その8

 とうとう発表してしまった。もう後戻りできない。とんでもないことになった。何ということを始めてしまったのだろう。

 序章に原稿用紙七枚を費やした。たった原稿用紙七枚を埋めるのに、どうしてこんなに四苦八苦しなければならないのだろう。ここに今までさんざん御託を並べてきたが、そんなことはどうでも良い。終章まで何とか書き継げれば、僕は文句を言わない。
 それすら覚束ないことに腹が立つ。
 もう既に、序章でペンを放り投げたくなったことを正直に告白する。

 昨年の春に構想を得て、いくつかエピソードも用意できた。書きたいことが意識下で渦巻いている。それをどう小説の言葉に直したら良いのかわからない。
 僕には作家の素質なんてないのではないか。焦りばかりが先立つ。
 そんな折、丸山健二『まだ見ぬ書き手へ』(朝日文芸文庫)に出会った。

 もしあなたが若く、あれこれやっても面白くなく、次元の低い社会にみを投じてくだらないごたごたに巻き込まれながら泳いでいくことがばかばかしく思え、要するに、この世にうまく馴染むことができず、それでもたったひとりの裁量で何か創造的な仕事に没頭したいという情熱がある者だったら、ぜひとも私の話を聞いてもらいたいのです。(前掲書)

 よし。聞いてやろう。

 才能とは、広く世間で言われているように、普通の人よりも何か特別な能力を持ち合わせているということではありません。むしろその反対で、普通の人が持っている能力をひとつかふたつ持っていないことなのです。それも、少しは持っているというような中途半端な形ではなく、見事に欠落しているということなのです。
 別な言い方をすれば、不完全な人間であるということになるでしょうか。更に突っ込んだ言い方をすれば、精神のどこかに破綻をきたしていて、ひとつ間違うと犯罪者の側へころがってしまうとような危険な人物になるでしょうか。(前掲書)

 僕には才能がある。大丈夫だ。

 三十一歳になるまで、恋人一人まともにいたことがない。こういう話をすると「嘘でしょ」「気持ち悪い」と言われる。気持ち悪かろうがなんだろうが本当だ。
 小谷野敦『もてない男』によればコミニュケーション不全だ。これだけで十分「普通の人が持っている能力」が「見事に欠落している」ことの証明になるような気がする。

 俺にまかせろ。

 留学中の友人にロンドンまで会いに行った。そのときこう言われた。
「あんた、友達おらんやろ」

 僕には友達がいない。と書くと語弊があるから、極端に少ないと書いておこう。その数少ない友達は、むしろ友達と言うよりも同胞、肉親に近いと思っている。彼らは良くも悪くも「生」の僕を知っている。それを承知で、僕と会うことを喜んでくれる。代表例が「妹」だ。
 それ以外の人たちは、彼らが僕のことをどう思っているかに関係なく、僕からすれば単に「知人」に過ぎない。

 ∴僕には友達がいない。

 これの意味するところは、他人との適当な距離がわからないということである。
「そんなの自然にしてれば良いんだよ」
「自然」て何なのだろう。どうすれば「自然」でいられるのか。誰か具体的に説明して欲しい。
 そして続けて行も言いたい。
「ろくに説明もできないことを軽々しく、恩着せがましく口にするなよ、ばか」

 僕は人を信用することができない。人を信用するとはどういうことか。「『この人なら自分を裏切らない』と信じること」としておこう。つまり、僕は、他人は絶対にいつかは僕を裏切る、或いはその可能性を持っている、と信じて疑わない。骨の随までこの思いが染み込んでいる。
 僕が「信用する」という言葉を使うときは、こういうことを意味している。

