その3
前章でヒロインのヘルス嬢が、主人公のストーカーに自ら望んで刺されると書いている間中、妙な考えが頭にとりついて離れなかった。
何となく『白雪姫』に似てはいまいか。
『白雪姫』は王子様のキスで長い眠りから目醒める。
『ベンジャミン』ではストーカーに刺し殺される。そしてそのストーカーは、かつてヒロインの王子様だった兄の代理という性格を持つ。つまり、王子様のキスで甦るか、剣で刺されるかだけの違いのように思われてきたのだ。
確か河合隼雄氏の著作でだったと思うが、白雪姫の長い眠りは「少女時代の死」の象徴であり、王子様のキスで甦るのは「大人の女としての再生」を象徴しているというようなことを読んだ記憶がある。
子どもが成長し成人の仲間入りを果すための儀式(イニシエーション)は世界中の民俗、部族に共通して存在するらしい。これらを分析すると、必ず「死」の象徴が見られるという。
「子どもの死」である。同時に「大人」として「再生」する象徴も必ず含まれており、そうでなければただの人殺しだろう。
ただの人殺し。
『母性社会日本の病理』他いくつかの著作で河合氏は、日本の成人式の形骸化を危惧していられた。イニシエーションの中に含まれる心的意味をどんどん排除し、形だけ成人となる。成人式に出席したからといって大人になったという実感を持った人はどれくらいいるのだろう。
かといって他に「自分は大人になった」と実感できる他の機会も見当たらない。
僕の場合、幸いにも(半分皮肉も隠っている)就職という関門があり、いくらかは救われているようなきもする。しかし、それさえ拒否する人も増えているようだし、人によっては就職すら成人のイニシエーションになり得ない場合だってあるだろう。
「これで大人になった」と実感できるイニシエーションが社会からどんどん奪われていく。
もう一つ気になるのは、大人にしか許されなかったことを、今の子どもは平気でやってしまうことである。酒。煙草。ギャンブル。セックス。大人でも許されないことだって平気らしい。薬物濫用、売春。
こっそりやるのは良い。「見付かったら怒られる」という恐怖が、まだ子どもである証拠で残っている。一番の問題は、それが堂々とできてしまうところにあると思う。
子どものうちに大人のやることを一通り済ませてしまい、本当に大人になる機会を与えられなければ、アダルト・チルドレンの出現は当然のことなのかもしれない。
福島章『ストーカーの心理学』(PHP新書)と岩下久美子『人はなぜストーカーになるのか』(小学館)に面白い指摘がある。後者から、精神科医の町澤静夫氏の言葉を借りよう。
「精神医学の立場から見ると、ストーカーの中核となりうる人たちというのは、ボーダーライン・パーソナリティ・ディスオーダー、つまり境界性人格障害と診断することができるでしょう。特に最近は、ボーダー・ライン的な傾向を持つ人が増えています」
もとは精神病や神経症との境界線上にあるケースに与えられた名だが、現在では日常生活に支障をきたす程、人格に偏りを見せる人格障害を指すらしい。
一方、アダルト・チルドレンは
などといった特徴をもつ(斉藤学『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)、『人はなぜストーカーになるのか』より孫引き)。
誰だ。「お前のことじゃないか」と言ってるやつは。
岩下氏はこれらの感情や行動に境界性人格障害との一致を発見した。アダルト・チルドレンは発展してストーカーになり得る。
もう一人の主人公、ヘルス嬢もアダルト・チルドレンだろう。どこまで、何をさせるかは今後考えるとして、大人にしか許されないことはあらかた済ませてしまっている。後は「本当に」大人になるだけだ。しかし彼女はそれを拒んで、自ら刺される。ジグソー・パズルのピースがまた一組はまった。
彼女が大人になることを拒む理由は何か。手っ取り早く、家庭環境に原因の一つを求めてみることにする。実兄との近親相姦は、既に書いた通り。兄から捨てられるときの様子を、大人の論理の醜さ、いやらしさ、冷酷さで描ければそれだけでも理由として充分成り立つ。
大学を卒業して実家に戻り、学生時代からの恋人を迎え入れるために彼女は追い出されることにしたら良いだろう。この時に既にヘルスで働いているかどうかはまだ決めていない。
彼女の実家は東京の郊外が良いだろう。例えば八王子のもう少し先あたりはどうか。
