2000年秋に11シーズンぶりの優勝を果した東洋大学野球部。このページでは、過去9回にわたる優勝の歴史を振り返ります。みなさんから頂いた情報をもとに作成しております。いかんせん私も含めみさなんの学生時代の記憶なので、一部間違いがあるかもしれませんが、その場合は伝言板、メール等でお知らせいただければ幸いです。
情報提供頂いた方に感謝致します。いつの時代も優勝って学生時代のよい思い出になりますね。
第1期黄金時代の1985年春、1986年春、1987年秋の3年連続優勝、第2期黄金時代、私の学生時代の1992年秋から94年秋まで続いた5期連続2位を乗り越えての95年春優勝。
第3期黄金時代が到来する日はいつなのか。このページが優勝でさらに更新される日を信じて・・・
1976年(昭和51年・秋)
松沼雅之(西武)-達川(広島)のバッテリーを擁しての初優勝。ライバルはここまで3季連続優勝の駒澤。
73年秋から続いた4期連続2位を乗り越えての念願の初優勝であった。
4期連続2位の期間、優勝は駒澤が3度。思えば永遠のライバル関係は初優勝の時から始まっていた。
(情報提供:山崎さん)
管理人さんのおっしゃるとおり、私は初優勝の感動を3年生の時に味わいました。しかも神宮の一塁側スタンドで。当日は一塁側に約一万人、三塁側の専修大応援席には約百名。第二試合でしたのでもうすっぽりと闇に包まれ照明に火が灯りました。優勝の瞬間は紙吹雪が舞い紙テープが滝のようにグラウンドまで橋をかけ、選手たちは狂喜乱舞。当時の磯村学長・私設応援団長(応援団の合宿中に死亡事件があり応援団は当時廃部処分。エールの交換の時、肩身の狭い思いをしたのを覚えている。)の八百屋のおじさんと相次いで胴上げを選手から受けました。松沼は勿論の事達川・若松・田中など、すばらしい選手がいました。四季連続の二位に甘んじ今度こそはと念じ続けた思いがやっと結実した瞬間でした。神宮から白山までの提灯行列。白山や巣鴨の飲み屋という飲み屋は東洋大生で溢れ返り、学生とおぼしき若者に出会うと「東洋万歳!」の連呼。私が一年生の時のエースだった松沼博久さんが卒業し「いったいこれからエースは誰に?」と思って行った春のシーズン。スコアボードに「松沼」の名があるではないですか!「松沼、留年かよ(笑)」弟だったとは。あの兄弟の存在があればこその優勝でしょう。そして落合が中退しなければもっと優勝は早まったかもしれませんね(笑)。とにかく、最多優勝回数を誇る専修相手に新しいページを記した東洋も早いとこ区切りの10回目の優勝を達成できるようにみんなで応援しましょう。
(情報提供:マイクさん)
1978年(昭和53年・秋)
エース松沼が学生時代最後のシーズンを優勝で飾った。松沼は4年間で通算39勝。勝利数はいまなお歴代3位に君臨する大記録である。(平成12年現在)。この年の首位打者は後に西武ライオンズで大活躍する石毛宏典であった。2位は専修大学であった。
1982年(昭和57年・春)
7シーズンぶりの優勝。優勝争いは勝ち点4同士で完全優勝をかけ、駒澤と東洋が激突した。東洋戦まで駒澤は8勝1分けの負けなしと快進撃。対する東洋は駒澤戦を前にした亜細亜戦は3回戦にもつれ込み6回まで4対3と1点をリード、7回裏に4点を入れて突き放し、投げては野崎(2年)ー仁村(3年・中日)のリレーで逃げ切り駒澤の優勝を阻止。完全優勝をかけ駒澤との決戦を迎えることになった。勝ち点4同士の完全優勝をかけた対決は18年ぶりであった。
当時の東洋大の中心選手は、ピッチャー仁村徹(中日ーロッテ)、キャッチャー杉本(日通浦和)のバッテリー。内野はサード大西、ショートや山口(三菱重工神戸)、外野は大野(阪神ーダイエー)、長堀(57年秋・首位打者)、控え投手が佐藤秀(近鉄)であった。
第1戦、東洋の先発は仁村。4回に1点を先制されたが、その裏にすぐ2点を取り逆転。6回、7回にも1点ずつを挙げ最終回に1点を返されたが4対2で仁村の完投勝利で先勝した。第1戦の観衆は1万8千人であった。
