えて学んだ地域ゃ組織が、春の時代に入った時に勢い良く伸びて行く。

 ここ数年、ようやく人々は本気になって、自らの言葉で考え、学び、発言をするようになってきた。

 正しい世の中のあり方とは何か、どうすれば正しい世の中のあり方が実現出来るのか、何が正しい世の中の実現を妨げているのか。こういう事を本気で考える人は、ここ数年で何倍になったろうか。今後も更に増えて行くだろうが。

 こういう事を本気で考え、学び、発言するのは、経済が成長している夏の時期でもなければ、しぼみ行く経済を何とかしようと派手な景気対策を講じる秋の時期でもなく、静かに立ち止まる冬の時期が相応しい。

 冬の時代に人々が本気になって学ぶ事柄の一つに、「育てる」というのがあると思う。人を育てる。才能を育てる。組織を育てる。地域を育てる。産業を育てる。
 こんな学びから、始めは小さな芽から、やがて大木に育てて行く知識と経験を身に付けて行き、身に付けるのに成功した人や組織から、春が始まっていくのだろう。

先日行われた村歌舞伎。24周年になるそうな。

 夏や秋の季節には「寄らば大樹の陰」という生き方や考え方が幅を効かせていたかもしれないが、冬になると大樹も枯れてしまう。そこには、どうしても、小さな芽から大樹まで育てられるような知恵と経験の持ち主でないと、次の時代を切り開く事が出来ない。

 学問もなァ、すぐに結果が出せるとか、すぐに金が稼げるとか、就職に有利だとか、利益追求の速効性を求めるような学問では、冬は乗り越えられないと思う。冬を乗り越える学問は、価値をどうやって外から手に入れる(・・・言葉は悪いが「奪い取る」・・・)かではなくて、価値そのものを、どうやって自分自身で作り上げていくかが求められるのだから。
 簡単に身に付く学問じゃないよね。

 人間が、本気になって知性や真理を求めた時代というのは、学校が作られる時代でもありますね。釈迦もプラトンも孔子も、ほぼ同時代の人だけど、みんな学校を作っている。

今年の柿は、どこも調子がいいようです。

 時の政権は、大学に文系は必要が無いかのような発言をしているが、こういう発想が生まれてくる所に、もはや天命を担っていない政権だという現れのような気がする。

 もっとも私は、学問の分野、とりわけ文系の分野の再出発は、国によって運営されている大学からではなく、民間から沸き起こる形で生まれて来るのではないかと考えています。
 今年はあちこちでデモが盛んになった年だけど、これからは、私塾のような学び舎が生まれてくるんじゃないかな。

10月20日(火)

久しぶりの雨

 ちょっと更新が空いてしまった。
 夏から初秋にかけて長雨が続いたが、このところは晴天が続く傾向で、雨が降るのは週に一回くらいといった感じ。降らないなら降らないで、農作物への心配があるんですが。
 今年は夏の長雨のせいか、山ではキノコが豊作だという話を聞いた。そういえば、今年は松茸も例年よりも安めだそうですね。
 今回は16・17日と雨が降り、週間天気予報を見ると、またしばらく晴天が続くらしい。

 その前の週の11・12日には、篠原の集落がまるごとイベント会場になる「ぐるっとお散歩篠原展」があったけど、この時は、11日の午前中だけ少し雨が降ったけど、あとは晴天になって、まあ天気には恵まれたイベントになったと思う。

 このイベントでは私もうどん屋で参加しました。その場で麺を作る所から始めるので、毎年、うどんの出来不出来にむらがある。昨年は、うどんがポロポロと崩れてしまうような、あまり上手くはいかなかった製麺だったけど、今年はかなり上出来だったみたい。
 どうも、その年に収穫された小麦によって成分が異なるらしく、「今年の小麦はグルテンが豊富なのか、麺が上手にできる」と作っている人が言っていた。

 同様に、「今年の小麦はパンが良く膨らむ」といった事もあるんだろうな。コンビニやスーパーで買う大量生産品のパンを食べていると、そんな事なんで考えもしないけれど。

 なんだか悲しそうな顔で、奴隷のように重労働にこき使われているような写真になってしまった。

 左の写真はうどんを作っている所だけど、写真下の人が使っている手動の製麺機、最近、流行っているらしい。既に製造が終了して久しい製品だけど、近年になって復刻版を新たに作り始めたメーカーがあるとか。
 昔は、藤野の多くの家庭に普通にあった物ですけどね。

