2016

9月

9月5日(月)

風になびくススキ

 先週の台風は、また関東地方を直撃するかと思ったら、関東の東海上を通過していって、それほどの風雨はなかったけど、かわりに東北と北海道を襲って、甚大な被害を出している。北海道なんて、東西を結ぶ動脈が寸断されて、復旧までにはだいぶ時間がかかるようだ。
 熊本の震災もあって、なんだか災害の多い年だなァと思う。

 まだまだ今年を振り返るのは早すぎるな(笑)。これから台風だって、まだ次々と襲って来るかもしれないし。

 気がつけば、いつのまにかススキの穂が風になびく季節になっていた。それなりに、残暑らしい暑さもあるが、秋は確かに進んでいる。じきに彼岸花も出て来るだろう。

 さて、このところ何回か続けている、人間の欲望の限界についての話の続きですが。

道志川 川遊びも、そろそろお終いでしょうか

 科学の進歩は「蓄積型」で、過去に積み上げて来た技術に更に新しい技術を積み上げる形で高度化していく。しかし、人間自身は、決して蓄積型の存在では無い。石器時代に生まれた赤ん坊も、現代に生まれた赤ん坊も、能力に違いは無く、生まれた後の教育によって科学技術を維持発展させるための人材に育て上げなければならない。
 科学の蓄積型発展に限界が無く、人間の教育による能力が有限であれば、いつの日か、科学の発展に対して、人間の教育が追い付かなくなる日が来る。そんな事を、前回に書いた。

 これは、科学を維持発展させるための人材教育についての話だったが、「科学は蓄積型で人間はそうではない」、という側面は、人間の欲望についても同様な道をたどると私は考えている。

 確かに、これまでの科学の発展に関して見れば、科学の発展に伴って、人間の欲望も同様に進化発展してきたように見える。
 地上を高速で移動したり、空を飛んでみたり、それまで治らなかった病気が治ったり。遠くの人と自由に会話できたり、自国では味わえない食材や料理を味わったり。
 科学の発展と、その成果によって、人間の欲望も無限に進歩拡大していくかに見えた。
 しかし、本当に人間の欲望は無限なのか。

 私には、やはり人間の欲望に対しても、「人間的限界」というものがあるように思える。

残暑の山

 一生のほとんどを、世界中を旅行して絶景を堪能し、美食に舌鼓を打つ事に費やしても、現代の科学技術では、それほどたいした技術を必要としないだろう。いずれ、やろうと思えば、世界中の人々にその程度の快楽を味あわせる事も可能になるかもしれない。
 五感を喜ばす程度の単純な欲望だったら、それを充足させる事に、現代の科学は必要以上の力を既に備えている。いずれ、この程度の欲望であれば、脳に直接に電気信号を送って、実際に体験するのと同じ快楽を得る事も可能になるだろう。

 もう少し高度で、技術と資源を必要とする欲望といえば、創造する欲望だろうか。
 例えば、あなたが映画を作りたいと思っているとする。それも、巨大なセットを組んで、沢山の俳優を動員しなければ出来ないような映画を。
 こういった欲望であれば、個人的な五感の快楽の充足とは桁違いの、技術と資源が必要になるが、最近はコンピューターの映像製作技術が発展して、やろうと思えば個人でもそんな映画が作れるような時代が見えて来ている。
 後に残るのは、「あなたが欲しがる映像なら幾らでも作れます。問題はあなたがどんな映画を作りたいのかです。」という状況と、さて、どんな映画でも作れるとなった場合、自分はどの程度の映画を作れるのか、という自問だろう。

 実は欲望も、人間の能力によって可能な大きさが変わってくる。
 ひたすら美食を味わうような単純な身体的な欲望なら誰でもできるし、必要とする資源も技術もがたかがしれているが、創造の欲望となると、先の映画の例で言えば、技術も資源も無制限に使っていいと言われても、それによって出来た映画が良作かどうかは、いやそもそも、映画を完成させるまでの意欲と意志が持続するかどうかは、作る人間の能力次第という事になる。 

夕暮れ時

 これは人間にとって、なかなか厳しい問いかけだろう。美食を味わうとか旅行に行くとか、夏でも涼しく冬でも暖かいとか、五感の快楽を充足させるだけの欲望であれば、もはや人類のこれ以上の進歩のための原動力にはなりえない。さらに人類が進歩するには、欲望も進歩しなければならず、高度な欲望は、高度な能力を人間に対して要求する。

