2015

12月

12月6日(日)

初冬の雨

 徐々に山の景色も冬めいてきた。雨が通り過ぎても、まだ雪を心配するほどではないにせよ、車のタイヤもそろそろ冬タイヤでないと不安になってくる。まさかなぁ、2014年の2月のような、とんでもない大雪は無いとは思うが。
 とは言うものの、今年は鬼怒川で水害があったり、なんだかこのところ「まさか」と思うような極端な気象災害が増えたような気がする。

 天災が通り過ぎるたびに、何らかの結果を残していく。後から考えてみれば「何でこんな所に家を建てたのかなァ」と不思議がるような所に建てられた家が被害に遭っていき、維持や修繕をきちんとし続けてきた家は無事で、それを怠った家、もしくは長年人が住まずに空き家になっていた家とかが壊れたりする。
 災害は不幸な出来事だけど、その人の生き方、考え方を問い直す試金石の側面がある。

 「健全性」とは、試練をしなやかに乗り越えられる体力や知恵を持っているかどうか、という事でもあるんだろうな。
 今は既に、昭和の高度経済成長期ではない。みんなが一緒になって発展できた時代では無い。自らに健全性があるかどうかで、試練を乗り越えられる地域と、そうでない地域が分かれてしまうかもしれない。

 前回の日記で、問題解決能力が旺盛に沸き出す組織や地域は、徳の高い人々が集まっている必要がある、といった事を書いた。

薄日

 ただなぁ、「これからは徳が重要になってくる」なんて言っても、我ながら浮き世離れした感じは否めない。経済の行き詰まりから世界全体が不安定になってきている中で、徳の価値を説いても、「そんな事よりも経済をどうにかしなければならないだろうが!」という大声でかき消されそうだ。
 自分でも、書いていて、誰もいない所を坦々と歩いているような気分だった。

 でもね、今後いろんな時代の変遷はあるにせよ、最後には「徳」に向かうしかないとも思っているのです。
 そうだなぁ、その理由を、長くなるかもしれないけれど書いてみましょうか。多分、今回の日記では書き切れないと思いますが。

 話はうんと大昔に遡って、今から2500年くらい前のこと。どういうわけか、この時期に、釈迦もソクラテスも孔子も同時期に活動している。後に「人類の教師」と呼ばれるような代表的存在が、この時期に登場したのは偶然ではないだろう。
 始めは小さな村で暮らしていた人々が、文明の進歩に従って、村から町へ、町から都市へと活動を拡大していき、やがて「国」と呼ばれるような存在へと進んだ。

 それでも、最初の国は小さなものだったろう。都市と集落の集まり程度のものだった。そこへ鉄器の製造が始まった頃から事態は変わってくる。
 鉄の農具は未開発の荒れ地でも開墾し、国土は拡大を始め、やがて隣国とぶつかるようになる。もはや「国」という言葉は、都市の意味ではなく「領土」を意味するようになる。

 おまけに武器も鉄製になったものだから戦争も熾烈になり、弱い国は強い国に負けて飲み込まれるようになる。

午後の光

 国どうしの競争が始まり、栄える国と滅びる国の変化が活発になってくる。前述の、釈迦やソクラテスや孔子が活動する時期が、まさにそんな時代の始まりにあった。
 おそらく、人類にとって始めての事態に遭遇して、人間とはいかなるべきか、世の中とはいかなるべきか、この世界とはどのようなものなのか、真剣に向き合って考えざるを得ない状況になったのだろう。

 中国を例にとると、そんな時代にまっ先にもてはやされたのが富国強兵策だった。これは当然の時代の要請だったろう。ただ、しばらくすると単なる富国強兵策では限界が見えてくる。国が富めば賄賂が横行し、兵が強くなればクーデターも起きやすくなる。
 そこで、法律の重要性が浮かんでくる。やっていいことと悪い事を法律で定め、手柄をたてれば報賞をやり、悪事を働けば罰を与える。役人も軍人も民衆も、法に則った活動を求められる。秦の始皇帝の中国の統一は、秦という国がもっとも忠実に法による統治と富国強兵策を実施してきた背景がある。

