2016

8月

8月1日(月)

関東も梅雨明けしたそうな

 この日記を書くのもずいぶん久しぶりになった。生活が変わり、こんな事に時間を割く余裕がすっかり無くなったのが原因ですが。
 その間に、九州で大きな地震があった。あれは「震災」と呼ぶべき規模だと私は思うが、政府としては消費税の増税がやりにくくなると考えて、なかなか「震災」という言葉は使いたがらず、逃げるように避けて来た。個人でも組織でも、追い詰められると言葉の使い方に無理が出てくる。

 イギリスのEUから離脱した話もあったね。話自体は一国の小さな決断だけど、世界全体の流れから見れば、象徴的な分水嶺の一つの現れだったと思う。
 とにかくグローバル化こそ正義である、グローバル化こそ次の時代の本流であると突っ走って来たが、気が付けば、グローバル化で得をする人よりも、泣きを見る人の方が多数派になっていたのだろう。ここらで一度、ブレーキをかけて、人々が本当に幸福になれる世の中の形とは何かを考え直して、改めて再出発するしかないだろう。

 EUだって設立当初は、統合によって、小さな組織が大きな組織のエゴに潰されないような、理想的な統合の形を模索していたはずだ。それこそ各界の英知を結集して。
 小さな組織の独自性と自立性を壊す事なく、大きな組織ならではの力も発揮できるような統合のあり方を創造しようとしていただろう。しかしいつのまにか、力の強い組織が力の弱い組織を強権によって従えるような、参加国に不満をもたらすような組織に変質していた点は否めまい。

 それにしても、イギリスから始まった産業革命から、世界中に大量生産・大量消費・大量廃棄の波をもたらしたように、今度はグローバル化を縮退させるような波をイギリスから発すると言うのも、不思議な因縁を感じる。

野の花

 話を世界から近所に戻せば、こっちはこっちで、最近、酷い事件が起きた。私の身の回りの人たちも、あまりにも事件の凄惨さが大き過ぎて、この事件をどう捉えればいいのか途方に暮れている人が多いようだ。
 私は、大きな事件に直面した時に、途方に暮れる事は決して悪い事では無いと考えている。少なくとも、慌てて「わかりやすい解釈」に飛びついて、事件を「わかったつもり」になるよりはずっといい。
 時間をかけて消化しなければならない事件は、時間をかけて消化すべきだと思う。

 次の時代の流れがなかなか見つからずに、惰性的に漂流を続けているような世の中だけど、ここしばらく、世界を吹き続ける風に、「謙虚さ」があるように感じている。
 というか、謙虚さが無いと、生き残れまい。

 1パーセントの富裕層が99パーセントの貧民の上に君臨するような世の中は長続きできない。押し寄せた波も、永遠に寄せ続ける事は無く、やがて引くべき時を迎える。
 潮目が変わった時に、富裕層が生き残る手段と言えば、「私の得た利益も、もとはと言えば、すべてみなさんが働いてくれたおかげです」と、得た利益を99パーセントの貧民に還元するしかないだろう。

 ただ、こういった行動は謙虚な人間でないと難しい。
 たいがい、この世界で成功して富と名声を得た人間は、「これは自分の実力と努力でなし得た事で、富と名声を得られなかった人間は実力と努力が無かった人間だ」、と考えがちだ。
 そういった考えの持ち主になってしまったら、弱者の救済なんて馬鹿らしいと思うのではないか。

夏の陽

 しかし、成功というのは、必ずしも個人の実力や努力だけで達成できるものではない。それに、一度実現した成功を持続させるのにも、個人の実力と努力だけで達成できるものでもないだろう。
 それには、多くの人々の協力が必要になってくる。その「多くの人々」の中には、多数の「弱者」も含まれるはずだ。

 体力には恵まれないが、知性には優れた人とか。人付き合いは苦手だけれど、特定の分野で高い実力を持っている人とか。特に人に優れた才能は無いが、穏やかで誰とでも親しめる人柄の持ち主とか。
 結局、多くの人々の協力を求めようと思えば、弱者の中にも長所を見つけだして、それを上手に育てて発揮させるようなリーダーシップが、どうしても必要になる。
 そのためには、たとえ自分の実力や努力に自信があっても、自分よりも実力や努力が劣っていると思っている人に対しても頭を下げて、「この人には自分には無い力を持っている」と尊重できる謙虚さが、必須の資質になるだろう。