 欲望のままに生きる、とか、欲にまみれた人生、なんていうと、誰にも尊敬されないバカみたいな人格とされるが、これからの未来では、欲望がエリート(選ばれた人)のものになるかもしれない。持って生まれた高い才能と、その才能を磨き上げる努力を惜しまなかった人によって初めて、欲望は開花される。

 私には、人類の大多数が、このような高い能力を必要とする欲望とは、無縁なまま一生を終える事になると思う。そして、「人間の欲望にも限界があるのでは無いか」、という思いが、人々の間に広まっていく時代が来るのではないか。
 そんな時代がいつ来るかは判らない。ただ、今世界を覆っている経済の混乱と縮退は、そんな時代が近付いている事を、薄々気付き始めているのが原因のような気がする。

 これまで人間の欲望の限界について書いて来たけれど、じゃあ今後、未来を切り開いていくにはどんな道があるのか、そんな事についても書いてみたいと思います。
 一つ例をあげるなら、人間の進歩の源泉って、科学と欲望だけではないのではないか、という事。理想であるとか、人徳とか、賢人とか、過去の膨大な書籍に残されている宗教や思想の言葉の数々の中に、次の時代に通じる道があるような気がしています。

9月11日(日)

雨の山

 どうも晴天が続かない。晴天は二日と続かない。たちまち雨がちな天気になって、今度は雨がちな天気が4〜5日は続く。これでは洗濯物を干すのも気を使うな。
 この天気、昔から慣れ親しんで来た「秋雨」というものとも違う感じがする。気象学の専門科でも無い自分が言うのは説得力が無いが、秋雨は夏の暑い空気と秋の涼しい空気のせめぎ合いで降るので、雨と一緒に涼しい空気も運んで来たような印象がある。

 でも、この初秋の雨がちな天気は、日本列島の南海上の暑く湿った空気が、次々と日本列島に押し寄せている感じで、「暑さと涼しさのせめぎあい」という感じでは無い。時には日本列島からそれほど離れていない南海上に、台風がポコポコと生まれては、台風が襲来したりする。
 やっぱり、気候変動って、あるんですかねぇ。なんだか日本列島が南方に移動したような気候みたいだ。

 そういえば今日は9月11日だ。これも、いろいろと考えさせる日だけれど。
 今回は、人間の獰猛さの去勢、みたいな事を書きました。

雨の止み間

 これまで何回かに渡って、人間の欲望には、物質的な意味でも精神的な意味でも、限界があるんじゃないか、という事を書いて来た。
 科学はこれからも進歩はするだろう。前にも書いたように、科学は過去の成果の上に、新たに蓄積を加える形で進歩していく。これは、(嫌な想像だが)、人類が絶滅寸前に至るような厄災にあって、それまでの科学技術の蓄積や記録をほとんど失うような事態でも起きない限り、科学は進歩する事はあっても退くと言う事は・・・原理的には・・・ありえない事を示す。

 人間の欲望に限界があり、科学の進歩は継続し続けるとしたら、いつしか科学は、人間の欲望を十分に満たすだけの力に達するだろう。そして更に科学が発達すると、人間の欲望を満たすのでも、もっと科学的に発達した手法を使うようになるだろう。
 それは例えば、より少ない資源とエネルギーで人間の欲望を叶える、という方向に向かうかもしれない。前回に書いた映画の例のように。

 これは、労働や経済活動の点から見れば、縮退を意味する。これまでは、人間を幸福にするためには、あれも必要だ、これも必要だと欲望を拡大して来たが、更に科学が進歩すると、人間を幸福にするのに、あれは必要無くなった、これも必要なくなった、もっと便利で省資源で低維持費で労力のかからない技術が次々とできる、という局面が現れてくる。

 究極には、人間がしなければならない仕事というものが、ほとんど無くなってしまう世界に至るかもしれない。

降ったり止んだりのせいか、派手な夕空が多いです

 「働かざるものは食うべからず」とは、長い時間に渡って現実的な真理として君臨して来たが、科学が人間の欲望の遥か先を進みはじめると、そろそろ真理では無くなってくる。
 更に行けば、「別に働かなくても生活に困らないよ」と言われてしまう世の中になってしまうかもしれない。そんな時、人はどうなるのか。

 一つの可能性として、獰猛さを失う、という事はあるかもしれない。「働かなければ生きられない」という状況は、人間にとって、精神的にも物質的にも強い圧迫になり、人間を必死になるように追い詰める。
 これは見方を変えれば、人間を真剣にさせ、有意義に生きようとする活力を与えているとも言える。怠惰を悪徳とするのなら、人間が勤勉になる事は良い事で、それを「獰猛さ」と言うのは誤りだ、という意見もあるだろう。