彼女の父は大企業に勤め、総務部のスペシャリストとして活躍していた。しかし彼女が生まれたのを機に八王子の先に家を買った直後、営業に配転される。全国各地を単身赴任で転勤し、企業戦士になって闘うが、過労死する。
母親は週末毎に夫の元へ通う。これで近親相姦の隙間ができた。
こんなエピソードはどうだろう。初めは夫の元に通っていた母が、次第に愛人と週末の小旅行を楽しむようになる。無論、子どもたちは知らない。父が急死したとき、母は愛人と旅行に出ていた。赴任先の病院から家に電話が入ったとき、母の不倫がばれてしまう。少々意地が悪過ぎるか。
ストーカーの男はどうするか。ヘルス嬢とは逆に、母子密着型の家庭にしてみたい。押しつけがましいくらい彼のやることなすことすべてに手を出してしまう母親。彼に過大な期待を抱いて、彼もそれに応えようとする。
しかしあるとき実物大の自分に気付き、次第に無気力になっていく。友達一人できない。恋愛すらできない。これらの劣等感が、彼に実物大の自分を再び見失わせ、今度は過小評価するようになる。
具体的な方法はまだ思い浮かばないが、彼も、母の手により大人になるイニシエーションの機会をことごとく奪われてしまう。
ここで二人の人物像を整理してみる。二人とも大人になり切れない。一人は大人になることに挫折し、もう一人は大人になることを拒む。
二人とも理想的とは言えない家庭環境に育つ。一人は過保護に、一人は放任主義で。
二人ともエディプス・コンプレックスの支配下にある。ヒロインの方は、正確にはエレクトラ・コンプレックスと言うのだろう。娘が父に思いを寄せ、母を敵視する心理的傾向のことである。父への思いが兄に投影され、母が兄ばかりを可愛がれば辻褄は合いそうだ
ここにもう一つ、二人の共通点を加えたい。二人とも幼い頃、寝るときに異性の親から物語絵本を読んでもらった。一番好きな物語が『白雪姫』であった。
ディズニー・アニメの『白雪姫』が大好きだ。手塚治虫氏が百回以上も見た、というのも納得できる。白雪姫の動きがなんともなまめかしいところが良い。ディズニー・プロダクションの技術があったればこそである。
早速僕はビデオを探してまわった。字幕スーパー版がなかなか見つからない。日本語吹替版なら割と出回っているが、あの顔で日本語をペラペラしゃべられてしまうとどうも雰囲気が損なわれる。無論、何も手を加えていない英語オリジナル版は、言葉がわからないからその時点でアウト。ようやく見つけたのは、新古品のアダルトものを主に扱う店だった。
『白雪姫』を手に取ってレジに向かうと、レジのオヤジが機嫌良さそうに話しかけてきた。
「いやあ。こんなの売れるの、何年ぶりかなぁ。お子さんにですか」
そう。子どもが見る。僕の中にいる、小さい頃の僕と、三十歳を越えてもまだ作家になる夢を捨てられない僕の、二人の子どもが見る。
店を出るとき、オヤジに声を掛けられた。
「レシート、なくさないで下さい。何しろ何年か振りに売れたやつでしょう。動かないと困るから」
ビデオはちゃんと映った。最後まで、きれいに。
この話にはもう少し続きがある。店を出たところで、まずいことになった。タイミング悪く、会社の後輩の女の子とばったり出くわし声を掛けられたのだ。しかも手には、ビニール袋に入ったビデオ・カセットがぶら下がっている。
幸い彼女は、僕がどんな店から出てきたのか気付いていない様子で、その後もエロビデオ屋にいたなんて話はどこからも出ない。
或いは哀れみの気持で、不問に臥したのかも知れない。
『ベンジャミン』に『白雪姫』をだぶらせる構想を、小説の師に話したらこんなアドバイスを頂いた。
「僕は『眠れる森の美女』が大好きでね。特にテーマ曲は最高の出来だと思うよ」
普段、師のアドバイスには素直に従う。しかしこのアドバイスを今回は流すことにする。何しろ、そのテーマ曲が問題だったからだ。
僕は『ベンジャミン』の中で、何回も『白雪姫』のテーマ曲『いつか王子様が(Someday My Prince will Come)』を流すつもりだからだ。例えばビル・エヴァンス・トリオによる「コンセクレーション・ザ・ラスト」の一曲。例えばマイルス・デイヴィスによる同名のアルバムからの一篇。
試しに主人公のストーカーが喫茶店でBGMに耳を傾けるシーンで使ってみる。
