その6

 いよいよ書き始めた。書き出しがばしっと決まらない。困っている。

 実は春から何度も試し書きをしてみた。主人公のストーカーが駅の改札を抜けたところから、デパートで包丁を買い、女を待って刺すまでを最初の章にしようと考えた。いかにも冗長になって読者が逃げてしまうように思えた。ハッタリでも良いから、最初の三行で気を引いてしまわなければならない。
 大抵の名作ではそうなっている。

 ディーン・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方』にこんな記述がある。
「ところでもし君が糸口をまったく重要でないと考え、二ページにも及ぶのんきな情景描写や、単調な人物描写で小説をはじめることが良いと考えているなら、なんでもいいからベストセラーを二〇冊選び、最初の一行、一段、一ページを読んでみるといい」

 そうして今、手が届く範囲で面白く読んだ本を手にしてみる。

 あざとい女の積もる恨みが鬱然たるこの森に満ち満ちている。
 そしてそれは、ときには激しい身悶えとなり、またときには仰々しい歔欷となって、なまめかしい処女林を、真夏の底無しの夜を、滔々たる天の川を震わせている。(丸山健二『争いの樹の下で』新潮文庫)

 今のところまだ何でもない彼は何もしていない。何もしていないことをしているという言いまわしを除いて何もしていない。(筒井康隆『虚人たち』中公文庫)

 だれかがヨーゼフ・Kを中傷したにちがいなかった。悪いことはなにもしていなかったにもかかわらず、ある朝彼は逮捕されたからである。(カフカ『審判』岩波文庫)

 ふん、わたしは、あの女を知ってるわ。レノックス街で、かつては小鳥の群れと暮らしていた。あの人の連れあいも知っている。彼は十八歳の女の子が好きになり、心底から深い薄気味悪い愛し方をしたので、幸せのあまり悲しくなって、その気持ちを忘れまいと相手を射殺した。(トニ・モリスン『ジャズ』早川書房)

 舞台用の衣裳と言っても、幅一メートル足らずの鏡張りのカウンターの上で、トップレス・バーの踊り子として踊る為の衣裳だけだったから、真知子もフィリピン人のマリアも、化粧バッグを衣裳バッグに兼用し、化粧バッグ一つ持つだけでいつもマンションを出た。(中上健次『軽蔑』朝日新聞社)

 思い返してみると、そもそも自分がこういう状況に巻き込まれたのも、雑踏の中で出発ゲイトを見まちがえて、そのまま別の飛行機に搭乗してしまったからだ、とブダイは気づいた。(カリンティ・フェレンツ『エペペ』恒文社)

 かれは年をとっていた。メキシコ湾流に小舟を浮かべ、ひとりで魚をとって日をおくっていたが、一匹も釣れない日が八十四日もつづいた。(ヘミングウェイ『老人と海』新潮文庫)

 そのむかし−−
 いまから百万年前の西暦一九八六年、グアヤキルは、エクアドルという南米の小さな民主国が持つ最大の貿易港だった。この国の首都キートは、アンデス山脈の高地にあった。グアヤキルは、赤道から二度南に位置していた。赤道(equator)というのは地球がつけていると想像された腹帯で、これがエクアドルという国名の由来でもある。(カート・ヴォネガット『ガラパゴスの箱舟』早川文庫)

 ヴォネガット氏の手になる作品の大半は、最初の一章が「まえがき」になっている。『スローターハウス5』(早川文庫)もそうなっている。

 ここにあることは、大体そのとおり起った。とにかく戦争の部分はかなりのところまで事実である。当時知りあいだった男のひとりは、自分のものではないないティーポットを持っていたかどで実際に銃殺されている。

「まえがき」にあたる第一章はこうしめくくられる。

 これは失敗作である。そうなることは最初からわかっていたのだ。なぜなら作者は塩の柱なのだから。それは、こう始まる−−

 聞きたまえ−−
 ビリー・ピルグリムは時間のなかに解き放たれた。

 そしてこう終る−−

 プーティーウィッ?