第2戦は東洋が先制。2回ランナー2塁から6番ショート山口(2年)が三遊間を抜くヒットで1点を先制。先発・左腕野崎は6回まで駒澤打線をノーヒットに押さえた。7回に初安打を許し2死3塁のピンチで守護神・仁村の登板。神宮の杜に「仁村」コールがこだました。このピンチを切り抜け最小の1点を守り抜き7シーズンぶり3度目、初の完全優勝を達成した。
2回戦の観衆は2万4千であった。
このシーズンは13試合すべてに登板した仁村は8勝、打っても2度の決勝打を含む6打点の活躍で最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインの3冠に輝いた。優勝決定戦2回戦の決勝打を放った山口も勝負強いバッティングで優勝に貢献した。
続く全日本選手権では決勝で法政大に3対2惜敗。当時の法政の主力メンバーは西田(広島)、木戸(阪神)、小早川(広島ーヤクルト)、銚子(大洋)秦(ヤクルトーロッテ)などを揃えたスター軍団であった。
(情報提供:なつかしの東武練馬さん、そば湯さん、なおさまさん)
1985年(昭和60年・春)
シーズン開幕前の下馬評は、総合力の駒澤、投手力の亜細亜に集まっていた。亜細亜の布陣はエース左腕阿波野(近鉄ドラフト1位ー巨人ー横浜)与田(中日ドラフト1位ーロッテー日本ハムー阪神)、アンダースロー三原、東山といった強力投手陣を擁し打線は1番鈴木慶裕(日本ハム)、3番佐藤和弘(オリックスドラフト1位・パンチ佐藤)4番に通算15ホーマーの古川慎一(ロッテを中心にどこからでも点の取れる強力打線を誇る好チームであった。
駒澤は秋につづいて連覇を狙う。エース新谷(西武ドラフト2位ー日本ハム)新井、田村勤(阪神)、打線は為永、戸栗(61年春首位打者)、大田代、今井、野村謙次郎(広島ドラフト1位)といったメンバーだった。
我が母校東洋は投手陣は左腕日野、右腕北島の両輪、打線は内藤、キャッチャー森、田中泰、蛭田、若林、前原とやや小粒な布陣であった。
しなしながら東洋は開幕6連勝、勝ち点3で首位に躍り出る。少ないチャンスを生かし、北島、日野の投手陣で守り切り投打の歯車がかみあい勝ち進む。勝ち点4を目指した駒澤戦は1勝2敗で勝ち点を落としてしまい優勝争いは東洋、駒澤、青学の3チームに絞ら混戦となった。
最終の亜細亜戦は、勝てば優勝決定、負ければ2位確定という状況で迎えた。第1戦、亜細亜の先発は予想通り阿波野。優勝のプレッシャーからか打線は空を切り敗北。先勝を許す。しかし、第2戦は打線が阿波野を攻略し1勝1敗のタイに持ち込む。
3回戦、亜細亜の先発は3連投になる阿波野、東洋はは北島、ふりしきくる雨の中プレイボール。1回、東洋北島が亜細亜打線に捕まる。鈴木、盛のヒットに続き、パンチ佐藤の2塁打と3連続長短打で2点を先制されてしまう。しかし2回以降立ち直り、阿波野と互角に投げ合う。4回まで東洋打線は阿波野の前に6三振。3連投の疲れもみせず快投をみせる。
さらに激しく雨が降り続ける中、ついに5回に東洋打線が阿波野を捕らえる。1アウト後、7番若林、8番福島の連続ヒットで1塁2塁、9番北島の送りバントで2アウト2塁3塁とする。続く1番黒川が阿波野の初球のカーブを完璧に捕らえ左中間に2ベースを放ち2者生還。ついに2対2の同点に追いつき試合は振り出しに戻る。一気に息を吹き返す1万人の東洋大応援団、応援歌が神宮の杜にこだまする。唯一のチャンスを生かすこのシーズンの東洋を象徴するようなシーンであった。
試合は6回に入ると雨はなおいっそう激しくなる。ノーゲーム再試合かという雰囲気の中、東洋4番キャッチャー森の打球はライトスタンドへ一直線。逆転ホームランとなり3対2とついにリードを奪う。スタンドは普段、口を聞いた事もない見知らぬ学生同士が肩を組み応援歌を熱唱する。東洋応援団も優勝へ向け一体となっていた。服がぬれようがカッパが破けようがメガホンがぼろぼろになろうがそんなことはどうでもよかった。「優勝」だけがこの人間達には必要だったのだ。
8回から東洋は北島から日野へリレー。3者凡退に得意のカーブで亜細亜打線を退ける。亜細亜も8回、阿波野に代打がだされ東山にスイッチ。
