その9

 僕は特定の宗教を信仰している訳ではない。その意味では無神論者とも言える。
 しかし僕は神の存在を信じる。キリスト教でもイスラム教でも、国家神道でもない、或いはそういう宗教の垣根を越えたところにいる神を信じている。別な言い方をすれば、運命とか決定論とか成り行きとか偶然とか、とにかく自分の意志だけではどうにもならないところに働く超越的な力を敢えて神と呼ぶことにする。
 僕は神の存在を信じる。神を恨む。そして、神の声に従う。

 今、書き終えて少し経った「誘蛾灯」を前に、ある若い書き手、或いは本当の書き手になろうとしつつある人物のことを考えている。果してこの章が、彼の眼に触れさせるだけの価値があるだろうかと。「我が家」が、「いつか王子様は」が発表するに相応しい出来かどうかを。

 少なくともこの章は、或いは今後このノートは、先の若い書き手への私信になってしまうかもしれない。それでも構わない。それで僕の頭と気持が整理できればそれで十分だし、また僕の思うところが彼に伝わればそれも良しとする。
 それでもまだ、他の皆さんに何かが伝わってくれれば尚、嬉しい。

 既に「導火線」の章を書き始めている。2000年9月28日現在で、既に第三稿の1/3まで書き進めた。多分、序盤の山場になるべき章で、またそうなりそうな予感のする筆運びができている。もし僕の予想通りに仕上がったとしたら、生まれてから二度目に、思い通りに描けた作品となりそうだ。

 そう。まだ生まれてから、そのときの力で限界まで書けたと思う作品は、一つしかない。それも、作品全体ではなく、一番書きたかった仕掛けが上手く動いたというだけに過ぎない。

 つまり不完全な作品を、そうとわかっていながら「これが今の僕の実力だから」と妙な妥協をして発表してしまっている。ようやく今、気付いた。

 先日、小説の師であるむーくんからこんなことを言われた。
「『ベンジャミン』の序章、あれだけテンションが高く描けたのだから、その後に『星取爺』とか他の下らない小説を発表する必要はない」
 発表の順序は『星取爺』の方が先だったと記憶している。しかし「我が家」と「いつか王子様は」の出来が悪すぎるのは、すぐに気付いた。
 いや、あれでいいやと妥協をする心と、とんでもない駄作だと許せない気持の葛藤を自覚できた。そして「誘蛾灯」は、前二章のだらだらした部分をそのまま引き継いでしまっている。

 妹から『ベンジャミン』の批判を受けた。どんな内容だか、酒の席での話だったので忘れたが、とにかく弁明をした。
「そうやって説明しなきゃいけないっていう時点でもうおしまいだね」
 妹の一言がボディにクリーン・ヒットした。一晩寝て、素面に戻ってからじわじわと効いて来た。

 前回のノートに対して、むーくんからこんなメールを頂戴した。許可を得てあるので全文を公開する。

 ま、僕の場合は記憶力も良くなくて、文学に義務もないのでそう悩まずにやっていられるわけですが。
 日本のマンガってのは書きながら連載していってしまうのが善し悪しで、終わりの方で行き詰まってしまうとか間延びしてしまうなんてことが起こるわけですが、フランスのバンド・デシネ(BD)は書き終えてから切り売りして載せる方式みたいですね。その方が作品全体に作家が責任を持てて良いと思います。同様に、web上での小説の連載もBD(ベデ)方式が良いのではないかと思うのです。また、その都度思ったことは書いてストックしておいて、(時がたってでも)載せた方がよいと思えばそうすれば良いだろうし、発表するまでもないと思えば止めればよいのです。
 小説家も経済の観点から見れば生産者なわけで、需要と供給のバランスを調整できる立場にあるわけですよね。だから、「書きました、ハイ、載せました」にする必要は本来ないわけで、書き終えてから小口出しすることも可能だと思うんです。
 自分事で申しますと、ま、僕なんかはいじめられるがわでもいじめるがわでもあった人生だったとは思うんですが、小説を書くことでそうした思いを浄化してきた部分が多分にあって、その記憶を(無理矢理にではなく)自分から切り離せたのだと思います。そうした怨念のようなものが君の作風を形成しているのは(今のところ)事実だとは思うのですが、僕の希望としては『ベンジャミン』においてその思いを精算して欲しいと思うのです。その思いから離れてもまだまだ書くことはいくらでもあるでしょうから。
 何よりも書くことの意義が、自分のためであることがはっきりしている以上、それ以外はすべて意味がないのではないかと思います。そうした観点からすれば、文学に義務なんてないと思うんですがね。どうなんでしょうか。