 しかし、人間を必死にさせる圧迫は、個人どうしの競争、企業どうしの競争、国家どうしの競争も生み、血で血を洗う修羅場を生み続けて来たのも事実だろう。怠惰を悪徳と言うのは正しいかもしれないが、他者を犠牲にしてまで自己の欲望を追求しようとする勤勉さというのは、やはり行き過ぎだろう。

 科学が人間の欲望を超える時、これまでの人間の獰猛さに反省が加えられ、また実際に、人間から獰猛さが徐々に消えていくのではないかと私は想像している。これは人によっては、あたかも人間が去勢されてしまったかのような、戦う事も挑戦する事も忘れた、おとなしい生き物になってしまうように見えて、寂しい思いをするかもしれない。
 ただ私は、これは、人類がその先を進もうと思えば、一度は通らなければならない必要な階梯と思う。

日暮れ

 人間の獰猛さの去勢という流れは、政治の場にも現れて来るだろう。政治と言う場こそ、人間どうしの闘争の場であり、そこでの勝者が敗者を押さえ付け、勝者がより多くの欲望を叶えられるようにするための場であり続けた。
 そんな政治の場が、いきなり「獰猛な悪徳」と言われても、そう簡単に変われるわけもないとは思うが、何十年の歳月がかかるかは判らないけれど、世代を重ねていくにつれ、旧世代の政治の考え方が、次の世代には非常識な悪徳に見える流れは継続していくだろう。
 それと同時に、じゃあ悪徳では無い政治、徳のある政治の姿とはどんなものかという考えも、世代が変わるにつれて議論は深まっていくだろう。

 これまで、生きる事、食う事、働く事、競争する事に逐われていた人間が、ある時、別にそんなに追い詰められなくてもいいんだ、と気付く。
 そんな時、心の空白を埋めるように現れてくるのは、過去の聖賢が積み残して来た、思想の数々ではないかと私は思っている。
 生きる事とは、死ぬ事とは、良い生き方とは、良い行動とは、そもそも「良い」とは何か。

 以前の私は、そんな時代が来るのは、100年も200年も先の事だと思っていたが、どうもこのところの科学技術の進み具合を考えると、想像していたよりも、ずっと早いのではないかと思うようになった。
 余りにも早く、そんな時代が来てしまうと、混乱も激しいだろう。

9月19日(月)

ずっとこんな天気

 彼岸の入り。相変わらず雨がちな天気が続く。週の半ばには、また台風が来るそうな。その台風が秋雨前線を刺激して、週間予報はずらりと雨マークが続いている。心地よい秋らしい爽やかな晴天って、9月に入って以来まだ経験していない気がする。

 こんな天気ばかりだと、屋外のイベントを企画する人も大変だ。最近はこの日記で地域のイベントを紹介する事もめっきり減ったけど。
 相変わらずイベントや祭りの多い藤野だけど、ここへ来て、イベントの質に変化があるように思う。数年前までは、不特定多数のお客さんを地域の外から呼び込むような大規模なイベントが盛んだったが、それらは数を減らし、変わって、地域の自然とか文化とかを静かに楽しむような、地元の手作り感覚のものが増えたように感じる。

 以前にも紹介した事のある、主に新規就農者が中心になって始まった朝市ですが。

ビオ市・野菜市
こちら>>

 回を重ねるに従って、メディアにも紹介されたり参加者が増えたりと、じわりじわりと発展成長しているみたいです。これからは、派手な打ち上げ花火的なイベントよりも、こんな普段の生活に身近なイベントの方が主流になっていくのかな。

水墨画みたい、といえば風情があるが・・・

 ここ数回に渡って、科学の進歩に従って経済も拡大してきたのに、近年になってその傾向が鈍化し、むしろ科学が進むほど経済が縮退しつつあるのではないか、という現象についての、自分なりの理由の仮説を書いてみた。その仮説というのは、人間には身体的にも精神的にも、欲望の限界があるのではないか、というもの。

 その仮説が正しいかどうかは未来が決めてくれるとして、前回の日記から、じゃあその仮説が正しかった場合、これから先の人間はどんな状況になっていくのか、について書き始めた。

 その第一として、科学技術が人間の欲望を追いこしてしまい、これまで、生きる事、食う事、働く事、競争する事に逐われていた人間が、ある時、別にそんなに追い詰められなくてもいいんだ、と思える状況に至る。
 その結果、獰猛さを失い、改めて人間は、生きる事とは、死ぬ事とは、良い生き方とは、良い行動とは、そもそも「良い」とは何か、といった事を考え始めるのではないか、と言った事を書いた。