「あなたに裏切られたからと言って、文句も言いませんし、恨みもしません」

 僕は記憶力が良い。最近、短期記憶は徐々に衰えつつあるが、心に触れたことはずっと忘れない。特に、負の記憶が極端に強い。
 幼稚園でいじめられたことをちゃんと覚えている。いじめた奴らの名前を、まだ覚えている。「ウメカワ」と「タカギ」と「クラマツタケシ」と「ヤマトカオル」と「ヤマギワジュンコ」だ。まだ他にもいる。名前は思い出せないが、顔を見れば今でもわかるだろう。
 そう、僕はいじめられっ子だった。小学校でも中学でも高校でもいじめられた。だから、いじめ方、人のだまし方、都合良く利用して捨てるやり方をよく知っている。

 子どもに道徳のお説教をすればその子は道徳を説教することを学びますし、戒めれば戒めることを学びます。子どもをののしれば子どもはののしることを学び、嘲り笑えば嘲笑することを学びます。子どもを傷付ければ子どもは傷付けることを学び、子どもの魂を殺してしまえば、子どもも殺すことを学ぶのです。そうなったとき子どもにはただ殺す対象に関して選択の余地が残されるだけです。自分を殺すか、他人を殺すか、それとも両方か。(A・ミラー『魂の殺人』新曜社)

 幼い頃、まだ自分を装ってそれなりの距離を置いて人と接する術を身に付ける以前、「生」の僕しかいなかった時代にいじめられ、だまされ、利用された。大人の僕は、僕をそういうふうに扱った連中も、誰かにそうされて育ったのだろうと同情できる。
 しかし、子どもの僕が奴らを許さない。

 記憶力が良いということは、「普通の人よりも何か特別な能力を持ち合わせている」ということにならないか。

 答:ならない。これは「忘れる」という能力の欠如である。人間に「忘れる」という能力がなければ、種の存続すら危ういというのは心理学の常識なのだ。

 そう言えば、サミュエル・ディレイニーはバイセクシャルで、アフロ・アメリカンで、しかも失語症だ。彼は現代SFの最先端を疾走している。

 ただし、これだけは言っておきたいのです。それは、自分は果たして書くに値するものを持っているかどうかというところから始めてはならないということです。そんな評論家好みの自問自答はこの際すっぱりと切り棄てましょう。もしそんなことにいつまでもこだわって、本気で悩んでしまうようでしたら、才能はないと見て、さっさと元の生活へ戻って行くべきでしょう。そして普通に生きるのがいいでしょう。普通の仕事に精を出し、普通に恋愛し、普通に結婚し、普通に子どもを作り、文学なんぞ笑い飛ばし、よくある一生を胸を張って生きるがいいのです。それはそれでまた申し分のない、素晴しい人生なのです。(丸山健二『まだ見ぬ書き手へ』朝日文芸文庫)

 これでようやく本当に書き始めることができた。
 ストーカーが清純そうに見える女の子を追っているうちに、彼女がヘルス嬢であることを知ってしまう。最後は彼女を殺す。こんな話がまともに小説として成り立つかどうかでずっと迷っていた。

 もう迷わない。僕は評論家のために書くのではない。僕のため、僕自身のために書くのだから。

 書く価値のあるなしは、作品が完成した時点で決まる。

 書く価値のあるなしは完全に作家個人に帰する問題だ。つまりその作家が書いてみたいと思う物語があればすでにその時点で書く価値が内包されている。読む価値があるかどうかを読者が決めるように。
 書く前から読者にとって価値があるかなんて考える必要はない。僕は書き手だ。書き手は書くことだけ考えていれば良い。

 それだけで沢山だ。他に何を考えられよう。

『まだ見ぬ書き手へ』は作家霧小舎捕人の教科書となっている。しかし、その教えをすべて守っているわけではない。週に多いときで三日、小説を書かないことがある。酒を飲む。そして、小説の構想を、家族にも口外するなというが、僕はHPで堂々と公開している。