 暑いのであれこれ考えました。

 これが僕の師だ。だから僕はむーくんを師に選んだ。

 それにしても、他人の文章でこれだけスペースを稼げるのは楽でよろしい。

 先の若い書き手は、僕を師に選ぼうとした。僕は拒否した。僕自信、フラットな関係が好きだし、師匠になるにしては余りにも人間的、或いは作家としての欠陥が大きすぎる。僕は僕のことで精一杯だ。彼を弟子にして何ができるというのだろう。
 はっきり言おう。彼は文学の知識、周辺知識も含めてそういう部分では僕を凌駕している。もし本気で書き手になろうと決意したら、ある一点さえクリアーできればすぐにでも、僕の「人生経験」というアドバンテージを埋めてしまうことができるだろう。
 彼は僕の年齢の半分をほんの3年ばかり越えたばかりだ。

 僕はこの半年、浮き沈みの激しい時を過した。特にここ二ヶ月はこれまでの人生で十本の指に入ると思われるほど苦しい時間だった。すべては僕の責任、自業自得なのはよくわかっている。相場で大損したのも、仕事が回って来なかったのも、まわってきた仕事が僕の手に余るものだったことも、技術者としての最盛期を思えば実力が三割にも満たないほど落ちて愕然としたのも、確かに苦しかった原因に挙げて良いと思う。
 しかし今挙げた出来事は、塵ほどにも満たない。残りの二つは僕が今生きている、そして今後生きて行く理由に関わる出来事だった。
 一つはたとえ僕の手から文学を奪われたとしても、その人がいる限り生きていけると思える存在との危機的状況を、僕自身の手で呼び込んでしまったこと。

 もう一つは、本当に『ベンジャミン』はこれで良いのか、無意識で迷いながらも、これで充分と自分自信を欺瞞に陥らせたこと。この違和感を持ったままずるずると書き進めていたら、多分、本当に書きたいもの、誰もまだ読んだこともないような物語を目指すことを自分の手でやめてしまうことになっていたことだろう。
 危ないところだった。

 むーくんが言及する、そして確かに前章で書いた、文学が僕の義務であることについて少し。人は生を受けている間に必ず何かするべきことがあると思う。どういう形であれ、必ず存在すると思う。僕の場合、僕が生きて行くために、書き続けることが僕の生存理由の一つであり、これを棄てた場合、生きた屍として腐った鰯のような目をして死を待つばかりの存在となるという危機感がある。
 こういう意識で「義務」という言葉を敢て使った。
 生まれてすぐに死んでしまった赤ん坊にも、瞬く間に散った生命でも、この世に生れ出た意義はちゃんとあると思う。ほんのわずかな間でも、生きた。存在した。赤ん坊がそこにいたというだけで、ちゃんと生を受けた義務を果したのだと僕は信じる。

 前章で「僕が書きたい小説は、人が殺せる小説だ」とはっきり書いた。これも本当だ。嘘ではない。しかしまだ先がある。「人が殺せる小説」の向うにある世界を見てみたい。もっと、ずっと、まだ見えない世界を視野の片隅にちらっとでも映してみたい。
 丸山健二氏は『まだ見ぬ書き手へ』で語る。