 ここでまっ先に思ったのは、「これではブラック企業の存在できる余地は無くなるな」という事。
 どのくらい年月の先の話になるか判らないが・・・それでも10年とか20年後といった単位になると思うが・・・ブラック企業がやるような仕事は、あらかたロボットやコンピューターがやるようになっているだろう。

彼岸花

 その次に訪れる変化といえば、これまでの縦型(ピラミッド型)の組織が衰退し、代わって横型の組織が台頭してくるだろう。縦型の組織は、どうしても「命令する者」と「服従する者」という、主人と奴隷の関係を含んでしまう。しかし、奴隷という存在がロボットとコンピューターに置き換えられると、縦型の組織も存在意義を失っていく。金や権力によって、人に仕事を強いるという人間関係が消えていく。

 ここで、「民主制」という言葉にも、新たな定義が必要になるかもしれない。
 これまで、多くの人々が民主制を支持して来たのは、王制や貴族制よりはずっとましだ、という消極的な理由があったと思う。
 しかし、実は民主制といえども、生きる事、食う事、働く事、競争する事に逐われながらの民主制だった。これは、「生きる事、食う事、働く事、競争する事」を強いる主人に従う奴隷だったとも言える。

 それが、もはや誰も「生きる事、食う事、働く事、競争する事」を強いる事はしないし、強いられる事も無い。一見、楽園のようだが、これはこれで、人々に努力を要求する社会になると思う。

 まずなにより、縦型の社会は、言葉は悪いが知性が無くても維持できる所がある。命令する側は「生きたければ従え」と言えばいいだけだし、従う方も「生かしてくれるなら従う」と現実を受け入れるだけだった。この両者の関係には知性はそれほど必要としない。

夕暮れ

 これが横型の組織となると、そうもいかない。何か事業を起こそうとして、人を集める場合、それは「チームを作る」という形になる。それも、良好な能力を発揮するチームを。
 集まった人々には、「命令する、命令される」という関係がないため、それぞれが自発的に自分の役割を考えていくしかない。自分の得意な分野を受け持てば理想的だが、かといって自分の好きな事だけやってればいいというわけにもいかない。
 チーム全体のバランスを見ながら、時にはチームにとって最も弱点になっている所の応援に率先して行く必要もあるだろう。ここでは、働く人と運営する人が、同じ個人の中に同居している必要がある。

 これは、参加者ひとりひとりに、なかなか高度な徳を要求する。「金と権力があれば人は黙って働くんだ」と考える人も、「私は金さえもらえればいいんで、組織の状態なんか何も考えずに働いてればいいんだ」という人も、改めて新時代の「横型チームの一員としての働き型」を学ぶ必要に迫られるだろう。

 何より、このチームの参加は、参加者の「喜び」とか「自己実現」といった動機から出発している。(すでに、いやいや強いられるという参加形態は存在していないため)
 すると、チームの参加者の各人は、チームの雰囲気を喜びと自己実現の可能性に満ちたものにしていく配慮をする事になる。
 これは、なかなかの人格者の集まりによって初めて成立するチームに思えるが、果たして、人間はそこまで偉くなれるのかどうか。

9月26日(月)

こんな天気がずっと続きました

 長い長い長雨の後、ようやく日曜日に青空が見えた。まあ、この晴天も、それほど力強く続くものでもなさそうですが。何しろまた秋雨前線が力を付けている。

 あちこちの家で、畳にカビが生えたとか、洗濯物も布団も干せないとか、いろいろ悲鳴が聞こえた長雨でした。山の小道を歩いていると、道路がぬるっと滑るのに驚いた。あまりにも雨が続いて道路が川のようになり、いつのまにか路面にコケが生えていたらしい。

 これだけ長雨が続いたせいで、稲刈りに支障が出ている所も多いと聞く。普通、稲刈りの前には田んぼから水を抜いて田んぼを乾かして、地面が固まってから稲刈り機を使って稲を刈るのだけど、あまりの長雨で田んぼから水が無くならず、いつまでたっても田んぼがぬかるんだまま。これでは稲刈りのコンバインを使う事が出来ない。

 そうこうしている内に稲が倒れ始め、稲穂が水に浸かってしまうようになる。こうなると覚悟を決めて、機械ではなく手で稲を刈る事になるが、広大な田んぼで稲作をしている農家の中には、収穫を諦める場合もあるそうな。

