2016

10月

10月3日(月)

週の半ばにまた台風が来るとか。蜘蛛の巣もご難だね。

 10月に入って新しい変化と言えば、一般ゴミの回収が、それまで週3回だったのが週2回になったこと。もっとも、相模原市に合併される前の藤野町の頃は週2回だったので、私としては、それほど不便になるような気もしない。しかし、週3回の時代しか知らない旧相模原市の人々には、不便に感じられるかもしれないな。

 ただ、周辺の自治体と比較しても、週3回の回収と言うのは多い方だろう。その意味では、相模原市が他の自治体同様の「平均的」レベルに落ち着いたとも言える。いずれは、更に別の点も、他の自治体のレベルにまで落ち着くかな。八王子市みたいに、指定のゴミ袋を買って、その袋で出さないといけなくなるとか。

 話は変わるけれど、これから、これとは異なるゴミ問題が浮き上がって来るだろうなと思っています。
 人口減少社会に入り、人々が減っていけば、人々が必要とする物も減っていく。家具とか食器とか、親から全て受け継いでも、余る物が出てくる。
 その最も大きいのは家だろう。日本の人口に比べて家の数が余りはじめると、全く使われなくなる空き家も出て来るし、そういう家は維持や修繕の手が入らないだけに痛みの進行も早く、住むのも難しいような廃屋同然の家にもなってしまう。

 家そのものもゴミになるが、そんな家の中にも、食器や家具といった、引き取り手のいない物が溢れかえっている。21世紀初頭の日本は、そんな昭和の膨張期のゴミを片付けていく時期でもあるのだろう。綺麗に片付けばいいが。

谷間のコスモス

 8月下旬から、この日記で、なんでこれまでは科学技術の進歩と平行して経済も発展して来たのに、20世紀の末期になってから、科学技術の進歩が必ずしも経済を発展させず、場合によっては縮退させるようになってきたか、その自分なりの仮説を書いてみた。
 要約すれば、人間の欲望にはそもそも人間的限界というものがあり、科学技術で出来る事柄が、人間の欲望の遥か上を行くようになり、もはや人間の欲望が世界の経済を力強く動かす力には、なりえなくなってしまう・・・と言うのが、私の仮説。

 それに続いて、そんな社会における、人間という生き物の生き方の変化についても書いてみた。これまで嫌々するような仕事は機械に置き換わり、「生きる事、食う事、働く事、競争する事」の為に強いられるような仕事が減り、「喜び」を動機とする仕事しか無くなってしまう。
 それによって、人間がこの世に作り出す組織も、命令と服従によって機能するピラミッド型の縦構造から、「チーム」を作る横型へと主流が変わっていく。

 この変化には色々と混乱もあるだろうが、その混乱の中から、内省的な思索も深まっていくと思う。
 欲望のままに突っ走って来た人類だけど、さてこれからこの星で何をやっていこう、とか。そもそも人間って、どんな生き物なんだろう、とか。ひとくちに欲望と言っても、「夢や希望をかなえたい」というのも欲望だろう。欲望は悪徳なのか否か、欲望にも良い欲望と悪い欲望があるとしたら、その二者を分ける境界は何か、とか。

 何しろ、考える時間なら十分にありそうな世の中になりそうだから。

チカラシバ

 これからの時代を考えていく上で、「健康」がキーワードになるのではないか、という話を聞いて、成る程と思った。それで言えば、欲望も、健康な欲望と不健康(病的)な欲望がある、という表現も可能だろうし、この表現を切り口に考えを深めていくのも良さそうだ。

 同様に、健康な心身だけでなく、健康な組織とか、健康な町とか、健康な環境とか、果ては健康な人類とか健康な地球という所まで、考えを広める事は可能だろうし、考えの入り口として解りやすいし、誰でも議論に入っていける敷き居の低さがある。
 実際に考え始めたら、なかなか哲学的で手強い思索をするハメになるとは思いますが。

 そうだなァ、一つ例をあげてみましょうか。
 健康な心身、健康な組織、健康な町、健康な世界を作ろうと、言ってしまえば一口だが、一歩間違えば「健康でなければならない」、「健康を心掛けないやつは犯罪者である」、「不摂生で自ら健康を害した人間は死んでも構わない」といった、強権的な健康主義の押し付けによる、健康全体主義と言うか、健康ファシズムというか、健康恐怖政治といった可能性だってありうるだろう。これでは健康のつもりが病的な状態に陥っている。

