2017

12月

12月4日(月)

雑木林の路

 先日、篠原の里で、年に4回行われる「里の市」があった。この里の市も、けっこう回数を重ねてきて、やや参加者も出店者も固定化してきたせいか、このところ沈滞気味だったとか。そこで、今回は新たな出店者を招いたり、広報に力を入れたりして、てこ入れを図ったそうな。
 そしたら、当日が晴天だったせいもあって、駐車場がいっぱいになる盛況で、日頃はあまり見かけないようなお客さんも、遠路はるばる来てくれるたとか。
 この里の市の写真も撮ったんだけどね、ネット上には掲載できないな。特に子供の顔とか、個人情報保護の問題もあるし。

 もう一つ藤野の話題。藤野の駅前で、長い間に渡って地元の芸術家の作品を展示販売してきた「シーゲル堂」が、12月をもって閉店となる。ただ、お店として完全に無くなると言うわけではなく、今後は、貸しギャラリーのような形態で続けていくそうだ。
 12月半ばに、売りつくしセールというものを企画している。
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 自分も、このお店に関しては、設立当初から関わってきただけに、いろいろと感慨深い。

 ススキ

 シーゲル堂の閉店の理由は、店主が高齢になって、体力的に負担が大きすぎるようになったため。
 それでも、開店当初は定休日が週に一日だったのが、2日になり3日になり、やがては土日だけの営業になり、最後にはそれも、店主にかわって出展者が店番をするような形になった。
 けっこう、限界ぎりぎりまでやり尽くした感がある。

 今後は貸しギャラリー的な使い方になると言う計画らしいが、事実上、今年はすでに貸しギャラリー状態だった。

 シーゲル堂に展示販売されている藤野近隣の作家の作品は多種多様で、それらの作品が売れる度に、売り上げの何割かを作家に渡す事になるが、そういった仕事だけでも、お年を召した方には大変だったと思う。

 あとなー、これまで店主は時々、自分が店番をしていると、いくらイベントや祭りの多い藤野でも、自分は遊びに行けないな、と言っていた。
 閉店作業が一段落したら、今度は楽しむ側で遊んで欲しい。

 このところ、他にも、経営者の高齢化で事業をやめる話をよく聞くようになった。その多くは、事業を継ぐ人がいないというのが原因で、事業自体は好調で周囲からも頼りにされているような仕事でも、惜しまれつつ閉業というのも多い。
 で、仕方なく、同じような仕事をしてくれる所を探して、そこに仕事を依頼しても、「うーん、急にレベルが落ちるようになったなァ」と困惑する事も、また多い。

 高齢化社会で、若者が減ってきたからかなァ。昔だったら出来た仕事が、だんだん出来にくくなる世の中になっていくのかもしれない。
 そういえば、JR貨物が、初めて黒字になったとか。その理由と言うのが、労働力不足でトラックの運転手の数が少なくなり、流通の企業がトラックから鉄道へと手段を変更しつつあるからとか。
 少しずつ、しかし確実に、世の中は変わってゆくけれど、この変化って、世の中が「痩せ衰えている」ってやつじゃないの?。

きらめく木立

 このところ、この日記で、「最近気になる動画」について書く事が重なったけど、これもだな。
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 最近、ちょくちょく見る動画の一つで、ダムを撤去していくもの。この動画はアメリカのワシントン州のエルホワ川のものだ。同様の動画は、ユーチューブで「Dam Removal」で検索すると、ごろごろ出てくる。
 そういう時代の流れなのかなぁ。アメリカで起こった事は、遅れて日本でも始まると言うが。

 アメリカの事だから、ダムを撤去するのもハリウッド映画みたいに爆薬で一気にドカンとやるかと思ってたら(←偏見)、丁寧に、少しずつ削っていくんだね。やっぱり、ビルの解体 みたいに爆薬で一気呵成に、というわけにはいかないか。下流にだって住民はいるし、自然環境に劇的な負の影響を与えちゃいけないし。

