2014

11月

11月3日(月)

稲刈り

 ちょいと更新が空いた。先週まで割と暖かい日々が続いたが、今週は寒くなるらしい。北国の山では初冠雪の話も聞こえてくる。
 自分も参加している田んぼの仲間で稲刈りをしたけど、今年の出来はまあまあといった感じ。今回はマメに草取りをしたのもあって、稲刈りをしてても田んぼの中に雑草がほとんど見られなかったのは、(スーダラ農法の我々にしては)快挙ではなかろうか。まあ、プロの田んぼでは当たり前の事かもしれませんが。

 これも、農業のプロから見れば当たり前すぎる話に聞こえるかもしれないけど、「農」という作業には、はやり「真面目さ」が不可欠みたいです。
 なんであえて、こんな当たり前の事を書くかと言うと、都会から山里に引っ越して農作業に手を出す人の中には、「農」に必要な真面目さが欠けている事も、けっこうあるみたいだからです。

 その一方で、「完全に無農薬・無肥料・不耕起で栽培してみせる」と、どこの本を読んだのか、プロでも難しい農法をいきなり実践しようとしたりする。
 私も、そういった農法を否定する立場じゃないけれど、そんな農法を実践するからには、手間ひまを惜しまない真面目さも、どうしても必要になりますね。なにしろ相手は自然だ。結果は正直に出てくる。

峠の雨

 逆に言えば、理論ばかり頭にあって実践が伴わない頭でっかちの状態を治すには、農作業みたいな自然を相手にする仕事をすると良いのでしょうね。特に現代みたいにパソコンばかり普及している世の中には、最適なんじゃないかなぁ。
 いくらマウスをクリックしても、農作業はできないからね(笑)。

 最近、特に思うのだけど、現代の人間は「小さな所から手塩にかけて育てる」という作業が、出来なくなってしまったんじゃなかろうか。
 小さな種から育てて、収穫と次の年のための種を得る農作業はその代表だけど、食材を加工して料理を作ったり、木を加工して家を作ったりするのも同じだろう。

 もっと小さい事で言ったら、たき火で火を起こすのも同じかな。
 始めは枯れ葉や杉の葉といった燃えやすい物から火を付け、小さな小枝から徐々に大きな枝を火にくべて、時々、息を吹き掛けて火勢を助けながら火を大きく安定させていく。
 こんな作業でも、初めてやる子供ではもちろん、案外、大人でも上手にできない。大きな枝をくべるタイミングや位置がまずく、火の勢いが衰えたり煙りばかりがモウモウと沸き上がったりする。

 あー、でも都会の町中では、たき火なんてしちゃいけなかったんだっけ。

秋の午後

 たき火の話じゃないけどね。今の世の中、始めは小さな仲間達で事業を起こして、それぞれの長所を活かしながら、仲間を増やして事業を大きくできる人って、どれくらいいるんでしょうかね。
 私の印象だと、最近では都会よりも地方に、そんな人が多いような気がします。

 何しろ地方は人が少ないし資金も乏しい。「使い捨ての安い労働力なんていくらでもあるんだ」などと悪徳企業みたいな事を言ってたら何も始められない。その場にいる限りある人材の中から、お互いに長所を見つけあって、お互いに意欲を高めあって、それらを育てていくしかない。

 最近読んだ記事で、あー、地方にはこんな人がいるんだなぁ、と改めて思わされたものがある。

働く公務員集団をつくることは本当に可能なのか?
奇跡の村に弟子入りした泉崎村が破綻の淵から蘇るまで
こちら>>

 まあ、都会にもこういった人物がいるはずですけどね。ただ、なんか都会発のニュースには人間の劣化を伝える話が多い反面、「人物」という存在は、ちゃんといるんだなぁと感心させられる話は、地方発の方が多いように感じています。

既に役目を終えた鳥の巣

 政治家もなー、地方から中央へと行くに従って、小さな火を知恵と工夫で大きくする技術が衰退していくみたいだ。不祥事を起こして炎上するのは得意みたいだけど。
 逆に、「あいつとは一緒にやってられない」とか「あいつは敵だ」と言った考えばかりが幅を利かせて、仲間を増やすのは不向きな人が多いみたいだ。

 でもなー、本当は中央ほど、度量が広くなければ困るんだけど。
 大きな山は、すべての土を受け入れるから大きくなれる。大河や海は、すべての流れを受け入れるから深くなれる()。組織を大きくして、大きな流れを作りたいのなら、あいつは嫌いだとか、あの組織は嫌いだとかいってちゃダメですよね。
 あーでも、やっぱり「そんな中国の故事なんか嫌いだ」と言われちゃうかな(笑)。


『史記』李斯諫逐客書

泰山不讓土壤 故能成其大。河海不擇細流 故能就其深。

11月9日(日)

脱穀

 自分も参加している田んぼの仲間たちと、稲の脱穀をして、大豆を収穫して、来年の麦を播いた。なかなかの収穫で、後は年末に餅搗きをやって、今年の田んぼの行事は終わる。気がつけば、いつの間にか年の瀬が近付いていた。

 黄金色の田んぼも、どっさりと袋詰めにされた米も、いかにも豊かさの象徴みたいで心地よい。考えてみれば、江戸時代だったら、米はそのままお金でもあった・・・が、まさかそんな時代がまた来るわけでもあるまいな。

 今回は特に書く事もないので、日頃考えていた事の無駄口でも書いてみます。

 中国の古典の『易経』は、現代では占いの書物とされている。確かに、占いの書物ではあるのだけど、儒教の教典の一つでもあり、この世界について考える時に、様々な解釈とヒントをくれる書物でもある。
 この世界の森羅万象を、64のパターンにわけて、それぞれの形の特徴の解説がなされていて、占いに興味がない人、むしろ私のように占いを信じていない人でも、いろいろ納得させられる記述が多く、読んでいて飽きさせない。