 健康的な世の中を作るのにも、健康的な人格による働きかけと、健康的な手法によって行われなければ、それは健康ではない。さて、じゃあ健康的な手法とは何か。病的な手法とは何か。

夕焼け

 そんな事を考えていたら、思い出したエピソードがある。
 孔子がまだ若い頃。祭りや儀式の礼則に詳しい人間だと評判になったせいか、魯の国の大廟(国の始祖を祭る社)での儀式に参列する機会があった。その時、孔子は、大廟で儀式を司る役人に、式の礼則について細々と質問した。

 この事を見て、ある人物が、「あの男は祭りや儀式の礼則に詳しい人間だという話だったが、いちいち人に尋ねたぞ(何が礼儀作法の専門家なものか)」と言いふらした。
 これを聞いた孔子は、「これが礼儀だよ」と言ったという。

 私は既に礼の専門家なのだから、今さら大廟の役人に質問する事なんかないし、そんな役人よりも私の方が深く礼について知っている・・・という態度は、礼則は知っていても礼の精神からは遠く外れたものだろう。
 たとえ自分の知識に自信があったとしても、まずは謙虚に、「それでも私の知らない事柄があるかもしれない」と、学ぼうとし続ける態度も「礼」だし、たとえ現場の役人よりも孔子の方が実際に知識が豊富でも、現場の先輩である役人に頭を下げて教えを請う態度も「礼」だろう。
 こんなエピソードが古典に残るという事は、人類の歴史には「私は礼儀については詳しいんだ」と尊大に放言する無礼者がいかに多かったかという事でもあるのだろう。

 同様に、「健康が大事だ」と放言する病的な人間にならないように。これは自戒でもあるのだが。

10月10日(月)

やまなみの光

 土日に前線が通り抜けて、それなりに激しい雨を降らせたが、それ以降の週間天気予報を見ると、しばらく雨のマークが消えている。これから秋らしい爽やかな天候が続いてくれるのだろうか。
 空気の方は、明らかにこれまでとは違いを感じる。朝晩は小型の暖房器具が欲しくなる程度には冷えるようになった。

 気の早い木々や草は、枯れ始めたり葉を落としたりしている。山全体の色はまだまだ緑一色だが、これから少しずつ色付き、そして茶色く枯れていくのだろう。

 8月の下旬からこの日記で、世界の経済が縮退しつつあるように(少なくとも私には)見える現象の理由として、「人間の欲望には限界があり、科学技術が人間の欲望を遥かに追いこしてしまう時代が来たから」という仮説を書いてきた。それに附随して、そんな時代が来てからの世の中の変化についても書いた。
 ほかにも書いてみたい事柄はあるけれど、あまりだらだらと書いても締まりがないので、最後にこまごまとした事を書いて今回で終わりにします。

秋草

 とにかく、時代の大きな変化である事は間違いない。社会の仕組みそのものも大きく変われば、人生観や倫理観とか、人間の基本的な考え方も変わって来るだろう。決して悪い方向の変化ではないと思うが、混乱はあるはずで、中にはその混乱の中で、今まで自分が頼ってきた人生観そのものが壊されて絶望する人もいるかもしれない。

 例えば、科学技術の進歩によって、仕事が無くなってしまう世の中の可能性について書いたけど、もし人々の意識が「100人の人間がいても、100人分の仕事があるわけではない。もしかしたら10人分の仕事しかないのが普通かもしれない。」と変化して、その考え方が世の中の主流になったら、救われる人がいる一方で混乱する人も多いだろう。

 良い学校を出て、良い会社に入って、良い収入を得るというのがこれまでの常識だったのが、変更を加えられてしまう。教育の目的とは何かについて、静かに考え直す時期がくるだろう。

