2015

11月

11月25日(水)

雨の止み間

 またずいぶん更新が空いたなァ。生活に変化があって、このところ忙しくて、落ち着いて山里の季節の移り変わりを楽しむ余裕もなく、写真を撮る時間も無かったし。それでも最近になって、ようやく地に足が着いて来た感じになったけど。

 とは言え、「山里の季節の移り変わり」と言っても、この一ヶ月は変化に乏しかったように思う。11月になっても霜が降りるような低温にはならず、朝晩でもあまりストーブを必要としない温暖な気候が続いた。既に晩秋といっていい時期なのに、底冷えのするような寒気の到来はない。まあこれからだろうが。

 そのために、あちこちで干し柿の失敗の話を聞く。寒くならず、また雨も多い11月だったので、カビが生えたり虫がたかったりして、干し柿をダメにしてしまったとか。柿自体は、今年は豊作だったんだけどな。
 だいたい干し柿というのは、初冬の冷たい空っ風が吹き抜けるような環境が、虫の害もカビの害も防いでくれるはずなんだけど、気候が変わると干し柿も作りにくくなるんでしょうかねえ。

 朝に霜が降りないので、今年は皇帝ダリアの背丈のひょろっと長い花が、今でも長く咲いている。たいていこの花は、草木に霜が降りるとすぐに枯れてしまって、それで花も終わりになるのが例年なんだけどな。

 そろそろ12月になるけれど、今年は野原もまだ緑が多い感じがします。

山里の秋

 なんだか世界全体が騒々しい感じになってきたが、この騒々しさを停止させて安定を取り戻すためには、世界全体の人々が「小さな世界」を取り戻す所から始めるべきだと私は思っている。
 今の世の中、あまりにも名前に「大」の付く組織が横暴に幅をきかせて、小さな組織や個人の幸福を削り取って奪い、大きな組織の延命に使おうとしているので、世の中がどんどん崩壊する方向に進んでしまう。

 実際には、末端の小さな組織や個人も幸福にならないと、大きな組織の幸福も無い。元気な細胞があって始めて元気な臓器があり、元気な臓器があって始めて元気な身体がある。細胞が滅んで身体が存続するはずが無い。

 私は決して「大きな組織」を価値無しと批判するつもりは無い。大きな組織には大きな組織にしかできない仕事もある。例えば、私達は毎日のように気象衛星から送られる画像を見て、天気予報を知ったり台風の進路を見たりできるが、この気象衛星一つを成り立たせるだけでも、どれほどの裾野の広い人的資源が必要になるのか、どれほどの数の組織の知恵と技術が必要になるのか。

 なんだかんだ言っても、この科学技術の恩恵を享受している現代では、だれもが「大きな組織」の必要性を否定できないだろう。問題は、前述した通り、時として、大きな組織が困窮した事態に直面した時に、小さな組織や個人を犠牲にして延命を図ろうとする傾向があるという事だ。

ネコジャラシ

 小さな組織も大きな組織も同じように必要で、同じように活力があるのが望ましい。私が考えている理想の世の中の形と言うのは、こんな感じになる。

 例えば、毎日必要になる物は半径1キロの圏内で手に入り、3日に一回必要になる物は半径3キロ圏内で手に入る。同様に、一週間に一回必要な物は7キロ圏内、1ヶ月に一回必要な物は30キロ圏内。
 こんな感じに、生活必需品に近いものほど、身近な所で得る事が出来て、特別な用事で必要とされる物は、遠くから入手するという形。風邪なら近所の町医者で診てもらい、特殊な治療技術が必要な場合は、遠方の大病院を頼るのに似ている。

 衣食住のような、生活の基本を成り立たせる手段は、身近な地域で間に合うような世の中を理想として掲げ、それに近付けて行こうと行動を起こして行く。
 小さな組織の幸福が、大きな組織の欲望によって簡単に壊されないように、小さな組織の存立基盤は、小さな組織自体で守り育てて行こうという気概も必要になるだろう。
 一言で言ってしまえば、行き過ぎたグローバル化の反省と、ローカルの再生という事になる。

 ここで問題になるのは、今まで、人々は、「小さな世界」を自らバカにして来たのではないか、と言う事。
 小さな組織の一員であるよりも、大きな組織の一員である方が偉いという考え方は、今でも強く、今でも主流だろう。

ススキ

 親は子供たちに、良い学校を卒業して大きな組織の一員になれ、それこそがこの世の中での勝者だ、と言い続けて来たのが、これまでの時代だったし、まだまだそんな時代は続くだろう。しかし、結果として、そんな人々の意識が、小さな世界の価値を小馬鹿にして、大きな組織にのみ価値を見い出す世の中を作って来た。

