物語は既に始まっている。
ストーカーの男が、追い回していた女を刺し殺すというストーリーの構想を得た。多分「あとがき」が必要になるだろう。そういうことだけは、着想と同時にピンと来る。
僕は小説の「あとがき」が嫌いだ。その作品の読み方を強要されているような気がする。一度、作家の手から離れてしまえば、あとはどう読まれても良い筈だ。自分の読み方を見つけ、それを磨いたり、微調整なり新しい読み方を発見したり、或いは作品によって読み方を使い分けたり、それが読書人の楽しみだろう。その楽しみを奪う権利は、作家にはない。筒井康隆『虚航船団の逆襲』は例外中の例外で、あれはむしろスカタンな批評を繰り返し、読者から楽しみを奪おうとした文芸評論家を相手にした反撃であって、一般の読者にはあなたの好きなように読んで下さい、と言っているように思える。
読書人から楽しみを奪う権利は、評論家にももちろん、ない。
また、作品の背景とか、あそこでああ書いたのはこうだったからだとか、作品を書き上げた感想などが書かれている場合もある。それならなぜ、そのことを作品中に描けなかったのか。自分の不手際を言い訳するみたいでみっともない。
問題は謝辞である。
よく編集担当者への謝辞を目にするが、あれは要らない。編集者はそれが仕事なのだから。良い作品を書いて渡せば、それで良いのだと思う。
師匠、先輩、身内の人間などへも、みっともない。
外国(欧米)作品のように、物語が始まる前だったら恰好良い。
僕が今、一番困っているのは着想のネタを含め、取材に協力して下さった方々だ。基本的には、良い作品を残せばそれで構わないと思う。それでも気が済まなければ、外国作品の真似をしても良いかも知れない。ただそれだと、人数が多い場合に困ってしまう。
物語が始まるまでに、知らない人の名前をズラズラ並べられて読まされる方は(当人がそこに載っていない限り)たまったものではないだろう。
さっき「『あとがき』が必要になる」と言ったのはこの意味である。
何人も何人も、とにかく沢山の方々のご協力がなければきっと困ってしまって、最後まで書き続けることは出来ないだろう。こういうことだけは、着想の段階で勘が働く。
「あとがき」なんて野暮なものは書きたくない。でも、このまだ名もない作品の執筆にあたってご協力いただいた方々にはきちんとお名前をお出ししてお礼を申し上げたい。苦し紛れに思い付いたのが、創作ノートの公開である。
これなら実際にどんな取材をしてどんな材料を提供して下さったか、或いはどんな点でアドバイスや批評・批判を頂戴したかを皆さんに知って頂けるし、またそこでどれほど助けられたかを好きなだけ書くことができる。
加えて、僕と言う人間が一辺の小説をものするのにどれだけ右往左往したか、そのドタバタ振りも楽しんで頂けよう。
僕としては一石二鳥である。
ちなみに「あとがき」は嫌いと言ったが、筒井康隆『馬の首風雲録』の「あとがき」は面白い。それから新田次郎『聖職の碑』の「取材ノート」も是非読んで頂きたい。ノンフィクション小説(という言葉が矛盾しないか心配だが)でありながら途中、雷神が現れる場面がある。その場面を書かざるを得なくなった経緯と作者の気持が真実見事に表れていて感動を覚える。
ところで、世の中に文章読本とか小説作法の本はあまた見かけるが、話題作や名作の創作ノートが出ないのは何故だろう。「書く」という作業、とりわけ長編小説の場合は意識的な部分が多く意識的な計算の余地が少ないのはわかっている。それでもパッと思い付いたアイディアやフレーズをどう使ったか、或いは何故使わなかったか、小説の構想を得た経緯などを公開してもらえれば、それが生きた教材になって後進への良い教科書となるに違いない。少なくとも僕のようなどこの馬の骨ともわからないやつのすることではないような気がする。
大作家たちの怠慢ではなかろうか。
もしかしたら、そういうものを読んで成長した若い書き手がまったく新しいタイプの作品を書いて追い抜かれるのを恐れているのかも知れない。
筒井康隆氏や丸谷才一氏が作ってくれたら、さぞ面白いものになるだろう。
少なくとも僕はすぐに飛びつく筈だ。
僕の知る限り、かなり近いことをした先達は、確かにいる。筒井康隆氏は超虚構小説『虚人たち』を執筆するにあたってその方法論や手法、問題点を『虚航と現実』というエッセイにまとめ発表し、これから手掛けようとする小説の検証を行った。
大江健三郎氏は『新しい文学のために』で『燃えあがる緑の樹』三部作の構想を仄めかしているし、更には『燃えあがる緑の樹』では過去の自作(『治療塔惑星』等)の解説までつけている(こういう「過去の」自作解説は先に書いた通り強く疑問を持ってはいるが)。
