2015

7月

7月5日(日)

梅雨空

 梅雨もいよいよ本番という感じで、毎日のように雨が続き、雨が降らなくてもどんよりとした曇り日で、カラリと晴れた青空をほとんど見ていない。地面はずっと湿ったままだ。洗濯物を乾かすのにも乾燥機が必要になる。
 あまり、心が晴れ晴れとするような天候ではないが、考えてみれば5月の頃は少雨で農作物に影響が出ていたんだっけ。梅雨にちゃんと雨が降ってくれるのは、やはり恵みなんだと思わなくちゃね。

 前々回の日記で、組織の運営の仕方にも、健康的で持続可能な方法を考える必要がある・・・といった事を書いた。それも特に、その組織が持続可能社会を作ろうと活動しているのなら、ますますその点には配慮が必要になる。「健康で持続可能な社会を目指して活動している組織が、不健康で持続可能ではなかったとなると笑い話になってくる。」と、その時は書いたけど。

 実は、地元の藤野で、そんな活動を続けている「トランジション藤野」では、最近になって、この議論が活発になっている。また、この活動に参加している人の中には組織論に詳しい人も多く、私としても興味深く話し合いの推移を眺めているのだけど。

 この組織論の話し合いの中で、「やりたい人が、やりたい時に、やりたいことを、やりたいだけやる 」組織は成立可能か、可能だとしたら、それを可能にする条件とは何か、という論点があった。
 実の所、「トランジション藤野」自体は、この「やりたい人が、やりたい時に、やりたいことを、やりたいだけやる 」という状態を、結構イイ線まで実現しているという考えもあるし、これを更に発展させるには、どんな工夫が必用になるかという考えもある。

雲湧く

 「やりたい人が、やりたい時に、やりたいことを、やりたいだけやる 」なんて、普通の人が聞いたらふざけた話に聞こえるかもしれないな。「そんな事で組織が動くはずがない」と。
 ただ私としては、これはもしかしたら、これからの未来に必要となる組織論なんじゃないかなぁとも思うのです。なので、ものすごく関心がある。

 そこで私も自分なりに考えてみたのだけど、始めは漠然としたテーマなので、どこから考えていいのか切り口が見つからなかったが、最近になって、「自然農みたいな組織」は可能か、という所から考えるようになった。

 「自然農」とは、あまりエネルギーも使わず、環境に付加もかけない農法の一つで、私も何年かその農法での稲作を体験して来た。その時の体験をサイトにした事もある(こちら>>)。このサイトの「自然農ってなに」という所をクリックすると、その農法の簡単な説明があります。

 土を耕さず、雑草も取り除かず、肥料もやらず、それでいて稲作も普通に出来ると言う、話だけを聞けば夢のような農法だけど、この自然農のあり方が「やりたい人が、やりたい時に、やりたいことを、やりたいだけやる 」組織のあり方と、少し重なるような気がした。

 一般には、組織や活動は統制によって成り立つと考えられている。
 例えば、報償と刑罰、アメとムチによる統制。これが農業で言えば、肥料と農薬(除草剤も含む)と重なる。肥料も農薬も使わず、稲も雑草も虫も、それぞれがそれぞれのやりたいようにやって、物事はうまくいくのかどうか。

なんか今回はこんな写真ばっかりだな(笑)

 自然農の稲作では、土を耕さず、肥料もやらず、雑草も除去せず、それでも稲は普通にできる。それは雑草も味方にしているからだ。
 雑草を取り除かないので、何年もこの農法を続けると、田んぼは雑草の枯れ草が幾重にも折り重なったフカフカの土地になるし、雑草のおかげで土地も肥える。
 また、稲を食べる害虫も、稲よりも雑草の方を好んで食べるので、害虫による稲の害は減る。
 嘘みたいな話だけど、私も何年かやってみて、稲作に関して言えば不可能ではないと感じた。

 ただし、条件がある。
 一見、草取りもしない、田んぼを耕しもしない、楽な事ばかりのほったらかし農法に見えるかもしれないが、決して「ほったらかし」ではない点が、重要だった。
 この農法では、稲が雑草に負けそうな時だけ、少し雑草を刈ったりしてやって、稲に加勢してやる。この為には、絶えず田んぼを見て回って、稲の状態、雑草の状態を把握しながら、稲を助けなければならない時期を誤らないようにする必要がある。

