02.12.23(MON)         大穴探検隊              赤城山
  [番外編」: 赤城山は死火山なのか、それとも生きているのか。赤城の大穴って知ってますか。前橋生まれの方に聞いてみると土地の人なら皆知ってるそうです。前橋や伊勢崎あたりから赤城を見るとその大穴が見えると言います。地図を見ると確かに大穴川と言う川があり、その沢は噴火口の火口壁の一端が吹き飛んだか、崩壊して沢になったような形をしてる。(何だ、森林公園登山口へ行く林道の有る沢だ。)「吾妻鏡」に噴火の記録がある赤城の噴火口はここだというのです。ここ数年この林道は交通止めで行ってない。であらためて行ってみた。
 今年の8月27日の新聞に「赤城山噴火・鎌倉の記録:火口の大穴判明」というセンセーショナルな記事が掲載されている。赤城の大穴なんて知らなかったので、知られていない火口の大穴が発見されたのかと思った。
  9月22日には新聞に記事を提供した群馬歴史博物館の前館長、峰岸中大教授の講演会も行われ、記事が誤解を与えるような書かれ方になってしまったことに付いて釈明されていた。赤城の大穴自体は何万年も前に大規模な水蒸気爆発か何かで形成され、鎌倉時代の噴火もその大穴から小規模な水蒸気爆発があったのではないか、と言うのが先生の推論である。

  講演会の内容は、赤城山の噴火に付いては鎌倉幕府の史書[吾妻鏡」の建長3年(1251年)4月26日の条に・・・去19日、赤木嶽焼・・・と言う記録が有り裏付けが無かったが、今回、宮城村赤城神社の西宮社家・真隅田家伝来の「赤城神社年代記」、建長3年の項に・・・当於呂嶽、春より焼け始め、4月19日焼出、石砂をふらす事夥しけれ共、当所は無難なり、今赤石平是なり・・・と言う、より具体的な記述があるのを先生が発見し、「吾妻鏡」の記録が裏付けられたというものである。

  噴火した山、於呂嶽は今の荒山、しかし赤城神社は無事だった。噴石や砂は赤石平(=今の小麦沢)周辺に積もったと言うことである。荒山が小規模な水蒸気爆発(大規模な火山灰の堆積や溶岩の噴出した形跡が無い)を起こし、その噴出物が小麦沢に積もったというなら、噴火した場所は大穴の中であるはずだ、と先生は推論している。
大穴の底から見上げた奥壁は霧氷で真っ白。どうした、最近来ないじゃないかと誘っているようだった。
  面白いじゃない。じゃそういう目で大穴を見てこよう。と言うわけで大穴探検隊、もちろん隊員は妻一人。下草が枯れて落葉の落ちるのを待っていました。行かれるようになったら雪が降ってしまい、隊員にこの忙しい時に道も無い雪の崖など歩く気は全然無いと、同行を拒否され仕方なく一人で出かけました。

  赤城南面を巻く国道353号を行くと宮城村に赤城森林公園入り口の案内がある細い農道が有り、さらにその200mほど赤城神社よりに大穴川に沿った林道の入り口がある。この2本の道は沢の奥で合流するが、この合流点より先の沢が大穴と呼ばれる場所である。林道は大穴の底でUターンするように穴の左の壁を登り、すぐこの林道の最高点に達する。そこに赤城森林公園駐車場がある。今は合流点
から先は交通止めだからこちらから来て駐車場に車を入れることは出来ない。
大穴のブナ:村指定の天然記念物の表示がある。大穴のブナと呼ばれる大木である。この林道を何度も通ったが一度も気に止めたことはなかった。
コース:大穴の林道合流点 13:30→大穴のブナ 13:40→右岸の岩壁 14:10-14:30→沢の下 14:40→森林公園駐車場 15:00→林道合流点 15:30 (所要時間2時間)
  林道の合流点に車を置いて大穴のブナの後の崖を登る。三角形の大岩の上に祠が置かれている。その上は苔むした大岩が累々と重なり合っていて、さらに登るとコンテナほども有る四角い大岩が有る。潅木に阻まれて右に回ると急な水無しの広々した沢に出る。これを詰めると5〜10mほどの垂直の岩壁の下に出る。この硬くて厚い灰色の岩の層は、何と赤紫色をした柔らかい火山性の土石の堆積した層の上に乗っているのである。衝立のような岩壁の下を巻いて上に抜けると、又その上に同じような岩壁が有る。鹿が多いらしくあちこちに糞の山がある。その上はすぐ尾根のように見えるが無理をせずここで食事をして下ってきた。

