その2
柳美里氏が『ゴールドラッシュ』を書いた。それだけで充分だった。何かをかこうとする動機にはこれで充分過ぎる程である。当然買って、読んだ。
十四歳の少年が、祖父が始めたパチンコ屋の事業拡大を成功させた父親を殺すというストーリーである。読ませどころは、無論、少年の殺人シーンにあるのではなくて、父親殺しに至る経緯と、父親を殺してから自首するまでの少年の心の葛藤にある。だが僕が興味を惹かれたのは、主人公の少年ではなく、彼に自首を決心させた響子という女性の存在だった。
彼女の父はギャンブルで身を持ち崩し妻に逃げられた元技術者で、少年の父が経営するパチンコ屋の従業員だったが、店の金に手を着けた疑いをかけられ、自殺する。残された響子と妹の晴子は養護施設に入れられた。
彼女はそこで十三歳のとき、同じ施設の少年たちに輪姦され、妊娠する。施設の園長にこの話をすると、すぐさま病院に連れて行かれ、堕胎させられた。死のうと、輪姦された物置小屋に首吊用のロープを張ったが彼女はそこに首を通すことができなかった。
つまり少年は彼女の仇になるのだが、響子は少年の家で父親に隠れながら家政婦をし、しかも最後には命を賭して少年を救う、すなわち自首を決意させることになる。
「わたしを信じて。なにかを信じなければ生きていけないと思うの。宗教じゃなかったら、だれかを。だれかひとりを」
少年を救おうとする響子の叫びが、僕に決心させた。主人公に尽きまわされ、最後には刺し殺される女をヘルス嬢にすることを。彼女が自ら望んで彼に刺されることを。
追われる女性が性風俗産業に身を置いているという設定は前々から考えていた。ロンドンに留学中の女友達から、それは僕の欲求不満に由来する発想ではないかと指摘を受けた。確かに性的なものも含めて、欲求不満は溜っている。間違いはない。しかし、発想の減点はもう少し遠回りしている。
要するにストーカーとはコミュニケーション不全の人間がなるものである。自分が好きになった相手にその思いを上手く伝えられなかったり、よしんば伝えられたとしても拒絶の後、どうやって自分に振り向いてもらえるようになるか、その手段もわからず、さりとて諦めもできない人種なのだ。彼らの根底には、拒絶の恐ろしさと、頑張れば何とかなるという思いが、しぶとく横たわっている。
そしてあるタイプのストーカーは無意識のうちに何とかなりそうな人間をストーキングの標的に選ぶ。男性なら清純無垢に見えるいかにも男を知らなさそうな女性を選ぶ。
実はその女性に男がいるとわかったら、彼はどれほど期待を裏切られるだろう。ましてや性風俗産業に従事しているとしたら。
それだけでも彼には刺す理由になるのではないか。
ファッションヘルスに決めたのは、実に単純な理由だ。性風俗産業の業種別内訳で最大のシェアを閉めているからだ。SMクラブはちょっと僕にとってきつい設定だし、ピンサロはいささか優雅さに欠ける。イメクラもSMクラブと同様の理由で除外。ホテトルやデートクラブも考えたが、こちらは私生活、金銭抜きで男の相手をさせるようにしたい。無論、主人公のストーカーにその現場を目撃させて、突き落としてやるためである。
ソープは最初から考えなかった。主人公に想定しているようなタイプの人間は、普通の性交に対して極度に怯えの感情を抱いている筈だ。だからソープランドには行かないだろう。
僕はどうしても、主人公を一度だけ、彼女の働く店に行かせたい。ヘルスは、ちょっと立ち寄ってみようと思えば比較的簡単に入れるし、本物の性交はしない。何とか一回きりなら、主人公も客になれそうな気がするのだ。
そう、ヘルスでの本番は御法度だった。エピソードが一つできた。これは作品まで、書かない。
ほぼ時を同じくして、素晴らしい本に巡り会った。小谷野敦『もてない男』である。
誰が俺のことを書いたんだ?と思ってしまった。あまりにストレートなタイトルに負けて、あっさりと手に取ってレジに向った。家に帰り「まえがき」を読んで「勝った」と思った。
「私がもっぱら考えていたのは、好きな女性から相手にしてもらえない、というような男だったのである」まさにこの小説の主人公、ストーカーの男そのままではないか。
さらには「好きでもない女百人とセックスしてももてるとは言えない、という立場に私は立っている」とまで言っている。こちらは女の方にあてはめたい。