9回、東洋はノーアウト1塁で守備固めで入っていた蛭田が打席に入った。なんとしても追加点が欲しい場面。しかし2球続けて送りバント失敗。嫌な雰囲気が漂う、雨中に乾いた打球音を残しレフトスタンドへ一直線。レフトのパンチ佐藤のジャンプも及ばずスタンドへ。貴重な追加点が入り5対2となり9回の裏を迎えた。
2アウトを取り、「あと一人」コールが神宮の杜に響き渡る。この時、激しく降り続いていた雨は不思議とやんでいた。キャッチャーフライが森のミットに収まった瞬間、7色の紙テープ、紙ふぶきが舞い6季ぶり4度目の優勝が決まった。下馬評を覆すチームワークの勝利だった。
この優勝から3年連続優勝という黄金時代を迎えることになる。
全日本選手権では57年に続いて4対1で猪俣(阪神)を擁する法政に敗れ準優勝に終わった。
(情報提供:アシアの魂さん、OB○○年生さん)
1986年(昭和61年・春)
昭和61年春のリーグ戦における開幕前の予想では優勝争いは昨春優勝時のレギュラーメンバーがほとんど残り、昨秋3位からの巻き返しを図る東洋大学で優勝候補筆頭にあげられていた。
東洋大の他は内外から東都No.1投手の呼び声高く、ここまで18勝の勝ち星を誇る左腕エース阿波野を擁する亜細亜大、さらには昨秋優勝し、新谷、新井といった投手の大黒柱が残り、打の方は為永主将を中心に成長著しい「東都の核弾頭」俊足、好打の2年生野村謙二郎を擁し、虎視眈々と連覇を狙う永遠のライバル駒沢大の2校が続くものと見られていた。
我が東洋大学は下馬評で優勝候補筆頭にあげられていることもあったが、素人の私の目からみても東洋有利ということを感じていた。当然、開幕前から東洋大学学内にも今回は優勝するのではないかという雰囲気があった。というのも当時の東洋大学のレギュラーメンバーは主将であり「打線の中核」4年森浩之(PL学園出→南海ホークスD2位)を中心に「主砲」田中泰(東洋大姫路出→日本通運)トップバッターながらホームランも打てる内藤雅人(静岡学園出)3年生は広角打法の忍成功好(川越商出→東芝府中)飛距離抜群の山下徳人(箕島高出→ロッテオリオンズD3位)一発が期待できる守永克巳(上尾高出→NTT東京)赤堀和夫(上尾高出→大昭和製紙)らの東都No.1を誇る長距離打撃陣。今季の打線については佐藤監督も監督生活の中で最高と太鼓判を押すほどであった。投手力も昨春の優勝経験を積んでいる日野投手(上尾高出→本田技研)を軸に弘田旬(明徳義塾→大丸)3年に小美濃武芳(東亜学園出→中日D3位)そして成長著しい2年左腕の保坂彰茂(横浜商出)というライバル亜細亜大、駒沢大にも劣らない、充実した布陣であった。佐藤監督も今季リーグは「打ち勝つ野球」を看板に掲げ、優勝を狙っていたという。
そして、リーグ戦突入。東洋大学開幕戦の相手は東都の奪三振マシーンといわれた、東都大学奪三振記録87(当時)を作ることになる関清和投手(鉾田一高出→ロッテオリオンズD1位)のいる専修大からだった。好投手がいるということで点はあまり取れないと見られていたが、いざふたをあけてみると一回戦は森、田中のアベックホーマーが飛び出して9対3、二回戦は16対7と投手陣が2試合で10点取られるものの自慢の白山打線が大爆発し、「打ち勝つ野球」そのもので25点をもぎ取り、本領発揮。力でねじ伏せる。この好投手を完璧に打ち崩したことが今シーズンの優勝を予感させる2連戦だった。まずは2連勝で勝ち点1。なかでも森主将は2試合で3ホーマーと大当たり、東洋の快進撃に火をつけるが一方では投手力に一抹の不安を残した。
続く第3週、亜細亜大一回戦は阿波野を攻略し、打線が3点をもぎ取ると、成長株保坂が亜細亜打線相手にを完封。3対0の勝利。続く二回戦はまたも連投の阿波野を攻略し5点をとると投手陣が日野→弘田→保坂の継投で4点に抑え、4連勝で勝ち点2。東都No.1投手を攻略したということで白山打線の面目躍如といったところであった。
第4週は今季、松山英明(PL学園出→オリックス)善波厚司(山北高出→青学大コーチ)吉田直喜(佐世保実出→オリックス)らの強力一年生の加入で台風の目となっている青山学院大であった。一回戦は6対5とサヨナラ負け、今季初の黒星を喫する。二回戦は昨日のサヨナラ負けのお返しとばかりに初回に打者11人を送り込む白山打線の猛攻で一挙6点をあげ、あとは継投で10対7で1勝1敗のタイへ持ち込む。対青山学院三回戦は雨と東京六大学の日程調整により5月18日(日)神宮第二球場で行われることになった。
