その7
他所のサイトでストーカーについての見解を書いたところ、じつに舌足らずな表現のため様々な論議をかもし、サイトの運営者及びお客様各位に御迷惑をお掛けすることになった。どうにも僕自身、本位が伝わらずすっきりしないので今回はそのサイトの書込みで足りなかった部分を補足し、僕なりのストーカーに対する今現在の理解をメモしておくことにする。
まず最初に、件のサイトに何を書いたのか、そこから書きはじめる必要があろう。
現在執筆中の長篇の資料として、近代文芸社・編『ストーカー』の真実という本を読んだ。その書評を書いた。
本書はストーカー被害者の手記を中心に、実際にストーカーだった人の手記も併せて掲載されている点で大きく評価できる。ストーカー被害にあわれた方は大変だったろうな、とは思うものの同情は感じない。むしろストーカーに二割ほどでも感情移入できれば、彼らの寂しさ、ストーカー行為へ駆り立てられる焦燥感が理解できるのではないか、誰にでもストーカーになる素質はあるのだから。被害者の手記に「新しい恋人がいます」というフレーズが、手記の主旨となる文脈とは全然関係のないところで飛び出す。こういう人が存在する限り、ストーカーは存在し続けるだろう。
と大まかに要約するとこんなことを書いたような記憶がある。
この書込みに、やや賛同してくださるレスや、頭から「ストーカーは異常」と拒絶されるような文脈のレスを頂戴した。その中で、一番見落とし易い部分、しかも書いた僕もスッポリと書き忘れた部分を見事にご指摘頂いたものがある。
ストーカーをどう定義するか。
現在、心理学の立場からはストーカーに関して明確な定義も分類もない。何人かの心理学者、精神分析学者が定義、分類を試みているが、まだ不十分、というのが実情のようだ。
僕の頭にあるストーカーは以下のような感じだ。明確な定義は与えられない。しかし感じだけでも掴んでいただければ幸いだと思っている。
まず第一に、ストーキングの動機が恋愛感情にあること。以前、嫌がらせを受けたからその復讐にとか、出世等の妨害を受けた復讐に動機があるものは除く。
第二に、ストーキングの対象が、見知らぬ人間、若しくはそれに近い関係であること。昔の付き合って別れた恋人や、離婚した元の連れ合いから復縁をしつこく迫られる、というのは該当しない。まったく知らない相手や、学校やクラス、職場が一緒でもほとんど接触の機会がなかった、親しくした覚えがないというのはあてはまる。
第三に、物理的な暴力に訴えないこと。実際に物陰に引き込まれて暴力を受けるとか、「殺す」等の脅迫行為を行わないこと。
そして、何よりも、ストーカー自身、恋愛経験が少ない、若しくはないこと。従ってどのようにすれば恋人を得ることができるか、愛しい相手を自分の恋人にすることができるかがわからない。押しの一手で、接触時間が長ければ有利、自分の思いをわかってもらえればきっと愛してくれるはずだ、といった世迷い事を信じて疑わない、思い込みの激しい人間であること。変な意味で純粋でなければ、僕の考えるストーカーには能わない。
恋愛の形を歴史的に見る事こそ、近代の個人の権利、自由を獲得する過程を知るための絶好の手がかりになる、という論がある。つまりは前近代では恋愛は御法度で、結婚も家同士のつながりが原則だった。個人の意志に関係なく家と家同士で年頃の娘息子をやったりとったりして利害を調整する、そういう結婚が一般的だった。だから心中物の劇が大きな支持を受けていた。
近代に入り、やや恋愛に対する抑圧も弱まって来たが、それでも旧制度が堂々と陣を張ることが出来た。恋愛から始まり、親の許しを得ない結婚は命がけだった。それが明治から戦前にかけての一般的な恋愛、結婚の姿だったのだろう。
第二次世界大戦後、日本がアメリカに占領される段になって初めて、アメリカ式の民主主義が日本に植え付けられた。ここに至ってようやく個人の人権、自由が認められる。我々の知っている恋愛の歴史は、実に浅い。我々が自由に恋愛できるようになったのは、実はつい先日だったのだ。