 この映像に限らず、こういったダム撤去の映像を見ると、使用される音楽とか、映像の眼差しといったものが、いずれも優しく、穏やかなものが多い。
 ダムを撤去して行く行為に、そういったイメージがあるのだろう。静かに人々の心を癒すような、平安を求めるようなイメージが。
 少なくともここには、人知の限りを尽くして、巨大な建造物を作って自然を征服するする、という雄々しいイメージはない。

紅葉の谷

 以前から同じような事ばかり書いているけれど、やはり私には、世界全体が夏の時代を終えて、秋から冬へと向かっているように思えてならない。夏の盛りに植物が繁茂するように、じゃんじゃんモノを作ってきた時代が終わって、秋になって木々が葉を落とすように、未来には必要のないものを、静かに、一つ一つ片付けて行く時代というものがあるのだろう。

「いやだいやだ、秋から冬なんて嫌だ、これからも夏をずっと続けるんだ」
と叫ぶ経済界の人も多いだろう。でもなー、民衆の活力を搾り取るだけ搾り取って、土地をすっかり痩せさせて、「新しい芽が出てこない」と嘆かれてもな。
 若者が車を持てない状況を招いて、若者の車離れを嘆くと言うのは、悲劇と言うよりは、もはや喜劇だろう。

 冬というのは、痩せてしまった土地を、ゆっくりと落ち葉で肥やす時期なのかもしれない。

12月11日(月)

相模湖

 風が吹けば、木の葉がきらめきながら雪のように舞い散って行く。上の写真は12月5日頃のものだけど、今はもう、こんな姿じゃない。いつのまにか、山の景色も紅葉から冬枯れへと変わっていた。12月8日に少し雨が降ったが、丹沢では雪になり、翌朝には冠雪した山並が姿を現せていた。

 山道には、あちこちで道路脇に溜った落ち葉を集めて、袋に積めている人がいる。これから堆肥を作って、次の年の農作に使うのだろう。
 道路の落ち葉が綺麗に片付くので、とても有難いけれど、今度はスリップ事故の季節になってきたな。今朝なんて、藤野の各地で車やバイクのスリップ事故の話を聞く。
 あー、おれもまだ冬タイヤじゃねえや。急がないと。これからけっこう本格的な冬将軍が来ると言うし。

 自分もなァ、もうちょっと未来を予測して、先手を打って行動できればいいのに、というのが今回の話。

 薄日の湖面

 前回の日記で、これから「冬の時代」が来ると書いた。夏の盛りに植物が繁茂するような、じゃんじゃんモノを作ってきた時代が終わって、秋になって木々が葉を落とすように、未来には必要のないものを、静かに、一つ一つ片付けて行く時代というものがある・・・と。

 ただ、「冬の時代」と言うと言葉は厳しいが、決して暗黒時代ではない。冬の時代には、冬の時代なりの楽しみもあれば、やるべき事もあると思っている。
 そして、実は冬の時代こそ、最も人々の創造力を必要とする時代だとも。

 例えば、旅行に行くとする。
 春の時代というのは、旅行で言えば旅立ちの事だ。旅行の目的地に向かって動き出す季節。夏の時代というのは、目的地に着いて、予定していた行楽を楽しむ季節。秋の時代は、お土産を買って、家路に戻る季節。
 じゃあ冬の時代はというと、次の旅行の計画を練る季節ということになる。

 この比喩だけでも、冬の時代こそが、最も頭を使わなければならない事が判る。

 逆に言えば、他の季節は、まるで坂道に転がした石のように、自動的に春から夏、夏から秋に移行するだけでもよく、それほど頭を使う必要は無い。
(旅先での急な予定変更とか、頭を使う事態ももちろんあるけれど)

 次の旅は、どこに、何をしに行くのか。行楽が目的か、人に会いに行くのか。
 行楽でも、山に行くのか海に行くのか、それとも温泉地か。旅の目的を絞り込むだけでも、けっこう頭を使うだろう。
 旅の目的と行く先が決まれば、今度は乗り物の予定を組んで切符を予約したり、宿の手配も始まってくる。そういった準備は、いきなり旅立ちの当日に行う事は無理だ。
(全く計画も練らないで、あらかじめ宿の手配もしないで、目的地も決めずにいきなり旅に出るという人もいるでしょうけれど、ちょっと今回は、この比喩からは外します)