第6週はいよいよ勝ち点3で首位を走るライバル駒沢大との決戦だ。なんとしても勝たなければいけない。というのもここで勝ち点を落とした方が優勝戦線から脱落することを意味するからだ。対駒沢大一回戦8回終了時点で4対3とリードした東洋であったが9回表4対4に追いつかれる。その裏東洋は代打前原がセンター前ヒットで一塁へ、続く内藤が右翼線に2ベースを放つと前原は一塁から長駆ホームイン。サヨナラ勝ちで先勝。優勝へ一歩前進。二回戦は駒澤の新人石平投手(高田工出→NTT東京)に抑えこまれ、完封負け、自慢の白山打線も沈黙で1勝1敗。三回戦へもつれ込む。続く三回戦は駒澤が2回表ソロホームランで1点を先制し、苦しい展開となったが、その裏死球、四球でノーアウト1、2塁とすると赤堀が右翼線へ2ベースヒットを放ち、まず同点。続く山下の犠牲フライで2対1と逆転する。3回には忍成、田中泰の連続長短打で1点追加し、3対1、8回にはダメ押しで1点追加し4対1となる。投げては3回途中から登板した保坂の好救援で駒澤の反撃を断ち勝利をつかむ。ライバル駒澤に打ち勝ち優勝へ近づいた。
駒大戦2勝1敗で勝ち点3に増やす。ここまで7勝2敗で青山学院三回戦を残していた。この試合に勝てば次週の日大戦が優勝戦となる。5月とはいえ夏を思わせるような陽気でかなり暑かった記憶がある。東都一部の東洋大が神宮第二球場でしかも日曜日に試合をしたのは後にも先にもこのときだけでないだろうか。あの狭い観客席はほとんど東洋大応援団で埋め尽くされていた。青山学院の先発は内山正博投手(鳥栖高出→元日本ハム)対する東洋大はこのリーグ戦で成長し、3勝をあげ、エースと呼ぶのにふさわしくなった保坂投手で始まった。目標のあるものとそうではないものの差が出て、試合は序盤から東洋ペース。白山打線も攻撃の手をゆるめず加点を続け、守永のホームランなどもあり、結局7対1で退け、勝ち点4、8勝2敗でついに単独首位に立つ。
次週の日大戦で勝てば完全優勝だ。対する日大はここまで1引き分けを挟み8連敗とふるわない。勢いの差からいっても優勝は確定したようなものだ。ところがこの気の緩みがあとで痛手を食うことになる。
昭和61年5月21日(水)東京六大学と雨の影響でこの日まで順延された東洋大対日大の一回戦が小雨降り止まぬ神宮球場で始まった。先発はここまで4勝あげているエース保坂だった。立ち上がり東洋が先制し1対0、3回に1点を加え2対0とリードを広げるもののここまで猛威を奮っていた自慢の白山打線のがしめりがちになっていた。4回には日大が2点を返し2対2の同点に追いつく。優勝へのプレッシャーなのか、これまでの打ち疲れなのかなかなか点が入らない。ようやく9回表ワンアウト2塁から内藤が左翼線2ベースでようやく勝ち越し、その裏保坂がきっちり抑え、3対2で勝利。ついに完全優勝へ王手がかかる。明日も湿りがちな打線にならいか不安がよぎるがきっと奮起し、完全優勝することを願い帰路についた。
ついに昭和61年春のリーグ戦を決すべき対日大第二回戦。もちろん優勝戦。昭和61年5月22日(木)快晴、神宮球場での第2試合。日大応援団はほとんどいない。東洋大大応援団は7000人を超えていた。さあ、ここで一気に完全優勝を決めたい東洋大の先発は昨春胴上げ投手になっている、左腕からカーブの切れ味鋭い日野投手、日大はここまで0勝3敗の2年生飯塚投手でプレーボール。初回から東洋ペースで試合は進むもののあと一本がでない。同じく日大もランナーは出すが東洋の好守に阻まれ点に結びつかない。ここまで自慢の白山打線の猛打で勝ち進んできたことがうそのようにがヒットが続かない。優勝へのプレッシャーなのか。相手は格下だと思っていることからくる気の緩みなのか。
