4話/THE DAY それぞれの夜 (And the reverse side)

                                                                                    
文作:みさ
「別に悪気でやったんじゃないから勘弁。その代わり今度姉ちゃんも連れてき。アタシが笑い倒してやっからさ」

 フサァっと、布の擦れ合う音が掠める。

「え?ホント?」

 冷めやらぬ身体を、おずおずと、肌越しの感触のよいそれの中へ潜り込ませつつ、思わず聞き返す。

「もっちろん。ま、オメーの姉ちゃんは、あーゆー性格だから、役のテンション維持するにはちょっっぴし大変だけどサ、その分は、オメーから吸収してっから大丈夫。いつでもいいよ」

「そっか。ミチねーちゃん。ありがと」

 月の明かりが照らすその光にボクは慰められる想いがした。






 その日、ボクは、なぜか寝付くのがとても遅かった。




 闇の帷が満月の輝きを導き、星々も瞬きながら神秘の女神とワルツを踊る。天球の様は今夜も万人に光を注いでいるように見える。

 月のかぐやが故郷を眺めていたなら、二人の官女が座興に耽る様と、そこからほんの僅か離れた処にある三重の塔から、自分とよく似た髪を持つ少女が、こちらを仰ぎ見ている様とを同じ点景として見遣った事だろう。

 どこか雑然とした居住区に佇むその塔は四方を面に囲われ、時の流れがもたらす変化の様を示している。

 最上階からは今もくっきりと少女のシルエットが窓辺に浮かんでいる。

 と、その影がすっと揺らいだかと思うと僅かばかり縮まった。よくよく凝らしてみると影の主は出窓に手を添え頬杖を突き始めている。その瞳は飽く事無く空の彼方を向いている。

「あの都知事が街の明かりを消し去るように定めを書き直してくれないものかしら。そうすればきっと、もっと多くの星達が偽りの光を嫌うことなくその力を月に捧げるんだわ」

 少女は天宙を見上げたままそう呟いた。

 部屋の機械仕掛けの灯火は、星々への敬意を払うかのように、ごく弱くごく暗く中の様子を照らしている。

「どうかしら、作業の進捗状況は」

 先程より大きな声で、淡い桃色のバスローブに身を包む少女は振り向きもせず符牒を口にする。

「あっ、はい。もうこれで終わります」

 中側からは慌てた声が返ってくる。カタカタとキーボードの叩かれる音が部屋の静寂を閉ざし続ける。

「今そっちに行くわ」

 名残惜しそうに目を細めると、出窓に持たれ掛けていた上体を起こしくるりと反転する。月の祝福を受けたその表情は、見るものなどいなかったがその時確かに微笑んでいた。そのまま部屋の中程に設置されているモニターの方へと歩み寄っていく。

 モニターから放たれた人口の光は、肘掛付きの椅子に腰掛けるもう一人の少女の顔を浮かび上がらせている。

「ずいぶん頑張ったのね。で、今日は何をしたのかしら」

 彼女はもう一人の少女が腰掛けるそれへと立て肘を突きながら言った。

「はっ、はい、まずは全般的にフォントと背景の色を見直して変更しました。それと、理沙さんから頂いたお店の資料写真を、全部減色してサイズを縮小しました。あと、出張シェフの規定項目を追加しました」

 作業を続けていた少女はそう言い、丁度90度向きを変え座り直すと遠慮がちな体を見せながら左手で右肩を揉み解し始めた。

「そう。後の二つはともかくとして、色の見直しはなぜそうしたの。わたくしはあの配色は気に入ってたわ。店のイメージとも調和していて良いと考えていたけど」

 凛として刺すような響きの声だった。

「あっあの…ゆりえさんにも誉めて頂いたので、できればそのままにしたかったんですけど、調べたらアクセシビリティっていうのがあって、あまり良くない配色だって判ったんで替えてみたんです…まずかったですか?」

 新たな作業を開始した少女は無意識にその手を止めると、どこか怯えるような声でそう聞き返した。

「聞き慣れない言葉ね。定義を教えて頂戴。判断できないわ」

 ゆりえは、はっきりと明瞭な口調でそれでいて曖昧な問いを返した。

「あっ、アクセシビリティですよね。アクセシビリティって言うのは、コンピュータ操作が困難な肢体不自由な障害を持つ人や、視覚障害を持つ人達がWebを活用する事を想定することなんです」