 私が参加している田んぼの仲間では、当初は、「楽そうだから」という理由で自然農の手法をやってみたが、それぞれが他に仕事を持っている参加者が、2〜3週間に一回集まって作業をするような田んぼでは、この「絶えず田んぼを見て回って」というのができない。結局、久しぶりに田んぼに来てみたら、取りかえし不可能なほどに、稲が雑草に負けていた、という事がよくあった。
 そんな理由で、大成功を収めた事もあったけど、今ではこの農法ではなく、普通の方法で田んぼをやってます。

梅雨寒

 この経験から連想すると、「やりたい人が、やりたい時に、やりたいことを、やりたいだけやる 」組織にとって必要な要素が浮かんでくる。「やりたい人が、やりたい時に、やりたいことを、やりたいだけやる 」というのは、けっして「ほったらかし」とは違うという事だ。そこには、組織がマズイ状態に進んでいないか、日々、関心を持ちながら配慮する必要があるし、マズイ状態に進む気配を感じたら、その症状が深刻化する前の軽微な内に、対策を講じなければならない。

 これは、酒を作る際の杜氏の役割に近いかもしれない。ある程度は、様々な細菌の働きにまかせて米を酒へと変化させて行くが、もちろんほったらかしではない。絶えず、発酵が正常に進んでいるかの配慮はしているだろうし、問題が発生しそうな気配を感じたら、問題が軽微な内に手を打つだろう。

 トランジション藤野のような組織の場合、この杜氏の様な、一人のリーダーに任せて全体の様子を把握させて管理させるというのは難しい。やはり、活動に参加している人々が、緊密に連絡を取り合って情報を共有し、それぞれ杜氏の役割を少しずつ担うという事になるのだろう。そうやって、「やりたい人が、やりたい時に、やりたいことを、やりたいだけやる 」という『場』が、うまく発酵して極上の酒へと進化しているのか、それとも腐敗してダメになってしてしまうかの、配慮をするという事になるのだろう。

 この組織論は、アメとムチによる統制に比べると遥かに複雑で、また高い人格を必要とする。これが出来るのなら理想的なのだが。

7月13日(月)

麦の脱穀

 先週の終わり頃から、夏の暑さが押し寄せて来た。それまで、「7月に入ってから、東京で陽が差した時間は僅か12分!」とまで言われていた雨続きだっただけに、それまでのジメジメした空気を吹き飛ばす日光は有り難い、これで洗濯もできる布団も干せると思ってたけど、たちまち暑さに打ちのめされる思いになった。
 これまでの梅雨寒に慣れた体には、この真夏の蒸し暑さはかなり堪える。

 麦の脱穀をやり、とうみで風選して、田んぼの草取りやら田んぼの周りの草刈りとかをしてたら、それこそ滝のような大汗をかいた。
 夏に汗をかくのは悪い事ではない。というか、夏に汗をかかなかったら、いずれ病気になってしまうのではないか。

 麦の脱穀作業は、麦の穂の小さなとげが、いつのまにか体に刺さっていて、ちくちくとかゆくなる。これからまた製粉とかいろいろ作業が残っているが、こういう作業を体験しないと、麺類やらパンを食べても、小麦粉を作るまでの苦労なんて想像もつかないだろうな。

 また一方、麦に比べると、米はなんて扱いやすい穀物なんだと改めて思う。昔の人が、急峻な山里でも、多大な労力を使って棚田を作って、米を少しでも多く育てた気持ちも分かってくる。

 除草機を使っての草取り作業

 ギリシャのデフォルトの問題で、「借りた金を返せないのか」とギリシャを非難する意見もあるようだけど、所詮は金の貸し借りの話だろう。金を貸した側の責任だってあるはずだ。
 はたして、きちんと返済能力があると見込んだ上での金貸しだったのかどうか。

 だいたい、これまでの世界の経済が、1億を10億に、10億を100億に、100億を1000億にとブクブクと膨らませようと狂奔して来たのが間違っていたのだろう。今回のギリシャの破綻が無くても、いずれどこかで破局はやってくるものだったのではないか。

 もうちょっと、地に足を付けた経済に立ち戻る必要があるのだろう。ギリシャだって、やたらと返済を迫るのではなく、ギリシャの長所や得意分野を活かして、それらを「育てる」ような方策も考えないと。