日野投手は毎回のようにランナーを背負う苦しいピッチングで明らかに調子が悪く、5回ワンアウトを取ったところでに1年の大立良夫投手(籐嶺藤沢出)にスイッチし、投手戦の様相を呈してきた。投手陣は踏ん張っているのに、打てない。東都を代表するあの阿波野や関や内山を打ち崩した破壊力抜群の打線がうそのように沈黙していた。あせるのは選手だけではない。東洋大応援団からもため息が漏れる。それでも何とか6回に連打で1点先制し、1対0。1点では不安だが、いよいよ優勝に近づく。日大もアンダースローの山田投手(高知東高出)に継投する。その直後日大も連打で1点取り返す。1対1の同点。ツーアウトで得点圏にランナーを残しここでエース保坂登場。きっちりピンチを抑え、1対1のまま。それにしてもヒットが続かない。バットから快音が聞こえない。もうこうなったらサヨナラ勝ちでいいやという言う声が東洋大応援団から飛び交う。そして本当に9回裏サヨナラ勝ちのチャンスがめぐってきた。先頭の若林がヒットを放ち、つかさず2盗を試みる、そして成功。ノーアウト2塁。いよいよ優勝の瞬間がきたと思われた。一気に盛り上がる東洋大大応援団、続く蛭田は昨春ダメ押し2ランを放っている。ここでもヒーローになるはずであった。蛭田の放った打球はセンター前へ(記憶違いかも)。ヒットになる。若林が本塁へ突っ込む。ボールがホームへ帰ってくる。若林すべる。キャッチャーと交錯する。タッチ。微妙なタイミング。セーフならばサヨナラ勝ちで東洋の優勝が決まる。一瞬静まり返る東洋大大応援団。そして判定は間一髪「アウト」。矢のような返球のほうが勝る。うなだれ、ため息をつく、東洋大大応援団。それでも必死に応援を続ける。しかし、後続なくこの回無得点。あと一点でいい。何て遠いホームベースなんだとみんなが感じていた。
そして延長戦突入、エース保坂が踏ん張る。無得点に抑える。白山打線は7、8、9、10、11回とランナーは出すもののあと一本が出ない。ノーアウトでランナーが出ても返せない。試合は完全に東洋大ペースで進んでいるのに得点に結びつかない。それでも点が入らない。投手陣は実力以上に踏ん張っているのにゼロ行進が続く。今季の東洋大ではないようだ。まさに昨日の「不安的中」だ。そして応援団のイライラも頂点に達し始めた12回にはこの試合のヤマともいうべき絶好の得点期を迎える。この回の先頭打者守永の2ベースにエラーが絡みノーアウト3塁となる。ここで日大ベンチは敬遠策を取り、続く2者敬遠。ノーアウト満塁と絶好のチャンス。またまた盛り上がる東洋大大応援団。この得点機に、ここまで完璧な救援を見せていたエース保坂に代打が告げられる。佐藤監督も勝負にでる。しかしながら、代打唐川は凡打に倒れ、1アウト。でもチャンスはまだ続く、得点圏にランナーを残し、バッターは内藤。バットが空を切る。たった1本のヒットでいいのに出ない。2番松本もあえなく三振に倒れ無得点に終わる。特に1アウト後の内藤のスイングは明らかにホームランを狙っているスイングであった。アンダースローのボールにタイミングがあっていない。白山打線の「切り込み隊長」内藤選手はここまで6打数ノーヒット。白山打線の中核5番森捕手は5打数ノーヒットと得点への鍵を握る2人が大ブレーキ。これでは得点は入らない。12回の攻撃が終わると東洋大応援団はため息から怒りに代わる。「いったいどうしちゃったの?」「頼むぜーホント」
チャンスあとにピンチありとはよくいわれるが試合は日大ペースになるかと思われたが、好投を続けていた保坂に代打が出た関係で代わった弘田が13回表を3者凡退に抑える。もしかしたらまだ東洋にツキが残っているかもしれない。それにしてもまさか、ここまで8連敗中の日大に手を焼くとは思っても見なかった。甘く見ていたからなのか。「優勝」の生みの苦しみなのか。自慢の白山打線はここまで2ケタ10個の三振の山を築いていた。
何とかして欲しい、早く優勝を決めて欲しいと願う13回裏は東洋大学の先頭打者はここまでノーヒットの忍成から。やはりというかなんというか凡打でワンアウト。久々の3者凡退で終わるかなと思われたこの回の次の打者は白山打線の主砲4番副主将田中泰選手の登場。プロのスカウトが注目するほどの飛距離を持った長距離バッターだがここまで5打席ノーヒット2三振2四球であった。