合意と能力さえあれば、いつ誰が誰と何をどうしようと許される、これが現代民主主義の一番短い説明ではないかと思う。
表現の自由、思想の自由、日本は資本主義社会なので利潤を追求する自由。何事かを己の裁量で成し遂げようとするとき、そこにはある程度の才能と努力と資本、それに運が必要だ。中学生や高校生が新しい思想を求めて研究を始めるにしても、それはまだ基礎的な力が不足しているだろう。絵や彫刻、詩や小説、音楽に自由と成功を求めても、技量不足を感じさせる事実は否めない。せいぜい、将来性が見えるかどうか、そこが限度だろう。ましてや事業を起こして経営するなんて、どこにそんな資本があるか。
中学生、高校生、或いは大学生には現代民主主義の成果を享受できないのか。
いや、できる。恋愛がある。
容姿や話題、知識、やさしさ、その他諸々の要素をフルに活用して、意中の異性と望ましい関係を築く。恋愛は他人から評価されるものではない。だから基礎を何に求めたら良いかと問われれば、答えようがない。人格?ではその望ましい人格を目の前に出してみせてくれ。
できるか。
そう、恋愛は誰にでもできる。簡単にできる。己の実力を試す、良いチャンスだとは思わないか。
誰でも参加できるゲームに似ていないか。
ところで、ゲームをどう定義するか。「恋愛は単なる遊び」と切り捨てるつもりはない。仮に単なる遊びだとしても、真剣に遊ばないと面白みがない。そう、何事も本気で取り組めるものが面白い。
恋愛をゲームだと言うとき、「遊び」ではない他の視点からの定義が必要になるだろう。社会学ではちゃんとした定義があるようだが、僕はそこまで知らない。僕のわかる範囲で、ゲームとは何ぞやを考えてみたい。
ゲームと名のつく物をざっと見渡してみる。囲碁、将棋、カードゲーム各種、運動競技。会社の経営などもゲームに入るだろう。終わりは一年毎の決算か倒産。倒産しなければ決算が終った後、次のゲームがすぐに始まる。
マネーゲームといった意味では投資も完全にゲームになる。株式取引や投資信託などははっきりゲームの性格が見える。預貯金も実は投資なのだが、ゲームの実感は得られない。しかしゲームなのだ。大抵の場合、安くても利息がついて返ってくる。しかし、銀行が倒産したら、預金は返って来ない。これが原則だ。
預金保険機構があるから一千万円まではちゃんと返ってくるのだが。
そして、郵便局は国が経営しているから倒産はない。日本国が消滅しない限り、ない。つまり、日本国の存続が唯一のリスクになるだろうか。
そう考えると預貯金は随分リスクの少ないゲームになる。
先に、ゲームの定義に「優劣を決められること」と書いた。「劣」とはこれすなわちリスクのことだ。
あらゆるゲームには、自分の行動、或いは相手の行動によってリスクを背負う場合がある。
恋愛のリスクは?
好きな相手に思いが通じず、相手にもされない。上手く付き合い始めたが、振られる。或いは相手が思ったような人物ではなく、失望する。どちらかの浮気。望まない妊娠。経済事情。家族関係やその他の社会関係による困難。どうしても周囲から認められなくて逃避行するか、最悪の場合、心中が考えられる。
案外リスクは大きい。
恋愛の自由が認められた当初、たった一回の大勝負、人生を賭けた一発勝負の性格が強かった。まだどれくらい自由化がわからなかったこともあるだろうし、古い制度の尻尾を引きずっていたこともあるだろう。
そう、大抵の人がそういう認識を持っていた。
話を一度、株式投資に移す。
昔の株式投資は、長期的な視点、企業の将来性を睨んでの取引が主流だった。だから企業の発行する株券を買ったら、企業の成長に合わせて値が上がったり下がったりした。「株式投資は長期保有」が原則だった。
ところが現在は?