 メデューサの御姿により彫像と化した娘は、慌てて知識を掘り起こし確認しながら告げた。

「そう。その定義通りとすると、視覚障害を持つ方へ対して考慮したって結論になるのかしら」

 ソフィアを思わせるその頭脳は直ぐ様、与えられた情報から成る彼女の分析結果を言葉にする。

「はい、そうなんです。今までの色の組み合わせだと、色弱の人が文字と背景とを見分けられないそうなんです。色弱の種類も何通りかあるらしくて、一番良いって言う組み合わせは無いそうなんですけど、避けるべく指定されているパターンは確実にあるそうで、今までの配色はそのパターンの中に含まれてたんです。だから…替えた方がいいって思って……」

 息吹を取り戻した娘は幾分落ち着いた声で、知ったまま、感じたままの事柄を口にする。

「成程、貴女らしい発想の仕方ね。いいわ。要はそうした方がより多くの人に対して見せる事が可能になるって解釈でいいのね」

 得心したのか、知啓の女神は頷いてようやく主旨を肯定した。

「そう…ですね。見て頂けなかったかもしれない人達が見て下さるかもしれないって事ですから」

 明らかにほっとした表情を見せ、それでも肯定された言葉を追う事は止めずに丁寧に噛み砕きながら、彼女は自身の言葉へと置き換えて行く。

「『このWebページはアクセシビリティを考慮しています』って一文をTOPページに入れておいて頂戴。もちろんさりげなく目立たないようにでいいわ。貴女がそう言うこと気が付いてくれて本当に助かるわ。わたくしはそういうの苦手なの」

 幾分口調を和らげると、ゆりえは要望と謝礼と告白とを述べた。

「そっ、そんな、とんでもないです。こんなに高価なパソコンを使わせて頂いてるばかりか、ソフトや周辺機器までわたしの好きなものを買わせて頂いて、それを自由に使わせて頂いてるのに…」

 慌ててかぶりを振ると彼女は反射的にゆりえの腕を掴みながら言った。その仕草は雛鳥が親鳥に餌をねだるのにも似て、どこか無垢なそれでいて本能の悲しき性の香りを漂わせていた。