 これは自戒しなければならない事だが。
 インターネットの普及に伴い、世間に対して、自分の考えや意見を述べて訴えかける事は、個人でも容易になったが、その意見の主張の仕方には、自分の意見こそ最上であり、他の意見は無価値である、かのような表現が多くなったと私は感じている。
 自分とは異なる意見の持ち主を、罵倒したり冷笑したりしてこきおろすのが、インターネット上の論者に見られる、共通した個性の様に私は感じている。程度の大小はあるにしても。

 ただ、こういった人々も、いずれは気付く時が来るように思う。実際に多くの生身の人間と直接会って、語り合って、共感して、大きな流れを作って行くのには、そのような表現では難しい事を。

夏雲

 中国の古典の易経は、この世界の森羅万象を64種類の形に分類して解説を加えたものだが、その一つにまさに謙虚さを表した「謙」という卦がある。そこには、謙虚さを持った君子(人格者)であって初めて、終わりを全うできる、と書いてある。その理由として、そもそもこの世界は「満ちたものを減らし、欠けたものに加える」という性質が、もとからあるからだ、と説明しているのが面白い。

 光は太陽から降り注ぐ。太陽は自分から出て行く光をけちって自分の中に溜め込む事はしないし、ましてや他の所から光を奪って溜め込む事はしない。高い山は風雨に削られ、低い土地に土砂と水を運ぶ。

 始めに書いたように、イギリスから始まった産業革命の波は、世界全体に大量生産・大量消費・大量廃棄の生き方を行き渡らせたが、どうもその波は引き始めているらしい。経済の縮退も、しばらく続くだろう。
 この流れが、私には易経の「謙」の卦と重なって見えるし、経済の縮退の果てに、最後まで生き残って終わりを全うできるのは、やはり謙虚さを持った存在しかないのではないかと思っている。

8月8日(月)

夏景色

 今年の藤野の梅雨明けは妙な感じだった。南関東は7月下旬まで雨が降りやすい気候が続き、週間予報もあてにならないくらい、晴れるかと思ったら雲が来て雨が降る、という天気が多かった。
 ようやく、あきらかに梅雨が開けたと実感できるようになったのは8月に入ってから。そして夏らしい強力な暑さも押し寄せてきたけれど、もう8月7日は立秋になる。

 まだまだ暑い日が続くのは確かだろうけれど、秋の気配を感じさせる時期が来たのも確かだ。夏至に比べれば陽は短く低くなり、影の長さを感じさせ、ススキの穂が風になびき始める。
 雑草の勢いが無くなるのもこの頃からだ。7月までは、刈ったそばから生えてくるような雑草が、8月の御盆頃からになると、一度草刈りをしたら、1週間経っても、2週間経っても、「まだこんな程度か」と思えるほどにしか草が生えていない。
 季節の変化と言うのは、もしかしたら地面の中の方が先取りしているのかもしれない。

 祭りを前にして、道路沿いの草刈りも終わった。そろそろ御盆休みに入る頃だろう。

午後の光

 以前この日記で、「私なりの仮説はある」と書いたまま、その仮説を書いていない事柄がある。

 イギリスで始まった産業革命以来、約200年に渡って、科学と経済が二人三脚で発展して行く時代が続いた。科学による新しい発見や発明があると、それによって新しい生活様式が可能になり、新しい産業が生まれ、新しい仕事が生まれ、経済は拡大して行った。
 例をあげれば、自動車が発明されれば、道路も作り、給油所も作り、自動車の修理や整備をする仕事が生まれ、自動車用の保険も必要になってくる。一つの発明が、人々の生活を変えて、同時に仕事と経済を拡大させて行く。

 それがある段階から、科学による新しい発明や発見が、一応、新しい生活様式を産み出すのだけれど、それが必ずしも新しい産業や仕事を生まず、経済の拡大が起こらなくなってくる。
 いやむしろ、新しい発見や発明がある度に、既存の産業や仕事を必要としない生活様式が提示され、仕事と経済が縮小しつつあるようにも見える。自動車の自動運転が可能になったら、バスやタクシーのような公共交通機関が存在意義を失っていくように。

 その理由を、自分なりに考えた拙い仮説を書いてみたいのですが、最初に結論を言ってしまえば、人間には、欲望の限界がある、という事です。

夕陽の花

 もう結論を書いちゃったからなァ、これ以上書かなくてもいいかとも思うけれど(笑)。この結論を説明するのには、だらだらと色々と書く必要があって、この日記の1〜2回では終わらない気がする。まあ、興味が合ったらこれからの説明に付き合って下さい。

