その4

 読んだ時期が最悪だった。もしかしたら絶好のタイミングと言えるかもしれない。『もてない男』のすぐ次に読んだ本が山田詠美『ぼくは勉強ができない』(新潮文庫)だった。

 作者はこの連作短編集の冒頭で主人公に、成績の良いことを鼻にかけている級友に向かい「でも、おまえ、女にもてないだろ」と言わせている。
 山田詠美氏の作品を読むのはこれが初めてだ。他の作品の書評を見て想像していた作風とは随分違うもので、非常に残念な思いをした。僕は氏を、もう少しもののわかった人だとばかり思っていたのだ。
 要するに氏は本作をもって世に阿いているだけではないか。高校生にとって、勉強ができることともてることと、どちらに大きな価値があるのか。

 高校生の頃を思い出してみると僕自身、大学に行けるだけの学力はあった。多分、勉強ができる方に分類されるのだろう。だから説得力はないかもしれないが、僕にとって学校の成績なんてどうでも良かった。それよりも、成績が落ちても構わないから、大学に行けなくても構わないから「これは」と思う女と付き合いたい、抱き締めたい、寝たいという欲望で悶々としていた。自分でも変態ではないかと心配になるほど激しいものだった。
 でも、男子高に通っていた僕にできることと言えば毎日、生徒会室にこもって酒を飲みながら麻雀を打つのが関の山だった。

 僕が変態かどうかの判断は、皆さんに委ねる。好きなように言ってくれ。

 人は「みんな」に弱い。「みんな」に属していればそれで精神的に安定感を得られることが多い。ということは逆に、例外の「少数派」に分類された場合、非常に強い疎外感に悩まされることになる。さらにその場面で「みんな」の力が圧倒的に強ければ、劣等感の塊になる。
 この傾向を大前提に考えを進める。

 勉強のできるできないの基準を大学進学率に置いてみる。学校教育法では中学と高校が中等教育機関、大学が高等教育機関と定義して線が引かれているようだし、大学進学率なら新聞や雑誌でもよく目にする。だから、かなり大雑把ではあるが、これで仮定する。
 最近は探題や各種専修学校を含めると、進学率が40%を超えるくらいか。四年制大学に限定しても30%程度はあると思う。

 勉強ができない高校生は6割近くいる。

 勉強ができないということだけで仲間外れにされることは?まずない。
 勉強ができないからといって疎外感を持つことは?ほとんどない。
 勉強ができないことで寂しさを感じることは?滅多にない。

 勉強ができない仲間は沢山いる。

 進学に関しての超一流校は別だが。

 恋愛は誰にでもできるということになっている。むしろ恋愛すらできない人間は異常、という方が近いだろう。
 先日、新聞で高校三年生の処女率調査の結果が発表された。正確には性体験に関する高校生の実態調査とか何とか呼ぶのだろうが、僕のような俗な人間の目には処女率調査としか見えない。それによると高校三年生の非処女率は約40%。行為に及んだ理由の内訳は「愛情」が断然のトップで、次に「好奇心」「何となく」「金目的」と続いていたように思う。ほぼ恋愛の延長上に性体験があると見て良さそうだ。

 非処女率は大学進学率とほぼ同じ。

 サンプリングの基準を知りたいところだ。
 僕は、実体はまだ上だと思っている。政府の調査に文句をつけるつもりはないが、少し底上げをして50%としてみる。つまり、高校三年生の段階で少なくとも半分の女性は恋愛体験があることになる。
 肉体関係は持たなくても彼氏はいた、という人もいるだろう。少なく見積もって10%とする。これを加えると、高三女子の恋愛経験者は6割になる。
 童貞率調査ではやや数字が低いものの、高三男子もほぼ同じ数字と考えて構わないだろう。

 高校三年生の恋愛体験者と勉強のできない者の数はほぼ同じ。

 今はじき出した数字はあくまで「最低」であって、これが実は八割以上でも誰も驚かないのではないか。仮に僕のよそうがドンピシャだとすると、高校での恋愛の落ちこぼれは、二割未満。10人に1人、2人いれば多いとみなさなければならない。
 勉強の落ちこぼれ、恋愛の落ちこぼれ、どちらがつらいか。

 勉強ができることが、そんなに大事なのか。有名大学に入ることがそんなに素晴しいことなのか。
 僕を見てくれ。まさか「超」は付かないと思うが、まずは一流と呼ばれる大学を出ている。