朝の、蒸気のたつ道志川

 冬の時代というのは、次の春や夏や秋を見据えた計画を練る季節と言えるが、口で言うのは簡単だけど難しい。
 来年は、明治維新から150年の節目になる。欧米に追いつこう、という時代の目標は、とりあえず終了し、その目標をずるずると惰性で続けても腐敗が進むだけだろう。

 次の150年の目標を、自らの知恵で導きだせるかどうか。自分に想像できるのは、せいぜい次の15年程度だろうが、それですら、想像が当たるかは自信が無い。
 おまけに、更にその次の年には元号も変わるとか。ホント、いろいろ変わるんだろうなァ。

 そんな未来に向けて、先手先手を打って既に行動している人も多いのだろう。これは、日本国内よりも海外に、そういった人材が多いような気がする。

光る霜

 まあ自分は、150年後とか15年後とかではなく、来年の事を考えようと思う。願わくば、時の流れに流されるだけで終わるのではなく、時の流れを主体的に変えていく生き方ができればいいのだけど。

 それにしても、洋の東西を問わず、一年の終わりと始まりを冬至に求めると言うのは、なかなか知恵のある選択ではなかったか。
 その一年の反省と、次の年への計画を考えるのは、確かに、春でも夏でも秋でもなく、冬こそが相応しい。

12月18日(月)

薪割りから出てきたもの

 今回の冬は普通に厳しいらしい。そりゃあ、週に一回程度の割合で寒さの緩む日々もあるが、おおむね、いかにも関東の冬らしい冬が訪れている。なので、すっかり雨も降らなくなった。

 薪ストーブの利用者にとって、この冬は薪の消費が進む冬になるのではないか。気がついたら、春が来る前に薪が底をつく、なんて事もあるかもしれない。
 薪が足りなくなったら木を伐ればいい、というわけにはいかない。伐ったばかりの生の木が、薪ストーブに使えるまで乾燥させるのに、普通に半年、できれば1年は置いておきたい。
 この時期、薪ストーブ利用者が薪を作っている光景を見かけたら、その薪は次の年のためのものだ。

 薪を割っていくと、そこに住んでいた生き物が姿を現す。蟻が巣を作っていたり、芋虫がいたり。そんな虫たちの暮らしを台なしにして、申し訳ないなぁと薪を割りながら思うのだけど、出てきた虫を美味しく食べちゃう人もいるね。

 上の写真は、どうやらモモンガの巣の跡か何からしい。薪を割ったら、こんな小部屋が現れた。

相模湖

 最近、読んだ記事で、この比喩は巧みだな、と思う文章があった。

有名・無名にかかわらず、個人が声を上げられる社会をつくる。家入一真さんと鈴木菜央。ふたりがそれぞれ確かな道のりを語った”狼煙”対談
こちら>>

菜央 以前、人口が増えていくときの社会と、人口が減っていくときの社会のルールはまるっきり違ってるという話を聞いたんですね。
(中略)
 人口が増えていくときの社会は、100人いる野球部みたいなもので、誰がレギュラーになれるかわからなくて、残りは補欠なんです。でも、人口が減っていくときの社会は、部員が9人しかしないから、調子の悪い奴がいたらフォローしたり、誰でも全部のポジションができるようにしておいたり、みんなが仲良くならないと前に進めないですよ。
(引用ここまで)

 人口減少社会で必要とされる組織のあり方を、この野球部の比喩は、上手く表現していると思う。

師走の木

 以前から、これからの組織のあり方はピラミッド型か横型か、といった話はしてきた。私自身は、横型の組織の方が主流になると考えているのだけど。
 ただ最近、そこまで行く道のりも長いものになるのではないかと思うようになった。というのも、横型の組織には、参加者全員に、高い人格や人徳、他者に対する配慮や優しさを必要とするからだ。

 ピラミッド型の組織は、ピラミッドの上位に立つ人以外は、それほど参加者に高い人格を必要としない。「金を払ってくれるなら真面目に働く」くらいの意識でも組織はなりたつ。(逆に、ピラミッドの上位に立つ人間が、人格も知性も劣っていたら、目も当てられない結果になるが)