 じゃあこれで終わりかと思ったらそうではなかった。ここから法律による国の運営の短所が露呈してくる。
 始皇帝が死んで、次の皇帝を決めるにあたって、政権の中枢にいた一部の人間が謀って、始めに決まっていた人間ではなく、自分達にとって扱いやすい人間を皇帝にするように、命令を書き換える。法に従う事しか出来ない役人も軍人も、これに逆らう事もできず、あえて逆らっても法によって粛正されてしまう。

こんな紅葉もそろそろ終わりです

 また民衆も混乱しはじめる。ある人物は地方から都へと税を納めに行く役割を担っていたが、運悪く悪天候にあい、期日までに都にまでたどり着けなくなってしまう。
 税を期日までに運べなかったら死刑になる。国に背いて反乱を起こしても死刑になる。同じ死刑なら、バカ正直に法律に従って死刑になるよりは、反乱を起こして活路を見い出そうとするだろう。

 こんな調子で、秦は国の政治の中枢は混乱し、民衆も混乱し、崩壊へと突き進んでいく。秦の中国の統一とあっけない崩壊は、法による統治の長所と限界を鮮やかに見せつける結果になった。

 幾つかの国々を統一したような、巨大な国を運営するには法律は強い武器になるが、それだけではダメらしい。秦の後を受けて成立した漢という国では、とりあえず漢帝国を作るのに役立った功臣たちに領土を分配する形で安定を得ようとしたが、反乱が起きてうまくいかず、じゃあ皇帝の一族に領土を分配する形で安定を得ようとしたが、これも反乱が起きてうまくいかない。

 こんな混乱の中から、後の儒教につながる徳治主義の思想集団が漢帝国の中で力を得て、儒教を国教にしていくのだけれど。

 やはり今回だけでは終わらなかったな。続きはまた今度にでも。

12月15日(火)

午後の山

 いずれ本気の冷え込みもやってくるとは思うが、今回の冬は暖冬傾向のまま続いている。12月も半ばになるのに、まだ石油ストーブを使う気になれない。小型の電気のヒーターを朝晩に使う程度で十分だ。
 あまり灯油を使わないのに妙なタイミングだけど、今年は灯油も安いねえ。有り難いと思う反面、世界的な石油の値崩れが、今後の世界にどんな影響を与えるのか、無気味な気持ちもある。

 ただなぁ、毎日のように大形タンカーで石油を運ばなければならない日本という国のあり方も、考えてみればずいぶん脆弱な頸動脈によって維持されていると言わねばならないだろうな。
 地熱とか風力とか波力とか太陽光とか、地元の自然の恵みのエネルギーをうまく使って、過度の輸入に依存しない形に変えていくのが、やはり理想だろう。

 あとなぁ、これは言っちゃあいけないことかもしれないが、この世の中、そんなにエネルギーを使わなければならないほど、有意義な仕事ってあるのかね。
 国民からかき集めた年金のお金を株で運用しようと注ぎ込んだら、けっこうな金額が蒸発したそうだが。

 年金の金なんて、株なんかに使うよりも、太陽電池パネルでも買って、国民に与えた方が、よっぽど未来の資産になったんじゃなかろうか。

ススキ

 前回の日記から、最終的に世界は徳治主義に行き着くしかない、といった事を書いている。前回は中国の秦を例に、法律と刑罰による統治の、発展と崩壊まで書いた。
 法律は、確かに巨大な帝国を運営するには不可欠の道具かもしれないが、今度は法律を悪用する人間によって国は蝕まれるし、民衆だって必ずしも大人しく法律に従っているわけではない。せいぜい、「法律に従っている方が、背くよりも得だ」と思っている間だけ、人々は法律に従う。法律に従っていても、あまり意味はない、と言うか、法律に従っていた方がバカを見ると人々が思い始めたら、法律は力を失う。

 こんな事は、何も秦による壮大な実験をしなくても、解っている人には解っていた。秦の中国統一よりも300年ほど前、思想家の孔子はこんな事を言っている。
「人々を強権によって強いて動かそうとし、そのために刑罰を使うようであれば、人々は法律の抜け穴ばかりを探そうとする恥知らずな人間になるだろう。
 人々を導くのに徳をもってし、礼節のある美風(文化や風習、祝祭等の儀礼)を育むようにすれば、人々は恥を知るようになって不正を働かなくなるだろう。※1