 タイトル「成れの果て」。

『ぼくは勉強ができない』で主人公が例の台詞を吐いた理由は、ただ級友の成績自慢が鬱陶しかったからだ。
 近代以降、恋愛は誰にでもできると思われているらしい。恋愛はコミュニケーションの一つだから、コミュニケーションの上手い人はそれだけで恋愛も上手なのだろう。これに関してほぼ例外はないと思われる。
 逆に他人とのコミュニケーションが苦手な人は、恋愛も苦手なはずだ。先の論を広げてみる。
 人間はコミュニケーションの動物である。恋愛下手は、コミュニケーション不全の証である。故に恋愛のできない人間は、人格異常と思われても仕方がない。
 勉強のできるできないは人格を構成する一要素であり、コミュニケーション能力はほぼ人格全体と重ね合わせて見られる。
「でも、おまえ、女にもてないだろ」成績が良くないことを指摘されただけで全人格を否定しかねない攻撃。読んでいる途中で思いもかけず耳を塞いでしまった。

 彼はうるさいハエを追っ払うために機銃掃射を行った。僕は人格不全の烙印を押された。

 高校生にとってそんなに成績が大事だったのか。或いは今、成績が何より大事なのか。今の高校生を見ていると、まず恋愛ありきの風潮が圧倒的なように思える。断言はしない。僕がマスコミ報道に踊らされている可能性は充分に考えられる。ひがみ根性のフィルターがかかっていることも知っている。
 僕が根拠にしているのは、テレビや新聞のマスコミと、ティーンず向けを中心とする雑誌だ。前者は僕のような偏見を持った大人による情報操作が考えられるから根拠としては弱いだろう。
 むしろ僕は、後者に強く根拠を求めたい。恋愛記事のない雑誌がどれだけあるだろうか。こうしたらもてる、今こういう男(女)が恰好良い、今年こそ彼氏・彼女ができる、などなど。種類の多さと発行部数を調べれば、まんざら僕のいうことも嘘とは思えないのではないか。

 勉強ができない連中は6割もいるのだ。もし万が一つらさや悲しさは感じたとしても、大好きな彼女との成績差が圧倒的に大きい等の例外を除いて、寂しさはないだろう。勉強なんかできなくたって寂しくない。恋人のできない方が余程きびしい。耐え切れないほどに寂しい。単に恋人がいないから寂しいのではなく、人格不全の二割に入れられてしまう恐さのおまけが付いている。
 小谷野敦氏は「セックス」という言葉を使っているが、以下に引用する文章の「セックス」を「恋愛」に変えればほぼ僕がつい最近まで苦しめられた感情を表現できる。

 セックスできない男がかわいそうなのは、セックスの快楽を享受できないからかわいそうというより、セックスの悦びが物凄いものであるように幻想してしまうからかわいそうだ、というべきなのだ。(『もてない男』ちくま新書)

 一部の人間に煽動された「大衆」と呼ばれる中間層の意識が発する意見や見解を世論というなら、この恋愛の幻想も世論と呼んで差し支えない。そう遠くない日に、恋愛を享受できない二割弱の人間は、世論という第二のナチスにユダヤ人の称号を与えられ、ホロコーストへ丁寧に運ばれて行くのだろう。
 いや、もう始まっているのかもしれない。

 子どもは菓子本体より、オマケの玩具が欲しい。

 絶滅種を救え。

 僕は世論をほとんど信じない。理由は先に述べた通りだ。
 大衆の欲望を刺激し、彼らにわかる程度の、或いは知識欲を満足させる程度のトリッキーな言説で煙に巻き、煽動しようとする一部の者の幻想に過ぎない。学歴偏重、詰込み主義教育への批判を見るが良い。子どもの権利を金科玉条にした教育が何を生み出したのか、目の前にある現実をよく見てみる。自由・平等・個性尊重の教育。戦後五十年の成果がそこにあるではないか。
 実に見事というより他はない。

 学校は勉強を教わるところ。違うか。楽しい思い出を作る、仲良しクラブではない。違うか。そういう場で、学力を基準にした力の秩序ができたところで何の不思議があるだろう。勉強を教わる場だから、勉強ができる人間が優遇される。どこがおかしい。
 喩え話をしよう。
 東京駅から新幹線に乗って新大阪まで行くとする。僕としては隣のシートに可愛いおねえちゃんが座り、楽しくおしゃべりをして約三時間の道程を過したいと思う。ところが実際のところ、隣に座ったのは、ヨレヨレにくたびれ頭のはげかかった、口臭の強い酔っ払いのおっさんだった。だからといってJRに文句が言えるだろうか。JRの責任は、僕を安全に、予定時間通りに東京駅から新大阪駅まで送り届けるまでである。隣の席に僕好みのおねえちゃんが座らなかったことなどJRの預かり知ったところではない。
 学校に入って、勉強を教わり、一連の過程を経て一定の基準まで知識を得て、無事卒業する。これが学校ではないか。
 新幹線に乗っている間、臭いおっさんの隣でじっと我慢しているのはつらい。だから学校がつらい場所だって少しも不思議はない。むしろその方が多いだろう。ここになぜ学校に文句を言える筋合いがあろう。
 僕は思う。学校の責任は、子どもが学ぶ環境を安全に保つこと、学校の用意した知識体系を彼らに教えること、そして彼らを無事卒業させること。
 それだけだ。

