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                         感動の旅 南部アフリカ (2012年3月)  
             小さな楽園マルタ共和国 (2011年11月)
             神秘の国ブータン(2011年8月)
             癒しの国ポルトガル縦断の旅 (2010年11月)            
              メキシコ6大世界遺産の旅 (2010年6月)
             花のオランダとおとぎの国ベルギー(2007年3月)

                         フランス古城の旅 (2008年12月30日)



感動の旅 南部アフリカ                 

 今回は、世界中旅行している友の「アフリカも、ええよ!」の一言から選んだ
 南部アフリカです。今ままでに出かけた国々と違い南部アフリカは、
 まさに未知なる大地=大自然との出会いの旅でした。

 南アフリカ共和国・ジンバブエ共和国・ボツワナ共和国の3カ国に  
 足を踏み入れたことになりますが、8日間の旅行(2012年3月9日)といっても
 正味5日間(下・飛行時間参照)の観光です。
 それも飛行機や観光バスでの移動でその国々を見たとはいえないでしょう。
 しかしこの5日間は、天候にも恵まれ、実に今まで味わったことのない魅力溢れる
 感動の旅でした。
 参加者15名の気持ちのよいツアー客と気心知った優しい友人と
 気配り満点のベテラン添乗員とガイドさん。
 少し心配していた食事も、さすがに世界中から観光客が訪れる所だけあり、
 アフリカンバーベキュー・中華料理・イタリア料理・シーフードとさまざまで、
  内には肥ってしまうと嬉しい悲鳴を上げている人もいたほどです。
  南部アフリカは、南半球にあるため、日本と季節が逆転して10月~3月が夏期になるので、
  今年の真冬のような寒い東京の3月から、真夏のアフリカで、服装などの調節に困りました。
  しかし日本・東京の猛暑と違い、雨が少なく乾燥しているので日陰は涼しく、一年を通じて温暖ということで、
  ケープ半島では、避寒客そして避暑客で賑わうという事です。
  また日照時間が世界一長い所です。


南アフリカ航空
  喜望峰
 ビクトリアの滝
エレファントサファリ

   日本からの直行便は無く成田→香港(飛行時間約5時間)待ち時間約3時間
            香港→ヨハネスブルグ(約13時間半)待ち時間約3時間
            ヨハネスブルグ→ケープタウン(約2時間10分)
  ゆとりを持って自宅を出発してから計29時間40分後にケープタウン着

  香港から利用した南アフリカ航空は、サービスもよく安心して乗っていられたのですが、
  行きも帰りも飛行寸前に防虫剤を撒かれ(しかもその匂いが強烈)閉口でした。
  事前に添乗員さんから話は聞かされていたのですが、旅行の興奮と13時間以上の飛行の準備
 (靴を履き替え、少しでも寝心地をよくするための下準備など)で2度とも防虫剤に先を越され、
  強烈な匂いがしばらく身から離れず困りました。
  また機内は冷房の効きすぎで寒くて震えるほどでした。
  アフリカや欧米の人たちは、体格がよいためか日差しにも強く寒さにも強いのでしょうね。
  寒い機内を、半そでで居る人もいて、南部アフリカでは、写真でも見られるように日本人の
  ほとんどが、強い日差し除けに長袖長ズボン、首には布を巻きしていたのに、外国人は
  平気で肌を露出している人がほとんどでした。
  もちろん私たちが着ていた肌が露出しない長袖上着・ショールなどは、虫除け対策の一つでも
  ありましたけれど。

*南アフリカ共和国 :
   面積 日本の約3.2倍
  首都3つ 行政府;プレトリア 立法府;ケープタウン 司法府;ブルームフォンテン
  歴史  1910年イギリスは、南アフリカ連邦を自治領として独立させる。
      アパルトヘイト(人種隔離)体制を国際社会から非難され、
      1961年イギリス連邦を脱退し共和国となる。
 [観光] ;ケープ半島(「喜望峰」・「(オットセイの島)ドイカー島」「(野生ペンギンの)ボルダーズビーチ」・
       テーブルマウンテン

*ボツワナ共和国 :
     面積  日本の約1.5倍
     首都  ハボロネ 
     独立  1966年
    [観光]   チョベ国立公園(サファリドライブとボートサファリ=チョべ川)

*ジンバブエ共和国 :
     面積  日本の約1.03倍
     首都  ハラレ 
     独立  かっては南ローデシア(1965年)と呼ばれていた。
               1980年ジンバブエ共和国として独立     
    [観光]   ザンベジ川・サンセットクルーズ
            世界遺産ビクトリアの滝(ジンバブエ側から遊歩道とヘリコプター遊覧飛行)
             エレファントバックサファリ(サバンナをゾウの背に揺られながら)

3カ国の国旗(*) 南アフリカ共和国 ボツワナ共和国 ジンバブエ共和国

(*)国旗の意味や由来など
  (左)南アフリカ  ”Y””V”の字が横になった形は、ビクトリーからとりさまざまな人種や民族の協調・
     統合の前進を表し、白と黒は、白人と黒人の平等、赤は独立のための流血、緑・黄・青は、
     農業・鉱業・漁業の豊かさを表す。
  (中)ボツワナ   雨が少なく水資源が貴重なため、命を支える恵みの雨を象徴し、黒と白の線は、
     黒人と白人の協力で平等な社会を建設するの意
  (右)ジンバブエ   緑は農業の繁栄、黄は富、赤は独立の流血、黒は黒人国家の象徴、
     ジンバブエの鳥は平和のシンボル


ケープ半島
    ケープタウンから大陸最南西端の喜望峰まで。
   *アフリカ大陸の実際の最南端は喜望峰の南東150㎞にあるアグラス岬。

     
クロスのかかったテーブルマウンテン 雲ひとつ無いテーブルマウンテン   12使徒の山々

テーブルマウンテン ;岩盤でできた海抜1087mのこの山の頂上は、写真で見られるように平らなため
   このように云われる。この山の様子でケープタウンの天気が予測できる。
   山頂へは360度床が回転するロープウエイ(世界でも珍しいもの)で登ることが出来た。悪天候の場合運休。
   私たちの時は、前日から当日午前10時まで運休でしたがその後開通。(ラッキー)
* 「新・世界七不思議 自然部門」の一つに入っている。
   その他は、済州島(韓国)・イグアスの滝(ブラジル)・ハロン湾(ベトナム)・アマゾン熱帯雨林・
        コモド国立公園(インドネシア)・プエルト・プリンセサ(フィリピン)の7ヶ所。

     
世界的に珍しい回転するケーブルカー    テーブルマウンテンの頂上    山頂から

ドイカー島クルーズ  ;
   約2000頭のオットセイが生息している。
   港から約10分の所にあるが、ゆっくりと進むのでよく観察できる。波が荒く甲板に居ると濡れる。

ボルダーズ・ビーチ  ;
   アフリカペンギンが生息する。鳴き声がロバに似ている。卵を温めている親もいた。

     
 オットセイのドイカー島  現地の観光客と ペンギン生息のボルダーズ・ビーチ

喜望峰  ;
   灯台が建つ展望台は、ルック・アウト・ポイントと呼ばれ眼下に半島の最南端、ケープ・ポイントが見られる。
   喜望峰までは、遊歩道があるが意外に殺風景な所。
   「アフリカ大陸の最南西端」の標識がある。
   この岬は、つねに強風が吹き遭難船も多く当初は「嵐の岬」と名付けられたが、15~16世紀の
   ポルトガル国王マヌエル1世が、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見を記念し、ポルトガルに
   希望を与えるの意の「喜望峰」と命名。

     
展望台の標識  展望台から見える喜望峰  最南西端の標識

ビクトリアフォールズ  
   ケープタウンからヨハネスブルグ乗り継ぎ、ジンバブエ共和国のビクトリアフォールズへ。
   ジンバブエのビザを各自取得しなければならず長時間を要した。

     
飛行場 歓迎の人たちと 夕暮れ時

ザンベジ川クルーズ  ;
   
ザンベジ川は、アフリカ大陸第4の長さを有する。(* 他の3つ ナイル川・ザイール川・ニジェール川)
   アンゴラの奥地からザンビア西部を縦断、ジンバブエとザンビアの国境線を形成、モザンビーク海峡、
   インド洋へと注いでいる。
   その中流にビクトリアの滝がある。

     
ザンベジ川クルーズ   ザンベジ川   ワニが生息している

ビクトリアの滝  ;
   世界3大瀑布に数えられ(* 南米のイグアスの滝・北米のナイアガラの滝)
   1855年、イギリス人デビッド・リビングストンによって発見される。
   当時のイギリス女王の名を取り「ビクトリアの滝」と命名された。
   現地名は「雷鳴の轟く水煙」の意の「モシ・オア・トゥンヤ」。
   最大幅約1700m、最深の滝壺までの落差108m。
   全身ビニールのカッパとズボンで覆うも水煙でびっしょり、真夏の気温で内側も汗でびっしょり。
   しかし一見の価値大いにあり、感動。
 次の日はヘリコプターで空から見下ろす。幸運にも前の助手席を、あてがわれて最高!