 一見、この孔子の言葉は、現実を甘く見た理想論のように聞こえるかもしれないが、秦の崩壊を知った後では、むしろ現実的な提案に聞こえてくる。どんな完璧な法律を整備しても、それを扱う為政者に徳がなかったら、また、それを受け入れる民衆に徳が無かったら、法律も機能しないで国は崩壊する。
 逆に言えば、統治の道具として法律を使うにせよ、それを成功させるには徳が必要だと言う事でもある。

夕暮れ時

 孔子は、自分自身を明確に性善説の人間だとは言っていないが、基本的には性善説の立場の人間だろう。性悪説の立場の人間であれば、「人間はほっておくと悪事を働く生き物なので、厳格な法律と刑罰による矯正がなければならない」という意見の持ち主になるが、孔子は明らかにこれとは違う。

 孔子は、人間には『仁』(愛情)が存在していると説く。これは既に性善説だ。
 親子であれ兄弟であれ夫婦であれ友人であれ、そりゃあ時には険悪になる事もあるが、基本的には、愛情や思いやりで人々は生活を営んでいると孔子は考える。
 同様に、親が子供を愛するように、為政者が民衆に愛情のある政策、つまり仁政を行えば、民衆はそんな政権を支持するし、反乱も起こらないし、平和な世界が実現するはずだ。
 大雑把な要約になるが、孔子の考えた政治論は、これが基本になっている。

 ところが世の中はそううまくいかず、だいたい為政者とか権力者という者は、自分を愛せ、この政権を愛せ、この国を愛せと民衆に求めはするが、その人自身が民衆を愛する事は稀である。そこで、孔子は愛情を説くだけでなく、リーダーの資質についても説く必要に迫られる。理想の君主のあり方、理想の官僚のあり方、さらには理想の人間のあり方。そんな理想の人格を孔子は「君子」と呼び、人は、それもリーダーになるような人は、君子を目指すべきと説いた。

夕焼け

 斉という国の王が、孔子に政治について尋ねた時に、こう答えている。
「君主は君主らしく、臣下は臣下らしく、親は親らしく、子供は子供らしくあることです。※2
 この言葉には、君主が君主らしくなくなった場合、臣下が臣下らしくなくなった場合、親が親らしく子供が子供らしくなくなった場合の世の中の可能性を、孔子は口にしないが示唆している。

 孔子の思想を受け継いだ孟子は、この点を発展させて、もし君主が君主らしくなくなったら、つまり、君主としての資質を失って仁政を行えなくなって、無道の政治を行うようになったら、そんな君主は廃立すべきだと言い切るようになる。いわゆる、革命の肯定だ。

 「天命」という考え方も、ここで強調されるようになる。君主が君主であるのは、仁政を行うように天から認められているからで、もし君主が君主としての徳を失い、その国が無道の政治を行って民衆を苦しめるようになると、そのような政権は天は見放し滅びるに任せ、代わって次の政権に(・・・それも仁政を行えるような政権に・・・)天命を与えるようになる。

 このように、なかなか過激な側面も持ち始めた儒教だったが、戦国時代には主流の学派にはならなかった。この思想が求められるようになるのは、まさに戦国時代が終わってからだったからだが。

 また今回も終わらなかったな。続きはまた今度にでも。

※1『論語』為政
子曰、道之以政、斉之以刑、民免而無恥。道之以徳、斉之以礼、有恥且格。

※2『論語』顔淵
斉景公問政於孔子。孔子対曰、君君、臣臣、父父、子子。公曰、善哉、信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾得而食諸。

12月20日(日)

光る屋根

 じきに冬至を迎える。陽の光も、すっかり低く、影も長くなった。暖かい初冬だったが、さすがに12月も下旬になると、冬らしい寒さになってくる。前回の日記では「まだ石油ストーブを使う気になれない」なんて書いたけど、さすがに必要になってきたね。

 山では狩猟の季節が始まっている。ここ数年のイノシシ被害に耐えかねたのか、このところ、身の回りに罠の免許を取得した人が多い。罠だって、勝手に買って仕掛ければいいというものではなく、使用には資格がいる。
 罠の場合、それにイノシシがかかったとしても、とどめを差す必要が有る。槍で突くか、鉄砲で打ち殺すか。
 罠の免許を取った人も、そこまではできないみたいで、そこは地元の猟師にお願いする事になるのだろう。

 そんな形からでも、山里で狩猟が「文化」として再び定着していくのだろうか。
 「文化」は、プロだけでは成立しない。「プロ」と「プロ並み」と「愛好者」が一緒になって関わりあって、文化は熟成されていく。マンガもサッカーもそうだろう。