 さて、どこから書こうか。

 まずそもそも、仕事って何だろう、という所から書いてみたい。
 人類が始まった頃、「仕事をする事」は「生き抜く事」と同義語だったに違い無い。それは、ほとんどが食料の確保が仕事だった。獣や魚を捕えて食べたり、木や草の実を集めたり。

 ただ私には、それでもかなり早い時代から、「専業」と呼べるような仕事の分業が生まれていたと思っている。
 縄文時代、良質な刃物として重宝がられた黒曜石は、産地が限定されている事もあり、同じ産地の黒曜石が広範囲に伝播している。この事はウィキペディアの「黒曜石」の所にも書いてあるし、このサイトのページは更に詳しい。

 伊豆諸島の神津島で産出された黒曜石は、海を渡って南関東に広がって使用されている。同様の伝播の例は、ヒスイやアスファルトでも見られる。

わきあがる雲

 そこで私は、こんな事を想像する。人間の個性にもいろいろあって、縄文時代だって、あまり引っ越しをしたがらない定住指向の人もいれば、旅から旅の生活を好む人もいたに違いない。
 産地が限定されるような産物の移送には、旅を好むタイプの人間が、その「仕事」を好んで選んでいたのではないか。交易商人、という所までは発展していないとは思うけれど。

 でも、荷物を船で海や川を輸送したり、荷物を背負って山を越えて村々を回る旅の人々は、訪れた村々で食料の供給は受けていたと思う。つまり、「仕事をする事」と「食料を確保する事(生き抜く事)」が同義語ではない人々も、かなり古い時代から存在していたと私は考える。縄文時代の火炎式土器なんか見ても、あれは専門の陶芸家が居たんじゃないかとさえ思わせる。

 もちろん、それでもこの時代では、ほとんどの人々にとって、仕事とは食料を確保する事であったには違いない。専門職なんて、百人に一人か、千人にひとりだったろう。
 ただ、人類の発展史は、専門職の多様化と、人口における専門職を選ぶ人々の割合の増加の歴史でもある。逆にいえば、「仕事をする」ということが「食うこと」とは乖離して行く歴史だ。

 黒曜石が人々の生活をより便利にして、同時に専門職を作って行ったように、その後様々な発明や発見が新しい生活様式を産み出して、専門職の数を増やして行く。

 続きはまた今度の機会にでも。

8月21日(日)

雨の止み間

 なんか今年の夏は、妙な夏だ。西日本では例年通りの猛暑になったようだけど、関東はというと、安定した力強い高気圧に支配されるという経験はほとんどせず、いつもポコポコと雨雲が湧いては雨を降らせるという、落ち着かない天気が続いた。それに今度は小さな台風が三つも近所をうろうろと迷走して雨を降らせている。

 21日、牧馬でも小さな祭りがあった。祭りといっても、ほこらに収納してある神輿を表に出して酒を捧げ、後は牧馬の住人で食事をするというささやかなもの。何しろ人口が人口だけに、これだけのことをするだけでも精一杯。
 この小さなお祭りも、天気が心配されたけど、幸いにして晴天のままで終了できました。もっとも、近付く台風の影響か、風は強めでしたが。

 祭りというよりも、年に一回の牧馬の住民の親睦会みたいなものだけど、こんなときにいろんな情報交換もある。昔のこの地域の暮らしぶり。今のこの地域の悩みや課題。近況報告。こうした日頃の話のやりとりが、いざ急な災害発生となった時に、底力を発揮するのだと思う。

 さて、前回からの話の続きですが、前回は人類の発展は、専門職の発展だ、といった事を書き始めました。

 牧馬のささやかな祭り

 始めは、「食料を作る」という仕事だけで精一杯だった人類は、石器を作り、火を使い、農業を行うようになり、少しずつ食料の生産にも余裕が出来てくる。すると猟を主にする人、農業を主にする人、道具や衣服の加工を主にする人、交易を主にする人、といった具合に、専業も徐々に生まれていったに違いない。

 専業の進化は、また新しい進化も生んでいったはずだ。農業を行うのも、それまで農耕には不向きだった土地にも水路を作って開墾していったり、農産物を加工してパンを作ったり保存食を作ったり。農耕に牛や馬のような家畜を使う事を覚えたり。
 徐々に、国家とよべるような組織が生まれ、政治や宗教も必要になり、政治や宗教を専業とする人々も生まれてくる。