 この記事には、この製麺機の事が詳しく書かれていて分かりやすい。記事にあるように、米よりも麦の方が多く採れる地方には、この製麺機を使う所が多かったみたいだ。

 今は電動の家庭用製麺機が普通に売られているけれど、こんな手動の製麺機の方が風情はありますね。スローライフ向きといいますか。

 今、気軽に「スローライフ」なんて言葉を使っちゃったけど、このところ、時代を表す言葉、これからの未来の形を表す言葉について、いろいろ考える事がある。端的に言ってしまえば、横文字が多過ぎやしないか、という話なのですが。

 先日のある会話で、私はこんな事を話した。
「自分の心の中では、『持続可能社会』という言葉が、かつての輝きを失いつつある。」
 今後も、持続可能社会の実現と推進は重要だと思うけれど、自分の心の中を偽るわけにもいかないからなぁ。
 じゃあ、なんで自分の心がそうなったのか。

 一つの理由は、社会全体が、とりあえずは建前としては(実際にやるかどうかはともかくとして)、省エネ省資源、危険な気候変動の回避と備え、崩壊しかけた地域のコミュニティーの再生と復活については、誰も正面切って反対しない程度の所までは来ていると私は感じている事。
 まあ相変わらず原発の再稼働とか、いろいろと、これはどうかという動きもありますが、世間一般の標準的な共通認識では、持続可能社会を目指すと言う考え方は十分に浸透したのではないか。

 というか、物質に満ち足りた現代では、もはやこれしか、人々の共通の合意になる目標は、残っていないと思う。

光り降る

 もう一つの理由は、言葉の問題。どんな言葉でも、それが使われ続けると輝きを失うものらしい。
 「ロハス」(健康と持続可能な生活様式)という言葉も、持続可能社会と似た意味で一時期盛んに使われたし、今でも使われている。当初は、その考え方に先進的だった人たちが,新しい未来を切り開く為に使っていたので、その言葉には新鮮な輝きもあれば、その流れに参加しようと言う人々の高揚感もあっただろう。

 でもそれが、徐々に広く世間一般で使われるようになると、本来の「ロハス」とはまるで異なる意味や文脈で使われたり、単なる商業目的で使われたりして、「ロハス」という言葉に手垢が付いて陳腐化し、ついには「あいつはロハスを気取ってやがる」といった冷笑の対象にすらなってしまう。

 これは最近では、「意識の高い人」という言葉が、それと同じ流れで陳腐化している。今や「意識の高い人」も、一部では冷笑の対象だ。「持続可能社会」という言葉は、冷笑の対象にはなってはいないが、やがて陳腐化はするだろう。

ゆうべ

 言葉って難しいなぁと思う。
 これまでにない新しい生き方や社会を提案するのには、新しい言葉を必用とする事も多いだろう。私としては、「ロハス」という言葉は、まだまだ重要な役目を担い続けると思うし、簡単に陳腐化はしないと思っている。しかし、これらの生み出された言葉の大量の墓場が、身近にあるような気がして、私は少し薄ら寒い心地がする。

 それで、じゃあ自分自身、これから「持続可能社会」という言葉を使わないとした場合、どんな言葉を使うのかと考えて、いっその事、新しい言葉よりも、昔の言葉ならどうかと思った。
 とりあえず、経済の語源である「経世済民」(世の中を上手に運営して人々を救う)で、私は十分かなぁと。
 
 ここ数ヶ月、夜に寝る前の15分ほど、布団の中で史記やら四書やら、昔のおさらいのつもりで読み返すのが習慣になってるけど、時代を切り開く為の言葉は、何も新語や流行語でなくてもいいんじゃかなろうか、と思った。

11月

11月25日(水)

雨の止み間

 またずいぶん更新が空いたなァ。生活に変化があって、このところ忙しくて、落ち着いて山里の季節の移り変わりを楽しむ余裕もなく、写真を撮る時間も無かったし。それでも最近になって、ようやく地に足が着いて来た感じになったけど。

 とは言え、「山里の季節の移り変わり」と言っても、この一ヶ月は変化に乏しかったように思う。11月になっても霜が降りるような低温にはならず、朝晩でもあまりストーブを必要としない温暖な気候が続いた。既に晩秋といっていい時期なのに、底冷えのするような寒気の到来はない。まあこれからだろうが。