結局は二人とも、寂しいのである。
本当にあっという間に読み終えてしまった。しかも僕が小説で書こうとしたことをあらかた書き尽くされてしまった。思い切り良く要約してしまえば「あとがき」の一説とほぼ同じ内容になってしまうのではないか。少々長くなるが引用する。
恋愛と私たちが呼び習わしている感情は、ある程度の文明ならどこにでもある、というのが私の考えだ。近代における「恋愛」が特異だとすれば、それが、恋愛は誰にでも可能であり、さらにはそれのできない者は不健全だといったデマゴギーを流布させた点にある。
「ストーカー」という言葉の定義は明確ではない。狭くは、面識もない相手を追い回すものと定義できるが、秘録は、面識のある相手を追い回してもストーカーと呼ばれるらしい。前者が異常だとしても、後者はぜんたい「罪」なのか。そのことを私は考えた。
結論はこうである。恋愛は誰にでもできる、という「嘘」が、恋愛のできない者を焦慮に追い立て、ストーカーを生むのである。だから、恋愛を礼賛する者たちに、ストーカーを非難する資格はない。「恋愛なんか愚劣だからやめておけ」と言える者にして初めてストーカーを非難する資格があるのである。これを要するに、資格もないのに人をストーカー呼ばわりして得意がる連中が許せない(傍線霧小舎)。
僕はまだ名もない長編小説中で、主人公を非難するつもりも礼讃するつもりも毛頭ない。「何故ストーカーなんて愚劣な連中を非難しないのか」と問われれば、この引用を見せることにする。ストーカーとそれを非難する恋愛礼讃者のどちらがより愚劣かというだけの話で、どちらにしても愚劣なのには変りない。
ただ、後者は数で圧倒的に勝る分、狡猾に立ち回れるとだけ言っておきたい。
もう一つ、作品のヒントになった記述を引用しておく。これでかなり主人公の顔がはっきりしてきた。
セックスできない男がかわいそうなのは、セックスの快楽を教授できないからかわいそうというより、セックスの悦びが物凄いものであるように幻想してしまうからかわいそうだ、と言うべきなのだ。
彼には是非、この幻想を持ってもらわなくてはならない。そのためには、女にもかなり協力してもらうつもりだ。
主人公のストーカーを性的な妄想で苦しめるとなると、彼に刺される女の物語に対する比重が大きくなる。もう一人の主人公と呼べるかも知れない。ましてや自ら望んで刺されようというのである。それなりの理由が、彼女の側にもなくてはならない。
『ゴールドラッシュ』の響子は彼女の生い立ちをかいつまんで説明することができた。絶妙のタイミングでもあったし、また主人公の少年が単独で主役であり続けられたから、彼女の位置付けはそれで成功している。
今現在、僕の書こうとしている作品では、女の存在が大きくなり過ぎてしまった。別の方法を考えなければならない。
男の方は、少年時代からストーカーになって女を刺すまでの半生を描くつもりでいた。
女の方も、そうせざるを得ないだろう。
例えば物語の前半を男ばかり、後半を女ばかりにしても、きっと僕の手に余ることになる。物語が二つバラバラに出来てしまい、実験的にはなるだろうが、僕の筆の力ではまとめ切る自信がない。逆にエピソードを小間切れにして交互に主役を張ってもらったらどうか。こちらの方がまだしも僕のスタイルに合っているような気がする。
構成の基本はこれで決まった。
一つ大切なことを忘れてはいまいか。そう。この物語にはまだ題名が付いていない。『我が輩は猫である』でもあるまい。「名前はまだない」では済まなくなってきた。小松左京氏の小説に『題未定』という傑作があった。しかし僕の物語とはあまりにも性格が違い過ぎる。
早くタイトルだけでも決めておきたい。
丁度そんなとき、おみっちゃんに別の用件で電話をかけた。前々から長編小説の構想だけは話しておいたので、ついでにタイトルの相談にも乗ってもらった。二人の人生を交互に、まるでからみつくような描き方がしたい。それがタイトルのヒントにならないか。
「『ベンジャミン』なんてどうかな」
「え?」僕には何のことだかわからない。
「ほら、観葉植物で、二本が二重螺旋になって、他の木にからみつく、あれ」
なる程、良い線行ってる。
「でもねぇ、これだと『ベンジャミン伊東』みたいになっちゃうよねぇ」おみっちゃんは時分の考えに否定的に言った。ところがこのタイトルが僕の心を大きく傾けた。伊東四郎の演じたベンジャミン伊東は僕達の間で符丁にすれば良い。このダサさが秘められているところが、何とも僕の好みだ。