 今の経済の病的な点は、腐るような金を持っていても、それを活かして幸福を育てる才能が無い事なんだろうな。

 幸福を育てるどころか、今までの経済は、金を膨らませるためなら他人を不幸にしてもかまわないという悪辣な所があった。これではいずれ、経済が行き詰まるのも当たり前だ。
 経済を再生させたいのなら、経済が発展すればするほど、喜ぶ人が増えるような形に変えて行く必要があるのだろう。

 何かが上手くいく時というのは、やればやるほど喜びも増えるし、仲間も増える。逆に、やればやるほど喜びが消えて、仲間が消えて行き、逆に敵が増えるようになると、それは何かが間違っているという事だろう。

ヤブカンゾウ

 思い出した言葉がある。
「近き者 説(よろこ)べば、遠き者 来たらん」

 春秋時代の中国、楚の国の葉県の長官だった葉公・沈諸梁が、孔子に政治について尋ねた時の孔子の返答だ。自国の領民が喜ぶような政治を行えば、その評判を聞いて遠くの国から人々が移住してくるでしょう、と。

 そこに喜びがあるのかどうか、そこに仲間が増えているのかどうか。
 物事が上手くいっているかどうかなんて、案外、こんな素朴な判定法が、一番に的を得ているのだろう。

※『論語』子路:葉公問政。子曰、近者説、遠者来。

夏風

 この言葉、戦国時代の言葉だと思うと、別の響きが聞こえてくる。洋の東西を問わず、戦国時代と言うのは人々にとって不幸な時代だけど、一方で、人々が多く仲間に加わり、味方になった国が残り、それに失敗して、仲間が増えず、敵ばかりが増えた国が淘汰された歴史でもある。ちゃんと人々を喜ばせる政治ができるかどうかは、国にとっての生き残りができるかどうかの条件でもあった。

 今さら戦国時代なんて御免こうむるが、生き残る自治体とか、生き残る企業とか、生き残る政党とかは、そんな条件を満たしているかが今後のカギになるんだろうな。

7月19日(日)

道志川

 西日本を縦断して行った台風の影響で、藤野もけっこうな雨が降った。鉄道が止まり、道路も通行止めになり、隣の上野原市では崖崩れが発生して避難する方々もいたとか。
 台風一過の快晴になると思いきや、なんかすっきりはしない感じだな。まだ梅雨の気配が残っているのだろうか。

 相模原市では各地にスピーカーを付けた電柱のような柱が立ち、「ひばり放送」という災害情報の放送をするけれど、台風の風と雨の音で、何を言っているのか何もわからない(笑)。なんだか、衝突の衝撃で壊れてしまって膨らまないエアバッグみたいだ。

 ああそうそう、6月28日の日記で、信号が設置されないまま開通した危険な道路について書いたけど、先週、信号ができましたね。その時は日記で「8月を目処に信号の設置が計画されているとか」と書きましたが、前倒しで大急ぎで工事したのかしらん。
 よっぽど、批判もあったんだろうな。

 閑話休題。
 政府が15日の国会で安保法案の強行採決をしたが、なんだか、あわててパンドラの箱を閉じたような印象だった。そもそも、あらかじめ大幅な会期の延長までした臨んだはずなのに、維新の党との歩み寄りもせず、とにかく急いで、なりふりかまわず決めてしまった感じ。
 たぶん、支持率の低下とか、経済の混乱とか、想像以上の反発の盛り上がりとかに焦って、「これ以上、状態が悪くならない内に」と慌てたんだろうと想像している。

台風の前日の夕焼け。台風の前って、妙な雲が湧きますね。

 ただこれは、現政権にとって、ちょっとまずい決断だったろう。
 ここまで状況を悪くしてしまうと、アベ内閣とその取り巻きに対して、「ここから先、あんたたちが好きなようにやるのは結構だけど、どうか自民党と公明党抜きで、自分たち独力でやってくれ、さも無きゃ、今後の選挙に勝てなくなる」といった意見が出てくるのは必然で、おそらく今後は何も出来なくなるように凍り付くんじゃないかと思う。

 でもなぁ、今更、凍りつかれても、「ジコウ政権に多数を与えると、これくらいの事は普通にやるぜ」と、あからさまに証明しちゃったしな。
 今回の行動は、自民にも公明にも深手を与えただろう。この二つの政党が今後、今現在の規模を維持する事は難しいと思う。