 詰込み主義教育のどこが悪い。

 間違ってもらっては困るが、僕は学校教育を礼讃しているのではない。ただ、学校というのはそういうものだと言ってるだけだ。「学校」という言葉からノスタルジーやセンチメンタリズムを取り除いて見せただけだ。そんなに学校が嫌だったら行かなければ良い。まして『ぼくは勉強ができない』の主人公は高校生だ。義務教育ではない。

 詰込み主義教育で人格がゆがむのは、子どもがそれに耐えられないからだ。耐えられるだけの力を付けさせなかった親が悪い。いや、子どもも悪い。
 新幹線で隣に可愛いおねえちゃんが乗らなかったとき、臭いおっさんが乗ったとき、どうやり過ごすか。本を読む。ウォークマンを聞く。寝る。色々とかわ技があるだろう。子どもはそういうことを身に付けるべきなのだ。親は、子どもに世の中面白いことばかりでないことをきちんと教えるべきなのだ。そうした中でどう生きていくか、子どもに考えさせるヒントをいくつも用意しておかなければならない。
 あらゆる意味で、世の中が作った基準の中では、敗者が圧倒的に多いことを知らさなければならない。ひとにぎりの勝者になるためではなく、敗者になったときにどう身ごなししていくかを教える方が余程重要だ。
 現に『ぼくは勉強ができない』の主人公もサッカーと恋愛で身をかわしているではないか。
 勝者になることの誇りよりも、敗者になっても口笛を吹きながら生きていける力を付けるのが、家庭教育でありしつけではないのか。
 家庭教育なりしつけというのは、一方で学力偏重教育を非難しておきながら、一方では自分の子どもを一部のエリートに仕立て上げるべく子どもの尻を叩くことでは、決してない。

 ぼくは受験戦争でそこそこの戦果を収めた。敗者とは言わない。しかし、実社会に出て、ぼくよりも強い者達を大勢目にしてきた。学歴の延長上でのキャリアで、逆転を食らった。
 眼を恋愛戦争に向ければ、連戦連敗、国家なら崩壊状態、分裂して植民地となっていてもおかしくはない。それでも生きていけるのだ。

 それでも生きていける。

 世論とは、一部の扇動者に操られた大衆意識、大衆の一人があたかもそれが自分の意見だと錯覚するような考えだ。中流意識を表すワッペン。大衆に受け入れられるための踏み絵である。
 優秀な扇動者は、このメカニズムをよく理解している。

 世論を操作する扇動者は、弱い者の味方と称する輩である。自分の発言力の大きさをよく理解している連中である。自分は大権力の上にゆうゆうと乗っかりながら、弱い者の立場をよく知っていると訳知り顔でもっともらしく語る偽善者である。
 彼らは巧みに大衆の情に訴え、大衆に、彼らの正義を押し付けられたと感じさせないような方法で押し付ける。世論のメカニズムで、彼らの正義からはみ出す者に対して異常と思われるような排斥を加える。
 例えば大朝日新聞社に所属し、すずさわ書店から著作集を出している記者である。

 真剣に弱い者の立場に立って、本当に彼らの立場を理解し、共に闘おうとする人たちがいる。時に彼らは世の中から胡散臭い目で見られることも多い。なぜか。
 大衆のほとんどは、扇動者の胡散臭さに気付いている。ただ、小難しい論とわかりやすい正義と媚びを大衆に売りつけ、彼らに知的満足という幻想を与て良い気分にさせているから受け入れられているだけのことだ。
 そういう胡散臭い連中が「弱者の味方」を謳っていれば、本当の弱者の味方まで胡散臭く見られるのも当然だろう。

 どんなに成績が良くて、りっぱなことを言えるような人物でも、その人が変な顔で女にもてなかったらずい分と虚しい気がする。女にもてないという事実の前には、どんなごたいそうな台詞も色あせるように思うのだ。