山田投手は初球ストレートでストライクを取る。何とか打ってほしいと願う東洋大大応援団。当時田中泰選手は背番号8でサードを守っているということあり応援歌は巨人の原辰徳と同じ「エイトマン」のメロディーであった。このメロディーに乗せ「かっ飛ばせー!ヤスシ」コールが神宮の杜に響き渡るなか山田投手の2球目肩口からのカーブを待ってましたとばかり、思いきり叩く。「カーン」心地よい打球音を残したライナーだ。東洋大大応援団も全員立ち上がり打球の行方を追う。一瞬の出来事だった。そして打球はライナーでレフトポール際のスタンドへ一直線。レフトスタンドで白球がまるでピンポン玉ように跳ねる。「サヨナラホームランだー」今までの打てなかったうっぷんを、打線の不安を、ここまでのイライラを一瞬にして吹き飛ばすかのような打った瞬間にそれとわかる見事な当たりだった。まさに劇勝。いままでサヨナラアーチで優勝決定ということがあっただろうか。「東洋大学 2季ぶり5度目の優勝決定!勝ち点5 10勝2敗 完全優勝のおまけ付き!」
一気に沸き、歓喜の渦に包まれる東洋大大応援団、誰しもが待っていたこの瞬間。これまで打てなかったことさえ、忘れさせてしまう田中選手の一発。われんばかりの大拍手、抱き合う者、泣く者、うれしさを体いっぱいで表現しあう。7色のテープ、紙ふぶき、メガホンが初夏の夕暮れの神宮に投げ込まれる。マウンドでがっくりひざを落とす日大山田投手、一方、田中泰選手は1塁側の東洋大大応援団に向かって「オレが打ったんだ、オレが決めたんだ」といわんばかりの歓喜のガッツポーズを繰り返す。応援団も「ヤスシ、ヤスシ、ヤスシ」とヤスシコールで応える。学生生活最高の瞬間。あまりにも劇的な幕切れだった。勝者と敗者の明暗がはっきりでた瞬間でもある。そして、勝利をたたえる、東洋大学校歌斉唱「亜細亜の魂 再び処々に〜」こんなに気持ちよく唄えた校歌が他にあったのだろうか。
今季の優勝は下馬評通り東洋の優勝で幕を閉じた。「打ち勝つ野球」をテーマに掲げた東洋大白山打線、一試合平均「5.7得点」を誇り、破壊力満点だった。終盤、打線が下降気味になると投手力で持ちこたえたが、最後は打力で決めた格好となった。昨春、北島、日野両投手を軸に少ないチャンスをモノにしてきた優勝とは一味違う優勝でもあった。
ちなみに翌日の新聞の見出しは日刊スポーツが「東洋大やった完全V 田中サヨナラ劇砲」朝日新聞が「東洋大Vサヨナラフィナーレ 延長13回田中がサヨナラアーチ 自信の打で快進撃」だった。
今度はこの「打ち勝つ野球」で全日本大学選手権へとコマを進める。過去2回決勝で負けている法政大に勝つために。
(情報提供:アジアの魂さん)
1986年(昭和61年)6月15日全日本大學野球で、流通経済大を破り、
大学日本一に輝いたときの1番打者が内藤雅人(当時4年)で静岡学園出身でした。
当時の4番は田中泰(東洋大姫路)で、森浩之捕手が主将、山下徳人(箕島、のちロッテ)がいて、投手は保坂。38歳の高橋監督(当時佐藤)は監督就任15年目で悲願の日本一。
1回表、先発のエース保坂が流通経済大にいきなり連打で無死2、3塁のピンチ。
「今日は乱打戦になるなあ、と観ていたが、後続を抑えて0点。
東洋大は2四球と森の安打で1点先行。さらに2回には1番内藤の3塁打などで3点。
こうなると東洋の強打線は止まらない、森の3塁打などをはさみ3点追加で3回を終え7対0。
保坂は打たれながらも要所を押さえ、5回まで流通経済大を無失点に抑える。
変化球でかわして、打ち気がないと見ると直球をズバリと投げ込む。いい当たりも外野飛球になる。
しかし、6回表には流通経済大の打線につかまり、3連打で2点を返され、7対2。
まだまだ大逆転の可能性を残す展開。いやな予感を完全に消したのが7回裏の東洋大山下徳人1塁手の2点本塁打。長身の7番打者が放った一打は、反撃の望みを完全に打ち砕くダメ押しとなった。9対2となり、8回2安打、9回2安打と必死に追いかけた流通経済大をまたも保坂が粘り強く抑えきった。東洋大学創立99年目で大學野球日本一の栄冠に輝いた瞬間、神宮に歓喜の輪ができた。高橋(当時佐藤)監督の体が胴上げで宙に舞う。森浩之主将も続いて胴上げされる。
後日談だが、当時3年の山下の本塁打がプロ野球スカウトの目に留まり、プロ入りの決め手になったのではと思われる。