 政治を成功させる手法の一つに、「俗と好悪を同じうす」というのがある。民衆の喜びは為政者の喜び、為政者の喜びは民衆の喜び。民衆の好まぬ事は為政者も好まない。春秋時代の政治家、斉の国の管仲の言葉だが。

 高度経済成長期の日本は、まさにその状態が、多少の問題はあっても成立していた。道路や新幹線を作り、家電や車を作り、それによって経済も発展して、生活も楽になって、幸福も増大した。
 しかしこのところ、「俗と好悪を同じく」できない政治が続いている。原発の再稼働もその一例だろう。

 そろそろ、民衆の喜びと政治の喜びが一致するような政治を、民衆自らが育てないといけない時期にきているが。

 山百合が咲き出しています。
 けっこう頭でっかちの咲き方をする花なので、今回の台風で倒れてしまった花も多いみたいですが、いい香りを漂わせています。

 安保法制をめぐる議論を聴いている内に、ある既視感を感じた事がある。
 それは、日本から原発が無くなったら大変だ、という意見だ。たちまち、日本人の生活が成り立たなくなる、と。
 実際は、原発を稼働しなくても問題は無く、むしろ、バイオマスや地熱発電のような、日本の風土に合ったエネルギー源がほとんど未開発だったり、太陽電池や燃料電池のような、もっと小型で効率と安全性に優れたエネルギー源の発展の方が進んでいた。

 中国が南沙諸島を狙っている、どうするんだ、という話も、まあ危機には違いない。
 しかし一方で、武力を使って資源を確保しようとする行為そのものが空しい時代になるだろう。前述の通り、地下資源に頼らなくても、世界のどこでもエネルギーの自立が可能な技術は、日々研究と開発と実現化が進んでいる。

 それに、たとえ地下資源を武力で手に入れて、それによって工場でモノを作って輸出しても、今や世界的にモノが売れない時代に入りつつある。中国のバブルの崩壊も、そんな現象の一つではないか。

 技術の進歩は、ある一面、恐ろしい所がある。
 今までに無い、新しい楽しさや喜びを与えてくれるが、その一方で、「あなたのやっている仕事が、技術の進歩によって、いらなくなりました」と、ある日突然,宣告される可能性がある。車の自動運転の技術の一般化が現実味を帯びて来たが、そうなったらタクシーの運転手は軒並み失業だろう。

 ここまでダラダラと書いて来て、私が何を言いたいかと言うと、今回の国会のゴタゴタも含めて、世界全体で起きている混乱は、そのほとんどが、技術の進歩による雇用の喪失とからんでいるのではないか、という事だ。

夕空

 多くの政治家は「○○がなければ大変だ」と言う。しかし、その「○○を必用としない世の中」を実現させる技術も、後を追いかけるように迫ってくる。
 これは冗談抜きで思うのだけど、いずれ政治家もいらない世の中も実現可能だろう。高性能のコンピューターで、世界の様々な問題を最も効率よく解決する解を、誰よりも早く提示してしまうような未来が、そんなに遠いとも思えない。

 そんな時代が来たとき、人間は何をするのだろうか。

 私は今の政権に対して好感を持っていない。
 しかし、重要な問題は、今の政権の問題点よりも、今の日本の民衆が、未来に対してのイメージを持っていないという点にあると以前から感じている。

「技術の発達で、100人の生活を維持するのに必用な労働力が、10人で済んでしまうような世の中になったら、あとの90人は何をしたらいいんだ」
 実際、この仮定は、すでに冗談でも笑い話でも空想話でもなく、現実的な問題になってきていると感じる。しかし、この点を真正面から論じる政党は、与党はもちろん、野党にもない。

 だから、どこの国も政府というやつは、無駄な公共事業を必用として、なんとか大量生産・大量消費の時代を延命させようと必死になっているのだろう。
 だがそれも、いつまで続ける事が出来るかどうか。

7月26日(日)

牧馬の道

 梅雨が開けて、真夏らしい暑さが押し寄せて来たし、各地で猛暑のニュースも聞こえてくる。ただどうも私には、いまいち本物の猛暑になったような気がしない。梅雨が開けても台風がフラフラと日本列島を通過していく。大平洋高気圧が今年は弱いのだろうか。だとしたら、今年は秋の訪れが早いかもしれない。