カート・ヴォネガット氏は一度書いた『タイムクエイク』の出来が気に入らないとオクラ入りにし、これを再構築して同名のメタ・フィクション小説に仕立て上げた。けだし圧巻である。発表された『タイムクエイク』中で『タイムクエイク1』としているオリジナルのどこが気に入らないのかわからないが、作者のヴォネガット氏自身が『タイムクエイク1』や『タイムクエイク2』(すなわち発表された『タイムクエイク』)の中に入って、字ずからアクターとなって動いてみたり、部分部分を検証してみたり、或いは作品を外から批評してみたりと八面六臂の大活躍をする。
そう、こういう小説やエッセイの存在を知っていて、僕は自分の創作ノートを公開しようとしている。他にもまだあるかも知れない。ただ、ちょっと物知顔な連中に「××の猿真似」と得意満面の笑みを浮べて指摘されるのが嫌だから、あらかじめネタを明かしておくことにする。
猿真似でどこがいけない。
一つ忘れないで欲しいことがある。僕が日常生活の中で普通に話し、こうして書く言葉はすべて、両親の猿真似から始まった。
まだ名もない長編小説が思い浮んだときのことを書く。
いつもの通り会社から帰り夕食を済ませ風呂から上がると、居間のテレビ画面にキャスターの筑紫哲也氏と作家の柳美里氏が映っていた。この二人は一昨年の夏、高校生との討論会で参加者の生徒の一人から「何故人を殺してはいけないのか」と疑問をぶつけられて、答えに窮していた。柳氏は一年半の歳月をかけて答えを求めるべく、六百枚の作品に取組んだ。その答えが『ゴールドラッシュ』に実を結んだのである。
『ゴールドラッシュ』のきっかけとなった討論会を僕はテレビで見ていたし、例の問が発せられた場面もちゃんと覚えている。何故人を殺してはいけないのか。或いはこの問を声に出した高校生は「人殺しより重い罪がある」ことを知っていたのではないか。それは何だろう。そのとき、ストーカーが自分の追い回していた女を刺し殺すというストーリーが頭を過った。
何故ストーカーなのか。それは今でもわからない。ただ、作品として取り上げるに十分な何かだけは感じられた。
僕は小説を書くとき、一つの制約を自分自身に課している。主人公がヒーローでないこと。ストーカーはヒーローにならない。
なり得ない。
ヒーローとは何だろう。『広辞苑』第五版を引いてみる。
「ヒーロー【hero】@英雄。英傑。A人気者。立役者。B小説・物語・戯曲などの男の主人公。⇔ヒロイン」
ついでに「英雄」は「文武の才の特にすぐれた人物。実力が優越し、非才な事業をなしとげる人」なのだそうだ。
実はヒーローが活躍して事件を解決したり、大冒険を繰り広げて大円団に至る物語が嫌いである。いや、悲劇でも構わない。とにかく苦手なのだ。得にヒーローのスケールが小さい場合、すなわち実力の優越の仕方がわれわれを少し上回る程度というのが気に入らない。
実際、最近の漫画やSF、ミステリーの主人公のほとんどがこのミニヒーローではないか。シリーズものなど決まりごとのようになっている気さえする。正確なところはわからない。ここ何年間かはそういうものを避けて読んできたような気がするので、単なる思い過ごしかも知れない。
ただし、ミニヒーローを主人公に設定すると人気が出やすくなるなるという根拠はある。読者が少しだけ自我を肥大させれば、そのままヒーローであるところの主人公に簡単に感情移入できてしまうのだ。そして自分が主人公になって、敵を倒し、難事件を解決し、新しい仲間を迎え入れ、再び冒険へと旅立つ。現実には読者はただ本を読んでいるだけなのだが、心はもうヒーローである。
本を閉じてもそれは現実に戻りキルまで何分か何時間かは持続できる。実に気分が良い。だからもう一度読み返す。或いはシリーズの別巻を読む。或いは同じ作家の作品に夢中になる。
繰り返して言う。僕はこういうヒーローが嫌いだ。彼らは傷付いた仲間を励ますため、または(作家の設定した)悪の道から(やはり作家の設定した)主人公の正義に呼び戻すため、実に過激な発言をする。日常生活なら喧嘩になること請合いである。実際、主人公とその仲間は彼の一言が元で喧嘩別れすることもある。しかしなじられた方は、やがて(しつこいようだが作家の設定した)間違いに気付き、再び主人公に協力し以前にも増して涙が出るような固い友情で結ばれる。
こういうヒーローが身近にいたらどうだろう。僕は御免蒙りたい。
これに近い存在はどこにでもいた筈だ。得に、小学校や中学校にはクラスに一人、が大袈裟ならば学年に一人は必ずいた筈である。勉強もスポーツもそこそこ出来て、皆に親切で、ものの見方が公平で、正義感が強く、人気者でみんなと仲良し、教師からの信頼も厚い。クラス委員や班長を決めるとき必ず推薦される、戦後民主主義教育の代表選手みたいな奴。教師から「みんな彼(彼女)を見習うように」と言われるような奴。