 格差社会を嘆く人もいれば、腐敗した政治を嘆く人も多いかもしれないが、実は自分自身、そんな時代を招く共犯者だったのではないか、という反省の声は、なかなか聞こえてこない。

11月30日(月)

 前回の日記で、この秋はなかなか寒くならないような事を書いたが、それからすぐに寒気が降りて来て北風が吹き荒れ、季節は晩秋から初冬に移ったと感じた。まあ、これからも小春日和はやってくると思うけれど。
 すでに朝の6時でもけっこう暗い。冬至まであと三週間だしな。気が付けば、多くの木々が葉を落としている。道ばたに落ちて溜まった枯れ葉を、堆肥を作るために回収していく人たちがやってくる。

 9月27日の日記の所で、これからは町づくりでもコミュニティーの形成にしても、徳のような性質が必要になってくるのではないか、といった事を書いた。今でも、このことについて考える事が多い。

 例えば、衰退しつつある地域を復活させようと住民が立ち上がるような組織ができる場合、意外と、この「徳」の部分があるかどうかで、組織が発展するか空中分解するかが分かれる事が多いようなのです。
 特にね、これは言っちゃアなんだけど、長年、大手の会社勤めをした人間が退職して、「さあ、これからは地域に貢献する活動にも参加しようかな」と考えて参加した人が、空中分解の火種になる事が多いらしい。

 本人はその気がなくても、長年に渡って染み付いた癖なのか、住民が和気あいあいと集まって立ち上げた組織に、上下関係を求めるような口のききかたをしたり、年少者を部下扱いしたり、会話のはしばしに、自分の現役時代の自慢話が入ってきたり。

 「持続可能社会を作る団体」と言っても、団体の参加者に徳があるのか否かで、だいぶ差が出てくる。

雲間の光

 ときどきこの日記で、「『持続可能社会を作る団体』が持続しないですぐに消えちゃったら、笑い話になるな」と書いてきた。実際には笑い話どころではなく、なかなか深刻な話でもあるようだ。
 考えてもみればいい。参加者の和気あいあいとした気持ちと、その場の雰囲気を持続させるには、参加者一人一人に、それなりに成熟した徳が必要とされる。

 自分の意見だけしゃべればいいと言う自己本位の人、もしくは、自分の事だけで精一杯の人。これとは逆に、相手の話をちゃんと聞いて、相手の立場も尊重できる精神的なゆとりのある人。
 後者の人が揃っている組織とか団体とか、実はけっこう難しいのではないか。

 誤解されているかもしれないので付け加えるけれど、徳のある人たちが集まった組織と言うのは、決して、完全無欠の聖人君子の集まりの事を言っているのではない。むしろ逆で、自分は常に未完成であるという謙虚な自覚が、徳につながっていくのだと思う。

 人と集まって問題解決について議論するにしても、
「ここにはいろんな職種、いろんな経験、いろんな世代の人たちが集まっている。自分一人では解決できない問題でも、これだけ様々な人々が集まれば、それぞれの得意分野の知恵を出し合って、自分には思いもつかない道が開けるのではないか。」
と、自分以外の参加者に敬意をはらう姿勢を皆が持てば、実際に、その集まりの中から文殊の知恵も飛び出してくるかもしれない。

 「徳」には、謙虚さが不可欠の要素らしい。

ススキ

 付け加えれば、徳とは、独占欲とは無縁のものだ。自分の才能でも知識でも経験でも、みんなの役に立てるのならどうぞ使ってくれと「分け与える」性質のものだろう。

 こうして考えてくると、成熟した徳の持ち主が集まる組織なんて、ありえるのだろうかと不安になってくるが、あるところにはあるんですよ。そして実際に、そういう組織からは、普通では考えられないような勢いで、様々なアイデアが沸き出し、それぞれが実行されて、それぞれが開花していくのですが、実体験として経験しないと、そんな組織があり得るなんて信じてもらえないかなぁ。

 町起こしとか町づくりとかの話になると、こういう事業をやったとか、こういう政策をやったとかいった話が主流になるけれど、どうも私は、「人徳のある地域を作るにはどういう手法があるか」を論じた方が、話は早いような気がしてきた。とにかく、人徳のある地域が出来てしまえば、問題の解決策なんて、湯水のように湧いてくる。

 ずいぶん前にも、似たような事を書いたっヶ。この時は「徳」という言葉は使わなかったけれど、今は、「徳」という言葉を前面に出してでも使いたい気分なんですよ。

残照