 丸山健二氏は、口外するとそれで作品ができてしまったような気になるからよしなさいと言う。その通りだと思う。

 それでも『ベンジャミン』は違うと思う。粗筋は見えているが、書いているうちに何が飛び出すか自分でもわからない。多分、書いているうちに少しずつ話が変容していくだろう。
 既に序章からして当初の予定から大きく外れている。すべてがここに書かれている通りに進むとは限らない。甚だ無責任だが、小説は生き物だ。これは「本当に」小説を書いた人にでないとわからない感覚だろう。僕は構想が浮かび、全体が見通せるまで筆を執らない。それでも書き始めると話が大きく変わる。
 筆の先から溢れ出る何かが勝手に進んでしまう。そして一通り書く。まだそれは小説ではない。「本当」の小説書きはここから始まる。

 書くことが楽しいか。エッセイや日記は比較的、楽しい。読者になって書いているからだ。では小説は?

 何が楽しいもんか。

 この「創作ノート」は僕のインフェリオリティ・コンプレックスを生のまま曝け出しているように思える、つらくはないか、痛みは感じないかという質問を受けた。無論、平気でいられるわけはない。
 それでも小説に較べたら、まだましだと思う。
 ただそのままを書けば良いのだから。
 ピストルを持っているだけなら、何も起らない。そんな物騒なもの、持っているだけで恐いが、実際に引金を引く場面を考えれば、その百分の一にもならないだろう。
 時々、暴発はするが。

 結論から言ってしまうとこの「創作ノート」は旅支度に過ぎない。本当の旅は小説を書き始めたその一文字目から始まる。本当につらいのは旅に出てからだろう。

 むしろ、楽な面もある。僕のインフェリオリティ・コンプレックスを曝け出して、嫌な人格の歪みを見せて、それでも「創作ノート」の読者は存在する。いくらかは僕のそういう姿を認めてもらえるのだろう。いくらかは受け入れてもらえるだろう。

 受け入れてもらえる。

 信じられるか?

 この「創作ノート」に限らず、恋愛に対して反感を表明していることに関して「見苦しい」という意見も何人かの方から頂戴した。そりゃそうだろう。
 旅行の写真はそれなりに絵になる。しかし旅支度の様子まで写真に撮る人は滅多にいないだろう。そんなもの、ただ見苦しいだけだ。
 トランクにパンツを詰め込んでいる姿なんて、見せてもしょうがない。でも僕は、それを見せていることになるが。

 何日分かの下着とその他小荷物を鞄に詰め込んでいる。他に、武器を用意する。僕にはどんな武器があるのだろう。あちこちからかき集め、使い方や殺傷能力他性能を一つ一つ確かめている。
 旅に出て危険から身を守るため。まあそれもある。それもある。

 そんじょそこいらの恋愛小説やノスタルジックなだけの作品を書いて、ただ見せかけの美しさを表現する気など毛頭ない。そういう下らないものを読んでは詰まらない夢に憧れる、不思議眼鏡をかけた連中など雑魚に過ぎない。文学かぶれが喜ぶような、過去の作品に混ぜ物をして薄めて薄めてちょっと調合を変えて、それで新しいオリジナルのカクテルです、といった具合で新しい小説でございと作品を出す気もしない。
 そういう作品に文学性があるとして、文学は餓えた子どもに何ができるか。

 僕が書きたい小説は、人が殺せる小説だ。作中人物を登場する端から殺す、という意味ではない。僕の小説を読んで、死んでしまうものが出る、そんな小説だ。

 餓えた子どもに留めを刺して、早く楽にしてやれる、救うことができないのだとしたらせめてそれくらいの力を持たせようと、なぜプロの作家は考えないのか。
 文学は人の心を癒すためにある?
 ちゃんちゃらおかしくて今さらそんなことの是非を問う気にもならない。小説は、ただ単に作家が、気が狂いきってしまわないように用意された安全弁に過ぎない。
 僕はただそういうふうに思っている。