現在は、今の株価にあらゆる要素が詰め込まれている。将来性も既に織り込み済みだし、これからの経営計画も織り込み済みだし、近く売り出される新商品の売れ行きも織り込み済みなのだ。昔は、商品が発売されてから値が動いた。今は、その前にもう動いている。
現在の株価は、材料で動く。人気で動く。材料とはニュースであり、企業自身の宣伝でもある。企業の自己宣伝が上手ければ、それだけ人気が高くなり、値も上がる。
高度情報社会に移項しつつある現在、ちょっとした情報で株価が大きく動く。毎日各方面から様々な情報が流れる。その度に大きく売り買いが発生する。
現在の株式取引は「瞬間」の勝負になった。少なくともプロのトレーダーは秒単位で情報収拾と株の売買の勝負をしている。短期勝負、数で勝負の時代になった。
どうも株の話をしていたのに、なぜか恋愛の話をしているような気分になって来た。ついこの間まではそっち、今はこっち、もう少ししたらあっち。短期勝負で数を競う。マスメディアの毒々しい情報を鵜呑みにする気はないが、そういう傾向は確かにこの世界のどこかに、ある。
株式取引での最近の一番大きな変化と言えば、ネット取引だろう。インターネットを経由して取引ができるので、個人投資家が急増した。新規に参入する個人には投資できる金額が限られる。大きな金額は期待できない。しかし、数が多い。
一人一人の投資金額はゴミみたいなものだが、全部をあわせると市場の20%をこえる額が流れ込んでいる。これは、市場の流れを見る上で無視できない数字だ。
市場自体も、これまで証券のプロと呼ばれるトレイダーが先導して動いて来た。しかし、行き詰まり感が広まり、だんだん相場が冷えて来た。それが昨年初の相場だった。
ところが手数料が自由化されネット証券が広まってくるにつれ、個人投資家の参加が大きくなった。現在の株式相場が好調な動きをしている大きな原因の一つだ。
そう、個人投資家の参加が増えて市場の性質が良いと思われる方向に変わって来た。だから市場自体も、もっと個人投資家が参加し易いようにルールを変更している。例えば、従来は単位株でしか売買できなかったが、証券会社が肩代わりをしてミニ株(単位株数の1/10から売買できる)というものが始まった。
新しいルールができると、リスクも変わってくる。ミニ株取引は始値でしか取引ができない。希望の株価で売買ができない。前日大躍進した銘柄でも、その日の相場が始まった途端に売り越して大安値をつけることがある。従来の取引では考えられないリスクだ。
恋愛は誰にでも参加できる、とされているゲームだ。
むしろ、参加できないと異常扱いされそうな気がする。性質も昔と比べれば、随分変わって来た。ルールもきっと、どこか変わっているのだろう。
つまり、昔は存在しなかったリスクが生まれたとしてもおかしくない。
さてそろそろ結論を出そう。
つまりはストーカー被害というものは、現代の恋愛ゲームに参加するものが覚悟しなければならないリスクだ、ということだ。
ストーカーが恐ければ、恋愛ゲームに参加しなければ良い。異性に、恋愛に、まったく興味のないことを示し、またそうやって生きている人間だけが、まかり間違ってストーカー被害にあったとき、同情されて然るべきだ。それ以外の、恋愛に憧れ、実際に恋愛し、恋愛の世界に参加している者がストーカー被害にあっても、同情の余地はない。
株に負けて大損した者をせせら笑うように、指を指して嘲笑すれば良い。
例えば僕がストーカー被害にあっても、事情は変わらない。僕も昔は恋愛礼賛者だった。憧れていた。
今は若い頃と、違う角度から恋愛を見ている。昔と同じようにはならないだろう。しかし、形は変わっても再びあの世界に飛び込むことだってないとは言えない。
現在の僕はこう考えている。
要するにストーカーとは、ゲーム・オーバーのタイミングを知らない者なのだ。或いは、圧倒的に振りでも粘りに粘って、勝ちのチャンスを拾おうと涙ぐましい努力を続ける者たちなのだ。負けを認めたくない者たちなのだ。
彼らのそういう部分を見もしないで、気持ち悪い、異常、世の害毒だと一蹴して排斥してしまうのは容易い。彼らを非難して正義のみかた面をするのは簡単だ。ただ、僕は小説書きとして、そういう簡単な方法で世を眺めることができない。これからどうなるのだろう、何があったのだろう、自分がなったら、身近な人間がそうなったら、歓心を持ったら考えられるあらゆる角度から突っつきまわしてみないと気が済まない。
こういう形で彼らの存在を認めてしまうのか、と非難されても、はい、そうですと言うしかない。
起きてしまった出来事は、たとえどんなに悲惨なことであっても、あったこととちゃんと認めた上ですべてを並列に見らることが、作家の資質の一つではないかと思う。すなわち、世の常識、良識というフィルターを一度外してものごとを感じるままに見聞きする態度こそが作家の態度ではないか。
少なくとも僕は、どんな「正当な」「正統な」非難を浴びようと、現在の態度を変える必要を感じない。
そして、この態度を変えるときは筆を折るときだと考えている。
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