 従来の学校教育は、集団生活の在り方を学ぶ場としても機能してきたが、それは結局、命令された事には粛々と従い、それ以外の余計な事はしない、という程度の集団生活だった。
 集団の能力を最大限に発揮させるための、互いの長所を伸ばし合い、互いの欠点を補い合うような配慮を心がけるような横型の組織は、考えていなかった。あくまでも、その集団は受験勉強のようにお互いがライバルであり、お互いを競わせ、蹴落とす集団だった。

光る湖面

 横型の組織は、参加者全員が、その場全体の気風を良くできるような、人格を必要とする。単に、命令に服従しているだけの存在ではない。
 たとえ、苦しい時でも、周囲に自分のストレスを垂れ流しにするような人間ではなく、「この苦しい流れと雰囲気をなんとか変えなきゃならないな」と全員が率先して考えるような組織が必要になる。これは、参加者全員が、リーダーとしての資質を持つと言う事に他ならない。

 私が危惧しているのはこの点で、「これからは横型の組織だ」と言う人の中にも、他人の言う事には耳を貸さず、自分の言いたい事だけを言い、自分の長所だと(勝手に、そして的外れに)考えている点を自慢し、他人の短所だと(勝手に、そして的外れに)考えている点を非難したがる人もいる。
 そして、こういった性格は、高度経済成長期の競争社会が生んだ気風で、その時代をどっぷりと生きた世代に、多いような気がする。

 学校などの教育現場で、横型の組織に必須な、他者に対する思いやりがあって、お互いを引き立てあうような人格の大切さを教える日が、いつかは来るのだろうか。

12月25日(月)

もちつき

 冬至を越え、クリスマスを迎えた。田んぼの仲間と餅搗きをして、どうやら1年が無事に終わったような気がする。
 日曜日の夜に、久々の雨が降ったが、今度は雨を降らせた低気圧が日本列島の東海上で発達し、いわゆる西高東低の冬型の気圧配置になって、また寒気が押し寄せてくるらしい。今年の冬将軍は、なかなか勤勉だ。

 冬至という日は、易学をしている人には特別の意味があるそうで、次の一年を占うのは、冬至の干潮の時刻とされているそうな。なので、冬至の干潮の頃には、日本各地の易の専門家は、噬竹をじゃらじゃら鳴らしながら、来年の事を占っているのだろう。

 じゃあ自分もと、試みに冬至の日に占ってみて出てきた卦が『復』。まさに冬至を意味する卦が出てきた。『復』は文字どおり復活の復で、冬至を迎え、これからは日が徐々に伸び始めて行くように、いままで凍てついていた大地から、小さな芽が出始めて、やがては大きく成長して行く「きざし」が始まる形を意味している。

 占いでは、確かに良い卦だけど、まだ小さな芽が出始めたばかりで、それに厳しい寒さも続く時期なので、「これから徐々に良い方向に向かうが、あまり無理はしないように、大事に芽を育てなさい」と解釈する事が多い。

川霧

 『復』の卦にはこんな言葉が出て来る。「中行にして独り復(かえ)る」。
 人々の大勢は、何が正しいのか、何が「道」なのかが判らずに、流されるままに悪の道に染まって自ら腐敗していく中で、「中行」のできる人が、たった独り、そこから正しい道へと返って行く。

 周りに流される人は、自らの力で復活の糸口を掴む事が難しい。自ら「道」を見つけようと志す人にして、初めてそこから脱する事ができる。自分の力で考えて、自分の力で行動するのだから、「独り」復活する、というのだろう。そう考えると、復活できる人と言うのは、「独りになれる人」というのが、条件になるらしい。

 「中」という言葉に、最近は強い関心があると以前書いた
 その時にも書いたように、中道とは、決して両極の中間とか、両者を足して2で割るといった単純なものではない。むしろ、人間の産み出す価値の、もっとも難しいものは、「中」から発していると言える。