大学日本一をかけて昭和50年代後半から60年まで、東洋大は決勝で法政大に2度破れ、あと一歩で栄冠を逃してきた。
東洋大は9安打で9点、対する流通経済大は13安打で2点。残塁13が語るように、保坂投手が粘りに粘って9回を投げきり完投勝利。
「今度は宿敵法政大に勝って日本一」の心意気から20年が過ぎた。
1987年(昭和62年・秋)
亜細亜大に連敗で勝ち点4で全日程を終了。青学が中央に初戦に破れたことにより優勝が転がり込んできた。この年、東洋大学は創立100周年で優勝が義務づけられたシーズンであった。
(情報提供:アジアの魂さん)
1991年(平成3年・春)
10勝2敗勝ち点5完全優勝。87年秋100周年Vから遠ざかること7シーズン。この間、常にBクラス、入れ替え戦2回そして2部降格1シーズンと暗黒の時代を乗り越えての優勝だった。
90年(平成4年)も春・最下位、秋・最終の日大戦に勝っての5位と苦しいシーズンだった。
主将・桧山(平安高→阪神D4位)を中心に当時のシーズン記録となる15ホームランと打線が爆発。投手陣も好調、和田(拓大紅陵→千葉ロッテD3位)、関口(大宮工→日本通運→横浜D2位)、そして1年生銭場(伊奈学園)がそれぞれ3勝と投打ががっちりかみ合った優勝だった。
青学3回戦で1年生投手・銭場が延長12回を投げきり勝ち点をあげ、一気に優勝へ加速した。
MVPは銭場が選ばれた。このシーズンにベストナインに選ばれた選手は、1年生2遊間コンビのセカンド西岡(常総学院→松下電器)、ショート明比(PL学園)とキャッチャー徳田(現日本ハムスカウト)、サード桧山が選ばれた。
神宮には1万人を超す学生が集まり、管理人もその1人であった。当時18歳。青春だったなあ〜。
(情報提供:東洋大学雑誌研究会発行・キャンパスストリート35号参照)
東洋の聖学府さんより情報提供『当時の神宮球場ガイドブック』より。
4月2日東洋5(和田)×3(秋田)亜細亜、桧山1号。3日亜細亜3(小越)×2(関口)東洋、徳田1号。
4日東洋7(銭場)×6(小越)、徳田2号、谷川1,2号、桧山2号。
4月9日東洋0(和田)×0(若田部)駒沢。10日東洋4(関口)×3(岡本)3駒沢、関口1号、徳田3号。
11日東洋5(恩田)×3(若田部)駒沢、桧山3号、杉本1号、徳田4号谷口1号。
4月23日青山3(木村)×0(和田)東洋。24日東洋7(銭場)×2(筒井)青山、桧山4号。
25日東洋3(銭場)×2(木村)青山。
5月1日東洋7(和田)×4(徳留)専修。2日東洋4(関口)×2(徳留)専修、石村1号。
5月14日東洋7(和田)×1(河村)日大、杉本2号この日優勝決定。
8日東洋1(関口)×0(滝沢)日大。
私の実感としては開幕で苦手だった亜細亜に勝って勢いに乗った気がします。後は銭場の神がかり的活躍と当時リーグ記録の15本塁打の打ちまくりでしょう。スクイズバントはやらないと公言していた高橋監督。実際必要としないシーズンでした。
ちなみにこのシーズンのベストナインに後にプロ入りする5選手がいました。投手木村(青山・ジャイアンツ)、捕手徳田(東洋・ファイターズ)、三塁手桧山(東洋・タイガース)、外野手真中(日大・スワローズ)、同町田(専修・カープ)。
当時右の町田に左の桧山といわれていたものです。
学生がバックネット裏から三塁側内野席をこえ、第二内野席(内野と外野の間の三角形の所)までうまっていました。第一試合の青山VS専修との学生入替えの混雑解消のために、球場本部で我々応援指導部と青山応援団と球場職員で話あい、青山応援団の好意もあり第一試合中に学生を応援席に入れる事になりました。六大学では当たり前の事ですが、東都ではほとんど無いことで不安もありましたが、体育会本部の力を借りなんとか誘導する事ができました。
試合の方は楽勝でしたが、先発の和田投手(3年)が銭場投手(1年)に胴上げ投手を譲ったのが印象に残ってます。