「いいのよ。それは気にしなくて。わたくしと真紀の仲なんだから。今日はもういいから電源を落として頂戴」

 ゆりえは真紀のその手にそっと自分の手を重ね、豊穣の女神のもつ大らかな慈しみをもって応えた。

「はい、じゃあそうします」

 安堵した声で言うと真紀はもう一方の腕でマウスを使い、左角下に焦点を合わせ何度かクリックして、今日最後の指示を電脳へと送る。

 暫らくするとバチュゥンと言う音と共にモニターは光を落とし、深遠の黒へと転じた画面はパチパチパチと静電気を放出する。そうしてついには静寂が二人を包み込んだ。

「線香花火みたいね」

「えっ」

「音よ。モニターの音。貴女が電源を切る時いつも思うの。これは線香花火だって」

「ああ…ゆりえさん、詩的なんですね」

「詩的?ふふっ、ははは。違うわ。この程度の比喩表現で詩的なんて言ったら、詩人に対して失礼よ」

「ご、ごめんなさい…」

「謝る事なんかじゃないわ。ただ、わたくしは、貴女にも言葉を自在に操る人へ対する敬意を知って欲しかっただけ。それだけよ」

 ゆりえは重ねていた手を外し、そのままその手を真紀の方へと差し伸べる。

「わたしなんかがでしゃばった事言ってごめんなさい…」

 真紀は肩を縮こめながら謝った。

「ふふっ、変わらないのね、そう言うところ。可愛らしい。貴女がそうしてるのって本当に可愛らしいと思うわ」

 彼女は手を差し伸べたままそう言った。

「そんな事ないです…」

 真紀は掴み掛っていた左手を離すと、自らの胸元へ当て俯きそう返事をした。

「可愛い…さあ、少し遅いけれど、今日もつき合って頂戴。今日はいつもより飲み易い方がいいわね」

 ゆりえは差し出していた手で、真紀のもう一方の手を取るとそっと引き寄せる。

「あっ、あの…」

 立ち上がりながら真紀は思い詰めた声を上げる。

「どうかしたの?」

 促すかのようにゆりえは真紀の耳元で囁く。

「ゆりえさん、あの…」

 それにもかかわらず真紀は次の句を言い澱み、縋るような仕草でゆりえの顔色を覗く。

 一転してゆりえは、鋭い眼差しを返し、

「ねえ、真紀。もし、したい事があるならちゃんと言葉にして頂戴。そうしないのは愚劣なだけでなく卑怯な振舞い方よ。もうちゃんと知ってるわよね」

 と、含むように言い放つ。

 真紀はごくりと唾を飲み、そして意を決したように、

「すいません…あの、遅くに申し訳ないんですけど、今日も練習したいんです…その、お酒を飲む前に練習を手伝ってください」

 と、真摯な眼差しと共に希望を述べる。

「くすっ、ああそうだったの、わたくしに遠慮したのね。本当に素敵だわ。いいわよ手伝うわ」

 ゆりえは本当に愉しそうに口元に笑みを浮かべ握っていた手を離し、すぐさま電算機器が設置されている側から丁度反対方向の壁際にある出窓近くに置かれた、精巧な蔦植物の彫刻細工が施された鏡台の前へと移動して振り返り、

「さあ」

 と、恭しい礼で歓迎の意を表すと、背もたれの高い針金細工を思わせる特徴的な椅子を引き、芝居がかった仕草で椅子の座面を掌で指し示す。

 真紀は祈りを捧げる修道女のように両手を胸元で組むと、ゆっくりとゆりえの待つ鏡の方へ歩み寄っていく。そして、主を待つ玉座へと腰掛けると静かに組んだ手を下ろし太腿に預ける。

 ゆりえは満足そうな表情を浮かべると、背もたれの斜め後ろに移動して再び鏡台のほうへ振り返り、

「で、いつものでいいのかしら」

 と、鏡に映る真紀へと確認する。

「はい、よろしくお願いします」

 真紀も鏡の向こうに立つゆりえに返事をする。

「じゃあ、始めましょう」

「はい」

 ゆりえは一拍間を取り、声色を甘く妖しいものへと替え、

「意識を開放するために、まず体の状態を整えます。体の力を抜いて深呼吸してください」

 そう宣言して、ゆったりとした口調で真紀への誘導を始める。

「すぅ、はぁー」

 真紀は肩で大きく息を吸うと細く長く息を吐き出す。

「そう、息を吸って…吐いて。もう一度息を吸って…吐いて。体の力がすーっと抜けていく。はい、息を吸って…吐いて。大きく吸って…吐いて。ほうら、力が抜けていく。すーっと楽になる。息を吸って…吐いて。もう一度吸って…吐いて。吸う時に喜びを取り込み、吐くときに苦しみと不安を取り除く。はい、吸って…吐いて。大きく吸って…吐いて。暫らく繰り返して下さい。吸って…吐いて。喜びを取り込んで、余分なものを吐き出す。吸って…吐いて。さあ、暫らく繰り返して下さい」

「すぅ、はぁー、すーっ、はぁー、すーっ…はぁー」

「はい、体の状態が整のうにつれて意識もがだんだん開放されていく。とても新鮮な気持ちになる。澄んだ気持ち、安らかな気持ち、とても心地いい、ほうら、もうすっかり体の力が抜けていく、心の中が幸せな気分に満ち溢れる。喜びの気持ちが芽生える」

 真紀の組んだ手が解れ肩からぶらんと垂れ下がる。

「意識もすっかり開放されて、貴女の一番大切な気持ちだけが広がっていく。そう体全体に広がっていく。純粋な気分、とても気持ちいい」

「すーっ…はぁー…すーっ…はぁー……すーっ…はぁー」

 呼吸に合わせるかのようにゆったりとした周期で真紀の頭は前後に揺れ始める。

「貴女のリズムで呼吸を繰り返してください。貴女だけの素敵なリズムで繰り返してください。吸って…吐いて、はい、吸って…吐いて。内側には貴女の気持ち、そして外側はわたくしの声だけが聞こえる。はい、吸って…吐いて。吸って…吐いて。内側と外側とから満たされていく。喜びに満たされていく」