 だいたい、この世の「価値」とされているものは、相反するニ者の、理想的な同居を意味する事が多い。

谷間の光り

 車を例にとれば、外観はコンパクトだけど室内は広々として、小型のエンジンで大きな力を産み出し、それでいて燃費も良い。
 車体は頑丈だが、衝突事故を起こした時は、上手に壊れて衝撃を吸収し、それでいて乗員の身体は守る。安価な部品を使って低価格を目指す一方で、高性能を目指して、デザインを安っぽくしない。燃費を良くするために、路面との摩擦を少なくするタイヤを開発するが、雨の日でもブレーキの効きは良い。
 作る側からすれば「無茶な要求をする」と悲鳴をあげたくなるかもしれないが、価値のある商品とは、そんな矛盾をなんとかして解決した所に生まれてきたのだろう。

 「中」について考える時、決まって思い浮かぶ言葉がある。
 温和だが激しい情熱と厳しさがあり、威厳はあるが暴力的な威圧感はなく、礼儀正しいが固苦しさはない。
 中庸、中正、中行、「中」の境地というものが、どれほど難しいかの説明は、この一文だけで十分だろう。

 どちらか一方に片寄る事はバカにでもできる。だからこそ、バカ正直とか、バカ丁寧とかいった言葉もあるのだろう。言い方を換えれば、理想の正直さ、理想の丁寧さは、別の所にあるとも言える。

夕暮れ

 さて来年は、自らの力で、独りで復活の道を歩み始める年になるのか。

 たぶん、真の意味で「仲間」と呼べる付き合いのできる人と言うのは、そういった、時には一人きりにもなれる人々の集まりにあるのだろう。考えも無く、周囲に流されるだけの集団は、仲間とは呼べまい。

 子温而● 威而不猛 恭而安。 『論語』述而
 ●はパソコンに無い字。厂(がんだれ)に萬

12月31日(日)

朝の木

 大晦日。だんだん、寒さも本格化してきて、朝一番の水道の出が悪くなったりする。水道管に巻くヒーターが無かったり、水を抜いておく仕掛けのない水道だったら、凍結して昼まで水が使えない事態になってしまう。
 木々に張り付いた氷が、朝の光に照らされて綺麗に光り輝くが、こんな光景も底冷えがする気候だから。

 この年末から、あちこちのデパートやらスーパーやらで、年明けの3日くらいは営業しないで休むよ、と言い出すようになってきた。悪い事では無いと思う。正月くらい、ゆっくりと休まないと。
 ああそうだ、この日記も、今回は軽めで終わらせます。

北風と竹林

 今年の初夏あたりから、こんなチラシを配って、小商いを始めているのですが。
「あなたのお気に入りの写真を、水彩画にしてみませんか」という企画ですが、始めはこれをするにあたって、周囲からは「遺影ばかり描く事になるんじゃないか」なんてからかわれましたね。
 でも、ふたを開けてみたら、お孫さんを描く事が多かったな。例えばこんな絵

 描いている方も、新しい命を描くというのは、なんだか自分自身も明るくなって、救われる気分になるのが不思議だ。

残照

 近所にあったコンビニが、開店から1年あまりで閉店した。特に客足で苦しんでいるように見えなかったけど、どうしたんだろう。
 このところ、あのコンビニとこのコンビニが統合するとか、いろいろと再編が激しい。コンビニという業態も、そろそろ今までのやり方でなんとかなるという時期は、終わりつつあるんだろうな。

 コンビニの特徴は倉庫がない事。普通、雑貨屋葉、店鋪面積の2倍の広さの倉庫が必要とされているけれど、コンビニにはそれが無い。トラックで、直接商品を一日に何度も運び込む形を採っているからだけど。
 うーん、世の中がもっとのんびりしてきたら、もう一度、倉庫を使う雑貨屋の方が有利になる時代が来るのだろうか。それとも、その頃にはトラックも無人運転になっているのかな。

日没前

 未来と言うものが、騒々しいものになるのか、静かなものになるのか、それさえも、私には確信がないな。見えている人には見えていると思うけれど。

 まずは来年は、平安な年であるようにと祈りつつ。