  後で対岸から自分の登ったコースを追ってみると尾根のように見えたその上にさらに岩壁がある。この岩壁の層はまるで階段のように山の斜面を少しづつづり落ちているのだ。そして下をえぐられて耐えきれなくなった岩の先端は自重で破壊され巨大な大岩と成って斜面を転がり落ちたり堆積したりしたりしているのである。

  僕の登った沢のすぐ右にも同じような沢がもう一本有る。面白いことにこれらの沢には出口がない。崩れ落ちた大岩にさえぎられて土石がモレーンのように堆積し、水は岩の間に伏流水として流れ込んでしまうから主沢である大穴川に開く必要がないのだろう。同時にこれらの小沢も大穴と同じように風化して崩壊した小さな噴火口のようにも見えるのである。
大穴の最も下の岩壁。
左の岩壁の上部。この上にすぐ岩壁があり、その尾根の上にさらに大きな岩壁がある。
  ついでなので林道を森林公園駐車場まで歩いて林道の様子を見てきた。林道は綺麗に整備されて車の交通を阻害するようなものは何もないが、林道右手の崖の上はまさに上の写真と同じような巨大な岩石の崩壊現場である。現在太いワイヤと頑丈そうな金網で全ての岩を覆う工事が行われている。かなり進んでいる様に見える。交通止めは一応来年3月10日までである。
薄い雪に覆われた森林公園駐車場は車が一台だけ止めてあり誰か登っているようだった。正面の鍋割山は霧氷で真っ白。この季節しかも夕方なのにこのあたりが真っ白だなんてほとんど経験がない。
  峰岸先生の講演ではもう一つ面白い話がある。噴火のあった建長3年から318年後、時の厩橋城主北条(kitajyou)高弘が赤城神社に制札を下して(高札をたて)、駿河の富士浅間大菩薩が「小路之嶽=荒山」の地へ飛来するとのご神託が度々あり(予兆として噴煙が上がったか)、その事実に疑いない旨を赤城神社の社人が連名で報告してきたことについて、神慮に任せて奉ずるよう指示した。赤城神社では荒山山頂に社殿を設けて富士浅間大菩薩をまつり、慰撫して荒山の噴火を鎮めたと言うのである。このことは当時の富士浅間信仰とも結びついて赤城神社から荒山山頂への参詣ルート一帯は多いに賑わったというのである。当時の神社のあり様や、富士浅間大菩薩というのもメチャ面白いではないか。

  荒山山頂の社殿は、明治14年に赤城神社の東宮社家、奈良原氏が祭主となって、現在の石殿に造りかえられたものだそうで、荒山に登るたびに何気なく手を合わせているが、赤城南麓に住む者としてはゆめゆめおろそかにしては、大菩薩の怒りを買い荒山が噴火しないとも限らないのである。私はどんな高い山の上にもある祠が大好きである。あの重い石の祠をみんなで担いで山に登った当時の人々は何を祈り何を願ったのだろう。同時に人の世は何時の時代も人間臭い。・・・当り前か

  さらにもう一つ。講演会に参加した地元の人の話しでは大穴の近くに小穴という所もあるそうである。どんな所か知らないが来年はよく調べて「大穴・小穴探検隊」を派遣しなければなるまい。
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