 また、「『仕事がない』とほざくような連中は、怠け者、能力の低い者のたわごとだ。仕事が無いなら無いなりに、努力して世間から求められるような仕事を自ら作り出していかなければならない。」といった意見も、当初は力を持つかもしれないが、やがて潮が引くように力を失っていくだろう。人間には、いろんな考え方をする事ができるが、最後に勝つのは「現実」だからだ。
 100人中の90人が「科学技術が進むと、仕事が無くなるのが当然かもしれない」と思うようになったら、上記の「努力が足りないからだ」といった意見も、現実の波に飲み込まれてしまう。

雨上がりの雲

 付け加えるならば、今後の変化は、特定のリーダーが「次の世の中の形はこうだ」と人々を力強く導くようなものではないと思う。
 少しずつ、少しずつ、「どうやら今までの考え方では成り立たない時代に入っているらしい」と考える人が増えていき、それによって世の中が変わっていく形をとると思う。

 これまでは、草原のライオンがシマウマの群れに対して「こっちに行け」と追い立ててシマウマを動かしていたのが、これからはシマウマの方で、「こっちの草原は、もう草も食べ尽くしたから、次はあっちの草原へ行こう」と独自に考えて、静かに行動を起こすという形になっていく。
 それも、シマウマの群れが一斉に動くというのではなく、今日は群れの一部が次の草原に移動し、また次の日は、別の群れの一部が移動する、というものではないか。
 あまりにも静かな変化の始まりなので、始めはライオンも変化に気付かないだろう。

 ただ、やがては変化を決断しざるを得ない時が来る。気がついた時には、すっかりシマウマが姿を消して、慌ててライオンがシマウマの群れを追い掛けるという事態もあるだろう。

 さてこのライオンの例だけど、私は決して、人を脅迫するような人間にはなりたくないし、そういう人間にはなるまいと警戒はしている。ただ、以下の文章は、もしかしたら脅迫として受け取る人もいるかもしれない。

夕雲

 時代が変化する時は、その時代の変化の方向性を良く見極めた人々が、まず行動を起こし始めるだろう。そして、そんな先覚者の行動に共感したり影響を受けた人々が、その次に行動を起こすだろう。そして、またそんな人々の行動を見て、また他の人々も行動を起こすだろう。

 新しい変化というものは、人々の繋がりによって起こる。ちょうどドミノ倒しみたいに。
 問題は、そのドミノ倒しの列の関係に、まったく触れていない人々もいるという事だ。こういった人々は、新しい変化に影響される事も無く、そもそも新しい変化などという存在を知る事も無く、行動を起こすきっかけにも恵まれず、竜宮城の浦島太郎のような状態で時代から取り残される事がある。

 幕末から明治維新への変動期、映画や小説では時代を変革しようと活躍した人々を主役にして物語を盛り上げるが、実の所、盛り上がっていたのは一部の大名や商人や学者であって、それ以外の多くの藩の殿様たちは、何が起きているかよく判らないまま、明治時代を迎え、廃藩置県を迎えた。

 時代の変化の行く末を良く見極めた人々と関係を絶えず結んでおく事は、変化の激しい時代には特に重要になるよ、さもないと能動的に行動を起こすきっかけもつかめないまま、時代に取り残されてしまうよ・・・という言い方は、脅迫的だろうか。

10月23日(日)

山の朝

 先週あたりから冷え込んできた。近所の知り合いの方々からも、いよいよストーブに火を入れたという話を聞く。まあ、まだこれからも、いきなり汗ばむような陽気になる日も来るとは思うが。

 狩猟の季節も始まっている。休日には猟犬をつれたハンターの集団が山に入っていく。頼もしい事である。いっそのこと、山のイノシシなんぞ見つけ次第に皆殺しにしても構わんと私は思うが(・・・動物愛護精神の豊かな人には、なんという惨い事を言う野郎だ、と怒られるかもしれないな・・・)、とにかくイノシシの害には、この牧馬や篠原の集落に住む人々は、みな一様に苦しめられている。

 まあ、中には牧馬の住民に凄い人もいて、イノシシ除けの網に、小柄なイノシシが絡まって動きがとれなくなっているのを見つけたら、即、殺して解体して、肉をソーセージにした人がいる。
 私もなァ、山里に住むようになって、けっこう月日が経つけれど、そこまでの逞しさは身に付かなかったね。

 その解体現場の写真をお借りして、この日記に出そうかと思ったけどさすがに止めた。
 ああそうだ、念のために強調しておくけれど、野生の肉を食べる時は、必ず火を通さないと、もしかしたら寄生虫の害に身体を蝕まれかねないよ。