 ひと頃大いに流行した「政治参加の文学」と呼ばれる運動も今ではすっかり影をひそめています。(中略)飢えた子を前にして文学に何ができるか、といったあまりにも思い上がった自問は、依然として全世界に飢えた子が満ち満ちているにもかかわらず、いつしかトーンダウンし、下火になってしまったのです。
(中略)
 飢えた子どもたちはかれらのアクセサリーとして利用され、感動のおもちゃにされて放り出されただけなのです。(中略)かれらはそうすることで、かれらの収入を増やすことに成功しただけでした。もっと残念なのは、かれらの飛ばした火花がほとんどこれといった作品に反映されなかったことです。正義を優先した政治的思想がかれらの作品を、文学から論文の側へと押しやってしまったからです。飢えて死んでゆく子が本当に不幸なのか、本当に悲劇なのかというところへ目を向けるのが文学ではないでしょうか。(太字・下線、霧小舎)

 僕がもっと、ずっとまだ見えない世界というのは、すなわち、こういうところではないか。文学は餓えた子に何ができるか。多分、こういうことだろう。

「僕はね。生まれてから今までに、こんなお話を聞いたんだよ」

 餓えた子ども、じき死に行く子どもが一瞬でも目を輝かせてこう語れる作品、それが文学の本当の力ではないか。この主張を見て、ふと思い出していただきたい作品がある。みなさん、絶対にご存知の筈だ。

『フランダースの犬』のラストシーンを。

 ルーベンスの絵にできて、文学にできないはずはない。できないのなら、文学が芸術の一分野を占めるなど以ての外だ。日本の文学界には、絵画会でルーベンスに相当するだけの力量を持つ作家がいない。ただそれだけのことだ。

 またもや嘴を挟む。僕自身、文学は単に文学であって、芸術家も知れないが必ずしも芸術として存在する必要はないと思っている。僕は芸術を志向して小説を書いている訳ではない。そもそも芸術とは?と問われても答えられない。残念。

 作品ができる前からその作品の芸術性云々を語るのは本末転倒だろう。作家はただ作品に集中すれば良く、その作品に何がしかの意味が見つけられればそれが芸術になるのではないか。
 まだ出来ていない作品を前に芸術云々を語るほど、僕は「芸術家面」したくない。
 僕はただの物書きでしかない。

 或いは、あまりにも稚拙な文学に感動を強要されたが故に感性が曇らされて、ルーベンスの作品の存在自体も知らない読者、無駄働きして犬死するだけのネロ少年しか存在しないのかも知れない。むしろ、こちらの方が問題は大きい。

 絵画の話が出たからついでにもっと話を横道に逸らすと、僕は将来、ルネ・マグリットの絵のような小説を書きたい。

 書かれた作品ではなく、湧きあがってくるような、文章にしないでも口から口へと伝えられていくような、そんな作品が将来、現れるのではないか。南北米大陸で発生したマジック・リアリズムや神話回帰の運動など、まさに文字のなかった時代に口伝された神話の力強さを文学に求めたような気がしてならない。
 僕が好んで読むブラッドベリ氏の作品は、小説というよりもむしろ詩に近い肌触りがある。一語一語に対して敏感な言葉の本質を掘り返し、たゆたうがごとく静かに語られる物語りという印象が強い。またカート・ヴォネガット氏の作品、特に『スローターハウス5』以降は一人称小説ばかりだ。視点=語り手が物語を面白おかしく話してくれる。ヴォネガット氏自身、話術が巧みで「おはなしおじさん」と自ら称しているのは比較的有名なエピソードだろう。

 先の若い書き手と柳美里『ゴールドラッシュ』の評価で意見が分かれたことがある。彼は若者の描き方が一方的すぎる、とこの作品を拒否した。「人を殺すことがなんで悪いのか」という若者の問に一つの答を出した作品という側面を、悪いことは悪い、とすっぱり断ち切った。

 僕は逆に、登場人物から一切装飾的な描写を省いた点、固定的、断定的で平板にも思える人物造形を神話的ととった。同時に、少年が父親を殺すことに対して、作者自身の道徳的な意見、論評が入っていない点に、先程引用した丸山健二氏の「文学」を感じた。
 問題があるとすれば「書く」という行為ばかりに力が入り過ぎて、語られるという側面を無視したところではないか。自然と湧きあがってくる物語自身に、勝手にかたらせるのではなく「私が書きました」という主張が出てしまったことではないか。誰だかの推薦文に新しい時代の神話とか何とか書いてあった。ある意味で正しく、本質的には神話になり得ていないと思う。ただ、一つの可能性を示したという点を、僕は大きく評価したい。

