続き

7月12日(火)の続き

 この平成の大合併には、自治体のモラルハザードを招きやすい性質を持っている。このことは「7月8日の続き」の所でも書いたが、財政がわりあい健全な所も、破綻しそうな所も、一緒になってしまえばみんな公平平等な「市民」になる。
 健全な財政を運営してきた町の功績も、財政を破綻寸前にまで追い込んだ町の責任も、皆消えて判らなくなる。
 相模原市は、津久井郡の良い所と一緒に、悪い所もごっそりと抱え込む。そして、「悪い所」を生み出した責任は、もはや誰も問わない。
 私は、このような合併では、2+2が4になるどころか、3や2や1になりかねないと思う。

 合併推進派は、合併によって、それぞれの町の長所を活かしあうようにする事によって、2+2を5にも6にもできると主張するが、疑わしい。
 他人に救済を求め、自分に対して責任をとらない団体が幾つ集まっても、それらは相模原市に対して「もたれよう」とするばかりで、相模原市の力にはならないはずだ。

 以前、自分のホームページの合併に反対するコーナーで、こんな事を書いた。

『もし私が相模原市の市長であったなら、「私の町は単独自立で頑張る」という町こそ、合併したいと、「欲しいと」思うでしょう。
 そういう町には、問題に直面しても、自分で考え、自分で決断して、自分で行動して問題解決を図ろうと挑戦する人達が沢山いることを表しているからです。
 逆に、「私の町は小さくて将来不安だから合併させて欲しい」と言い寄る町には興味が持てません。これは単に他人に寄り掛かろうとする濡れ落ち葉に過ぎないからです。』
 この考えは今も変わっていない。

 EUは、その枠組みに参加したい国に対して、一定の財政基準の健全さを求める。この基準に達しないようであれば、参加する資格が与えられない。だからこの枠組みに入ろうとする国で、この基準に達していない国は、必死になって財政をその基準まで引き上げるべく、改革に努める。
 こういうやり方であれば、2+2を5にも6にもできるだろう。これには、共に目指すべき目標があり、堕落や馴れ合いを許さない厳しさがある。

 合併推進派は、合併すればスケールメリットが活かせて、財政の健全化が図れるという。しかし、私には、合併する事によって住民の質の低下が起きて、出費は更にかさみ、財政の健全化などできないと予想している。
 『合併しよう!』と選挙で合併推進派の候補に投じた人は、合併する事によって、今よりも『楽』をしたいと考えている。『楽』ができる環境になるだろうと考えている。
 そういう住民が寄ってたかって相模原市に吸収される事を望む。しかし、こんな合併で相模原市の価値は上がるのだろうか。悪貨が良貨を駆逐するだけに終わらないか。

 この平成の大合併。
 日本人の精神を相当劣化させはしなかったか。

『誰かに自分の仕事を任せる、誰かに富を恵んでもらう』
そういう市町村合併を、政府は強力に後押しした一方で、
『自分達の事を自分達でやろう。自分達で町を発展させよう。』という気概を持った人々の夢を、押しつぶしてきたのである。
 私は、今回の藤野町の選挙で、数でこそ負けたが、合併を喜ぶ人の心よりも、町が消える悲しみの心の方が、深く、重いと感じる。社会が大事にしなければならない心とは、こういう深く重い心の方だったはずだ。
 『挑戦』よりも『諦め』を、『自立』よりも『依存』を、『尊厳』よりも『盲従』を人々に求める政策。
 政は正なり(*1)、政治とは正義だ、などと、今さら青臭くて口に出すのも恥ずかしくなるが、これでは国自らが、国民に堕落しろと教えているようなものだ。

 私はこんな姑息な合併政策によって、この国の赤字体質が改善されるとは全く信じていない。やれ郵政民営化だ、市町村合併の次は道州制だとか、本質から目を逸らせるだけの政策ばかりが次々と飛び出すが、いよいよ最後には「自己責任だ。自分の事は自分でやってくれ」と国がさじを投げる時が来ると思う。

 そんな「誰も助けてくれなくなった時」。
『楽』な生き方が不可能になった時。
真に社会を支えてきた人間が、どういう人達だったのか、私達は改めて痛感するだろう。その「時」は、そう遠い未来ではないはずだ。

*1
政者正也
『論語』顔淵


 この文章を読んで、
『心外だ。私は合併賛成の立場だが、決して楽をしようと思ってはいない。「誰かに自分の仕事を任せる」つもりもない。新しい市に対して、建設的に関わっていくつもりだ。』
と言う人もいるに違い無い。
 そういう人が存在している事は私も知っている。くり返すが、私が問題にしたいのは、現在進められている合併政策が、そのような「建設的な合併」を導くようにはできていない事、かえってモラルハザードを起こしや性質を持っている事なのだ。
 「新しい市に対して、建設的に関わっていこう」と考えている人は、合併に賛成している人の内の、何パーセントを占めているだろう。私は、せいぜいひと桁どまりだと思っている。