 そのために、あちこちで干し柿の失敗の話を聞く。寒くならず、また雨も多い11月だったので、カビが生えたり虫がたかったりして、干し柿をダメにしてしまったとか。柿自体は、今年は豊作だったんだけどな。
 だいたい干し柿というのは、初冬の冷たい空っ風が吹き抜けるような環境が、虫の害もカビの害も防いでくれるはずなんだけど、気候が変わると干し柿も作りにくくなるんでしょうかねえ。

 朝に霜が降りないので、今年は皇帝ダリアの背丈のひょろっと長い花が、今でも長く咲いている。たいていこの花は、草木に霜が降りるとすぐに枯れてしまって、それで花も終わりになるのが例年なんだけどな。

 そろそろ12月になるけれど、今年は野原もまだ緑が多い感じがします。

山里の秋

 なんだか世界全体が騒々しい感じになってきたが、この騒々しさを停止させて安定を取り戻すためには、世界全体の人々が「小さな世界」を取り戻す所から始めるべきだと私は思っている。
 今の世の中、あまりにも名前に「大」の付く組織が横暴に幅をきかせて、小さな組織や個人の幸福を削り取って奪い、大きな組織の延命に使おうとしているので、世の中がどんどん崩壊する方向に進んでしまう。

 実際には、末端の小さな組織や個人も幸福にならないと、大きな組織の幸福も無い。元気な細胞があって始めて元気な臓器があり、元気な臓器があって始めて元気な身体がある。細胞が滅んで身体が存続するはずが無い。

 私は決して「大きな組織」を価値無しと批判するつもりは無い。大きな組織には大きな組織にしかできない仕事もある。例えば、私達は毎日のように気象衛星から送られる画像を見て、天気予報を知ったり台風の進路を見たりできるが、この気象衛星一つを成り立たせるだけでも、どれほどの裾野の広い人的資源が必要になるのか、どれほどの数の組織の知恵と技術が必要になるのか。

 なんだかんだ言っても、この科学技術の恩恵を享受している現代では、だれもが「大きな組織」の必要性を否定できないだろう。問題は、前述した通り、時として、大きな組織が困窮した事態に直面した時に、小さな組織や個人を犠牲にして延命を図ろうとする傾向があるという事だ。

ネコジャラシ

 小さな組織も大きな組織も同じように必要で、同じように活力があるのが望ましい。私が考えている理想の世の中の形と言うのは、こんな感じになる。

 例えば、毎日必要になる物は半径1キロの圏内で手に入り、3日に一回必要になる物は半径3キロ圏内で手に入る。同様に、一週間に一回必要な物は7キロ圏内、1ヶ月に一回必要な物は30キロ圏内。
 こんな感じに、生活必需品に近いものほど、身近な所で得る事が出来て、特別な用事で必要とされる物は、遠くから入手するという形。風邪なら近所の町医者で診てもらい、特殊な治療技術が必要な場合は、遠方の大病院を頼るのに似ている。

 衣食住のような、生活の基本を成り立たせる手段は、身近な地域で間に合うような世の中を理想として掲げ、それに近付けて行こうと行動を起こして行く。
 小さな組織の幸福が、大きな組織の欲望によって簡単に壊されないように、小さな組織の存立基盤は、小さな組織自体で守り育てて行こうという気概も必要になるだろう。
 一言で言ってしまえば、行き過ぎたグローバル化の反省と、ローカルの再生という事になる。

 ここで問題になるのは、今まで、人々は、「小さな世界」を自らバカにして来たのではないか、と言う事。
 小さな組織の一員であるよりも、大きな組織の一員である方が偉いという考え方は、今でも強く、今でも主流だろう。

ススキ

 親は子供たちに、良い学校を卒業して大きな組織の一員になれ、それこそがこの世の中での勝者だ、と言い続けて来たのが、これまでの時代だったし、まだまだそんな時代は続くだろう。しかし、結果として、そんな人々の意識が、小さな世界の価値を小馬鹿にして、大きな組織にのみ価値を見い出す世の中を作って来た。

 格差社会を嘆く人もいれば、腐敗した政治を嘆く人も多いかもしれないが、実は自分自身、そんな時代を招く共犯者だったのではないか、という反省の声は、なかなか聞こえてこない。