『ぼくは勉強ができない』からの一節である。まさにそうなのだ。これが世論なのだ。「変な顔」「女にもてない」をそれぞれ「人気がない」「コミュニケーションの不得手な」に変えれば、ほぼ完璧だろう。
 この連作集は今年(平成11年)の「新潮文庫の百冊」に選ばれている。確か昨年(平成10年)でも百冊に入っていたと思う。本書がこれだけ支持を受けるのは世論に同調しているからだ。読者はこれを読んで「そうだそうだ」と涼しい顔で拍手喝采を叫んでいれば良い。
 主人公の少年をほめそやかしていい気になっていれば、大衆の一人に仲間入りできる。寂しい思いをしないで済む。

 世論の操作法法を一つ紹介しよう。
 まず一部の事実を拡大する。少しでも類似点のある事例をすべてその事実に吸収し、大衆にとってあたかもそれが一般的であるような錯角を起させる。その上で、その問題点を指摘し、攻撃をかける。これだけで大衆は、放って置いても彼らの尻馬に乗ってくる。
 例えば学級崩壊の報道である。大部分の学級が崩壊の危機に立たされているかのような印象がある。しかし、大半の学校、学級は平常な生活が営まれている。
 安保、自衛隊、戦争責任、教育問題。問題点の指摘の部分に精密な数値データを使うのがコツである。こうして学力重視の学校教育は、それが本来の姿であるにもかかわらず、根を腐らされた。

 良く思い出して頂きたい。そんなに学力重視の教育が酷かったかを、ご自分の経験に照らし合わせて欲しい。もしそういう事実があったとしても、結局、学校は成績優秀者の天下だったのか。人気者は誰だったか。勉強ができることが、それほど素晴しいことだったのか。成績の良いやつはどうだったか。勉強ができないことがどれだけのハンディキャップだったか。
 僕が『ぼくは勉強ができない』を非難するのは、「勉強ができるイコール成功者」と「学力偏重教育への批判」という相矛盾する世論を前提に、いやそういう世論に阿いて、エリート・バッシングに留まらず恋愛のできない者に留めを刺した、そういう部分である。
 山田詠美氏は社会正義の体現者となってさぞ気分も良かろう。しかし主人公が攻撃を加えた少年は、すでにして「女にもてない」という社会的制裁を受けている。嫌でも将来、他の社会的制裁が待っている筈だ。もうこれ以上叩かなくても良いではないか。まだ足りないか。

 世論の尻馬に乗るとは、次のようなことである。

このタイトルを耳にするなり、ぼくは膝を打って、あ、それはすごくいいなあ、と思った。その後に続く編集者の説明を大慌てで遮って、
「ぼくも勉強ができませんッ」
と大声で同意したくなるほど、一瞬にして興奮した」

 以上が原田宗典氏による「解説」からの抜粋である。

 原田宗典氏に問う。
 お前は早稲田大学文学部「卒」だったな。どの口で「勉強ができませんッ」などと言えるんだ。

 どうせお前はそこそこ勉強もできて、恋人もいて、それなりに楽しい高校生活を送っていたんだろう。ぬくぬくと現代日本の教育体系の中を生き抜いてきたではないか。お前にそんなことを言う資格はない。

 世論に乗った人気取りの言葉で、子どもにもばれるような嘘をつくのはやめてくれ。

 その意味で山田詠美氏は本作を書く資格だけはあるような気がする。氏は明治大学文学部を中退している。
 自らこの体系を拒否したのだから。

 小谷野敦氏『もてない男』から再度引用する。

 恋愛は誰にでもできる、という「嘘」が、恋愛のできない者を焦慮に追い立て、ストーカーを生むのである。だから、恋愛を礼讃する者たちに、ストーカーを非難する資格はない。「恋愛なんか愚劣だからやめておけ」と言える者にして初めてストーカーを非難する資格があるのである。これを要するに、資格もないのにストーカー呼ばわりして得意がる連中が許せない。

 僕は攻撃の的をもっと絞る。山田詠美『ぼくは勉強ができない』を読んで拍手喝采を送るような大卒者に、ストーカーを非難する資格はない。
 こういう連中がストーカーに悩まされようが、殺されようが彼ら自身で作ったシステムに殺されたとしか思わない。同情が湧かないばかりか、滑稽とも思える。

 ギロチン。

 僕はこの章を、目に涙を浮べて書いてきた。どういう訳か冷静になって抑えることができない。

 口を封じられた子どもの頃の僕が、寂しさと悲しみと怒りに震えながら、恐さに耐えて再び口を開こうとしている。

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