「すーっ…はぁー…すーっ…はぁー……すーっ……はぁー……」

「暫らくそうしていて下さい」

「は……い…すーっ……はぁー……すーっ……はぁー……すーっ………はぁー………」

「はい、だんだん瞼が重くなる、目を瞑ってみたくなる。瞑ったらもっと気持ちが穏やかになる気がする。瞼が重い、ゆっくりと瞼が近づいていく、気持ちがどんどん楽になる、はい、すっかり瞼が閉じました。ほうら、とてもいい気持ちです。貴女はとてもリラックスしました。体全体がゆったりとお湯に浸かっているような感じです。体全体がゆらゆらと浮かんで漂っています。とても心地いい。素敵な気分です」

 とろんとした表情で小さく口を開けたままゆらっと瞼が閉じてゆく。

「すーっ…あ…ふ…ふっ………はぁー………すーっ…すっすっ……はぁー…………」

 真紀の体は左右に揺れ出し、次第に頭の動きと混じり合い楕円の弧を描きながら、全身が揺ら揺らと振れ動き出す。

「さあ、望んでいること、満たされていることを口にしましょう。口にするとそれが一層強く感じられるようになる。より一層望みたくなる。さあ、口にしてみましょう」

「あっあ…ああ……はあっ……ふすぅ……はふぅ…あ…あふっ…すふぅ…」

「さあ、どんどん心の中で望んでいることが具体的に浮かんできます。どんどん望んでいることが近づいてきます。声を出せば手が届きそうです。さあ声を出して下さい。口にしてください」

「ああ……愛されたい…愛されたいの…見て欲しい……気がついて欲しい…」

 体の振れは背筋を自然に屈め頭を垂れた軸へと、静かに収束していく。

「そう、貴女は純粋な存在。素敵な存在。あなたの望んでいる事はとても素晴らしい事。そう、とても素晴らしいこと」

「ああ…あああ…愛して、愛して欲しいの!」

 普段の真紀からは想像もつかない程はっきりと強い声で、感極まった欲情が紡がれる。

「さあ、もっと具体的に相手の名前も口にしてみて下さい。そうしたら、その人はきっと貴女を見てくれますよ。さあ、その人の名前を呼んであげて下さい」

「あああっ、生さん、生さんっ!お願いです、わたしを見て下さい」

 収束したかに見えた真紀の体は、再び大きく前後に揺れ動きだす。

「生さんは、自分が呼ばれたと気が付きませんでした。フルネームで呼んであげて下さい。そうしたら、きっと今度こそ気が付いてくれますよ」

「生さん、長月生さん…ああ、お願い、気付いて下さい…お願い…」

 体の揺らぎに反比例するかのように真紀の口調は弱々しくなり、慕情と言うべきものへと色合いを淡やかに換えていく。

「はい、長月生さんは貴女の声に気づきました。貴女の方に振り返ると、貴女に微笑んでくれますよ、ほら、微笑んでくれました。貴女の為に微笑んでくれていますよ」

「あっ…は…あ……わ…わたし……わたし………あ、あの……」

「さあ、絶好のチャンスです。貴女の気持ちを長月生さんに伝えて下さい。長月生さんは、貴女だけを見ていてくれますよ。他に人はいません。最高のチャンスです」

「ああ……あの、あの……わたし、わたし…その……あ…だめ…怖い…怖いよう」

 真紀は震えるように小刻みに首を左右に振りだす。

「さあ、勇気を出してみて下さい」

「あああ…だめ…怖い、怖い、いや……だめ…」

 自らの体をだき抱えるかのように両腕を交差させると蹲りながら激しく首を振る。

「はい、貴女の意識がすーっと遠のいてゆく。すとーんと意識が落ちる。貴女の頭の中には、長月生さんが貴女に微笑んでくれたシーンだけになる。他には何も無い。すとーんと力が抜ける」