 自分が参加している田んぼは、田植えが遅かったぶん、まだ稲刈りも先なので、その点では助かっている。農業って、自然相手の作業だけに、時にはギャンブルっぽい所もあるね。

相模湖

 前回の日記で、これからは科学技術の発展によって、奴隷のような労働はロボットやコンピューターの役割になり、働く場も、縦型(ピラミッド型)のような命令と服従の形ではなく、横型の「チームを作る」形になると書いた。そして、この横型のチームの参加者には、チームの雰囲気を、喜びと自己実現の可能性に満ちたものにするように配慮できる資質が必要だ、といった事も書いた。

 話がやや抽象的だったので、最近読んだ記事で、この具体例をあげたい。アメリカの映画会社の働き方を紹介したものだけど。

ディズニー映画を凌駕!ジョブズが作ったピクサーの「チーム力」
こちら>>

 ピクサーの映画が常に高水準の出来の良さを発揮する事は、いまやすっかり定評になっている。そして、その出来の良さの原因が、才能を持った人々の良好なチームがあるということも、すでによく語られている。この記事も、そんな一つだ。

 この記事でも書いてあるように、良好な能力を発揮するチームは、チームの参加者が、お互いに対して敬意を持ち、意見の交換をする時にでも、決して「自分の考えが良質で、お前の意見は低質だ」と相手をやっつけるような事はしない。互いにアイデアを出し合い、「自分のアイデアも、他の人の助言によって更に磨きがかかるかもしれない」と、一緒に向上していこうとする信頼関係がある。

 本来、「チーム」の作業は、日本人の得意とする所とされているけれど、本当に凄いチームはアメリカで作られるというのも、興味深い。ピクサーの「チーム力」と比較すると、日本のチームは、まだ前近代的な腐臭を漂わせているものだろう。

道志川

 8月下旬から、この日記で数十年先の事を想像する話を書いて来たけれど、「数年先」に来ると私が思っているものに、「横型リーダーシップ元年」がある。縦型のピラミッド型の組織ではなく、横型で良質なチームを作り、みんなで流れを作っていく組織の優位性が、強く世間でも知られる元年が、数年内にあるのではないか。

 嫌々やるような仕事は、今後コンピューターや機械によって置き換わっていくだろう。そうなると、残されるのは喜んでやるような仕事しかない。つまり、いずれは、人々を動かす原動力は「喜び」になるという事だ。
 重ねて言うが、そのためには仕事の参加者が互いに謙虚な徳を持ち、互いの喜びが成長していくように、仕事と職場の喜びが成長していくように配慮できる資質が必要になる。

 こういった横型のリーダーシップを教えたり学んだりする機会や学校や教材も、いろいろと必要になるだろうな。

 さて、こんな「これからの仕事の原動力は、人々の『喜び』である」みたいな事を書くと、多くの人は、現実離れした夢物語に聞こえるかもしれない。現実は、「喜び」どころか、どんどん酷い方向に向かっていると思う人も多いだろう。

 確かに、そう考える人がいるのも無理はない。何しろ、これから仕事が「無くなっていく」方向にあるのは確からしいからだ。「喜び」のある仕事は最後まで残るだろうが、それ以外の仕事は徐々に消えていくだろう。そこに失業の問題が絡んでくるのは間違いない。

家の灯り

 本当は、政治が主導して「仕事が無くなってしまうかもしれない社会」について、真剣に考える機会を作らなければならない所だが、ここにも問題がある。

 これまでの政治は、政党も政治家も含めて、「仕事が欲しければ自分を支持しろ」という理屈で存在して来た。つまり、仕事のない社会と言うのは、政治家や政党の存在意義が喪失してしまう社会でもあって、政治家や政党が好き好んで話題にする話ではなく、できれば話題にするのは避けたい問題だろう。下手をすれば権力の基盤そのものを失いかねない。

 民衆には、「そもそも仕事が無くなる世の中の形とは?」などと真剣に考えて欲しくはなく、「仕事が無くなったらどうしよう」とおろおろと不安にかられている状態の方が、政治権力としては扱いやすい。

 いや、政治だけではないな。実は、産業界やマスコミも含めて、民衆には常に何かに対して不安であって欲しいと思っているのだろう。それでこそ、飯の種もできるというもので、民衆が肚の座った大安心の境地になんぞ達したら、それこそ経済なんて、これまでのような力を保てまい。

 ただ私には、21世紀という時代が、徐々に民衆レベルにまで、人々が自覚的に自分の内面と向き合って(もちろん不安とも向き合って)、精神的成熟を目指す時代に思えてならないのだけど。