     
デビルズ・キャタラクト メイン・フォールズ 橋の真ん中に国境がある

     
 ヘリコプターで 空から眺めたビクトリアの滝   虹がかかったビクトリア滝

チョべ国立公園  ;
   ボツワナ共和国にあるが、ジンバブエのビクトリア・フォールズから約1時間半。
   国境を越えるとき細菌防止の薄汚れた布の上を歩かせられる。

 オープンサファリカーで陸路と、チョベ川にてボートサファリ
   チョべ川はボツワナ最北部のチョべ国立公園への拠点となるカサネの町に沿って流れザンベジ川に
   合流するが川を挟んで4つの国(ボツワナ、ジンバブエ、ザンビア、ナミビア)に接している。

     
サファリカー バッファローと白サギ 海ワシ

エレファントサファリ  ;
    サバンナをゾウの背に揺られて

     
エレファントサファリ ご褒美のえさやり 母親を亡くし保護されたチーター

サファリでは、プック、インパラ、クドゥー、キリン、ハゲコウなどたくさんの動物や鳥が見られ、
   そしてゾウやバッファロの泥浴も見られた。皮膚の乾燥や虫除けのために、水浴びや泥浴びを行う。

  (下図)バオバブの木は、樹齢1千年といわれる大木。
  (左下)ビクトリアフォールズでの夕食は、アフリカンダンスショーを楽しみながらのアフリカンバーベキュー。
   お好みのさまざまな動物の肉を調理してくれます。
   イモムシを食べると証明書がもらえるのです。味はエビフライと似ていてその間に飲み込むと、ベターです。
   栄養値は、高いとのこと。

     
ケープの露天 バオバブの木 ダンスショーで太鼓

     
 バイキング料理  民族衣装をはおり  旅行客の親子と記念撮影

     
 喜望峰証明書  芋虫試食証明書  高山植物


                            2012年4月6日筆                         ページ先頭へ



小さな楽園マルタ共和国        

 2011年10月31日~11月6日、元昭和音大(短)ピアノ科の同僚と出かけたところです。

 約7000年の歴史が蓄積されている小さなマルタ共和国は、地図からも分かるように、
 地中海の中央部に位置しイタリア・シチリア島の南93km(フェリーで約1時間半)、
 アフリカ大陸のチュニジアに挟まれた5つの島(2つは無人島)からなり、
 総面積は、316k㎡、淡路島の約1/2、東京23区の半分ほどの大きさです。
 人口は、約41万人、ヨーロッパの中ではアイスランドに続いて2番目に少ない国。
 地中海性の温暖な気候で雨も少なく1年中しのぎ易く、各国から多くの人が訪れる
    洗練されたリゾート地となっています。 
 首都はバレッタ。
    イギリス連邦と欧州連合に加盟しています。
 言語は、マルタ語及び英語が公用語となっており日本から英語の勉強で留学する人も多いとのこと。
 宗教は、カトリック。
    2008年1月からユーロが導入され、観光業と半導体機器などの輸出で経済は安定しています。

   小型犬マルチーズの発祥の地で、マルチーズの名はマルタからきています。
   東西冷戦の終結を告げるマルタ会談の舞台にもなった国です。
   また世界で初めて海水から生活用水を生み出した島でもあります。
   泉も川も無く最高標高253mのためいつも水不足、そのため島全体に緑が少なく、水道水は、
   少し塩辛く感じられることは、否めないことです。

マルタ全景
マルサシュロックの港
名物の観光馬車(カロッチン)
「重力のファサード」の渦巻き

[歴史No.1]
 紀元前8000年(?)からの太古より巨石神殿文化があり海の向こうのエジプトのピラミッドより
 古い歴史を有することがあきらかになっており、小さなマルタ島は
 「地中海文明の源」と考えられています。
 その頃ヨーロッパには未だ文明もなくメソポタミア文明もエジプト文明も誕生していなかったのです。
 文字もなくマルタの巨石神殿群がどのように築かれ何のために造られたかは謎のままです。
 が神殿の中から数個の偶像が発見されており、神殿として使われていたというのが有力です。
 マルタの遺跡の石に渦巻き模様が刻まれており、ヨーロッパ北部の遺跡に残る同じ模様とが
 何らかの関連があるのではないかと考えられています。

 全くの余談ですが、
  この渦巻き模様で吾が亡き夫が制作した『重力のファサード』(左横写真下段)
 (群馬県桐生市の桐生第一高校・校庭)の天井部分に刻んだ渦巻き模様2個を思い出しました。

[歴史No.2] 古代フェニキア人(BC.1000~650年頃)、ギリシア人(BC.800年頃)、カルタゴ人
 (BC.650年頃)、ローマ人(BC.218年頃)、アラブ人(870年頃)、ノルマン人(1127年)、
  スペイン人(1479年)聖ヨハネ騎士団=後のマルタ騎士団)(1522年)トルコ人(1565年大包囲戦)
  フランス人(1798年)、イギリス人(1800年)など、多くの民族がマルタに押しよせます。
  1814年にイギリス領となり第一次世界大戦・第二次世界大戦を経て1964年イギリス連邦内で独立、
  1979年イギリス軍が撤退し独立国家となります。

マルタとは、フェニキア語の避難所の意でMalethに由来すると言われ、
 西暦60年にはキリスト教が伝わったといわれています。

 映画「マルタ島攻防戦」(1953年英国作品)の中でもいわれているように
  “戦いの歴史は5000年に及ぶがマルタは健在”です。

さーぁ!それでは、7日間の旅に出発しながら、悠久の歴史を刻むマルタ共和国を見て行きましょう。

  成田からエミレーツ航空でアラブ首長国連邦のドバイへ。乗継便で途中キプロスに寄り(機内待ち)マルタへ。
  東京―ドバイ約11時間半、待ち時間3時間、ドバイ―キプロス約3時間半、機内待ち約1時間(機内を徹底的に調べる)
  キプロス―マルタ約2時間   
  我が家を出てマルタ到着まで通しで約26時間経過。幸いに夜成田を発ったため少しは眠れたので、
  それほどの疲れは感じませんでしたが。

 
ドバイ空港ターミナル内  空港内 イムディーナ・城壁の町 静寂の町の真っすぐに延びた路地

静寂の街・イムディーナ

マルタ本島の真ん中辺りにあるこの町は、アラビア語で「城壁の町」の意。

[歴史No.3] 青銅時代にすでに砦があり、紀元前1000年には古代フェニキア人が城壁を巡らし、
  ローマ人は町を拡張し、870年には、アラブ人が堀を巡らし堀の外をラバト(写真下)とした。その後、
  ノルマン人支配下(1090~1194年)があり、1479年にスペイン支配下、1530~1532年の2年間に聖ヨハネ騎士団は
  町を整備し首都が置かれる。
  1565年のオスマン・トルコ軍の「大包囲戦」後、遷都(ヴァレッタへ)によりさびれていく。
  1693年、シチリア・マルタを襲った地震で被害をうける。復興後1798年には、ナポレオン率いるフランス軍が侵攻、
  多くの貴重な美術品が持ち出されます。

メイン・ゲート 3人の聖人の像 大聖堂内のクーポラの装飾

  バロック様式のメイン・ゲートは、騎士団長により1724年建造。騎士団の紋章が刻まれている。
  内部に聖パウロ(真ん中)、聖アガサら3人の像があり、パウロが蛇にかまれているが毒が回らなかったことから、
  マルタの蛇には毒が無いと云われている。又異説には、右側の女性の舌に毒が回ったためマルタの女性は、
  口が悪いとも云われている。

大聖堂 
  17世紀にマルタ人ガッファにより建造。内部はラテン十字型。

地下墓地の町ラバト  
  イムディーナの城壁の外に広がる町。870年アラブ人により分割された。
  町全体が地下墓地になっていると言われている。今は、現代的な町並みになっている。

聖パウロの地下墓地(カタコンベ)
  マルタ一番の規模で4~6世紀にキリスト教徒が埋葬された。
  「アガペ・テーブル」と言われる会葬者のお別れの食事をするところが残っている。

カタコンベ入口 地下墓地のアガペ・テーブル 名物のトロリーバス

ヴァレッタ 
  マルタ共和国の首都。1980年に世界遺産に登録される。

   1565年トルコ軍によるマルタ攻略の「大包囲戦」の勝利後、聖ヨハネ騎士団によって築かれた要塞都市。

[歴史No.4]
  聖ヨハネ騎士団の起源は、十字軍がエルサレムを占拠していた時代に遡り(1050年頃)ます。
  エルサレムでキリスト教巡礼者向けの宿舎兼療養所を開業。その後ローマ法王から騎士団として公認(1113年)
  キプロス、ロードス島と流転した後、1530年教皇からマルタ島を与えられ、移住します。
  そして聖ヨハネ騎士団は、マルタ騎士団と呼ばれるようになります。

 休日で賑わうメインストリート  聖ヨハネ大聖堂内部  騎士団の甲冑と

セングレア 
  ヴァレッタの対岸にあり、3つの岬(スリー・シティーズ)の一つの町。
  ロードス島を追われた騎士団が、1530年岬の突端に砦を築き、海に面した全てを城壁で固め、岬の突端を
  鎖で繋いで敵の侵入を防いだといわれる。
  また、1565年のオスマン帝国軍による大包囲戦で活躍し、「無敵都市」と云われた。

* 3つの岬( スリー・シティーズ) ヴィットリオーザ・セングレア・コスピークワの3町

監視塔ヴェデッテ  セーフ・ヘブン公園の端にある。象徴として、耳・目が創られている。

聖アンジェロ砦  ヴィットリオーザにある。
  1530年に聖ヨハネ騎士団の島の最初の住居となり、1565年のマルタ大包囲戦では、トルコ人に対する
  防衛要塞として使用。

 
  監視塔  海沿いのセングレアの町並み     聖アンジェロ砦

タルシーン神殿 
  ヴァレッタの北東に位置し住宅街の中にある。BC.3000~2500年に建設。1914~1919年に発堀された。
  豊饒のシンボルの女神像などがある。豚(たくさんの子豚の絵)(=女性)・牛(=男性)の絵も見られる。

マルサシュロック  
  マルタ島最大の漁村。極彩色の青い船は、ルッツと言われる魔よけのお守り。
  舳先に一対の目(オシリスの目)が描かれている。フェニキア人から伝えられたといわれる。
  マルタ会談が開催された場所。

青の洞窟(ブルーグロット) 
  マルタ本島の南の海岸の岬の突端にあり、陸続きの高い岩礁が年月を掛けて波と風でえぐられ、
  自然のアーチが造られた。

フィルフラ島 
  遠目では、長崎県にあるかっての海底炭鉱の島・(通称)軍艦島に似ている。
  自然保護地区になっていて青いトカゲなど生息。

 
 豊饒の女神像  マルサシュロック  
 
  青の洞窟   フィルフラ島   土産店  友人と

ゴゾ島 
  マルタ本島の西6㎞(フェリーで20分)

   本島と違い、水に恵まれ耕地と緑が広がる。湧き水が出るところなど洗濯場になっている。

大聖堂 1697~1711年に建立。
  資金不足のためだまし絵の天井になっている。

大要塞(ザ・チタデル) 
  中世に造られ17世紀の騎士団時代に再建される。
  高台にはセント・ミケーレ堡塁があり、そこからの眺望が素晴らしい。

ジュガンティーヤ神殿 
  世界的に一番古いといわれる巨石神殿、世界遺産になっている。(エジプトのピラミッドより約1000年古い)

アズール・ウィンドー   
  数千年の風と波の浸食によって作られた自然のアーチ。
  「アズーレ=青・ウィンドー=窓」と言われるとおり地中海の青が素晴らしい。
  ここでは、運良く風も無く波も高くなくボートに乗ることが出来ました。(ラッキー!)