 瞬間、ぴくんと全身の筋肉が緊縮し跳ね上がったかと思うと、組んだ腕がずるずるとくずれ落ちだらんと垂れ下がる。真紀は全身を背もたれに預け天井を仰ぎ見た体勢になる。

「はっ…あふっ…はぁ」

 呼吸は荒々しく、苦しそうに喘ぐのがやっとの状態に陥る。

「はい、貴女の魂が体から離れる。恐怖を体に置いて魂がふわぁっと宙に浮いた感じになる。この言葉通りになる。そうして貴女は苦しみから救われる。はい、魂が体から離れました」

 かくんと首が前に垂れ下がり反動で腕が波打つ。

「すー……はー……すー……はー……すー……はー……」

 そして静かな、規則正しい音が響く。

「長月生さんは、貴女が気絶してびっくりしました。けれども、貴女の体をすぐに優しく抱きかかえてくれました。貴女は魂の状態でそれを見ています」

「ああ、はあっ…あ」

「長月生さんは、貴女の体の方にさかんに優しい声をかけてくれています。とても丁寧に貴女を扱ってくれています」

「んっ…生さん…わたしはここなの。お願い…気付いて…もう一度見て…」

 とてもか細く消え入りそうな声。切なく弱々しく儚くそして、脆い声。

「残念ですが、貴女は今、魂の状態なので長月生さんは貴女に気付いてくれません」

「あ…ああ。そんな、こんなに近くにいるの。気付いて…お願い」

 精一杯紡ぐ声。小さな白い繭からほんの僅か形になるそれ。光の助力でようやく露になるそれ。

「長月生さんは、貴女の体を心配しているので他のことには全く気付いていません。気付いてもらうためには魂を体に戻さないといけません。けれども戻ればまた強い恐怖が貴女を襲うかもしれません」

「そんな…だめ…戻れない…でも…………ああ」

 悔い入る声。たおやかな流れにすら漂う事しか出来ぬ憐憫のそれ。

「困ることは何もありませんよ。気付いて貰えないのは、単に貴女が美徳を所有する者だからにすぎません。貴女の本当に美しく価値のある部分は、貴女の美徳の力によって優しく包まれています。美徳という薄衣を脱ぎ捨てれば貴女は美しく輝く存在として自分を示すことが出来ます」

「ああ、でも怖いの。もしも曝け出して、そうしたら見向いて貰えなかったら…怖い、怖いの」

「貴女の想いの量はとても大きくとても強いから、貴女が創り出す恐怖や不安が消えないだけです。貴女が純粋な存在であることの証。素晴らしい、貴女は自らの手でそれを証明しました。魂から想いが発しているために貴女は恐怖も同時に感じています。さあ、もう一つの部分を思い出しましょう。理力の言葉を用います。貴女に真実を告げる言葉です。その言葉の力によって貴女は完全に思い出します。さあ、今唱えますよ」

「ああ、あああ!」

「『月の満ち欠けの暦』」

 低く流麗な奏でられた声。歓喜を招来するそれ。魔性の……それ。

「は…あ、あっ、あっ、あ、わたし…」

「はい、思い出しましたね。さあ、確認して下さい」

「…ここはゆりえさんの部屋。いつもの鏡の前。わたしは、わたしの幸せと、ゆりえさんと交わした誓約を守るために心の結晶を創って貰った。…結晶はわたしそのもの。普段はわたしには見えない場所にある。本当に必要な刻のためにゆりえさんに管理して貰っている。…必要とする刻のために…」

 抑揚のない音、機械仕掛けの軌道。

「おめでとう。今日、貴女はまた新しい力を得た。さあ、貴女が得た力の数はこれで幾つかしら」

「これで13…あともう少しで器が満ちる…」

 刻みを数える柱時計の音。一定の仕組みに従いただ報告のため発せられる無機質な音。

「そう、その通り。さあこの力を持ち帰って結晶に合わせましょう。貴女はこの力を持ち帰って結晶を凝縮する言霊を唱える。そうする事で貴女は益々内なる光に包まれる。そして益々美しくなる。もう何の不安も無い。恐れも無い。それは全て力に変換された。あなたの真実の姿が喜びを持ってその力を想いに還す。さあ、お行きなさい。貴女の体へ。そして刻の訪れを内から見張るのです。」

