その5
図らずも前章で、僕自身が大きく偏った人間であることが暴露されてしまった。
ただ一点だけ言訳をする。僕はいつもこういうことばかり言っているわけではない。普段は大衆の一人からはみ出さないように、皆と同じように、皆と同じ服を着て、皆と同じ顔をして、皆と同じ世論という幻の言語を口にしている。その証拠に、ちゃんと会社人間として、社会を構成する一員として世間から何とか認められている。そして、そうでもしなければ寂しさに耐えられない。
しかしこの服は着心地が悪い。サイズが合わなくて長い時間着ていると、それだけで疲れる。いつもこの顔をしていると顔面筋が痙攣を起こし、ひどく痛む。硬直して元の顔を忘れそうになる。
だから時々、服を脱いで仮面を外し、ただの僕に戻る。作家・霧小舎捕人の登場だ。
社会という組織に組み込まれて生活している以上、誰だって多かれ少なかれ仮面を被って生きている。あらゆる規模の社会から、期待された通りの仮面を被って生きている。
仮面が脱げない人がいる。仮面が本当の自分の顔だと信じて疑わない人がいる。仮面が皮膚に同化して外すと顔がなくなってしまう人がいる。
僕は断固として拒否をする。
手遅れかもしれないけれど、本当の顔で、裸身になって、僕が信じ身に付けた言語で語る。
僕が小説を書くということは、そういうことである。
「新潮45」の1999年8月号に柳美里氏は『「朝日新聞」社説と「大江健三郎氏」に問う』と題する「『石に泳ぐ魚』裁判」のコメントに対する反論を寄稿している。以下、柳氏の文章からの孫引きで大江氏の陳述書を引用する。
「柳美里氏『もやし』はしばしば文章が投げやりとなり、人間観にもヒズミがある。このヒズミはいま個性として受けとめられることがあるとしても、永い創作活動においては自分で修正するほかないものだ」
「この現実社会にそれ(『石に泳ぐ魚』のこと:霧小舎註)で傷つき苦しめられる人間をつくらず、そのかわりに文学的幸福をあじわう」
これ作家の言葉だと思えるだろうか。僕には「文学音痴の聖者」の言葉にしか聞こえない。
ノーベル文学賞受賞後、初の作品となった『燃えあがる緑の木』を読んで僕の危惧していたことが、この陳述で現実のものとなった。
この作品は、古今東西あらゆる要素を取込んで、まさに小説の教科書のようになっている。構成、手法、表現、どれを取っても文句のつけようがない。
僕は『「雨の木」を聴く女たち』『同時代ゲーム』等、中後期作品の支持者だ。しかし本作では、これらの持つ面白さ、更に言えば本来小説の持ち合わせる面白さとは遠く掛け離れているところにある、という印象を拭えない。
ゆがみがありひずみがありほころびがあってこそ、人間の小説ではないか。
僕は今、人間として生きることに興味を持っている。今まで人間として生きていなかったのではないのかという疑問と闘っている。そんな僕に、神の視点で描かれた神の作品なんていらない。僕が本当に必要としているのは、生身の人間が書いた小説なのだ。
『宙返り』は神の作品だろうか。恐くてまだ手を触れることさえもできない。
◇
ところで、僕はヒロインの人物像を作るため、インターネットを利用した。すなわち、出入りしているいくつかのサイトで性風俗関係資料の情報提供をお願いした。何人かの方からお返事を頂戴した。いづれも参考書以上、いろいろなことを考える上で重要な問題を提起してくれるものばかりで有難かった。
ここで、サイトの利用を快くお許し頂いた皆さんと、情報を頂いた皆さんに厚く御礼を申し上げます。
そのうちの一つに、密かに期待していたお返事があった。確かに期待していたけれど、まさかそう簡単にはいかないだろうと思っていたことが、現実に起きてしまった。すなわち以前、性風俗産業に身を置いた経験のある女性から、取材にご協力いただける旨のお申し出があった。
無論、反射神経だけで飛び付いた。
パブロフの犬。
まずは何を知りたいのか逆に問われて、ここぞとばかりに知りたいことを列挙してみた。動機、店の裏側、良くも悪くも印象に残った客、働いてみての感想、私生活史、家族史、公の顔として学校生活史、性遍歴。
よく見れば、ありとあらゆることが知りたいのではないか。我ながら呆れてしまう。
今挙げた項目に、根拠がない訳ではない。一つは業界の中身、つまり働いている側からの視点が欲しかった。客で遊びに行けば、一応の取材にはなる。自慢じゃないが、合法的な遊びはだいたいのところを通過しているつもりなので、どんな雰囲気なのかはある程度承知しているつもりだ。しかし、それだけでは働いている女性の、客向けの顔しかわからない。それだけではヒロインを描き切ってしまうのは、片手落ちもいいところだろう。
もう一つは、精神分析の下手な真似だ。学生時代に多少かじったことがある。この頃に得たわずかな知識のおかげで、生活史や家族史から、人の心的傾向を少しだけ推測することができるし、逆に人の言動からトラウマやコンプレックスを推測することもすこしだけできる。