 大聖堂のだまし絵のドーム  ジュガンティーヤ神殿 アズール・ウィンドー(ボートから)

追) 電話ボックス 英国統治時代のなごりのような形
    サボテンは、マルタの気候に適しているのか、花が咲き実が稔っているのを、よく目にした。
       食料品となっており味は、さっぱりとした甘さで、ジュースやジャムに加工され、
       土産品として売っていたので買ってきた。
    海鮮料理  地中海に浮かぶ島だけに、海鮮料理は抜群の美味しさ。

   
 電話ボックス   サボテンの実  海鮮料理

【追記】
     

糸杉

  糸杉
  今回の旅で、新たに加わった知識があります。
 イタリアやフランスなど南ヨーロッパの墓地周辺でよく目にする“糸杉”(ヒノキ科)
 空に向かって真っすぐに延びている杉の木は、「悲しみの象徴」といわれ、
 ギリシア神話に出てくる、美少年キュウパリッソスが姿を変えられたのがイトスギだとされています。
        また古代エジプトや古代ローマでは神聖な木として崇拝されていて、
        地中海のキプロス島の語源になったともされています。

                                 2011年12月12日筆      ページ先頭へ
 





神秘の国ブータン


 今夏(2011年8月14日~20日)に親子で出かけた不思議な世界を醸し出す国、
  国民総生産より国民総幸福量(* GNH)を提案した
  ブータン王国
です。(*)下参照
 「あなたは今幸せか」という問いに9割が「幸福」と回答した国でもあります
 (2007年)
  欧米などの他の国々と違い、国そのものが異次元・時空を超えた世界、
  国自体が世界遺産に匹敵するほどでした。
  ヒマラヤの大自然との共存、仏教的精神世界、伝統文化を大切にし、
   私には、野良犬さえも喜んで人々と共存しているように思えました。

* GNHの幸せの4原則とは、
   1、自立(自給自足) 2、良い政治 3、バランスの取れた社会開発・発展 
   4、調和の取れた自然と文化の保護

   この旅行記を書く前に、この神秘の国ブータンを選んだ経緯を述べたいと思います。
   音大同期で2年前に脳腫瘍で亡くなった朋友・森本恒子さんからずっと以前に、ブータンの話を
   聞いており、(ブータンについて色々聞いたはずなのが年月も経ちブータン国の名前だけが
   深く印象に残っていました)
   それ以来、私にとって一生に一度は行ってみたい憧れの国となりました。
   しかしなかなかその機会が無く、今回、奇しくも 3・11の震災で春先の海外旅行を自粛し、
   3ヵ月後ようやく出かけられる心境になったとき、できれば海の無い山岳地帯、
   そしてまだ体力がある間に行って置きたい場所というわけでブータンが甦り選んだのです。

雷龍の国旗
絶壁に建つ聖地
若い僧侶

  今回のツアーは、2名で催行という旅行社の企画で現地集合の形でしたので、
  娘に頼み、お供をしてもらいました。
  結果的には3組のペアーが集まった計6名の参加者に、ブータン国から決められた
  日本語のしゃべれる現地ガイドさんと運転手さん付き専用車
  (トヨタのハイエース中古?)で周るものでした。

 ブータン王国は現地語で「デュク・ユル=雷龍の国」と云われ、
  領土が九州とほぼ同じぐらい、
  人口は約70万人の小さな国です。
  世界で唯一チベット仏教を国教とする王国でもあります。(現・立憲君主制)
  民族はチベット系8割、ネパール系2割。母語はゾンカ語ですが、最近では小学校から
  英語で授業が行われており、公用語がゾンカ語と英語になっています。
  (19世紀に一時英国から保護されていた関係で英語が用いられるようになったとのこと)

 首都はティンプー。
  地図でも判るように東北西を広大な中国(チベット)に接しており、北部・西部の
  国境地帯は7000m級の山が連なり、仏教のブータン国では、山は神聖で冒すことの
  出来ないものであるため、未踏峰で登山は禁止されており登山家もいません。
  南はインドに接しており、1000m以下の低地は亜熱帯密林地帯で、
  ブータン人の生活空間は、国土の半分にあたる標高1000~3000m地帯だけです。
  傾斜が急な狭い土地のため棚田による水稲栽培が数多く見られました。
  国土の60%以上の森林を国が保護しており、しばしば材木切り出しが停滞し
  家屋の建築など長期間かかるとのこと。
  しかしそれが日常的なことなので、問題が生じないそうです。
  宗教的に昔から生き物の殺生を禁止しているため、野良犬の多い事。
  しかし人が餌を与えるため昼間は大人しく害をせず、ほとんど寝ているということでした。
  地方では、ツルを保護するため電線を引かずに我慢するというお国柄、現地の人は野良犬がいるのが
  当たり前という感じで気にする人は皆無のようです。
  また牛を放し飼いにしているため道路の真ん中をのんびり歩いていたり、人がいないような山の中で
  のんびり草を食べているのにたびたび出くわしました。
  ガイドさんも運転手さんも慣れたもの、牛が横切るたびに徐行運転で避けたり牛優先にしたり…。
  ブータンでは、豚(無知)・蛇(怒り)・鶏(欲望)を三毒の象徴として忌む嫌うので豚肉を食べません。
  牛は、ミルクが取れそれがバター・チーズとなり、仏教の輪廻
  (全ての生きものは迷いの世界である三界六道で生死を繰り返す)転生の教えにかなっているようです。

美しい棚田 大マニ車と放し飼いの牛 尼僧院の境内の野犬

  GNHを進めるために環境保護をし、北部山岳地帯から深い谷を刻みながら流れる川は、水が豊富で
  なんと電力の99%を水力発電でまかない、インドへ水力発電の輸出も行っています。
  自然を守るためビニール袋の使用禁止。健康のために国中が禁煙。民族衣装の着用義務
  (男性用=ゴ・ 女性用=キラ)、建物のデザインなど伝統文化を守るため規定があります。
  国民全員、医療費と教育費は無料で、優秀な生徒は希望すれば大学まで行く事ができます。
  ただ義務教育制度がないために農村では今でも教育を受けない人もいるようです。
  信号機もありませんでした。
 (余談ですが、下図のボトルの水は、学校や会社などで合同で販売し売り上げ金の一部が、
   3・11の震災への義援金として日本に送られていました。)

民族衣装を着た全員 山腹に掛けられたダルシン 一部義援金となる水

   仏教王国ブータンには、お墓は存在しません。
  川に流し49日にダルシン・ルンタ(経文の書かれた旗)を建てます。
  谷から谷へ渡された旗は、まるで風がお経をよんでいるように見えました。
  その経文旗(ダルシン)にも使われている伝統的な仏教の「五色」(青、白、赤、緑、黄)は、
  五大元素(空、風、火、水、地)の象徴でもあります。

深い谷になびくダルシン 十二支 伝説「4匹の友情」壁画

  写真でも判るように、日本人と同じように干支で年齢を数える習慣があります。
  仏教の言い伝えに「4匹の友情」があり
  「昔々一羽の鳥が種を地面に落としウサギが穴を掘りサルが種を埋め象が水を遣り日差しから守った。
  やがて小さな芽は大木になり、果実を実らせた。」

  この四つの協力はブータンの風土とも合い、国中に協調性と共に広まったといわれています。

仮面舞踏

【ブータンの歴史】

  今から4000年前には人が定住していたとも云われていますが、まだ調査がされていません。
  北のヒマラヤ山脈が自然の要塞、南はジャングル地帯のマラリアの恐れから、古くから
  この地に住む人々は侵略から守られ、各小さな村々で生活していたようです。が、
  昔からヒマラヤ連邦の峡谷を通り、北から塩(岩塩)チーズと南からの農耕産物との
  物々交換は行われていました。
 6~7世紀(日本大和・奈良時代)チベットが統一されるとその影響でブータンに仏教伝来となります。
 11~12世紀(鎌倉時代)にかけてチベット仏教が発展するにつき、その内の
  「カギュ・ドゥク派」が定着します。
 1616年(江戸時代鎖国の始まり)ドゥク派のガワン・ナムゲル(=シャブドゥン)が政教一致の
   国体をもつ「ドゥク・ユル(雷龍の国)」=ブータン」を誕生させます。
 その後20世紀まで宗教界を統べる大僧正、世俗界を統治する摂政という体制が続きますが、
   国内では継承問題や地方領主による群雄割拠時代の侵略など内紛を抱えていました。
   そしてインド平原の小国家への侵略は、当時チベットとの関係をうかがっていた英国との
  衝突を招き 1864年(日本・江戸時代後半蛤御門の変)ドゥアール戦争に発展。
  その結果講和条約により、英国の保護を受けるようになりそれをインドが引き継ぎ、国内は新しい時代へと
  進む事になります。
 1907年(日本明治時代義務教育を6年間に改める)、ドゥク・ギャルポ(雷龍王)(世襲制の王位)が誕生し
  新体制の強化に努め、3代国王は近代ブータンの父といわれ農奴解放、国会の開催そして国連加盟など
  急進的な政策で保守勢力の反感も買います。
 1974年3代国王の急死で長男が4代国王となり、地方分権、政党政治、内閣の導入などの政策を積極的に進め、
  国王親政の政治形態からの脱却を目指し、
 2006年に長男に譲位し5代国王誕生。
 2008年国民総会総選挙を実施、
   「国王が主導する民主化」という形の改革で立憲君主制へと移行、現在に至ります。

  日本との国交はあっても大使館が無いため、ビザの申請を、ブータン政府に登録された旅行会社を
  通じてしなければなりません。
  今回ももちろん、日本の旅行会社が代行してやってくれました。
  直行便は無く、成田からバンコクへそこで一泊し早朝ブータンの唯一つの空港・
  パロ国際空港へ(標高2300m)
  (国際といっても山と山の合間に長さ約2000mの滑走路2本の小さなものです。)

上空から 小さなパロ国際空港滑走路 ターミナルビル

到着したその日、パロ国際空港から直ぐにティンプー(首都)へ(標高2400m)

メモリアル・チョルテン 若い僧 マニ車

* メモリアル・チョルテン(仏塔) 1974年完成 3代国王の墓、廟、追悼記念碑のようなもの。
   一日中、周囲を巡る(お参り)人々の姿がみられる。
   内部は3層に分かれていて壁際の階段を螺旋状に登れるようになっている。
*   マニ車 
   内部に経文を印刷した紙を収めた回転体で、1回転させれば、その経を読んだのと同じ功徳があるという。
   時計周りにまわす。

美術学校中庭 寄宿舎 制服姿の学生 授業風景

*    美術学校といっても伝統技芸院で絵画・彫刻などを教える寄宿制の学校。
  仏画などは各部の細かい比率まで厳密に定められていてそれに従って描かねばならない。
  在住外国人が参加できるコースもあり、日本女性が一人留学していた。