 最近、本職の大工でも無い普通の人が、自分で家を直したり、さらには自分で家を建ててしまったりするのが流行っているけれど、これもプロとプロ並みと愛好者が交流すると、もっと内容豊かに面白くなるんじゃなかろうか。

谷間の木々

 さて、最終的には世界は徳治主義に落ち着いていくのではないか、という話を前々回から書いている。前回は、性善説から発した孔子の儒学について書いた。
 優勝劣敗、弱肉強食の戦国時代では、なかなか儒学は世間から顧みられる事は無かったが、戦国時代が終焉して天下が治まろうとすると状況が変わってくる。

 ただ、最初に中国を統一した秦の始皇帝は、儒教を顧みるどころか多くの儒学者を生き埋めにした。始皇帝にしてみれば、理想の君主のあり方、理想の官僚のあり方、理想の人としての人格等というものは、皇帝が決める事であって、学者や思想家がしゃしゃり出て意見をするなんて事は許しがたい越権行為とされたのだろう。

 実は、儒学者が嫌いなのは始皇帝だけではなかった。基本的に権力者というものは、学者や思想家が「権力者のあるべき姿」を語る事は好まなかったのだろう。秦は事実上、始皇帝の一代で終わり、中国はまた戦国時代に戻るが、そこを再度統一して漢という国を興したのが高祖劉邦だったが、この男も始皇帝同様に儒者が嫌いだった。戦いのさなかに陣中を訪ねてきた儒者の冠を奪い取って小便をかけたという話もある。

 しかし、劉邦は現実的な意見には耳を傾ける度量はあった。いよいよ長く苦しい戦乱の果てに、劉邦による中国の統一が見えてきた時に、ある儒者の陸賈がこう諌める。
「陛下は馬上(戦争)において天下を取ったが、馬上においては天下は治められません。」

初冬の森

 戦国時代であれば、競争に勝つ事、優勝劣敗、弱肉強食の精神だけでもやっていけただろうし、実際、その精神に忠実だった国が強かった。しかし、天下が治まって競争する相手がいなくなったら、果たして、人々が「競争に勝つ事」だけの精神で、世の中が静かにまとまるだろうか。
 むしろ、せっかく統一した国であっても、その国の人々に「相手を打ち負かして自分が勝者になろう」という気風が充満していたら、たちまち内乱が起こって分裂してしまう。

 前述の陸賈の言葉は、戦国時代の終焉からは、「武」の時代から「文」の時代へ、弱肉強食の時代から徳と文化の時代への転換が不可欠である事、それが失敗すれば、せっかく出来た漢王朝も、秦同様にたちまち滅んでしまう事を説いたものだった。
 そしてなにより、当時の儒学者が、自分達がこの時代にあって何をすべきか、儒学が天下が平定された時にこそ必要になる思想である事を、明瞭に自覚していた証左だろう。

 実際には、儒学が漢帝国の国教になるまでには、漢の成立から百年近い歳月を必要とした。その過程で、儒学が持っていた、孟子の革命肯定の考えのような過激さは影をひそめ、体制を擁護するためだけの思想へと傾いて行く。一つの思想の「国教」化とは、どこもそんな弊害は避けられない。

 とは言うものの、理想の為政者のあり方、理想の人格のあり方、理想の世の中のあり方を提示した結果は、その後も、王朝が変わっても継承されて行く事になる。

夕べの雲

 これまで長々と書いてきたが、徳治主義は戦乱と競争の時代が終焉して、安定を維持して行く時代になって必要とされる傾向が有る。実は、まさに今が、そんな時代にさしかかっているのでは無いかと私は思っている。

 思うに、この世界は、産業革命以来、戦国時代だったのではなかったか。
 新しい科学は続々と開花し、それに附随して様々な産業が起こり、経済は活発化し、戦争も最新の科学を使って激しさを増した。

 しかし、どういうわけか(私なりに仮説はあるけれど)、そんな戦国時代がゆっくりと回転を止めようとしている。さてそんな時代に、人々はどんな思想を必要とするのか。
 今さら儒教という事はなかろうが、やはり、それは徳治主義という事になるのだろうと思う。「競争に勝って敵を打ち負かす」とは異なる、それを超えた思想でなければ、次の時代の主役にはなれない。