しかしこの日、スポーツ界にもう一つ大きなニュースがありました。それは大相撲横綱千代の富士の引退!優勝の祝い酒で気持ちよく帰宅した私は、親から千代の富士引退の話を聞き、酔いが一発でふっとんだ事を今でもおぼえてます。それは千代の富士ファンだからではなく、翌日の新聞記事を取られてしまう危機感からでした。実際、当時の椿野球部マネージャーが懇意の記者から「ごめん。記事大きくできない」との電話があったと私に話してくれました。それでも記事のあつかいは心配していた程ではありませんでした。それだけに千代の富士引退が数日遅ければと今も思います。
1995年(平成7年・春)
10勝2敗1分け勝ち点5完全優勝。
8シーズンぶりの優勝。
ここまで5期連続2位という東都大学リーグタイ記録で迎えたこのシーズンは勝ち点4同士で青学との最終決戦で完全優勝をかけて戦うことになった。
青学はエース倉野(ダイエー)が7勝、沢崎(広島)、打線は井口(ダイエー)と戦力充実で秋春連覇を狙っていた。
東洋大は、投手陣では銭場、岡崎、野手では西岡がぬけたものの、投手では塩崎、和田、倉、野手では、主将・清水、今岡が健在とこちらも戦力充実で念願の優勝を目指していた。
1回戦の先発は青学・倉野、東洋・塩崎で始まった。青学が初回に先制するが4回に失策につけ込み3点をあげて東洋が逆転、8回にも追加点を奪い塩崎が完投で4対1で先勝した。
2回戦は、青学・沢崎、東洋・倉の先発。この試合、NHKでラジオ中継がされており、新入社員であった管理人は先輩社員に隠れてラジオに聞き入っていた。3回に今岡が先制ソロホームランが飛び出す。スタンドからの大歓声がラジオを通して聞こえてきた。しかし、青学がスクイズ、井口のホームランなどで4点挙げ、沢崎ー倉野のリレーで東洋を1点に押さえタイに持ち込んだ。この時、8回に飛び出した井口のホームランに会社のトイレでがっかりしたことはいまだに忘れられない。スコアは1回戦と同じ4対1であった。
そして決戦の3回戦。先発は1回戦と同じ青学・倉野、東洋・塩崎であった。試合は激しい打撃戦となる。先制したのは東洋。4回に3点を先制。5回にともに1点ずつを奪い4対1。しかし、青学に6回に4点を取られ4対5と逆転されてしまった。東洋も引き下がらない。7回に2点を奪い6対5と逆転。だが、青学も譲らず8回に1点を挙げ追いつく。試合は延長戦へともつれこんだ。
そして歓喜の瞬間が訪れた。11回2アウト満塁、バッター池葉が2アウト満塁カウント1−3からボールを選び押し出し四球でサヨナラ勝ち。5期連続2位の苦しみが溢れ出した優勝であった。
平均6点をたたき出した打線とMVPに輝いた5勝を挙げた塩崎。力強い優勝であった。
(情報提供:東都スポーツ1995年秋季リーグ展望号参照)
2000年(平成12年・秋)
9勝4敗1分け勝ち点4
優勝から遠ざかること5年・10シーズン。1976年秋(昭和51年)初優勝から続いていた、在学中1度は優勝するというジンクスも途切れてしまった。この間2部降格あり、入れ替え戦4度という苦しすぎる時代だった。
2000年春も駒澤との最下位決定戦に敗れ、入れ替え戦へ。立正大との入れ替え戦を2連勝・2回戦は小板(浦和学院)のサヨナラホームランで1部残留を決めた。
そして迎えた秋。中央との3回戦でエース三浦(浦和学院)が8回までノーヒットノーランの好投を見せまず勝ち点1を挙げる。
続く春の覇者・亜細亜大戦をエース三浦が連投で1点差をしのぎ連勝で勝ち点2とし1部残留へ大きく前進する。順延で残っていた日大に敗れ勝ち点を落としたが、青学戦に優勝争いの生き残りをかけた。
対青学1回戦は青学オリンピック選手石川とエース三浦が投げ合い引き分け。2回戦も三浦が連投し3対1で接戦をものにする。3回戦を延長サヨナラスクイズで落としタイに持ち込まれたが、4回戦はオリンピック選手石川から小板がホームランを放ち三浦の力投で勝ち点3とし優勝争いに生き残る。
そして勝ち点を挙げたほうが優勝の駒沢との直接対決を迎えた。エース三浦の連投、試合巧者駒澤を振り切っての優勝。
(この決戦の詳細は2000年秋・駒澤決戦をご覧下さい。)
春最下位からの優勝は1958年の学習院大以来42年ぶりの快挙。春最下位だった要因の守備を例年なら8割がた打撃練習にあてていたが守備を猛特訓したことが優勝つながった。エース三浦も7勝、96回2/3を投げぬいた感動の優勝であった。