同じ音を何度も何度も規則正しいテンポで弾き出すストリング・ベース。遠慮がちにイントロを奏でる小気味の良いピアノの奥から、突然か細く甲高い、神経質そうなミュート・トランペットが彼の鼓膜を突き抜けて脳髄の奥深くに突き刺さる。ミュート・トランペットは指遣いのたどたどしさを更に加えながら独特の、間の多いインプロヴィゼーションを重ねる。
(ここで彼の回想か何かが入る)。
未来永劫続くかと思われたラッパのソロが終わり、少し間を置いて、追うようにテナー・サックスのソロが始まった。木のテナーだ。湿り気の多い音色。ややブレを起しそうな音程で、中音域を中心に展開する。そう言えばテナー・サックスは木管楽器だったんだな。テナー・ソロのクライマックスにぴたりと合わせて、鍵盤の上で転がる指が見えてきた。明るく屈託のないピアノ・ソロ。脳髄の奥の、痺れた感覚が段々と溶けていく。しかしそれも束の間、ピアノがブロック・コードを力強く叩いた後、再びあの女の啜り泣くようなミュート・トランペットがテーマを吹き上げる。
いつまで待っても王子様はやって来ない。白雪姫は泣いている。
(ヘルス嬢のことを思い浮かべても良い)。
悲しい調べが終わり、この曲も終わろうとしたその刹那、鋼のテナーを振りかざして暴れる男が飛び出してきた。誰も暴れているこの男をとめることができない。彼は鋼のテナー・サックスを見境なく振りかざす。白雪姫が殺される。白雪姫が切り刻まれる。
このフレーズ、なんかこのまま使えそうな気がしてきた。
万が一『ベンジャミン』が映画化されることがあれば、ストーカーの主人公がヘルス嬢を刺すシーンではマイルス・デイヴィスの『いつか王子様』を、あのラストのコルトレーンのソロをBGMに使って欲しい。実はこんな大それたことまで考えているのだ。
小説の師からすすめられた『眠れる森の美女』もビデオを手に入れて、見た。
新潮文庫のグリム童話集を読んだ。驚いた。白雪姫は死んでいた。王子様が白雪姫の亡骸の入ったガラスの棺を七人の小人に無理矢理ねだってようやく譲り受け、持って帰る途中、この棺を担いた召使いたちが潅木につまづいた拍子に、白雪姫が咽喉に詰まっていた毒リンゴを吐き出し生き返るのだ。色気も何もあったものではない。
更に吉原高志・吉原素子編訳『ベスト・セレクション 初版グリム童話集』ではまた少し違うのだ。ガラスの棺を七人の小人から譲り受けるところまでは同じ。しかし、その後が凄い。王子様はどこへ行くにも、何をするにも白雪姫がいなくては駄目で、召使いたちに棺をも担いで持って来させる。あるとき召使いの一人が、腹を立てて白雪姫を棺から出し背中を殴ると、咽喉から毒リンゴの芯を吐き出して生き返ると言う展開なのだ。
王子様がネクロフィリア(死姦・死体嗜好症)の駄目男でこの結末では、まるっきりのスラップスティックではないか。
子どもに読んで聞かせるのなら講談社絵本の方が良い。キスで甦る方が良い。
幼い頃からドリフのコントみたいなドタバタばかり見て育つと、僕のようなろくでなしになる。
人生には、必要な嘘もある。
実は初版グリム童話の『白雪姫』で『ベンジャミン』のラストシーンを思いついた。途中で気が変わるかも知れない。そのままで行くにしても、本当にラストシーンに辿り着くまで絶対に書かない。
書けない。
良く考えてみたら『古事記』のイザナギ神話に似ているような気がする。黄泉の国からイザナミを連れて帰ってくる件が無意識のうちに働いたのかも知れない。
第二次世界大戦に敗れ神話を奪われた国が、文化的な意味で国家と呼びうるだろうか。故・中上健次氏や、最近はひどい勘違いをして方向を思い切り間違えているようだが大江健三郎氏は、大米合衆国の手で奪い去られた神話を取り戻そうと奮闘した。笙野頼子氏はユング的なアプローチから無意識をそれぞれ描き、現代的に神話を再生さる試みを続けている。
柳美里氏は『ゴールドラッシュ』で次代の神話を生み出そうとしたように思われる。
『ベンジャミン』は柳氏の試みを追いたがっている。神話なき時代の神話にしてくれと僕にだだをこねている。神話を持たないが故に大人になり切れない者たちの悲鳴が生む、新しい神話に向かって歩き出している。
果して僕は最後まで、この作品に正面から向き合っていられるだろうか。僕に書く資格があるのだろうか。
ストーカーの犯す殺人は断じて「単なる人殺し」ではない。「再生」の心的意味を失った成人の儀式(イニシエーション)なのだ。
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