サムテリン宮 タシチョ・ゾン タシチョ・ゾン内部

* サムテリン宮 
    4代国王の住居 対岸からの写真撮影のみ許可されている。
* タシチョ・ゾン(「祝福された宗教の砦」の意)は、
    国王の執務室と、ブータン仏教界(ドゥク派)の総本山=大僧正の居室がある。
    必ずゾンには、政治と宗教が共存している。
    建物は、釘を一本も使わずミゾとホゾだけで木組みを行う伝統的な建築法で建てられている。

【2日目】は、5時間のドライブ 標高2400mのティンプーから標高3200mのドチュ・ラ峠を経由し
   古都プナカ(標高1350m)ワンデュ・ボタン(標高1400m)帰路も唯一本の同じ道を。
    ハイウェーとは名ばかり、いたるところ穴ぼこが空き片側は深い谷底、幼い時歌った記憶がある
   「田舎のバス」(三木鶏郎作詞作曲)を思い出しながら、腕のいい若い運転手さんを
    信頼して揺られ続けていました。

シムトカ・ゾン ホンツォ・りんご売り屋台 ドチュ・ラ峠

* シムトカ・ゾン 
    ブータン建国の父シャブドゥンが最初に建てたもの(1629年)
  夏の都ティンプー(冬には雪で閉ざされるため)
  冬の都プナカ、シムトカは二つの都を結ぶ中間点に位置している。

* ホンツォ 
    シムトカから急な上りを約1時間上ると針葉樹林の中にりんご畑が点在、その辺りに検問所がある。
* ドチュ・ラ峠 
    検問所を過ぎれば高山帯で、約10分ほどで3150mの峠に到着。
    晴れていれば山岳の展望が見られる。8月は雨季に当っているため霧の峠となった。
    108基の仏塔が立っている。

プナカ・ゾン 吊り橋 キュンレイ(講堂)の入口

プナカ 
   ブータンの「冬の首都」標高1350mで亜熱帯気候。
* プナカ・ゾン 
   1637年にシャブドゥンによってポ・チュ(父川)モ・チュ(母川)の合流点に建てられたゾン。
   それ以後何度も火災、地震、水害に遭いその度に改築、再建が繰り返された。
   最も美しい建物であるが、トイレがなんとただ真ん中に水が流れる溝が造られた物で、旧式も旧式、
   昔の露店便所。男女別がせめてものこと。
* 吊り橋 
   2008年カンチレバー形の伝統様式の屋根付き橋に架け直されたもの。
* キュンレイ(講堂)の入口右側の壁画は、
   「六道輪廻図」で、(人・畜生・餓鬼・地獄・修羅・天)の6つの世界を巡る輪廻の様相を示している。 

ワンデュ・ポダン・ゾン 若い僧 リンチェンガン村

* ワンデュ・ポダン・ゾン 
    昔、西・南・東の道が交わる交通の要衝の地に17世紀に建てられた古い寺院。
    今でも行事が行われている。
* リンチェンガン 
    ワンデュ・ポダンの町の対岸にある棚田の村。
    昔ゾン建設のためにインドから移住してきた人たちの子孫の村、一つの集落となっている。

 パロ 
    標高約2300mの所だが、ブータンのなかでは、平地に恵まれた米どころ。谷間の感じ。
    唯一の空港の所在地でブータンを代表する寺院がある。

民家 パロ・ゾン 西岡チョルテン

* パロ・ゾン 
   17世紀当時の政教一致体制の名残で、今でも多くの僧侶が暮らすと同時に地方行政区を司る 
   県庁の役割も果たす。
* 西岡チョルテン 
  (西岡京治氏)1964年最初の国際プロジェクトとして派遣され1992年、
   現地で亡くなるまで農業技術など数え切れないほどの指導と援助を行い1980年に、
   国王よりダショー(貴族・政府高官などに贈られる爵位)の称号を授与された。


タクツァン僧院

     

       

* タクツァン僧院 
   500mほど垂直に切り立った屏風のような岸壁に鎮座した寺院。
   チベット仏教界でも最大の聖地、仏教を広めたと云われるパドマサンババが虎の背中に乗って
   この地に降り立ったのでタクツァン(=「虎のねぐら」の意)と呼ぶ。

  駐車場から山に登り始め尾根にある展望台から反対側の山の絶壁にある寺院まで約400段の階段を下って
  滝がある谷底から登りようやく行き着く行程5~6時間のトレッキングです。

     
 山頂には、僧院が在る  屏風のような岩から流れる滝  タクツァンの奥の院


ドゥゲ・ゾン 廃墟となったドゥゲ・ゾン 地下道の跡

* ドゥゲ・ゾン(「ドゥク派の勝利」の意味)
    1647年チベット軍の侵攻に備えるために造られた。1951年の火災で廃墟となった。
    ゾンの門の辺から谷底へ続いている地下道の跡は、籠城した際の水汲みの秘密の通路だったところ。

キチュ・ラカン ゾンの壁のマニ車 パロ商店街

* キチュ・ラカン パロ北部にあり、
   伝説によると魔女の力を封じるためその体の108のツボにあたる場所に寺院を建て魔女の左足にあたるのが、
   キチュ・ラカンという。

*(追) ブータンでは、まつたけなどキノコ類は野菜として食べるので、1キロ=1200円で売っていた。
  ツアーの仲間全員で買い、夕食時にホテルの調理場に頼み 料理をしてもらい食べました。
  標高2700m近くまで稲作が行われていて、棚田の水田が多く見られた。
  日本米に味が似ていて美味しいのは、赤米です。
  物価は、他のアジアの国々と比べて決して安くは無いように感じました。

   
露天のまつたけ売り まつたけ料理 赤米
     
      ブータンの切手     ブータン 絵葉書      ブータン 絵葉書

                                               2011年9月14日筆     ページ先頭へ

    




癒しの国ポルトガル縦断の旅

今回は、2010年11月18~25日に出かけたポルトガル(正式には、ポルトガル共和国)です。
奇しくも2010年は、日本とポルトガル(葡萄牙)の修好150周年でした。

 地図でも判るように、ポルトガルはヨーロッパのイベリア半島南西部に位置し、
 巨大なユーラシア大陸からでは、西の果てがポルトガルのロカ岬(左下写真)、東の果ては、
 ベーリング海峡を挟んでアラスカとつき合わせているシベリアとなります。
 隣国はスペイン、西と南は大西洋に面した海岸線、国土は日本の約4分の1です。
 国民のほとんどがカトリック教徒、言語はラテン語から生まれたポルトガル語です。
 このポルトガル語、日本人なら誰でもなじみのことば:
  ボタン、カルタ、コップ、パン、タバコ、てんぷら、金平糖などすべて、
  ポルトガル語が転じて日本語になったものです。
 大西洋に面しているため海の幸も、お料理に多く使われていて、旅行中もいわしの網焼き、タコのリゾット、
 タラ料理などが食べられました。
 北部の都市ポルトから出荷されるポートワインは世界的に有名ですね。

 またワインボトルの栓でお馴染みの「コルク」は、ポルトガルの特産品の一つで、
 世界の5割以上を占めています。
 このコルクは、コルク樫(ブナ科の常緑樹でポルトガルに多く生息している)の
 樹皮をはがして製造し、写真(左真ん中)でもわかるようにコルク製の財布・カバンや傘まで
 作られているのには驚きました。
 樹皮をはがしているので樹自体は、生息し続け、最近話題の環境問題エコに役立っている
 ように思えます。
 また日本のカステラの元祖がポルトガルで、守護聖人へのお供え物として始まった物で、
 今でもよく食べられているお菓子です。
 そしてキリスト教の行事にかかせない揚げ菓子(コシュコロイシュ)(左下)が
 姿を変えた「がんも」になったといわれています。
 このようにお菓子からも日・葡修好が150年前からということが納得できるように思えます。

 気候は、年間を通して温暖ですが、秋10~11月は雨季に入り不安定で、私の旅行中も
 必ず毎日傘の用意をしていました。
 青空が見えると思いきや、急に暗い入道雲がむくむくと姿を現し、それが
  ザーッと降り注ぐ雨となり、またしばらく経つと青空という毎日で、気温差も激しくバスの中には
  厚手のコートと薄手の物を2着用意していました。

 ポルトガルの歴史は古く、新石器時代に遡るともいわれていますが、紀元前1200年ごろ、フェニキア人が
   都市国家を造り、紀元前8世紀ごろギリシャ人が植民地にしました。
   その後ローマ帝国に支配され、5世紀にはゲルマン人が侵入(日本・大和時代)、711年に
   イスラム教徒のムーア人が侵入、その後400年間にわたりキリスト教徒とイスラム勢力との戦いがあり、
   1143年(日本・平安時代)に、キリスト教徒によるポルトガル王国が建国されました。
   15世紀(日本・南北朝)には“7つの海を制した”といわれる大航海時代が始まります。
   エンリケ航海王子(自身は一度も航海していない)のお蔭で、南アフリカ喜望峰到達(1488)、
   ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓(1498)、ブラジル発見(1500)など成し遂げ
   大航海時代の先駆者となり、ポルトガルは香料貿易を独占し、16世紀前半のリスボンは、
   世界最大の都市に発展します。
  (1543年種子島にポルトガル人漂流)同じころ、他国(スペイン・英国・オランダなど)では
   新大陸の植民地競争が激してき、それとともに19世紀にはブラジルの独立や内政の混乱が続き、
   ポルトガルは次第に縮小していきます。
   1910年(日本・明治)に共和制になり1933年には独裁体制に転向。
   以後40年以上も独裁政治が続き1974年に民主化が始まり今日に至っています。

さあー!旅行に出発です。
  日本からポルトガルへの直行便はないため、まずヨーロッパの主要都市まで飛び、そして乗り継ぎして
  行くことになります。
  今回は、ルフトハンザドイツ航空でフランクフルトへ。
  乗り継ぎ便が出るまで5時間ほど空いているという事で希望者は『フランクフルト市内観光』へ。
  私は2001年11月にドイツに来ているのでちょうど9年ぶりの再訪でした。(下)

独・フランクフルト・レーマ広場 フランクフルト・大聖堂 アルト・オペラ座

   フランクフルトから約2時間半でポルトガルのポルトへ(北から南下するコースです)。
  我が家を18日早朝出立したので延27時間を有したことになります。
  次の日の朝は、ゆっくりの出発でポルトの同じホテル連泊で助かりました。