 上の写真は牧馬の道。写真ではよく伝わらないかもしれないが、草が道路に1メートルほど侵入するように伸びている。道を行く車は、こうした草を避けるように道の中央を走るようになるので、危なくて仕方が無い。
 既に藤野の各地で道路沿いの除草作業が始まっているが、牧馬はまだみたいだ。

 ただなぁ、以前は年に二回、除草作業があったはずだがな。何でいつのまにか年に一回だけになったんだろう。市に金が無いのだろうか。
 私の感覚では、この山道では年に一回の除草作業では足りないと思う。やはり、二回は必要だろう。6月下旬に一回、8月に一回といったところだろうか。これだったら、危険なほどに草が道路に伸びるような事はないだろう。

 70万都市の相模原市の中でも、山里に暮らす人々は2〜3万人といったところだろうか。これでは、山里ならではの課題や問題点を、なかなか市政の場に反映させるのが難しい。
「道の両側から草が伸びて、車の走行が危険きわまりない」
と言っても、相模原市の都市部の人間に、どのくらいの共感が得られるだろうか。そんな事があるなんて、想像もつかないんじゃないかなぁ。

盛夏

 東京オリンピックに向けて建設が予定されている新国立競技場が、迷走に迷走を重ねて、計画をやり直す事になった。あまりの建設費の高騰に批判が出て、支持率が急落した政権にとっても、あまり木で鼻をくくったような態度はとれなくなったのだろう。

 ここでも何度か書いてきたけど、私は東京オリンピックそのものに反対の立場だ。理由は、東京がまだ震災に対応した町になっていないし、福島の原発事故の収束もなっていない状態では、海外からお客を招くのは礼儀に反すると思うから。
 ただ、その後の新国立競技場のゴタゴタを見て、増々これはダメなんじゃないかと感じた。

 一番強く残念に思った点は、日本人は、もうあの震災を忘れちゃったのかねえ、という事だった。新しい競技場を作るのでも、派手さは無くてもいいから、既に十分に信頼性の確認された技術を使って、100年に一度の地震ではなく、1000年に一度の地震でも安全な競技場を作ろう、東京に大地震が襲った際には安全な避難場所になるような競技場を作ろう、いざというときは仮設住宅の建設地になるような競技場を作ろう、と言う堅実な理想は感じられない。
 それをよりによって、何で建設に多大な困難が予想されるようなデザインを選んだのか。

 たぶん、目標が全然違うのだろう。震災や原発事故から克服するためのオリンピックではなく、震災や原発事故から国内外の目をそらせるためのオリンピックなのだろう。だから、競技場のデザインにも派手さが求められるんだ。

 ウバユリの花。ヤマユリに比べると地味な花です。

 そう考えると、このオリンピックには何か不幸な雰囲気が漂ってくる。結局、人々に祝福されないオリンピックになってしまうような。

 今後も、オリンピックで金絡みの話は出てくるだろう。その度に、東北の震災で苦しんでいる人にその金を使えないのか、とか、福島の事故原発で作業をしている人々の安全性を高めるために、その金を使えないのかといった批判は、ついてまわるだろう。

 誰かを不幸にする事によって行われる祭りには、なかなか力が入らないものだ。それがたとえ国策であろうとも。

 例えば、これからまた更に、オリンピックにとって不都合な事態が現れたとしても、それは、国民一丸となって乗り越えるような「挑戦」にはならない。酷い言い方に聞こえるかもしれないが、被災地の呪いのような印象になってくる。

 私は神を信じる人間ではないし、信心深い方でもない。ただ、何か行動を起こす時に、それが不正な動機で行われる時は、「天命 佑(たす)けず」という気持ちにはなる。
 だいたい、オリンピックだって、そもそもはギリシャで始まった神に捧げる神事だったのだろう。それが、こうも醜いゴタゴタ続きでいいものだろうか。

 あれほどの震災を経験して、あれほどの原発事故も経験して、まだ目覚めないとなると、今後、更に目覚めるに足るだけの経験が必要と言う事になるのだろうか。考えるだけでも恐ろしくなるが。

相模湖

 今までの生き方、今までの考え方のどこが間違っていて、どのように変えていかなければならなのか、といった本気の反省は、政治の場にはもちろん、日本人にはない。結局、今まで通りの生き方・考え方の惰性的な継続でいいや、という所に落ち着いたのだろうか。

 ただ、私には、そのような状態を容認していたら、更に恐ろしい事態を好んで招くような気がしてならない。