「誓いの言葉を。わたし、鷹野真紀は、濱本ゆりえと盟約を交わし約定の理に従いそして導かれる。満ちる刻にかの理に則りわたしはわたしの為すべきを成す」

「誓いの言葉を。わたし、濱本ゆりえは、鷹野真紀と盟約を交わし理を用い真実を明らかにする。真実は暴かれることなくわたくしは沈黙を守る」

 儀式の終わりを告げる詠唱。祭壇に羊を捧げる哀れな生き物供が贖罪の為に用いる呪符。

「さあ、魂は導かれる、真実の御許へと。貴女は言霊を用いる。さあ戻りなさい」

「あっ、あはぁっ……う」

「再び魂と体とは融合する。貴女は目を覚ます。そして、貴女は本当の真実を手にする、言霊により真実を手に入れる」

「ああ…」

 帰還を果たせし魂がゆったりと頭をもたげる。背筋が背もたれから離れ、肩がわずかに競り上がり胸の張りが増す。肩が元の位置へ還っていく、と同時に両眼が光を取り戻していく。瞳は鏡の先に何かを見つける………そして、一輪の名もなき露草は大輪の花を咲かせる。

「わたしは生さ……………」

 何かを言い終える。儀式の完遂、瞳は再び光を閉ざす。



 それはゆりえの耳では聞き取れなかったが、聞く必要もなかった。それは自明なのだから。

「ふふふ…可愛い…わたくしのお人形…」

 ゆりえは掌をそっと真紀の頬に当てると、水晶球を愛でるかのように優しく一度だけ擦った。









 刻は既に0時を回り、始まりの闇の到来を告げていた。

「ん…あ…」

 淡やかな紫色の繊細な花模様に彩られた寝台の上で、マリオネッテは目を覚ました。

「あら、起きたの。今日は何時もより早かったわね」

 傍らに寝そべる女がきびきびとした動きで起き上がると、そのまま部屋の入り口の方へと向かい、しばらくして二つのワイングラスと一本のボトルを手に戻ってくる。

「あ…ごめんなさい。こんなに遅くなってしまって…いつもすいません…」

 着くずれた胸元を直すために、真紀は背を向けながら返事をする。身に付けた純白のバスローブの帯を解き、一度立ち上がって腰の右側に蝶結びをつくる。

「いいのよ。気にしなくて」

 真紀が振り返ると、そこにはワイングラスが差し出されていた。

「あ、はい、すいませんでした。お付き合いさせて頂きます」

 あわててお辞儀をし、手前側に示されている細い脚を摘み、それを受け取ると寝台へ座り直す。

「いいえ。これは貴女への祝杯よ」

 ゆりえは自分のグラスを寝台の脇にあるキャビネットの上に置き、返す動作ですぐ近くに置かれたソムリエナイフを握ると、慣れた手つきでボトルの封を開けて行く。

「え?」

「おめでとう。今日とうとう名前で呼んだわ」

「あっ」

「本当におめでとう。今の貴女とても綺麗よ。そう…深く満ち足りて安らいだ空気に包まれているわ」

 そう言いながらコルク栓を包み込む金属製のシールを剥し終え、静かにボトルをキャビネットに置いてキュッキュッっとドリルを柔らかいそれへ差し込んでいく。

「いえ…そんな、は、恥ずかしいです。ゆりえさん…」

 ほのかに顔色が色気づく。

「貴女はとても勇気があるわ。あの人の為に髪も黄金色にした」

 キュポンっと凝縮された香りの弾ける音が響く。

「綺麗…」

 そうして吸い寄せられるように作業を終えた手が、そっと眠り姫の命を撫でる。

「あっ」

「そして、役立つために色々なことを吸収した」

 再び時の女神の手が、繊細なシルクを思わせる輝きに満ちたそれを撫でる。

「あっ」

「ほら、もう目の前まできているわ」

「だめ…お願い…からかわないで…」

 身動きを許されぬ姫君は震える声で慈悲を乞うた。

「そう?わたくしは事実を述べているだけ。それだけ。…それはそうと、だいぶ顔色良くなったわね」