 そして物語の本文が始まる第二章の書き出しはこうである。

 聞きたまえ−−
 ビリー・ピルグリムは時間のなかに解き放たれた。

 事件が始まっているか、事件が始まることを期待させる予告になっている。本を放り出すことができない仕掛けになっている。概して海外作品は前者、日本の作品は後者が多いように思える。余談になるが。
 苦しまぎれに『ベンジャミン』を書くきっかけとなった柳美里『ゴールドラッシュ』(新潮社)を見てみる。

 少年に目を止めた通行人は一人もいなかった。強い陽射しでハレーションを起こし非現実的に見える伊勢佐木通りを直進している少年は、両側の店がしだいに陰影をとりもどすに従って速度をゆるめ、ひょいと左に折れて通りから姿を消した。

 しまった。試し書きに似たような描写がある。そして、今書き出しに使おうと思っている部分が、ここなのだ。試し書きは『ゴールドラッシュ』を読む前に書いている。嘘ではない。誓っても良い。
 ただし、この部分を書き出しに選ぼうとしているのは、無意識に『ゴールドラッシュ』を思い出しているからかも知れない。
 それは否定できない。

 第一章は「プロローグ〜一つ目のエピローグ」というタイトルを付けた。もういきなり初めからストーカーにヘルス嬢を刺させてしまう。これをストーカー側の視点に立って描いてみる。そうなると最終章のタイトルも決まる。
「エピローグ〜本当のエピローグ」。ヘルス嬢側の視点に立って同じシーンを描いてみる。
 第一章で一ツ目小僧のことを書こうとしている訳ではない。

 ストーカーが女を刺す舞台は新宿駅東口にした。新宿という街の、生の毒々しさが良い。渋谷や六本木だと「洒落た」雰囲気が邪魔をして、作品の要求にそぐわない。歌舞伎町の真中でもと思ったが、昼間は存外、人通りが少ない。アルタ前から新宿通りが一番、人通りが激しい。物語は、ストーカーに白昼道々、大勢の目の前で女を刺させたがっている。そもそも歌舞伎町に入ってしまうとストーカー殺人くらい起っても不思議はない。
 堅気の衆が大手を振って歩ける場所でないと意味がない。

 物語にじっと耳を傾けてみる。紀伊国屋書店の前を出発し、TAKA−Qの前で女を刺し、そのまま東口交番に自首する。こうしてくれと僕に強く語る。
 果たしてそんなことが本当に可能なのだろうか。早速、実験してみることにした。

 ADHOCの紀伊国屋でスチールの物差を買った。本当は五〇センチのが欲しかったが、三〇センチのしかなかったので、それで我慢した。そのまま本屋の前で少しうろうろする。誰かを待っているかのように装おう。
 そしておもむろにスチールの物差を出して、抜き身のまま手にぶら下げて歩いてみた。午後は正面から日が当る。物差が反射して、キラキラ光る。ひょっとしたら刃物と間違えて騒ぐ人がいるのではないかと思い、注意深く周囲の様子を見てた。かなり険しい目付きになっていたと思う。視線がうろうろして挙動不振と疑われても仕方がないと覚悟していた。
 ところがところが。意に反して誰も僕のことなど気にしない。恐らく金属製の棒板状の物を持って歩いていることにも気付いていないのではないか。
 念のため、紀伊国屋書店の前から富士銀行の前までを三往復してみた。
 結果。何もなし。

 これを父に話してみた。
「あんなとこ、誰も何も見ちゃいないよ」
「今、小説で登場人物に紀伊国屋から富士銀まで抜き身の包丁を持って歩かせようと思ってるんだけど」
「大丈夫なんじゃないか。そのくらいの距離なら」
 僕がニヤニヤしていると、突っ込みが入る。
「まさか、今度は包丁を持って歩こうってんじゃないだろうな。それだけは絶対にやめろ」
 さすがは我が父だ。早くも目論みを悟られてしまった。
 伊達に三十年以上も付き合っていない。

 そんな矢先、池袋で通り魔事件が起きた。皮肉なことに、僕の実験を代わりにやってくれたことになってしまった。犯人の年齢も『ベンジャミン』のストーカーに近い。動機はちがうが、他人事ではないような気がした。
 二人の命を奪ったことは許せないし、当然のことながら罰せられるべきだ。しかし、動機はどうか。
「仕事がうまくいかずムシャクシャしてやった」
 母は彼をこう評した。
「ホワイト・カラーに憧れてるんじゃない。それが、学歴がないばかりにブルー・カラーの仕事にしか就けなくてその恨みじゃないのかね。仕事に貴賎なんてないのに、ホワイト・カラーの仕事が本当の仕事だと思ってんじゃない」
 もし母の推測が少しでも当っていたとしたら、彼の思いを非難できる人間は果たして何人いるのだろう。バブルが崩壊して、景気が悪くなったという。確かにそうだろう。しかし、そう言う連中の思い描く好景気とは、バブルの再来ではないのか。一獲千金が夢ではない世の中。ロクに仕事らしいこともせず、電話一本で何百万と儲ける世の中。彼らの語る好景気がそういう世界だとしたら、通り魔の青年を生み出したのは彼らだ。
 金さえあればそれで儲かる、そんな馬鹿なことを教えたのは彼らだ。それが当然のように財テクに走って目を血走らせた、奴らだ。それが真実だと教えられて、誰がまともに働こうと思うか。