 組織の大きさが、それまでの「村」という段階から「国」と呼べる段階に行くに従って、人々が使う技術の水準も上がってくる。同じ用水路を作るのでも、村と国では規模も技術もまるで違ったものになってくる。水路の設計に使われる幾何学も土木技術も水準は別物だろうし、幾何学や土木技術を専業とする集団も生まれて来るだろう。

 ここで一つ気付く点は、新しい発見や発明によって生活水準が上がる場合、以前よりも多くの人口を必要とする事だ。新しい発見や発明による技術の活用と維持には、それらを専業とする人々も必要になってくる。
 私達が普通に天気予報を知るのでも、その技術を享受するためには、膨大な技術と、それを活用し維持するための専業と人材がいるということだ。

夕暮れ

 ただ、この「新しい発明や発見による技術と生活水準の向上」と「それを維持するための専業と多くの人口」という関係性は、たとえ「新しい発明や発見による技術と生活水準の向上」があっても、なかなか思ったようには生活水準が向上しない、という側面も出てくる。
 例えば農業の分野で「新しい発明や発見による技術と生活水準の向上」があった場合、それは食料の増産が可能になっても、人口の増加によって一人当りの食料はそれほど増加しない。

 「新しい技術」と、それにともなう「人口の増加」は、確かに人口が増加してくれないと新しい技術は維持できないと同時に、新しい技術の恩恵によって必ずしも生活に余裕がうまれるわけではない、という結果をもたらす。
 基本的に、この性質は20世紀まで変わらない。

 ついでに付け加えると、国の体制が王制や貴族制が過去の物になり、民主性が主流になった歴史にも関連がある。時代が進むにつれ、新しい発見や発明による生活水準の向上を維持していくためには、広大な裾野を持つ専業と、それに携わる専門職の人々が必要になるが、そのためには、一部の特権階級だけで専業を担うのは不可能になったという事情があるだろう。なるべく国民全体が専業を担い、新しい技術の維持と発展に勤めるような体制が、結局勝ち残った。
 この事は、人類が高度な技術を使うようになるほど、国家総動員体制が進んでいくという話にもなってくる。第二次世界大戦は、まさにそんな時代の戦争だった。

光る雲

 しかし、その傾向がそのまま続くかといえば、そうでもなさそうだ、という変化が、20世紀の終わり頃から現れてくる。
 それは、まず、最も科学技術が進み、もっとも世界の先端を進んでいると思われる国々から、人口の増加の鈍化、更には人口の減少という形で現れた。

 この続きはまた次回に。

8月28日(日)

雨の山

 日本列島の南海上を西へ西へと移動していた台風が、立ち止まって引き返し、今度は東へ東へと動いて、こりゃあ関東に直撃かと思ったら、どうやら更に関東の東海上を通過していくらしい。それでも、東北地方は通過するみたいなので、被害が出ないか心配だが。
 先週もそうだったが、妙な台風が次々とやってくるな。

 台風も含めて、この夏は関東に限っていえば、安定した晴天というのが少なかった。そのぶん、打ちのめされるような猛暑は少なかっただけに、しのぎやすい夏だったとも言えるのだけど。
 やはり、不順な季節というのは、なんか落ち着かない。8月も終わりになるが。

 さて、前々回から書き始めた、「もしかしたら、人間は欲望の限界に達しつつあるのではないか」という話の続きです。前回までに書いた事と重複しますが。

 人々が何か革新的な発明や発見をした時、その人々の前に一気に可能性が広がり、幸福は増大し、人口も増大した。産業革命はまさにその象徴的な出来事で、石炭の利用による製鉄と蒸気機関の発明から始まった科学の爆発的な開花は、人々に、それまでは考えもしなかったような可能性を広げた。これは、それまでの時代の不幸(貧困や病気とか)を解決していき、それまでの時代だったら死んでいたような人でも、死なずにすむ世界が現れたという事でもある。
(一方で、2度に渡る大戦のような、それまでの時代だったら死なずにすんだ人々が、死に見舞われる不幸も現れたが、全体の傾向としては、科学的な革新が不幸の減少に作用している)

 じゃあここから、更に人口の爆発が起こるかというと、そうはならなかった。現在心配されている人口爆発の問題は、主に発展途上国の話で、先進工業国では人口の停滞が進んだ。

 
嵐すぎて

 理由はいろいろあるだろう。露悪的な理由をあげれば、科学文明が進めば性交以外の娯楽が豊富に現れる、というのもあるだろう。ただ、私が思う最大の理由は、科学技術が進んだ世界であるほど、教育に時間と労力がかかる、という点だ。
 人類の進化は専門職の進化であって、それは、科学技術が進めば進むほど、人間は高度な専門職を担う事を求められ、そのための教育を必要とする事になる。科学技術の進歩によって人間の寿命も伸びたが、教育に必要な時間もまた伸びた。