しかし、これを表に出すことはしない。素人ほど厄介なものはない。ましてや僕は精神分析に関してきちんとした教育を受けていない。すべて書物からのみの、我流の知識だ。
実際に使うのは、小説で登場人物に現実味を持たせるための裏を作る場合に限られる。彼らの行動の、隠れた動機を考えるには実に有効な方法なことには間違いない。
話を元に戻す。
彼女とは三往復のメールのやり取りがあった。かなり突っ込んだ質問にも嫌な顔一つしないで、実に的を射たお答えを頂いた。
これらのメールは今、マシンの中だけでなく全文をプリントアウトしてファイルに保管している。どの一枚も破れば血が出そうな凄みが伝わってくる。残念ながら、内容についてはお約束で一切公開しない。そっと『ベンジャミン』のフォンド・ヴォーに忍ばせて皆さんにお伝えするのみである。
この小説の構想について相談に乗ってもらっている、現在ロンドンで留学中の友人に、取材の協力者が現れ大いに参考になったことを話した。ここでもまた興味深い指摘をもらった。
「中身がわからないから何とも言えないけど、生だから凄いんで、冷静に見たらどこかで聴いた話になるんじゃないかな」
試しにメールをメモ用紙に手書きで写してみた。
結果。凄みが消えて、女性週刊紙の告白記事になってしまった。このメモ用紙は、破って捨てるのに何の抵抗も感じない。僕は一つの確信に至った。
言霊は確かに存在する。
性風俗に関するルポ記事や風俗嬢へのインタヴュー等に目を通してみた。残念ながら、出版されているものはあまり良質の資料になるとは言い難い。一冊目の途中からもう、うんざりしてきた。それでも何冊か読み切った。もう一生見なくても良いような気がする。
ロンドンの友人は正しかった。
まず、ライターの書き方に、操作の跡が見える。いや、どんな種類のルポでも、ライターの狙いや視点がありそれに合わせて情報を取捨選択するのだから、それを非難するのは間違いだろう。どんな公平な記事にも、書き手の主観が入るのは当り前のことだ。
ただ、この種のルポでは取材の対象よりも、ライターの思い入れの方が前に出ているような気がしてならない。ライターが下す結論は大きく次の二つに分類できる。
性風俗産業で働く女性たちの話も、ライターの目的の前には色褪せてありきたりの話になってしまう。失礼を承知で書く。得に酒井あゆみ氏のルポが酷い。彼女自身、性風俗産業に身を置いて辛い思いをしたようだ。だからといってご自身の思いを伝えるために取材を利用することはないだろう。どの取材も彼女の自伝に見えてしまう。
反対に永沢光雄氏は、ご自身に対して一見、投げやりな態度を取っている分、風俗嬢たちの言葉を変なフィルターにかけず素直に伝えているような気がする。彼のルポは、半分私小説のような体裁をとることが多い。むしろそちらの方が取材の対象を明確に写し出す結果になるのは皮肉なことだ。
それも程度の問題で、いずれにしてもインタヴューや取材に応じてくれた風俗嬢が本当に語りたいことは他所にあるのではないかという思いは拭い切れない。記事を額面通りに読んで納得する気にはなれない。
かゆいところがわからない、どこを掻いたら良いのかわからないもどかしさだけが残る。
或いはかゆいところなど、ないのだろうか。彼女たちはただ頼まれたから語ったのだろうか。自ら、何かを語りたいという能動的な理由はないのだろうか。
今、思い付いた。彼女たちがどんな生い立ちを歩み、どんな状況にあって、何を思っていようと、ライターにとっては所詮、他人事に過ぎないのだ。
そこに自分を重ね合わせて記事にする。だからどれも似たり寄ったりの内容にしかならないのではないのか。自分を語るために他人の人生を都合良く利用しようとするいやらしさの原因が見えてきたような気がする。
無論、これは僕にもあてはまる。一人だけ良い子でいようとは思わない。
人が他人に向けて言葉を発するとき、そこには三つの層の意味があるように思える。
一番表面の層では、まず自分の存在、何かを伝えたい欲求に気付いてもらうことが目的になる。
次の層は、自分の発した言葉の意味内容が正しく伝わることが目的になる。普段我々が日常的に交す会話の大半はこの層が中心であり、大抵の場合、それで済んでしまう。
もう一つ深い層には、第一の層や第二の層には出て来難い、言葉を発するという行為に及ぶ隠れた動機、そのときその瞬間の感情があるように思える。それは表情やちょっとした仕種、話全体の雰囲気に巧みに紛れ込む。その内容は、発声された言葉通りのこともあるし、逆の場合もある。はたまた話の内容とまるっきり無関係の場合さえ存在する。第三層は、上の層、すなわち実際の発声すら必要としないこともある。例えば、ラグビーやサッカー等でのアイ・コンタクトを考えてもらえばわかりやすいと思う。
第二層より第三層の方により大きな意味を持つ情報の伝達を「思いを託す」と表現してみることにする。そして託した思いがどの程度伝わっているかは、受け取る側の能力や二人の相性に大きく依存することになる。