 嘘は泥棒の始まり。正直は人殺しの始まり。

 序章に書く量からしていきなり変った。まだまだ変る。

 ストーカーの名前を出すのをやめた。刺されるヘルス嬢の方も、まだ名前を出さない。序章では「彼」と「彼女」で通す。切り詰めて書いているうちに、名前を出す余地がなくなってしまった。序章と終章は必要最低限の言葉で書く。緊迫した場面、物語のさわりにだらだらと書いていてはせっかくの物語がゴムの伸び切ったパンツのようになってしまう。

 序章と終章は物語だけがそこにある。キャラクターは要らない。キャラクターの要らない人物に、どうして名前が必要か。

「彼」と「彼女」で通してみて、思わぬ効果が生まれた。登場人物の無名化により彼らの行動に普遍性が出て来るような気がする。これは後述する。

 ストーカーの男から、殺人に対する積極性をできるだけ取り除いた。当初は、最後くらい格好良く決めさせてやろうと思っていた。ところがいざ書き始めてみると、物語がそれを拒否する。最初から自分の意志で刺させようとすると、物語が「違う」とと言う。そこで一歩譲って、迷いに迷って最後には追詰められて腹を決めるようにしてみた。それでも物語は「駄目だ」と言う。とうとう彼一人の力では刺せないようにしてしまった。
 彼は最後の最後までじたばたする。彼女を刺さないで済ませようとする。そこには刺すことにも、刺さないことにも彼の決断がまったくない。終始一貫して半端者として、世間の目に晒すことにした。
 これで物語が納得してくれた。

 時制を現在形で統一することにした。文末が単調でテンポがおかしくなるかもしれない。しかし「視点」は彼が彼女を刺す、今その瞬間を見ているのだ。『ベンジャミン』の最初から最後まで全部これで通せば、読む方も厭になるだろう。これを試みるのは序章と終章だけにする。
 どうせ序章の前半七割をばっさりと斬って捨てたのだ。逆に文末の単調さのせいでおかしくなる筈のテンポが急に上がるかもしれないとも期待している。無論、どう転がるかは僕の腕次第で決まる。

「彼」が「彼女」を刺す瞬間、彼に性的な興奮を催させる。好きで好きでたまらない女を刺す場面を、部屋を真暗にして正座をして想った。恐いとかつらいとか、嫌だとか悲しいとか、そういう当り前の感情だけでは語れないような気がしていた。それが何かを感じ取りたかった。
 そのうちに、腰のあたりがむずむずしてきて、下半身が充血し始めた。彼女の胸を刺す手応え、肉を抉る感じ。人目に付かないように事を済ますには身体を密着させなければならないだろう。そのとき、恐らく首筋にかかる彼女の息。目に映る彼女のうなじ。何より柔らかい身体の触り心地。きっと状態を空いた方の手で支えるから、胸に茹で一本分の隙間ができて、肩と下腹部が触れあう形になるだろう。果たしてそのとき、性的な興奮を覚えずにいられるだろうか。
 どうしても殺人行為と性行為が似ているように思えて仕方がない。確かフロイトが破壊衝動とリビドーについての論文を残しているような記憶がある。壊す対象が「物」から「人」へ、それも「愛しい人」へと変れば、それはもっと大きく凄くなるのではないか。
 そう言えば、心中と言うとかなり艶っぽいが、実のところあれは、二人で死ぬというよりも、二人とも相手の死を望むところに色が出るのではなかろうか。

 そう、好きな女ができて心中を想像したことのない男はいるだろうか。好きな男ができて二人で死に臨む場面を想ったことのない女はいるだろうか。「心中」というロマンチックな響きのする言葉に憧れたことのない人なんて、いないと想うのだがどうか。

 誰か、もしかしたら自分も人を殺していたかもしれないという経験のない人はいるだろうか。何かのはずみで他人を殺すことを想像したことのない人はいるだろうか。綺麗事では済まされない部分を登場人物の無名性で浮き出させることはできないか。
 少なくとも僕の同世代が経験してきた悲しさ、怒り、やるせなさを『ベンジャミン』全体で描き切れば、もしかしたらかれらにだけは通じてくれるかもしれない。
 今、こんなふうに考えて推敲を重ねている。

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