 ここで注意しておきたいのは、「科学」と「人間」の性質の違いだ。
 「科学」は基本的に、蓄積型の存在だ。過去の発見や発明は、様々な形で記録伝承され、その記録と伝承の上に、更に蓄積する形で新たな発見や発明を加えていく。確かに、記録も伝承も途絶えて、今では再現不能の技術も無いではないが、基本的には、科学は過去から未来に向けて一方的に高度化していく。

 しかし、「人間」は決してそうではない。石器時代に生まれた赤ん坊も、現代に生まれた赤ん坊も、それほど能力に違いはないだろう。
 このことは、科学の進歩発展に対して、いつの日か、人間が対処不能になる限界がある事を想像させる。もちろん、人間だって、あの手この手を使っては、その限界を超えようと挑戦はするだろう。例えば、もはや科学を維持するのも一つの国の人口だけでまかなうのではなく、世界全体の英知を結集する仕組みを作ったり、コンピューターや機械の高性能化を押し進めて、コンピューターや機械にも、科学を維持するための役割を担ってもらうようにもなるだろう。
 もしかしたら、人間の脳とコンピューターを接続して、知性の増大を図る未来も訪れるかもしれない。

 こういった未来予想は、人によっては薄気味悪いものに感じられるかもしれない。ただ、今までの科学の発展は、主に不幸の解消と快楽の増大がもたらされて来たので、人々はわりと無邪気に科学の発展を喜んで享受してきたが、これからの科学の発展は、人間に対して、様々な問いかけを迫ってくるようになってくる。

晴れ間

 すでに、人間のクローンを作るのは是か非かという議論は現実のものになって久しい。科学の発展は人間の可能性を広げるが、同時に、それまでの人間が「考えもしたく無かった」可能性まで広げる事がある。

 人間の寿命が100歳はおろか、1000歳でも10000歳でも可能になった時、それに人間は精神的に耐えられるのか。不老不死が実現した時に、もはや「死」とは自発的に自殺する以外に手段がない状況で、人々はどんな選択をするのか。

 そんな突飛な事を考えなくても、例えば、その人が発する脳波を受信して、その人が何を考えているのかがガラス張りのように判る未来は、それほど遠くはないだろう。これだって、人々にとっては大変な衝撃になるはずだ。

 以前、こんな事があった。
 遠い異星から、光の速度を超える早さの宇宙船で地球に訪れてくる異星人の存在を信じている人は多い。そんな人たちに、こんな問いかけをした事がある。
「光の速度を超える技術の持ち主なら、タイムマシンのような、過去や未来に行く機械は難しいとしても、過去や未来と通信する電話なら作れるかもしれない。つまり、そういった異星人たちから技術をもらう日が来るとしたら、自分がこれからどんな人生を歩み、どんな死を迎えるかが判る電話も使えるようになるのではないか。」

 この時の、私が話し掛けた相手の反応は、みな一様に、ちょっと度を失ったような、薄気味悪さを感じていた。中には「光速を超える技術はありえても、過去や未来と通信する技術はありえない」と、理屈も無く否定する人もいた。
 人の心は、何かにすがって安心を得ている所がある。しかし、科学の発展がもたらす可能性は、何も人間に夢を与えるものばかりではない。人間に対して、倫理的、哲学的な、それも苦しい決断を強いるものも出てくる。

午後の川

 これからの科学の進歩と発展は、今までのような、不幸の減少と快楽の増加といった、単純に喜べるものだけでは無くなってくるだろう。科学の発展に伴い、「人は、どう生きるべきか」という問題に直面する機会が増えて、人々は、精神的な成熟と哲学的な内省を求められるようになるだろう。

 すでに、そんな時代は始まっている。「人は、どう生きるべきか」という問いかけは、多くの人々が考えざるを得ない状況になってきている。
 その代表例が、現在、世の表に出始めている、「人々が仕事をすればするほど、この世から仕事が減っていく」という現象で、再三ここで書いて来たけれど、「もし、100人の人々の生活を維持するための仕事が10人で出来てしまったら、残りの90人は何をしたらいい?」という問いかけだろう。

 それをさらに進めれば、全ての仕事がコンピューターと機械で可能になったら、人間は何をしたらいいのか、という問題だろう。

 この話、もう少し続けたいと思います。