11月30日(月)

 前回の日記で、この秋はなかなか寒くならないような事を書いたが、それからすぐに寒気が降りて来て北風が吹き荒れ、季節は晩秋から初冬に移ったと感じた。まあ、これからも小春日和はやってくると思うけれど。
 すでに朝の6時でもけっこう暗い。冬至まであと三週間だしな。気が付けば、多くの木々が葉を落としている。道ばたに落ちて溜まった枯れ葉を、堆肥を作るために回収していく人たちがやってくる。

 9月27日の日記の所で、これからは町づくりでもコミュニティーの形成にしても、徳のような性質が必要になってくるのではないか、といった事を書いた。今でも、このことについて考える事が多い。

 例えば、衰退しつつある地域を復活させようと住民が立ち上がるような組織ができる場合、意外と、この「徳」の部分があるかどうかで、組織が発展するか空中分解するかが分かれる事が多いようなのです。
 特にね、これは言っちゃアなんだけど、長年、大手の会社勤めをした人間が退職して、「さあ、これからは地域に貢献する活動にも参加しようかな」と考えて参加した人が、空中分解の火種になる事が多いらしい。

 本人はその気がなくても、長年に渡って染み付いた癖なのか、住民が和気あいあいと集まって立ち上げた組織に、上下関係を求めるような口のききかたをしたり、年少者を部下扱いしたり、会話のはしばしに、自分の現役時代の自慢話が入ってきたり。

 「持続可能社会を作る団体」と言っても、団体の参加者に徳があるのか否かで、だいぶ差が出てくる。

雲間の光

 ときどきこの日記で、「『持続可能社会を作る団体』が持続しないですぐに消えちゃったら、笑い話になるな」と書いてきた。実際には笑い話どころではなく、なかなか深刻な話でもあるようだ。
 考えてもみればいい。参加者の和気あいあいとした気持ちと、その場の雰囲気を持続させるには、参加者一人一人に、それなりに成熟した徳が必要とされる。

 自分の意見だけしゃべればいいと言う自己本位の人、もしくは、自分の事だけで精一杯の人。これとは逆に、相手の話をちゃんと聞いて、相手の立場も尊重できる精神的なゆとりのある人。
 後者の人が揃っている組織とか団体とか、実はけっこう難しいのではないか。

 誤解されているかもしれないので付け加えるけれど、徳のある人たちが集まった組織と言うのは、決して、完全無欠の聖人君子の集まりの事を言っているのではない。むしろ逆で、自分は常に未完成であるという謙虚な自覚が、徳につながっていくのだと思う。

 人と集まって問題解決について議論するにしても、
「ここにはいろんな職種、いろんな経験、いろんな世代の人たちが集まっている。自分一人では解決できない問題でも、これだけ様々な人々が集まれば、それぞれの得意分野の知恵を出し合って、自分には思いもつかない道が開けるのではないか。」
と、自分以外の参加者に敬意をはらう姿勢を皆が持てば、実際に、その集まりの中から文殊の知恵も飛び出してくるかもしれない。

 「徳」には、謙虚さが不可欠の要素らしい。

ススキ

 付け加えれば、徳とは、独占欲とは無縁のものだ。自分の才能でも知識でも経験でも、みんなの役に立てるのならどうぞ使ってくれと「分け与える」性質のものだろう。

 こうして考えてくると、成熟した徳の持ち主が集まる組織なんて、ありえるのだろうかと不安になってくるが、あるところにはあるんですよ。そして実際に、そういう組織からは、普通では考えられないような勢いで、様々なアイデアが沸き出し、それぞれが実行されて、それぞれが開花していくのですが、実体験として経験しないと、そんな組織があり得るなんて信じてもらえないかなぁ。

 町起こしとか町づくりとかの話になると、こういう事業をやったとか、こういう政策をやったとかいった話が主流になるけれど、どうも私は、「人徳のある地域を作るにはどういう手法があるか」を論じた方が、話は早いような気がしてきた。とにかく、人徳のある地域が出来てしまえば、問題の解決策なんて、湯水のように湧いてくる。

 ずいぶん前にも、似たような事を書いたっヶ。この時は「徳」という言葉は使わなかったけれど、今は、「徳」という言葉を前面に出してでも使いたい気分なんですよ。

残照