僕の取材に快く応じてくれた彼女も、単に親切や好奇心という以上に、僕に、或いはこれから書かれようとしている作品に何らかの思いを託したのではないだろうかという気がしてならない。何故なら、こんな一節が僕の心を捉えて離さないからだ。一度だけ約束を破って直接、引用してしまう。
肉体に執着がないのか、執着がないふりをして冷静を装っているのか、もう解らない。ただ、身体を欲しがる男を見下していれば屈辱には成らない。
文字通り、僕に体当りしてきた。悲しくなった。僕が悲しくなった。ここには、仮面を被って窒息死しかけていた僕の悲しみが語られていた。
この思いは、今現在日本に生きる人たちに共通する感情ではないか。不倫に走る男女から「彼とラブラブ」という理由で抵抗を感じることなく簡単に身体を許すコギャル、援助交際に群がるオヤジどもにまで広げても差し支えない。
例えば、かなりの比率で、コギャルにとっての「彼氏」の存在は、アクセサリーに過ぎないのではないか。今様のファッションを身に纏いちょっと恰好良い男の腕にすがりつく女の子。彼女たちが腕に等身大のブレスレットをはめているようにしか見えない。だから人前で何の恥じらいもなくベタベタすることができるのではないか。
いや、違う。彼女たちは、その巨大なアクセサリーをことさら見せびらかして自慢の種にしているのだ。同時に、彼女たち自身もアクセサリーと化している。
男のアクセサリーとなる条件を呑んで、彼らを身に付け、飽きては捨てたり捨てられたりを繰返す。
どれだけの異性と関係を持ったか、たとえ一時期にしろどれほどその関係が深かったかを競い合い、笑顔の下でお互いを見下し合っている。これが彼女たち、彼らの価値観ではないか。
無論、もてない男のひがみと思って頂いて構わない。
しかし、僕の言い分にはまだ続きがある。
この闘いに参加しない、或いは参加をしたくてもできない者たちにしても根底は同じだ。疎外されたという感情が恨みに変り、彼らのゲームに参加しないという手段で彼らを見下す。彼らを下劣な連中と思い込むことによって、参加できない自分を正当化する。
自分の価値を他人に決めてもらわなくてはならない人たち。
仮面を被るよりも自らを仮面そのものにしてしまった方が生き易い世の中。彼女たちは、彼らは、このような環境に見事なまでに適応した。寂しさに耐えられず、適応せざるを得なかった。
これを書いている僕とて例外とは言えない。かつて友人からこんなことを言われた。
「あんた、他人に勝って見下すか、勝てないことには無関心を装うか、どっちかしかできないんだね」
カーンバーグは、幼児が「退陣関係の領域でがまんのならない表現にたいする防衛として、理想の自己と理想の客体と現実の自己イメージとを混同していく」ことを指摘する。専門用語を使わずにこれを表現するならば、ナルシシストは、自分のイメージにとりつかれてしまう、とカーンバーグは言っているのである。(中略)ナルシシストは現実の自己イメージにもとづいて行動するのではない。なぜならそれは彼らには受け容れがたいものだからである。(中略)
ナルシシズム障害に関する精神分析学的説明の基本には、心のなかで起きることがパーソナリティを決定するという信念がある。そうした説明の仕方では、身体のなかで起きることが心のなかで起きることとおなじくらい思考と行動に影響をあたえるということを、考慮にいれることができない。(中略)
もし身体こそ自己であるとするならば、現実的な自己イメージは身体のイメージでなければならない。ひとは身体化された自己の現実を否定することによってのみ、現実的な自己イメージを捨てさることができる。ナルシシストは自分が身体を持っていることを否定するわけではない。(中略)彼らは身体を精神の道具、自分の意志の従属物と見る。それは、感情もなく、ただ彼らのイメージにしたがって動くだけである。(中略)そのときそれは「生命」をうしなってしまっている。そして「自己」の経験を生じさせるのは、まさにこうした「自分は生きている」という感情なのである。(A・ローウェン『ナルシシズムという病い』新曜社)
仮面がもっと美しければ、もっと幸福になれる。
仮面が醜いから幸せになれない。
何という幻想。
僕は仮面の美しさを争うゲームから降りることにした。
あまりにも本名と仮面が同一化してしまった。仮面を脱いだ僕の名前を思い出せない。
ゲームに破れ、疲れ果てて腑抜けになった僕の成れの果てが「霧小舎捕人」である。仮面を脱いだ僕に付けた、新しい名前だ。
はじめまして。よろしく。
『ベンジャミン』はここから出発する。今まで仮面を被って生きてきた世界を、仮面を外した僕の眼から見るところから始める。
取材に協力してくれた彼女が、僕に何かを託したように、僕も『ベンジャミン』に思いを託す。ただそれだけのことだ。
何をややこしいことを、考えていたのだろう。
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