 まだ手の届かぬ世界の話をしている場合ではない。今は『ベンジャミン』でしなければならないことに集中するときだ。

 今『ベンジャミン』を読み返して感じることは、とにかく踏み込みが悪い。一応、納得ができるのは序章だけだ。他の章は、攻めになっていない。守りに入っている。
 具体的には、裕美の像がぼやけている。女性がこの作品を読んで、本当にこれで納得するのだろうかという心配が先に出て、僕の描きたい女性像になっていない。
 読者の批判を気にし過ぎているのが透けて見える。

 小説は誰のものか。
 発表してしまえば、読者のものだろう。作者が何をどう言おうとも、読者が呼んで感じたそのままがその作品の価値となる。読者の感じたことがその作品になる。
 しかし。発表するまでは作家のものではないか。作家が今現在書いている作品にどんな価値を見い出すか、どんな位置付けを与えるか、どんな新しいことを付け加えるか。すべては作家の手に委ねられている。まだ読者の目に触れないのだから、発表前の作品は作家のものだ。

「小説は、ただ単に作家が、気が狂いきってしまわないように用意された安全弁にすぎない」と書いたのは誰か。
 答:僕。霧小舎捕人。

 少なくとも『ベンジャミン』は僕のために必要な小説だ。僕にとってどんな位置付けにあるのか、だんだんわかってきた。
 僕のために全力を尽くさなければならない。
 読者のご機嫌取りを考えているようでは、僕が批判する「文学」と何ら変りないではないか。

 罠はどこにでも仕掛けてある。

「我が家」以降、作品に対する反応がまったくない。身内から「詰らない」という批判をもらう以外、何もない。
 これだけでも既に、面白くない証拠に充分だ。
 別に皆さんに批評をねだっているのではない。単に事実を語っているだけの話だ。

 僕が考えていた作品とはおよそ掛け離れた、とんでもない駄作になってしまった。しかしまだ終ってはいない。
 これから大きく方針を変える。
 まず、ベンジャミン専用のノート(これではなくプライベートの紙のノート)にもう一度、物語全体の鳥瞰図を書いてみる。物語の最後まで仮の章立てを作る。いつでも思いついたらそのとき、エピソードのメモを取り、どの章に入るか検討する。無論、章立てや各章に入るエピソードは、途中でもっと改善できると思えばどんどん改造して行く。
 そして、一章毎に推敲を重ねて発表するのを止める。取り敢えず、どんどん先に進めてみる。先に進んでみたところで、実は前の章でこういう伏線があればもっと面白くできる、ということがいくつかあった。今のやり方では先に進んで初めてわかったことがフィードバックできない。
 わからないところは無理に埋めようとしない。どんどん先に進んで、これ以上進めないところまで行き着いたら、もう一度最初に戻って改造と穴埋めをしていく。

 もうこれで大丈夫だろうと納得したところで、やっと浄書し、発表することにする。

 今まで、発表ばかりに気を取られ作品を生み出す本質を忘れていた。というより必要な過程がわかっていなかった。
 これがわかっただけでも、一年間、苦労した甲斐があったものだ。

『ベンジャミン』は既に失敗作だ。こうやってノートを公開し、説明をしなければならないという時点で、もう失敗している。
 物語は、物語自身に語らせなければならない。『ベンジャミン』はノートばかりが語り、作品自身は何も語っていない。「物語」が語らなければただの「物」にしかならない。
 妹から『ベンジャミン』の感想を聞かされ、色々と説明した。そのとき、妹は冷たく言い放った。
「もうおしまいだね。そうやって説明しなきゃわかんないような作品ならもうやめた方が良いよ」

 まだ取り戻せる。作品はまだ終っていない。
 作品が本当に完結してみなければ、実のところ書き手にとってもどんな価値があるのか、発表するだけの価値があるのか、わからない。

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