おみっちゃんは僕が小説を書き始めた頃からの読者だ。
電話を切って早速『広辞苑』を引いてみる。
「ベンジャミン【benjamin】クワ科イチジク属の常緑小高木の通称。名は種小名ben-yaminaに由来。インドの原産。枝は淡褐色で平滑、光沢があり、軟弱でよく捻れる。葉は互生、小形の楕円形で硬質。観葉植物として鉢植えにする。シダレガジュマル。ベンジャミンゴムノキ」
決まった。
先に、ヒロインがヘルス嬢という設定は僕の欲求不満の現れだとする友人の指摘を紹介した。そしてこの設定には直接あてはまらなかったが、欲求不満は事実であることも書いた。実は別のところで欲求充足を目論んでいるのだ。
その欲求とは、近親相姦である。僕は姉との近親相姦願望を強く持っている。いや、別に肉体関係はなくても良い。ただ、姉にべったりとまとわりついて、甘えてみたい。姉の膝枕で昼寝がしたい。姉に抱っこされて、胸の中で一晩眠ってみたい。母でも妹でもなく、姉でなくては駄目なのだ。
しかしこの願望は一生叶えることができない。法律を破ろうと神罰に背を向けようと、絶対にできない。何故なら、僕は一人っ子なのだ。
僕のこの願望を『ベンジャミン』では少し形を変えて実現させる。そのままだときっと生々しくなるだろう。ではどう変えるか。
ストーカーに刺されるヒロインに兄がいることにする。彼女幼い頃からずっと兄に憧れていた。成績優秀でサッカー部のキャプテン、人気者である。彼女は中学生、兄は高校生にしよう。彼女は無論、美人でなければならない。
彼女には言い寄ってくる同級生が幼稚に見えてたまらない。いつも兄を見詰め、理想化しているからだ。両親のいないある夜、彼女は兄の部屋に入り、寂しいと言って添い寝をしてもらう。そして兄のベッドの中で、兄の性衝動のままに、肉体関係を持ってしまう。
しかし二人の関係はいつまでも続かない。兄は大学に入り、家を出る。
入学当初は足繁く実家に戻ってくるが、やがてだんだんと足が遠のく。恋人ができたのだ。こうして彼女は兄に裏切られる。
主人公のストーカーも、兄と同い年にする。
人気者の兄と、ストーカーの主人公の対比が、何かの伏線になるような気がする。
そう、ヘルス嬢のヒロインは自ら進んで刺される。まったく別の人間だが、彼女は彼に兄の姿を重ね合わせて見るようにはできないか。自分を捨てて裏切った兄からもう一度、刺し殺されることによって裏切られる。或いは、共に罪を犯した兄から罰を受ける。
彼女が最終的にそう考えるようになるのは、それ程無理なこととは思えない。
これで次の課題が見えてきた。
まずはストーカーについて調べること。これは主人公をストーカーに設定したときからやらねばならないことだ。何を今更という気もする。
次に、風俗状がどうして性風俗産業に身を置くことになったのか。その間に風俗会の仕組まで調べておかなくてはならないだろう。或いは風俗をサブカルチャーとして捉えて、サブカルチャー全般を調べてみる必要があるかも知れない。
そこから現代の若者の姿を、僕なりに垣間見ることができそうだ。他の登場人物のことも考えて、若者の問題行動に関する本も読んでおいた方が良い。つまり、その年代が抱える特有の問題が最も直接に現れるのが、問題行動だからだ。
さっき僕は一人っ子だと書いた。実は妹が一人いる。血のつながりもなければ、一緒に住んだこともない。幼馴染みがお互い兄妹のように思えてきた、と考えていただければ良いと思う。しょっちゅう二人で遊びに出掛け、よく真夜中過ぎに立ち寄るバーでは、つい最近まで恋人同士と間違われていた。
無論、二人の間には肉体関係はない。仲間内から、妹が素っ裸で寝てたら「風邪ひくぞ」と僕が毛布をかけてやると馬鹿にされているくらいだ。実際その場面を想像してみる。皆、僕のことをよく知っている。
妹には本物の恋人がいる。彼と僕と間違われるのが鬱陶しいらしく、愚痴をこぼしたので
「大丈夫だよ、お前の裸を見ても立ちゃしないから」
と言ってやったら思いきり向こう脛を蹴飛ばされた。
女心は難しい。
妹も、秋には嫁に行く。
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