 ポルト 
  ポルトガルの北部にあり、ドウロ川(スペインから流れてきている)の河口を見下ろす
  丘の中腹に建てられた、起伏の多い街です。
  ドウロ川の南岸、現在のワイナリの街・ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアは、ローマ帝国時代カーレと呼ばれる州でした。
  そしてドウロ川の河口の街が港(ポルトゥス)の役割をしていたので、ここをポルトゥス・カーレと呼び、
  これがポルトガルの語源となったのです。
  ドウロ川の南岸は世界遺産になっている歴史地区です。

橋から見下ろすドウロ川とポルトの街 ボルサ宮前の航海王子像 サンフランシスコ教会

ボルサ宮 
   ポルト経済の中心だった商業組合の建物として1834年に造られた。広場にはエンリケ航海王子の像がある。
サンフランシスコ教会 
   14世紀初めに建てられた教会で、バロック装飾の極致ともいえる金泥細工(ターリャ・ドウラーダ)で
   天井、壁、柱のすべてにつる草、鳥、天使の彫刻が施されている。
  残念ながら内部の撮影は禁止。
サン・ベント駅(下) 
   ポルトの玄関口。20世紀初め、修道院の跡地に建てられたもの。
   ジョルジェ・コラコ作のアズレージョが美しく駅とは思えないほど。ポルトの歴史などが描かれている。
  *  「アズレージョ」とは、装飾タイルのことで、古くは青一色で作られていた。
クレリゴス教会
 
   18世紀に建てられたバロック様式の教会。塔の高さは、ポルトガル一です。

  サン・ベント駅のアズレージョ   市内を走るレトロな市電   クレリゴス教会

ドウロ川クルーズ 
   ドウロ川は、全長925kmでスペインに源を発している。
ドン・ルイス1世橋 
   1886年エッフェルの弟子によって造られた2階建ての橋でポルトとヴィラ・ノヴァ・ガイアの
   丘の上の街と下の街をそれぞれ結ぶユニークなもの。
ワイナリー見学 
   ポートワインは、ドウロ川上流地域で収穫されたブドウから造られる。
   この伝統的なワインの製造方法は、2001年に世界遺産になっている。

ドウロ川クルーズ・船からのポルトの街   ドン・ルイス1世橋   ワイナリー・オークの樽

ギマンランイス 
   ポルトから北東約45㎞  2001年に世界遺産に登録
   初代ポルトガル国王エンリケス生誕の地。町の入口の壁に「ここにポルトガル誕生す」と書かれている。

ブラガンサ公爵館 
   初代ブラガンサ公爵となったドン・アフォンソによって15世紀初めに建てられた貴族の館。
   レンガの煙突がユニークだ。
ギマランイス城 
   初代ポルトガル国王アフォンソ・エンリケスが1110年に生まれた所。
   7つの塔が城を囲んでいる。28mの塔の上から町が一望できる。

  ブラガンサ公爵館    ギマランイス城   ブラガ・カテドラル

ブラガ 
   「リスボンは楽しみ、コインブラは学び、ボルトは働き、そしてブラガは祈りの町」といわれる。
   中世から近世にかけてポルトガル第一の宗教都市として栄えた。
   数多くの聖堂や教会があり近郊に巡礼の地を控えている。
カテドラル(上右) 
   12世紀に建立。祈りの町ブラガの中心となっている。
 * カテドラルとは、大聖堂=司教座のある聖堂のことで、教区全体の母教会の意味。
   イタリア語のドゥオモと同じ。

 アヴェイロのモリセイロ=小船   アヴェイロ駅   コインブラ・旧大学

アヴェイロ ポルトから南約68㎞。
   入り組んだ大きなリア(潟)があるため、自然の良港として16世紀に繁栄した。
   町の中央を運河が流れる。潟で取れる海藻肥料を集める小船をモリセイロといって写真(上)
   でもわかるように極彩色の絵で飾られている。
   この地で有名なお菓子オヴォシュ・モーレシュは、白い皮の中に黄金色の卵黄クリームを詰めたものだが、
   日本の‘もなか’の元祖といわれている。
アヴェイロ駅 
   町の風景が描かれたアズレージョで飾られていて駅とは思えないほど。

コインブラ アヴェイロから南約61㎞。
   大学を中心に発展した文化都市。
   旧大学 1290年にリスボンに創立された大学が、1308年コインブラに移されたもの。
   国内で最も古い歴史を誇る。
   写真左奥の鉄の扉は、「無情の門」と呼ばれ昔は非常に規律の厳しい大学だった。

  トマール町の全景  キリスト修道院・マヌエル様式の窓   キリスト修道院・円堂

トマール コインブラから南約106㎞。 
   ポルトガル最大の修道院がある。(1983年世界遺産)
キリスト修道院 
   マヌエル様式(*1)の傑作。12世紀テンプル騎士団(*2)によって創建。その後増改築の末17世紀完成。
 (*1)マヌエル様式:
   ポルトガル独自の建築様式で、インド航路を成功させたマヌエル一世(1495~1521)が
   巨万の富を建築物にも費やし生み出されたもの。  
   後期ゴシック様式に過剰なほどの装飾を施されている。
   特に大航海時代の影響で海に関わるものが多く、
   貝殻、海草、鎖、ロープ、船、天球儀などがモチーフになっている。
 (*2)  テンプル騎士団 : 
   中世ヨーロッパで活躍した騎士であり修道士という2重の務めを持つ人達の集まり。
   上記の修道院では、テンプル騎士団がすぐに戦いにいけるように、馬に騎乗したまま
   祈りが出来るような構造になっている。

 
  ファティマのバジリカ   バターリャ修道院   未完の礼拝堂

ファティマ 
   第1次世界大戦中の1917年3人の子供たちの前に聖母マリアが出現するという奇跡(*)が起こった聖地。
バジリカ (キリスト教大聖堂)
   ネオ・クラシック様式のもの。
   540m×160mという大きな広場に、記念日には全世界から30万人以上の巡礼者が集まる。
   真ん中を通る道には、ひざまずいて歩いている人たちが大勢いた。
  (*) 聖母マリアが出現したといわれる(ローマ教皇公認の)カトリック三大奇跡は、下の3箇所
      フランスのルルドメキシコのグアダルーペポルトガルのファティマ

バターリャ 
   ポルトガル語で「戦い」という意味。
   1385年(日本・南北朝)スペインに対してポルトガルの独立を守った歴史的な戦い。
   聖母マリアに感謝の意味で建立。
バターリャ修道院(勝利の聖母マリア修道院)世界遺産 
    ゴシック・マヌエル様式の建物。
   未完の礼拝堂をよく見ると、ゴシック、マヌエル、ルネッサンスと時代の移りが見られる。

 アルコバサ・サンタ・マリア修道院  バロック様式のファサード     ペドロ1世の石棺 

アルコバサ 
   トマールから、ファティマそしてバターリャ、アルコバサ、ナザレ、オビドス各区間約30分の距離、
   国がそれほど大きくないのでバス移動がほとんどなく、その点楽でした。
サンタ・マリア修道院 世界遺産、
   12世紀初め、建国の始祖エンリケス王が、シトー派修道会に感謝して修道院を創設。
   上写真のバロック様式のファサード(正面入口)は、18世紀に改築された。
   悲恋物語のペドロ1世と侍女のイネス・デ・カストロの墓があることで知られている。
   ペドロ1世の石棺は、6頭のライオンによって支えられている。

ナザレ 
   独自の風習を残す漁師町。女性の衣装も伝統を守っている。夏は、バカンス客で賑わう。
   8世紀西ゴート王が僧を供にやってきたとき携えていたマリア像が、イスラエルのナザレの
   ものだったことから町の名前がつけられた。
メモリア礼拝堂 
   展望台脇の小さな礼拝堂。
   霧の中を馬に乗った城主が海の絶壁の際で聖母マリアに救われたといい伝えられている、奇跡が起こった所。
 

  ナザレ・メモリア礼拝堂   ナザレの伝統的な衣装  ナザレ~オビドス街道筋の水道橋

水道橋 
   ナザレからオビドスに向かう道筋に水道橋が見られた。

  オビドスの町  オビドスを囲む城壁   オビドスの土産店

オビドス 
   城壁に囲まれた「谷間の真珠」と呼ばれる小さい町。
   歴史は古くローマ時代に海からの侵入を防ぐため、砦が築かれ、その後イスラム教徒の征服、
   1148年エンリケスによって開放され町の再建が行われた。
   1284年から1834年まで代々の王妃の直轄地となる。城壁は一周できる。

  シントラの王宮  王宮の窓から見たシントラの町   シントラの路面電車

シントラ オビドスから約93㎞
 
シントラの王宮 
   イギリスの詩人バイロンが「この世のエデン」と称えた風光明媚な王家の夏の離宮。
   14世紀に建てられた。高さ33mの煙突がシンボルで、
   内部はアラブの間・中国の間・紋章の間・白鳥の間などがあり豪華さにかけては最高。

 ロカ岬・カモンイスの石碑  断崖の先は大西洋   最西端到達証明書

ロカ岬 
   ポルトガルの詩人カモンイスが詠んだ「ここに地果て、海始まる」の石碑が建っている。
   巨大なユーラシア大陸の西の果て。最西端到達証明書を発行してくれる。

リスボン ポルトガルの首都、
   ギリシア神話の英雄オデュッセウスによって築かれたといわれている。
   「7つの丘の都」と呼ばれる起伏の多い土地で、大西洋に注ぐテージョ川の河口から
   12㎞上流の右岸に位置している。

  帰国日にあたる11月24日に首都リスボンでゼネストがあり全部の交通が麻痺し帰国出来なくなるという
  緊急事態が発生し、一日予定を切り上げ乗り継ぎ地のドイツハンブルグへ出国、
  そのため世界遺産の古都エヴォラには、行けずリスボンもべレン地区のみの観光となった。(残念!)