ススキ

 前回の日記で、さらりと「これからは教育の目的とは何かについて、静かに考え直す時期がくるだろう」と書いた。
 何しろ今までの学校教育というのは、人間を社会で働かせるための機械に仕上げるのが目的だった所がある。しかし、いずれは、世の中の仕事はほとんどが機械によって行われるようになるのだろう。それは単純作業だけではなく、論理的に物事を分析して最適解を導き出すような、知性を求められるような仕事まで、機械がやるようになる。それも人間よりも上手に、早く、安価に。

 そんな時代になっても、人間に残る、機械には置き換えることの出来ない、人間ならではの価値ってなんだろうか。
 教育の目標も、そんな人間ならではの価値を見つけて、それを育てていくようなものになっていくのではあるまいか。

 さて、機械には置き換え不可能な、人間ならではの価値って何かと考えてみても、どうも私には想像力が不足しているのか、思い浮かばない。
 強いて、一つあげるとしたら「同情心」だろうか。自分の隣に気の毒な境遇の人がいたら、同情して、できれば支援してあげたいという気持ち。

 でもなァ、今のコンピューターの進歩を見ると、数年後には、人間よりも同情心の豊かな、人間よりも人間らしい人工知能が現れてしまうんじゃないのか。これは決して皮肉とか冗談では無く、私は本気でそう思っているのです。その可能性は決して低くはないと。

鳥のような夕雲

 今までの学校教育では、同情心なんて教えてないよね。もちろん、道徳の授業なんかで出て来るかもしれないけれど、学校教育の大半は、テストテストテストで、周りの同級生を蹴落として自分一人が高みを目指そうとする競争だろう。
 ただ、おそらく、これからの世の中では、こんな教育ばかり受けていても、世の中で活躍できる人間には育たないだろうなぁと思う。

 以前、ここの日記で、これからの組織は「チームを作る」という形になると書いた。それも、チームの参加者の各人が、それぞれが徳を持っている必要がある、とも。
 そんなチームの一員として相応しい人格と徳とは何か。
 教育も、そんな徳の探究と、実践が求められるようになるのではないか。

 単に、知識が豊富にあるとか、高い学力がある、といった目標ではなく、経世済民の・・・世の中を上手に運営して人々を救う・・・力量を持った人間に相応しい、人徳のあり方を、実践も含めて身に付けていく教育が、必要になって来るだろう。

 問題は、現在の学校教育、それも公立の学校で、そんな教育ができるかどうか。
 政府が子供達に愛国心を教えようとすると、とたんにいかがわしい物になるように、政府に徳のあり方を教える力があるとは思えない。
 これは結局、在野の実践的な教育の場から、浮かび上がってくるものなのだろう。

 そもそも、政府という形自体、政府による民衆の支配という形を容認している。それがたとえ民主制を名乗る政府であっても。
 在野の才能がチームを形成し、それが既存の政府に換わる、横型のリーダーシップを持つようになるには、まだだいぶ時間がかかるだろうな。

月夜

 阿蘇山で噴火があったと思ったら、今度は鳥取県で大きな地震があった。相変わらず、なかなか油断できない地殻変動が続いているのだろう。
 ただ、ニュースでこの鳥取の地震の解説を聞いてたら、過去に起きた同程度の地震との比較の話が出ていて、数十年前と比較しても、同じようなマグニチュードの地震でも、倒壊する家屋の数も、死傷者の数も、かなり減っているんだなぁと感じた。

 長い時間をかけて、地震に強い家や町を作り続けてきた成果というものが、やはりあるのだろう。マグニチュード6クラスとか、震度5の揺れとか、これが海外の地震だったら大変な被害を生むニュースになるところが、日本では「まあ少々、大きめの地震があったね」くらいの出来事で終わってしまう。

 トルコに日本の原発を輸出しようと行動を起こしたら、どうもトルコの電力料金が低くて、原発では採算が採れないのでは無いかという話になり、先行きが不透明になっているとか。
 世界に輸出する日本ならではの技術であれば、地震に強い家とか建物とか町のあり方なんかのほうが、ずっと良いのではないかと思う。