残念ながら僕はこうした人種と馬が合わなかった。彼らの親切が、実に鬱陶しかった。幼い頃から個人志向で「皆で仲良く」なんて糞食らえと思っている。要するに協調性がないのだ。
これではクラス委員と馬が合うはずもない。
例えば彼と僕が同じ旗印を掲げてクラス委員選挙で立候補し、同じことを演説で訴えるとしよう。何でも良い。「明るいクラス作り」なんてどうか。僕が演壇に立って皆に語りかける。クラス中が静まり返る。
「何言ってんだよ。何も出来ないくせに」
「どうせ口先だけだよ。具体性がないもん」
彼の番になる。皆、身を乗り出して聴き入る。少なくとも僕のときよりは真面目に聞く。一通り話が終ると拍手とともに手が挙がる。
「はい、○○君はとても良いことを言ったと思います」
「○○君に協力したいと思います」
「○○君ならできると思います」
これで僕のプライドがびりびりに引き裂かれる。彼に対して嫉妬と恨みと反抗心しか生まれなくなる。そしてどんどん、なりたい筈の人気者の地位から離れていく。
話は続く。
一通りの応援が終った後、彼は皆に向かって怒るのである。
「霧小舎君だって僕と同じことを言ってたじゃないか。僕のときには良いことって言って、霧小舎君のときには何も言わないのはおかしいと思います」
万雷の拍手が起こる。彼はまた格を上げた。
僕はだんだん小さくなってそのまま消えてしまいたくなる。地に潜って、二度と出て来たくなくなる。許されるならそっと教室から抜け出して、もう二度と誰からも思い出して欲しくなくなる。
そんな気持を彼とともに理解できない教師は、我が意を得たりとばかりに得意顔で留めを刺してくれた。
「そうだぞ。これは人気投票じゃないんだから、二人の話の内容をよく聞いて考えなきゃ」
教師の手で人気番付が作られる。
ちなみに、「○○君」とした級友の徒名は「プリンス」だった。これ以上ぴったりの徒名があっただろうか。本人が厭がる徒名ほど、その人物を表すものはない。
いづれ彼の徒名がエピソードを生みそうな気がするのでここに書留めておく。
僕がヒーローを嫌う第一の理由は私怨である。己の恨み妬みで作品に制限を加えている。これが正しい方向、良い作品を生み出す方向かどうかはわからない。しかし僕は続けるつもりだ。それしか出来ないということもある。それに、その文章読本、小説作法にも「作品に対して私怨による制限を加えてはならない」と書いていない。
先程ヒーローが口にする「日常生活なら喧嘩になること請合い」な台詞について触れた。現実にこういう言葉を平気で口にする子ども、若者が増えてはしないか。何かの本で読んだのだが、ある場面で不適切な言動があるとまさに杓子定規に非難する子どもが増えているという。
心理学用語に「場面緘黙」というのがある。普段は全く普通にしゃべれるのだが、ある特定の場面、例えば学校の建物の中に入るとしゃべれなくなる現象のことである。これになぞらえれば「場面正義」だろうか。
息苦しいことこの上ない。少なくとも僕のまわりがこんな人間ばかりになったら、きっとどこかへ行方をくらますだろう。
「場面正義」の子どもが増えて来た要因は色々と考えられるだろうが、一つには漫画やTVアニメ、小説といった類いのマスメディアにおけるヒーローの扱いがあるのではないかと睨んでいる。
虚構の中での完結した世界なら作者の設定した正義を物語の図式にあてはめてすっきりと納まるのだろうが、今ここで僕が煙草を吸いながら物書きをしている現実世界では定規が一つではないのだ。
ヒーローが遂行する正義は物語の設定の中だからこそ同じ虚構ない存在の登場人物押し付けることが可能なのであって、現実世界では迷惑千万であることの方が多い。彼らには、多少なりとも虚構世界のヒーローの影響が残っているのだと思う。
僕も含めて誰にでもあるヒーロー願望をくすぐって「場面正義」を振りかざすミニヒーローを育てる片棒なんて、僕は担ぎたくない。これが第二の理由である。
良く考えて頂きたい。ヒーローばかりがうじゃうじゃしている世の中なんて、何が面白いものか。
第三の理由。ヒーローが活躍する物語に飽きた。ただそれだけのことだ。
ここで僕の考える虚構内のヒーロー像を整理してみたい。
ストーカーに入り込める余地があるだろうか。
第四の理由。僕は人気者であったことがない。今でもはっきりと違うと胸を張れる。人気者に劣等感と嫉妬、憎しみすら抱いている男に、ヒーローが大活躍する物語を書けると思うだろうか。
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