  べレンの塔   発見記念塔   4月25日橋

ベレンの塔 世界遺産 
   16世紀初め、マヌエル1世の命により、船の出入りを監視する要塞として建てられる。
   マヌエル様式の優雅なテラスを持つこの塔を、司馬遼太郎は、「テージョ川の公女」と呼んだ。
   1階は潮の干満を利用した水牢だった。
発見記念塔 
   1960年にエンリケ航海王子の500回忌を記念して作られたモニュメント。
4月25日橋 
   リスボンと対岸を結ぶ。1966年完成した全長2278mのつり橋。
   元は橋を建造した者の名前でサラザール橋と呼ばれていたが、新政府誕生に伴い4月25日橋と改名。
ジェロニモス修道院 (下)世界遺産 
   マヌエル1世が1502年着工、大航海時代の栄光を伝えているマヌエル様式の最高傑作。

  ジェロニモス修道院   ジェロニモス修道院   リスボン市内を走る市電

[追記] 
   ポルトガルの建物には、さまざまな様式が混ざり合っており、添乗員やガイドさんが
   建築様式を詳しく説明されたので、以下に書き記しておきます。

【建築様式】  ロマネスク→ゴシック→ルネッサンス→バロック(時代の移り)以上すべて教会建築から始まる

ロマネスク様式 (ローマ風という意味)
   11~12世紀にかけて西欧各地に広まったキリスト教の教会堂や修道院建築。
   ゴシックに先行するもので、重厚な石積みの壁と開口部の半円アーチ、窓も小さく内部は薄暗いなどが特徴。

ゴシック様式 
   11~13世紀のルネッサンス以前の主に教会建築の様式。
   尖がった屋根、モノトーンでどっしりした重圧感

ルネッサンス様式 
   15世紀イタリアで起こりヨーロッパ全土に広がった古代ローマ建築を規範とする古典主義建築で、
   均衡の取れた明瞭さが特徴。方形や円形といった幾何学的な形体を基にしたシンプルなもの。

バロック様式 16~18世紀 
   バロックとは‘歪んだ真珠’からきたという。
   ルネッサンス様式の均衡と調和に対する破格で、曲線を使用した豊かな動的な表現を特徴とする。
   平面的な壁面はうねりのあるものになり、内部空間の明快さは抑揚ある連続性へと変わる。

マヌエル様式 
   16世紀初めポルトガルで大航海時代に起こる。ゴシック様式の影響を受けた中に、
   当時の繁栄を思わせる、海に関わる物が多く(貝殻、鎖、ロープなど)装飾に使われている。

ロココ様式 
   18世紀フランス宮廷建築に多く用いられた。
   上の様式と違い貴族や富裕層の邸宅王侯の宮殿からはじまった様式。
   柔らかな色彩(パステルカラー)豊かな装飾、内装に特徴がある。
   大理石の柱、色彩的天井画、天使などの像、丸い屋根、階段など。

ネオ・クラシック様式 
   17~18世紀にフランスで起こったもの。
   ローマ・ギリシア時代の様式を建築に取り入れ、ゴシック様式と比べると外部装飾を縮小し、
   シンプルな中に美を追求したもの。

アールデコ 
   20世紀1910年~1930年、主にアメリカを中心に流行。
   幾何学図形をモチーフにした記号的表現や原色による対比表現などの特徴をもつが様式は多様になっている。

                           2010年12月26日筆     ページ先頭へ





メキシコ6大世界遺産の旅

 さて今回の旅行記は、2010年6月21日~6月28日(8日間)に出かけたメキシコです。

 メキシコの正式国名は、メキシコ合衆国面積は、日本の約5倍。
 首都はメキシコ・シティで宗教は、約90%がカトリック、
 言語は、公用語のスペイン語で総人口の約25%を占める各先住民は、
    それぞれ独自の言語をもっています。
 地図でも判るように、メキシコの北部はアメリカ合衆国に隣接していますが、
  英語はほとんど通じません。
このことから、両国の関係が(長い歴史上の出来事に元を発していると)憶測できるように思えます。

 民族構成も、各先住民とスペイン系混血とスペイン系白人で、ほとんどの白人は上流階級に属し、
   逆に先住民は貧しい生活を今でも強いられているようです。
余談ですが、
 2010年の世界長者番付発表の億万長者一位は、ビル・ゲイツを抜いてメキシコ人のカルロス・スリム氏(約5兆円)
  だそうです。
  このことからも、貧富の差の激しいことが分かります。

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 国旗は、イタリアと同じ色の組み合わせで緑・白・赤
   〔自由・平和そして独立戦争で亡くなった人の血といわれている〕で、
   メキシコは、白地のところに、ワシが蛇をくわえてサボテンにとまっている
   アステカ時代の伝説によるシンボルマークがあります。(写真・1)
 メキシコの世界遺産は、現時点で29箇所あり(日本は、14箇所)
  今回は、その内の6大世界遺産を訪れました。
  日本との時差は、-14時間、メキシコのアエロメヒコ航空の直行便で約13時間です。

〔歴史〕
   古代から現代まで大きく分けると4回の大変化
  (狩猟・農耕・宗教・軍人社会)が起こっています。
 紀元前、ジャングルなどで狩猟民族が、マンモスなどを食料にしていたところマンモスが絶滅。
 700年頃、農作物の発見で(アボガド・サボテン・リュウゼツラン〔竜舌蘭〕など)
 農耕民族が水のあるところに集まり、村が生まれ、そして当時、
 自然など人間が支配できない物を、神として崇める宗教・多神教が生まれていきます。

 (註 竜舌蘭は、メキシコの酒テキーラの原料で、葉っぱからは、
   糸が紡ぎ出せ織物の原料にもなります。)(写真・2)

 古代文明(写真・3)といわれるメキシコ最古の文明は、
 紀元前12世紀頃(エジプトと同じぐらい)から、オルメカ文明が残っているといわれています。
 その後、紀元前3世紀にはテオティワカン(写真・4)の宗教都市が築かれ、
 6世紀(日本・大和時代)には大帝国になりますが、10世紀頃(日本・平安時代)に滅亡し、
 その後トルテカ文明13世紀頃(日本・鎌倉時代)からアステカ文明が栄えます。

 メキシコの南メキシコ湾に張り出しているユカタン半島のジャングルでは、
 (ユカタン半島には、川が無い)3~9世紀にマヤ文明が栄え、
  チチェン・イツァー、ウシュマル(写真・5)など古代メキシコの建造物が造られます。
 1519年スペイン軍がベラクルス(メキシコ湾沿い)に上陸し、
  1521年アステカ帝国が崩壊し、以後300年の長い間スペインの植民地となり、アステカの神殿は破壊されます。

 18世紀になり、独立運動が起こり、一時は独立(1821年)が達成されたかになりますが、不安定な政情が続き、
  国内的には大きな混乱状態となります。
 1836年(日本・江戸時代)アメリカとの戦い・テキサス戦争が起こり
 1848年広大な土地を失う結果となります。
 その後、自由主義的改革に、軍や宗教が入り、幾多の内戦や革命(1910年)を経て現在に至っています。

メキシコ・シティ  (世界遺産・メキシコシティ歴史地区)

  高度2240mに在る首都メキシコ・シティは、アステカ時代には大きな湖上に浮かぶ大きな都市でした。
(一説によると同じように湖上に浮かぶ都市ペルーのチチカカ湖と当時交流があったのではないかといわれています。)
  1519年、スペイン人が上陸し植民地化された後、湖を埋めたてて現在のような盆地となりました。
  スペイン人によってほとんどの建物が破壊され、その遺跡の上に造られたのが今の都市で、
  近代的な建物のそばで、今も発掘が進められています。

  三文化広場   カテドラル    グアダルーペ寺院

三文化広場  (メキシコの歴史を垣間見る文化遺産)
   16世紀に建てられたサンティアゴ教会、その前にアステカ時代のトラテロルコ遺跡があり、
   それらを取り囲むように現代的な建物が建っています。

カテドラル 
   このカテドラルがあった場所には、もとはアステカ神話の神ケツァルコアトルの神殿がありました。
   コルテスがカトリックを速やかに根付かせるために、その古い神殿を破壊し、その石材でカトリックの教会を
   建てたのです。
   この遣り方はメキシコ全土に及んでいます。

グアダルーペ寺院 (先住民の強い信仰を集める聖母寺院)
   褐色の肌をしたマリア像で世界3大マリア像の一つといわれています。
  (他は、ポルトガルのファティマのマリア像フランスのルルドーマリア像
   1709年建設の旧聖堂は、写真でも判るように地盤沈下のために傾いています。
  (原因は、1806年のメキシコ地震など)修復は、高い側の砂を抜き取り傾斜を緩める方法で、
   これはイタリアのピサの斜塔にも応用されているそうです。

メキシコ国立自治大学 (世界文化遺産)
   メキシコシティ南西郊外にある学園都市で、世界最大規模の壁画で覆われた中央図書館。
   オルゴマンのモザイク壁画で4面がアステカ文明・スペイン植民地時代の圧制・宇宙、化学、政治・
   大学の校章のテーマとなっています。シケイロスの壁画もあります。
国立人類学博物館
   (メキシコ古代文明の発掘品が集められている。)
  1. テオティワカン時代の雨神チャルティトゥリクエの像
  2. 太陽の石「アステカ・カレンダー・神秘的な宇宙観を表している」

       
 国立自治大学の中央図書館 1.雨神チャルティトゥリクエの像   2.太陽の石と私

テオティワカン(世界遺産・メキシコ中央高原最大の古代遺跡)メキシコシティから50km北。

   紀元前2世紀頃建造された巨大なピラミッド都市で、テオティワカン人と呼ばれる人がどこからかやってきて
   8世紀頃に謎の滅亡とともに消え去った神秘の都市です。
   未だに謎のまま、解明されていません。
   綿密なピラミッドを建造し宗教祭事を正確に取り決めるための高度な数学・精密な天文学の知識を
   持っていたといわれています。
   またしっくいで覆われた壁面も彩色されていたもの(*赤色)が残っています。
註) サボテンに寄生する虫コチニールの白い卵をつぶし草の汁を塗ると赤色の色素が出来る、
   それが古代時代に使われたといわれています。
 
   後の世にアステカ人がこの巨大なピラミッドを見て、神々が建てたものと信じ、太陽と月の神殿という名も
   彼らの神話から名付けられました。
   テオティワカンというのは、「神が集う場所」の意です。

(註) エジプトのピラミッドは、お墓で、メキシコのピラミッドは、神殿です。

 太陽のピラミッドは、
   世界で3番目の大きさ(高さ65m)で宗教儀式のために建てられたもの。
 内にはもう一つ古いピラミッドがあり次々古いものを覆いかぶせるようにして造られていったといわれています。
   頂上まで登れました。
 月のピラミッド 
   儀式の中心は月のピラミッドで行われていたという。
   上からは死者の道が真っすぐに延びていることがわかります。

 太陽のピラミッド  死者の道のジャガーの壁画  月のピラミッドの頂上から死者の道

プエブラ歴史地区チョルーラ遺跡  (世界遺産)

   メキシコシティから120km東、
   昔スペイン軍が上陸したメキシコ湾沿いのベラクルスと結ぶ交通の要として、交易の町として発展。
  「天使の街」ともいわれ、装飾が美しい。タラベラ焼きの陶器でも有名。