 ゆりえは手を離し改めてボトルの中央部分を握り締めると、それを持ち上げ自分のグラスへ注ぎだす。

「あ、頂いたお薬のお陰で…」

 あからさまな転換にもかかわらず、森の美女は新たな話題を受け入れる。

「芍薬甘草湯が効いて良かったわ、強い薬だから。当帰芍薬散と違って西洋医学で言う処の劇薬に近いのよ。だから本当に必要な時しか使ってはだめ。これ、覚えておいてね」

 始めのグラスへ注ぎ終わり、ボトルを主賓の令嬢の方へと差し出す。

「はい、なるべく我慢するようにします。あの、何時ものお薬は飲んでも平気ですか?」

 顔の前でグラスを掲げると、透明な肌の内側にねっとりとした輝きを持つルビー色の液体が注がれていく。

「平気よ。当帰芍薬散は処方の目的が全く異なるから」

「あ、じゃあ…」

 注がれたグラスを一旦キャビネットの上へ置くと、あたふたと立ち上がり彼女は何時もの作業場所へと歩いていった。机の上に置かれた黒い皮製のポーチから包薬を取り出してそれを手に戻ってくる。

「タラパカ・グランレゼルバ・ブラックラベルの94年物。ちょっと有名なものらしいわ」

 そう言って、ゆりえはうっとりとした顔でグラスを見つめながら、グラスをやや傾けて紅い涙の形を鑑賞している。寝台に腰掛けるその様は、ルネッサンス期の画家が時空を越え覗き見たなら、錬金術を手始めとする近代科学の到来をもう100年程遅らせる傑作を生み出させたかもしれない。

「やっぱりフランスのなんですか?」

 戻りしなにそう訊ねると寝台に座り、しなやかな指先で包みを解いていく。

「いいえ。チリよ。南米のチリ」

「チリ…そんな処でも造ってるんですね」

 そう言うと、真紀は上を向いて包みの中の生薬を口に含んだ。

「スペインから渡った宣教師達がワインを必要として、葡萄の木を植えたのが始まりだそうよ。宗教的儀式を執り行うためにね。今では世界的にも注目されて冠たるフランスの地位に近づきつつあるそうよ。始まりはともかくとして、無意味な秩序が破壊されて行くのを観るのは愉しいわ」

 ゆりえはまるで独り遊びに興じるかのように、グラスを鼻に近づけ芳醇な香りを嗅ぐ。

 傍らの真紀は自分のグラスを手にして口をつけ、フルーツジャムを濃縮させた様な香りと樽香が絶妙に溶けあったなめらかな口当たりの液体を口の中へと注いでいく。

「多くの香辛料を必要とした暴飲暴食を理想としたヨーロッパ中世。その後、その飽くなき欲望は海を渡り、未開の発見と言う名の独善を省みず次々と標的を替えていった。キャラコ、コーヒー、たばこ、紅茶、チョコレート……」

 伝説の伯爵が美女の首元へ接吻する時に見せる喜びを具現化したかのように、憑かれた唇は赤い飲み物と言葉とを入れ替えていく。

「あの娘知ってるのかしら?憩いと言うひと時の為に、どれ程多くの血が流されてきたのか」

 捧げ物の少女は、目を丸くするとごくりと始めの一口を飲み干し、

「ゆりえさん……」

 と、それだけを唱えた。

「そうね…無粋だったわ。悪かったわ、楽しみましょう、この時この瞬間を」







 オズの弟子達の夜はこうして更けていった。

(5話へ続く)



初稿:2001年12月15日


『未成年者飲酒禁止法』に関する作者からの補足
   日本国においては未成年者飲酒禁止法により、【満二十年に至らざる者】の酒類の飲用を禁じています。
  このお話において【満二十年に至らざる者】の飲酒の描写シーンがありますが、これは未成年者の飲酒を推奨する
  ものではありません。あくまでフィクションとして楽しんで下さい。
  お読み頂き、本当にありがとうございました。