 今、ようやくわかった。僕が小説の世界に出る旅は、人を殺すためだった。

 さあ、これを読んで僕が嫌になった方、僕を法螺吹きの詐欺師だと思った方、帰った帰った。そういう人は是非とも過去の輝かしい文学とその模造品に囲まれて美しい世界に浸り楽しい飾り物の想像の世界で遊んでいただきたい。
 そういう方にはちょっと古い言い回しを最後にご覧入れよう。

「おととい来やがれ」

 まさか『ベンジャミン』一作で人を殺せるだけの力を持つ小説をかけるとは思わない。そこまで思い上がってはいない。僕の現在の実力は、僕が一番よく知っている。
『ベンジャミン』はほんの初めの一歩に過ぎない。ただ見た目がきらきら綺麗なだけの似而非小説が好きな読者が、嫌悪感を催してくれれば、まず当面の目的を果したことになる。そこのレベルにすら達しないだろうことは、もうわかっている。『ベンジャミン』で失敗しても、まだ次がある。
 それでも駄目なら、その次がある。

 餓えた子どもに文学は何ができるか。
 答:何もできない。留めを刺して楽にしてやることさえできない。

 そんな文学に僕は疑問を持っている。こんな文学に誰がした。

 筒井康隆氏がテレビの対談で、舞台で作家の役を演じることになり、役作りに大変苦しんだ、という話をしていた。
 作家は口が重い。書くように喋ろうとするからだ。話すだけでは伝わらない何かを伝えようとするからだ。
 話すだけですべてが伝わるのなら、小説など必要ない。作家になる必要など、まるっきりない。他の職業が待っている。
「その5」に書いた第二層と第三層の掛け離れ具合を良く知っているのが本当の作家だ。しかし本当の作家でさえ、なかなか第三層の言葉が浮き出て来ない。第三層の言葉が響かせられない。
 そんな小説なら書かない方がましだ。何とかしようといくら足掻いても、どうにもならない。自分の能力に唖然として、やる気を失うほど失望する。
 これが、どうにもつらい。

 いわゆる現実世界の僕は『霧霧迷』できりきり舞いしている僕ほど、面白くない。何故ならすべてを第二層で済ませているからだ。第二層ですべてが済んでしまう相手に対して僕は仮面の下で、軽蔑と憤怒と嫉妬と怨念を幾層にも積み重ねて接している。

 誰を殺したいのか。
 僕をいじめた奴ら。僕を上手く利用して良い思いをした奴ら。僕を騙して喜んでいた奴ら。僕を踏み台にして優越感に浸っていた奴ら。
 何も小さかった頃だけの話ではない。
 例えばこういう奴だ。

 不覚にもある女の子を好きになってしまった。僕は僕なりに頑張った。しかし、というよりやはり、振られた。彼女は別の男を選んだ。
 いかにも、という感じの男だった。何の目的もなく、定職にも就かず、それでいて彼女の誕生日には何万円もする時計をポンと渡すような奴だった。彼女が一緒にいて欲しいときにはいつでも傍にいられた。
 その当時の僕はどうだったか。
 生活の糧を得るため、好きでもない会社勤めをし、帰宅すれば彼女の家に電話をするのもはばかれるような時間で、それでも腕時計一つプレゼントする金銭的余裕がなかった。
 二人が付き合い始めても、このときは何故か頑張った。引き際の良さを美学としている僕が、なりふり構わず深追いした。
 彼女を誘って遊びに出た。しかし、最後には必ず、あの男がいた。
 こいつの車で、三人でドライヴすることになった。これだけでも苦痛だった。二人が仲良くしているところへ、邪魔物のように入り込んでいるのだから。二人から誘われたときに、思い切って断る勇気がなかった。このドライヴで一番辛かったのは、名所で車を下りて写真を撮るときだった。二人とも、僕が彼女を好きなのを知っていた。知っていて、僕がシャッターを切ろうとするとすると、キスの真似を始める。それでも僕はニコニコ笑っていた。仮面の下で、軽蔑と憤怒と嫉妬と怨念を幾層にも積み重ねながら。
 この男の言うことが素晴しい。
「悩んでいる時間がもったいない。そんな暇あったら楽しまなきゃ」
 その当時の僕はどうだったか。
 毎晩、日付変更線を越えて家に返った。仕事で悩むことしかできなかった。悩まないと金にならない仕事だから、悩む。そうしないと飯が食えないから、悩む。そうやって地べたを這いつくばって金を拾って歩く。世の中にはそういう商売がある。現にある。僕がそれをまだ続けている。僕はそういう世界しか知らない。両親がそうだった。周囲がそうだった。