サントドミンゴ教会のロザリオ礼拝堂  砂糖菓子の家  チョルーラ遺跡

サントドミンゴ教会 1571~1647年にかけて建造 
   内部に黄金や宝石で飾られたロザリオ礼拝堂がある。天井部はバロック様式
砂糖菓子の家 
   18世紀に迎賓館として建てられた。メルヘンチックなタイル装飾が面白い。
チョルーラ遺跡 
   プエブラ郊外にあるアステカ時代の大神殿の跡
   チョルーラに集落が造られたのは紀元前200年、1519年のスペイン軍上陸で破壊され、
   現在の町はその廃墟の上に建っている。今も発掘が続いている。

午前3時起きで飛行機にてユカタン半島の州都メリダへ移動。
   高度2240mのメキシコシティから高度10mのメリダへの移動。
   体は、楽になるが、気温の変化には困りました。
   日中の気温も40度近くになり、日除け対策でサングラスに長袖の上着に水は必需品、
   日傘は、込み合っているところでは迷惑になるので、なるべく使わない。

メリダ 
   密林に眠るマヤ遺跡の起点となっている。
   メリダには、黄熱病の研究で有名な野口英世が住んでいたことがある。
   また最近の研究で、このユカタン半島のメリダ近くの、チクシュルーブという所に、
   6500万年前、隕石が落下して恐竜やアンモナイトが全滅したと判明したそうだ。

ウシュマル遺跡 (世界遺産) メリダから南へ80㎞

 ウシュマル遺跡  魔法使いのピラミッド  競戯場

  古典末期と後古典期の建造物が見られる。
  マヤ・プウク様式といわれる建物壁一面に彫刻を施した石を組み合わせ複雑なモザイクや蛇などの装飾をしてある。
(註) 
  古代から石の複雑な模様などの装飾が可能だったのは、メキシコでは、黒曜石が多く産出されていて、
  鉄がまだ無かった頃、矢じりや石器として使われていたためです。
  ユカタン半島には、川が無く生活用水は雨水が頼りだったので、たくさんのチャック(雨神)像があり
  信仰の中心となっていた。
魔法使いのピラミッド 8~11世紀の300年間に5つの神殿が順に造られたもの。
   小人が一夜のうちに造り上げたという伝説によって名前がつけられた。
   雨神チャックの顔が頂上まで造られています。
球戯場 
   宗教的な意味合いの強い球戯だったようだ。

カバー遺跡  ウシュマルの22㎞東南

 カバー遺跡・仮面の宮殿  遺跡のあちこちにイグアナがいる  マヤ人の民家

仮面の宮殿 
   外壁が300近くの雨神チャックの顔で飾られている。
イグアナ 遺跡のあちらこちらに可愛いイグアナがいた。
マヤ人の民家  
   昔ながらの生活を営むマヤ人の民家でハンモックや、竜舌蘭から糸を紡ぎ出す遣り方、
   とうもろこしの粉からタコスを作る所を見学する。       

チチェン・イツァー遺跡(世界遺産) 
    メリダよりカリブ海のリゾート地カンクンの途中に在る。

 チチェン・イツァーは、マヤ語の“泉のほとり”のイツァー人という意味で、ユカタン半島最大の
 セノテ(聖なる泉)のまわりに都市が生まれたといわれています。
 マヤ文明の二つの時代(6世紀頃マヤ独自の古典期の「旧チチェン・イツァー」と、
  トルテカ文化と融合した10世紀以後の後古典期の「新チチェン・イツァー」)が交わる聖地です。
   8,9世紀の間で空白があり、王族は暦によって定期的に遷都を行っていたといわれています。

旧時代は、雨神チャックをひたすら祀り上げその後、トルテカの象徴のククルカン(羽根のある蛇)が加わります。
 13世紀始めにマヤバン族によって滅亡させられマヤ文明は、幕を下ろします。
 ジャングルの中に逃げ込んだ少数の農民マヤ人だけが生き残ります。
旧チチェン・イツァー

     
 マヤ時代の天文台  尼僧院と  高僧の墳墓

カラコル(古代マヤ人の天文台)
  カラコルというのは、カタツムリの意味で上部のドーム(現在でも見られる形)は螺旋状に造られています。
  マヤ人の天文学の素晴らしさが分かるもので、南は、子午線に向かう窓、西南の窓は月没の最北線に、
  春分、秋分の日没・月没の正確な観測が出来る窓が造られています。
尼僧院  
  おびただしい数のチャック像がある。
高僧の墳墓  
  ピラミッド型神殿。崩壊が激しいが、修復されている。
  5つの偽装墓の下に本物の墓が発見されています。

新チチェン・イツァー

 チチェン・イツァーの大神殿  頭蓋骨の城の壁  聖なる泉セノテ

新チチェン・イツァーの大神殿・エルカスティージョ 
   スペイン語で「城または、城壁」という意味。
  「春分と秋分の日」の“蛇神ククルカンの降臨“は、北側階段の側面を年に2回だけ天から羽が影となって
   現れるという現象で、マヤ文明の天文学と建築学の高度な知識を象徴しています。
 マヤの暦にも驚かされますが、
 このピラミッドは、四方の階段は各91段ありこれに頂上の1段を加えると1年365日になるように造られています。
    (91×4+1=365)
ツォンパントリ(=頭蓋骨の城) 
   生け贄の骸骨をさらす場所だった。
聖なる泉セノテ (生け贄の泉) 
   ユカタン半島最大の規模の神話に彩られた聖域の場で、泉の底からは、生け贄と同時に多くの
   捧げられた貢物も見つかっている。

カンクン 純白のビーチが広がるカリブ海のリゾート地

 カリブ海のリゾート地・カンクン  遺跡内の土産屋  メキシコシティの広場で伝統舞踊

                     2010年7月29日筆               ページ先頭へ



 

花のオランダとおとぎの国ベルギー
                      
 
2007年3月28日~4月4日に出かけた、花のオランダとおとぎの国ベルギーの11都市です。

 オランダベルギールクセンブルク3国は、俗称ベネルクスと呼ばれ地図でも
 判るように、北西は穏やかな砂浜が続きドーバー海峡を渡ってイギリス、南は
 何処までも続く平原を行くとフランス、そして東はなだらかな丘陵地帯が
 ドイツへと続いています。
 肥沃な土壌の地は、人口密集地帯となり、歴史的には波乱の歴史と結びつくのです。

 ベネルクスは、15世紀(日本・室町時代)にブルゴーニュ公国として初めて
 国らしいまとまりをみせますが、長続きせず1568年に始まったスペインからの
 独立戦争によって分裂する。
 北部オランダは、ドイツに起こった宗教改革によってプロテスタントの国として独立し、
 市民国家となる。
 一方、スペイン領として残った南部カトリック地域は、その後も
  順次オーストリア、フランス、オランダの支配を受け続け、1830年(日本・江戸後期)の独立戦争によって
  初めてベルギー国となり、大陸での最初の産業革命を導入し工業国として成功。

  1867年(日本、明治維新1868年)にルクセンブルク大公国も独立。


 国旗

 【オランダ】

 [オランダ]の正式な国名はネーデルランド王国で、面積は九州ほどの大きさです。
 オランダという名称は、ポルトガルから伝わったもの。
 またネーデルランドは“低い土地”という意味で、オランダの国土の4分の1は海抜0m以下です。
 
  オランダの歴史は、水という自然との闘いにも結びつき、治水工事、
  そして堤防を築き運河を造り、干拓によって土地を拡げ‘オランダはオランダ人が
  造った’と云われている所以です。
   名物の風車は、運河の水の調整役として、粉挽き用として今でも使われている所もあり、
  キンデルダイクの風車は世界遺産に登録されています。
  水の脅威と闘いそれを克服したオランダ人は、今では自然を愛し自然を生活に取り入れ、
  ゆったりと生活を楽しむ国民となりました。
  風車に運河、さまざまな色彩の花々、国全体におとぎ話のような風景が溢れています。
  17世紀に世界中の富がオランダに集まった黄金時代、芸術も花咲くのです。
  その一人がレンブラントでありフェルメールです。
  19世紀になると、日本の浮世絵からも強い影響を受けたといわれるゴッホも登場します。
 
 国旗 赤は独立の戦いに臨んだ国民の勇気を、白は神の祝福を願う信仰心を、
    青は祖国への変わらぬ忠誠心を象徴する。
   なお、この国旗は縦長に抑揚してはいけない。
   国旗が似ている国は、ルクセンブルクでオランダ国旗の基本色は、赤・白・青ですが、ルクセンブルクは、
   明るい水色です。オランダ国旗は世界最初の三色旗(トリコロール)といわれます。


アムステルダム 
   13世紀、アムステル川の河口近くの平地にダムを造り人々が住み始めたのが今の町の始まりで、
   港町として栄えていきスペインからの独立戦争の後、17世紀には世界初の株式会社・東インド会社の
   本拠地となる。

     
レンガ造りの橋が折り重なり見る事ができる 17世紀に造られたマヘレのハネ橋 へーレン運河のハネ橋
     
 へーレン運河の岸・17世紀の豪商の邸宅    アムステルダムの港

キューケンホフ公園(リッセ)   
   ヤコバ伯爵夫人の所有地で(庭=ホフ)狩りや野菜の栽培に使用され、台所(=キューケン)に供されていた。
   これが1949年花の公園として開園されキューケンホフ公園となった。 
デルフト 
   陶器で有名なデルフトは、フェルメールの生まれたところ。
キンデルダイクの風車群 
   ロッテルダムの南東約10kmの所にある。風車の中を見学することも出来た。

     
 キューケンホフ公園    外国人の旅行者と
     
キューケンホフ公園隣接のチューリップ畑   デルフトの陶器工場   キンデルダイクの風車



ベルギー]の正式名は、ベルギー王国。

 国旗

 面積は四国の約1.6倍、
  この小さな国で北部はフランドル地方、南部はワロン地方、その中間がブリュッセル、
  この三つの地方政府と、オランダ語圏、フランス圏、ドイツ圏の三つの共同体が
  連邦制をとっている独特の国です。

  ヨーロッパ大陸の長い歴史のなかで侵略され続けてきた2大民族(ゲルマンとラテン)の
  融合と調和を 実感されられる国でもある。
  古くはローマ時代のシーザーのガリア征服によるフラマン人
  (オランダ語の方言のフラマン語を話す)、片やローマ領となり、
   ラテン語(=フランス語)を話すワロン人、第1次世界大戦後に
   ベルギーになったかってのドイツ領の人たちはドイツ語を話す。
  写真でも判るように、ベルギーは言語の違いだけでなくフランドル地方
  (左上、鐘楼の塔の上から見たブルージュの町)と  ワロン地方
  (下、ディナンの町のシタデル=城砦から)では町の様子がずいぶんと違って感じます。