 奴は僕にこう言った。「何でそんなに悩むの?」
 僕は思った。「何でそんなに悩まないの?」

 そういう僕の姿をあざけ笑いのうのうと他の女に乗り換えて行ったこの男をこの世から消してやりたい。ただ殺すのではつまらない。気が狂って、何度も何度も自殺して、それでも死に切れなくて、ズタズタになって、それでも死ねないような苦しみを味わってもらいたい。つまりはこういうことだ。

 しかし口惜しいかな、この男はたとえ僕の作品が大ベストセラーになったところで決して本を手にすることはないだろう。その程度の教養とデリカシーしか持ち合わせていないのだ。
 僕が相手をするには、低級に過ぎるのだ。

 そう言えば、この男は、テレビのトレンディ・ドラマを録画して同じものを何度も再生して見ていたそうだ。

 二人が別れた後、どうなったか。
 実は、この娘とはその後もかなり長い間、連絡を取り合う仲だった。
 本当は、ドライヴの一件の後、二度と会うつもりなどなかった。しかし、彼女の方から連絡してきて、そのままずるずると今のわけのわからない関係が続いてしまった。どんなに酷い目にあわされても、本当は悩むのが恐くて明るい仮面を被っていた馬鹿男に惚れるような女を、嫌いにはなり切れなかった。だらしのない話だ。

 彼女が好きだったときの記憶が、感情が、大分長い間、鮮明に残っていた。

 彼女がこれを読んだら、多分、もう会ってくれないだろう。それで良い。それで良い。もう既に別件で、連絡をくれなくなっても不思議ではないことを告げた。

 僕に関するつらかった出来事も、他の出来事と同じように同列に並べて眺められる。これが作家の眼だ。昔の彼女の姿もその材料の一つに過ぎない。
 材料の一つに過ぎない。

 大好きな人から嫌われるのは恐い。考えるだけで恐ろしい。もういやだ。
 しかしもう嫌いな奴にまで良い顔をして好かれたいとは思わない。疲れた。
 両方をいっぺんに手にすることはできない。世の中、そういうふうに出来ている。だから、仮面を取った僕をそのまま認めてくれる人を残して、あとは去ってもらうことにしたい。少なくとも私生活では。

 普通の仕事に精を出し、普通に恋愛し、普通に結婚し、普通に子どもを作り、文学なんぞ笑い飛ばし、よくある一生を胸を張って生きるがいいのです。それはそれでまた申し分のない、素晴しい人生なのです。(丸山健二『まだ見ぬ書き手へ』朝日文芸文庫)

 挑発されているのはわかっている。
 それでも食って掛かる。僕の本心は、普通の仕事に精を出し、普通に恋愛し、普通に結婚し、普通に子どもを作り、文学なんぞ笑い飛ばしたい。よくある一生を胸を張って生きたい。それこそまさに申し分のない、素晴しい人生だ。

 それができないからこうして売れもしない、売りようもない文章を書いて文学に挑戦状を叩き付けている。文学さえなければ、僕はこの世に大して未練は残らない。ただ文学だけが、僕の未練である。
 一体何を口走っているのだか既に支離滅裂になってしまった。今、文学の他にようやく見付けた僕の存在理由が失われつつある。頭が猛烈な勢いで回転している。回転というよりもむしろ空回りと言った方が適当かも知れない。睡眠薬がないと止まらない。
 非常にやばい。

 落ち着け。僕には文学という義務がまだ残っている。

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