 アントワープ  
   オランダの国境までわずか30kmのベルギー北部に位置する港町、そして世界のダイヤモンドの
   研磨・取引の中枢、そして17世紀には画家ルーベンスが活躍した町。

 ノートルダム大寺院 
   1352年から約170年の歳月をかけて建設されたゴシック教会、塔の高さ約123m

  街の中心のグローテ・マルクト広場“ブラボーの噴水”がある。
  古代に猛威をふるっていた “巨人の手=ant”を切り取って“投げた=werpen”という兵士の像で、
  アントワープの名前の由来とされている。
肉屋のギルドハウス 
   1503年の後期ゴシック様式、19世紀まで肉の取引がされていた。

        
 ノートルダム大寺院前の私   肉屋のギルドハウス 

ブルージュ 
   フランドル州の水の都。ブルージュとは“橋”の意味。
   町の縦横に流れる運河、それにかかる美しい橋、港町の機能を失った街は中世の景観をそのまま残している。
マルクト広場 
   ブルージュの中心、ヨーロッパでも5指に入る美しい広場。
   真ん中に英雄ヤン・ブレーデルとピーテル・デ・コーニンクの銅像がある。
愛の湖公園  
   中世時代内港だった所、今では運河と水門で仕切られた湖となっている。

     
 マルクト広場  運河沿いの美しい風景 1枚の絵のような美しい愛の湖公園

メヘレン 
   アントワープとブリュッセルの中間に位置する。
   1506年からの25年間ネーデルラントの首都として栄えた。
聖ロンバウツ大聖堂 
   13世紀から300年の歳月をかけて建設されたゴシック様式の教会。

ルーベン 
   13~14世紀に一時は栄えるが、市民と貴族の争いで衰え、18世紀にビール産業で再び栄える。
   学生の町でもある。
フランボワイヤン・ゴシック様式の市庁舎
   町の中心グローテ・マルクトに面して建つ。
   15世紀の半ばに建てられる。美しい正面は“石のレース”とも呼ばれる。

     
  聖ロンバウツ大聖堂  おとぎの館のような市庁舎 フランボワイヤン・ゴシック様式の市庁舎

アルデンヌ地方  
   ベルギー東南部、古代ローマ時代から交通、軍事の要衝として栄え、そのために多くの城や要塞が造られた。
ナミュール 
   “ムーズ川の真珠”と云われる町。
ラヴォー・サンタンヌ城  
   要塞で狩猟の場となっていた。
ディナン 
   ムーズ川が造った断崖の下に開けた町、シタデル(城砦)がありロープウエイで登れる。
   たまねぎ型の尖塔が美しいノートルダム教会がある。
   またサクソフォーンはこの町で生まれた。

     
 高台よりナミュールの町  ラヴォー・サンタンヌ城  ロープウェイから、眼下のディナンの町

ブリュッセル 
   “湿地帯にある砦”を意味し、約1000年の歴史を誇る古い町。
   今では経済、政治、文化の面でもヨーロッパの中心地となりつつある。
   町の中心地・グラン・プラス(大広場)は、ギルドハウス(商人の家)に囲まれている。
   近くには有名な“小便小僧”がある。
 市庁舎 
   15世紀に建てられたゴシック・フランボワイヤン様式の建物。
 セルクラースの像

    
この像に触れる人々に幸福をもたらすという言伝えがある。触れる所が金色に輝いている。

       
ノートルダム寺院のステンドグラス 市庁舎中央の塔に聖人ミカエルの像  ブリュッセルの中心地グラン・プラス
     
 小便小僧  セルクラースの像  

古都ゲント 東フランドル地方の中心地。

 聖バーフ大聖堂 
   12世紀に建て始められ16世紀に完成、15世紀フランドル絵画の最高傑作『神秘の仔羊』がある。
   運河には、コーレンレイ(小麦河岸)、グラスレイ(香草の河岸)と呼ばれる
   ギルトハウス(商人達の邸宅)が建ち並ぶ。
 旧魚市場だった建物は、
   17世紀のもので海神ネプチューンの彫像がある。
   この町は、マスタード発祥の地でもある。土産に買いましたが、昔懐かしいで計って売ってくれます。

     
聖バーフ大聖堂前のファン・アイク兄弟 水面に美しい影を映すコーレンレイ 旧魚市場・ネプチューン像

世界遺産トゥルネー 
   ベルギー南西部に位置し、5世紀にはフランク王国の首都になっている古い町。

 ノートルダム寺院
   12~13世紀建立のロマネスク教会で5つの塔を持つ。
   内陣は13世紀に初期ゴシック様式で建て替えられていて、身廊と比較するとロマネスクとゴシックの
   違いがよくわかる。

         
5つの塔を持つノートルダム寺院 グラン・ブラスから見たノートルダム寺院  寺院内の見事なバラ窓のステンドグラス
     
   夜景    ベルギービール    ベルギーの親子

                                    2010年3月21日筆      ページ先頭へ





フランス古城の旅

   2008年12月30日~2009年1月4日まで(暮から新年にかけて)出かけた
  フランスの古城巡りです。
  いつもは、混雑しその上、割高になる年末年始を避けて出かけるのですが、
  この時は、娘の都合に合わせて出かけることになりました。
  案の定、地方のほとんどの店は、休業!?  
  なんと、1月1日の夜は、レストランが閉まっていたため(格安ツアーのためか?)
  どこか開業している所を捜しまわるのも不安で面倒で、
  ホテルの部屋で日本から持参のカップラーメンを食べました(これも思い出?!)
                  日本で迎えるお正月では、考えられないことでした。

   冬のヨーロッパは、早く日が暮れます。
   そして若き頃イタリアに留学・滞在していた時も感じたことですが、全体的にヨーロッパの冬は暗く、
   日本の方が明るくて陽気です。
   しかし、さすがパリの街だけは、世界中からやって来る観光客で賑わっており、
   夜はイルミネーションできれいでした。

世界遺産 モン・サン・ミッシェル

  モン・サン・ミッシェル   王の門(島の入口)   娘 城壁の上から潮の満ちる様子が見える

   西洋の神秘と呼ばれる孤島。
   ノルマンディとブルターニュの境界近くに位置しフランス随一の巡礼地。
   起源は708年(日本 天平文化・奈良時代)、聖オベール司教が夢で見た天使ミカエルのお告げにより
   修道院を設立したのが始まり。その後、数世紀にわたり増改築がなされたため、ロマネスク様式、
   ゴシック様式などが混ざり合っている。以前は島全体が水に囲まれていた。
百年戦争中(1337~1453年有名なジャンヌ・ダルク活躍時)(日本 室町時代)は
   英仏海峡に浮かぶ要塞として、ナポレオン(1769~1821)(有名な言葉『わが辞書に不可能はない』)
   (日本 江戸時代)の治世時代には牢獄として、宗教と政治の絡まりの中で生きながらえてきた修道院である。
 

王の門―島の入口にあり、
   扉を鎖で吊った跳ね橋風になっていて敵の侵入を防ぐために15世紀末に造られた。

グランド・リュ(下図)
   ―修道院の入口までの参道、多くの土産屋が建ち並んでいる。

  土産屋で賑わう参道   修道院  回廊  大車輪・建物の内部に在る

   修道院
    島の頂上にあり、8世紀に建設。
 回廊(ラ・メルヴェイユ〈驚異〉)―
    13世紀のゴシック建築の傑作と称えられている。
 大車輪
    食料などを運ぶために人力で動かす車輪、牢獄として使っていたときは、労働に使われていた。

ロワール地方

  フランス中部にあり「フランスの庭」と呼ばれる、フランス随一の長さ
  (1012km)を誇るロワール川流域一帯。
  世界遺産の城から個人所有の小さな城まで100近くある。
  王族貴族、多くの芸術家、文化人が魅せられた地。







シャンボール城    ダ・ヴィンチ設計の美しい城
  1515年フランス王フランソワ1世によって築かれる。ロワール流域で最大の城。
  祝日のため閉まっており、内部に入れなかったが、中には
  人がすれ違わないで昇降できる2重らせん階段があり有名。
  城の周りは、広大な森林公園となっている。

  シャンボール城   ショーモン・シュル・ロワール城

ショーモン・シュル・ロワール城    
    町の高台に建つ16世紀の城塞
 

  アンボワーズ城   ロワール河畔の城    ロワール河畔の城

アンボワーズ城  
  6世紀からの歴史が眠る由緒正しい城で、ルネッサンスの粋を集めた華麗な城でもある。
  16世紀には宗教戦争の舞台にもなった。

シャンティイ城

  自由行動の一日、娘と2人、パリから日帰りで行ける近郊のお城シャンティイ城へ出かけました。
  パリ北駅からクルイユ行きの列車に乗りシャンティイ・クヴィユー駅下車。
  お正月で休みなのか、地方の駅だからか、待てど暮らせどタクシーが来ません。
  現地の人に教えてもらってそこで地図を片手に駅前に広がる森を(地面は真っ白な雪が積もっていました)
  横切って行きました。最高に気持ちのよい散歩でした。

  森を突っ切って広場に出ると、城と間違えるほどの立派な建物が馬小屋で博物館もありました。

  ガイドさんがいない自由行動は、言葉が通じないと不便です。
  現地の人の話から、なんとなく(ラテン系は、伊と仏と西の発音が似ているので
  イタリアに留学していたお陰でほんの少しフランス語が理解???)
  シャンティイ城は、もっと先だとわかりずっと歩いていくと、氷の張った真っ白な池の中に
  ルネッサンス様式の華麗な城がありました。
  それが16世紀建設のシャンティイ城でした。(ラッキー!!)

  シャンティイ城 氷張る池の中のシャンティイ城・私
駅から城までの森の散歩道の娘    馬の博物館  シャンティイ・クヴィユー駅

パリ

 
 ① 凱旋門   ② 凱旋門 エッフェル塔前   名物のオムレツ

凱旋門 ①、② 
    新年を祝って賑わう夜の景色=昼の景色 

エッフェル塔  
    19世紀後半、万国博を契機に造られたもので、今では「パリの顔」になっている。
    以前にパリに来た時、エレベータで第2、第3展望台まで登っているので
    今回は、エッフェル塔の下から続く広大な庭園シャン・ド・マルス公園を散策。

  これから旅行をされる人にお知らせです。
  何時も(世界各国からの旅行者で)混んでいるエレベータですが、東西南北の4箇所の乗り場を
  よく調べると案外穴場があるものですよ。

                        2010年9月29日筆       
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