 その64のパターンの一つに「豊」という卦(け)があり、読んで字のごとく、「豊か」という意味なのだけど。

 豊かで勢いがあり、占いでこの卦が出たら大吉のように感じられるかもしれないが、この卦の解説には、ちょっと無気味な含みがある。確かに、豊かで勢いがあるのだけど、陽は昇れば沈み、月は満ちれば欠けるように、時間の経過とともに「豊かさ」も永遠ではないと、読む者に諭す。

 更に解説が進むと、「豊かさ」の弊害についての記述が、けっこうな分量で書かれている。その弊害とは、知性が暗愚によって「覆われる」という形だ。

 具体例をあげると、こんな感じだろうか。ある会社が、何かの事業に大成功し、大いに豊かになり、勢いもつく。しかし、この成功も、時間の経過によって条件が変わってくる。事業が徐々に時代に合わなくなっていくかもしれない。
 社員の中には、知恵のある人ほど、また事業の現場に近い所にいる人ほど、その危険性の兆しに気付いてくる人が出てくる。まだ傷が顕在化しない内に、傷が深くならない内に改革をした方が良いと言う人も出てくるだろう。

 しかし、組織が豊かで勢いがある内は、組織のトップはそんな意見には耳を貸さない。何しろ、自分達のやり方で豊かになり勢いも付けた成功体験がある。
「若造があれこれと面倒な事を言わずに、先輩の言う事を聞いていればいいんだ」
 実際、先輩達は今まで通りのやり方を続けるが、組織が豊かで勢いがある時は、少々時代に合わなくなりつつなる手法を強引に通しても、それなりの成功はするものだ。なにしろ豊かで勢いがあるのだから。
「ほら見ろ、今まで通りのやり方で上手く行くだろう」
 こんな結果をくり返す内に、豊かさの弊害は徐々に進行していく。組織の中で、知性よりも暗愚の方が支配的になっていくのだ。

牧馬谷 紅葉が徐々に始まりました

 組織の中でも、未来の危険性を察知して警鐘をならす人が疎まれて仕事から外され、みんなで一緒になって、今まで通りにやっていれば問題はないと言う考え方に染まった人間ばかりになっていく。組織の知性は喪失していく。

 組織の知性が喪失していくと、ますます、問題点を見ないようになる。自分達に都合の良い事ばかり見て「我々は安心だ」と考え、自分達に都合の悪い事は「とるに足りない例外」と考えたり、「何かの間違いだろう」と考えたり、ひどい場合には「不愉快な話は聞きたくない」と耳を塞ぐまでになる。
 こうなると、組織の終わりは目に見えてくる。

 「豊」の卦は、実は刑罰の卦でもある。雷鳴と稲妻が同時にやってきて、すべてを明るみに出して訴訟と刑罰を断行する意味も含んだ卦だ。「豊かさ」の形に、そんな意味まで含んでいる所に、易経の興味深い所がある。

 もう一つ「豊」の卦で興味深い点を加えると、このように豊かさとは盛大になる時もあれば消えていく時もあるのだ、と解説しつつ、この栄枯盛衰の巡りは、人間はもちろん、神や霊魂でも避けられぬと言っている所。
 ある時は勢いがあったり、ある時は衰えたり。この流れは、たとえ神でも逆らえないと言う思想は、全知全能の一神教を奉じるキリスト教やイスラム教では、考えられない発想だろう。

道志川

 豊かさの弊害が行き着く所まで行き着いた形も書いてある。その形とは、今の言葉で言う「ひきこもり」だ。もはや人と親しむ事も出来ず、家の中にこもり、窓にはカーテンを閉めて室内は真っ暗にし、まるで人が住んでいないかのように、ひっそりと静まりかえる。3年たっても外に出て人と顔を合わせようとしない。

 この下りを読んだ時、2500年前の書物、いやもっと遥かに昔からの書物なのかもしれないが、なんとまあ、生き生きと、そして生々しく、人間の姿を描写するものかと感じた。何千年たっても、人間はそれほど変わっていないと見える。

 なんだかここまで書いてきた所を読むと、まるで豊かさの弊害ばかりについて易経に書いてあるように思われるかもしれないが、そんな事はない。「豊」の卦の解説では、まっ先に「豊かで勢いがあるのだから何ごとも上手く行く。王者の姿である」と豊かさを讃え、たとえ豊かさが永遠のものではなくても、それは「憂えるなかれ」と説く。

 豊かな時は豊かさを楽しみ、同時に豊かさが引き起こしがちな弊害に注意し、豊かさや勢いが衰える時の事も考えて備えればいい。今までの豊かさが時代遅れになれば、それとは違う豊かさを目指せば良いだろう。

相模湖

 日本と言う国は、明治の文明開花以降、第二時大戦の敗北という破滅もあったが、豊かさと勢いのある国ではあり続けただろう。だが同時に、豊かさの弊害も深く蓄積してきた。
 この豊かさの弊害をどうやって解消し、次の豊かさへとつなげていくか。それが今の日本人にできるかどうかは、判らない。

11月16日(日)

色付く谷

 11月の前半は、わりと暖かい日が続いたが、ようやく冬を思わせる寒さになってきた。朝には霜が降り、木々も葉を落とし始めている。道路沿いに落ち葉が溜り始め、それを堆肥にするために収穫する人々も出てきた。狩猟の季節も始まり、ケモノと紛らわしい格好で山に入るのは危険になった。

 寒くなってくると、周りの木々がみんな燃料に見えてくる。10月13日の日記では、林業や農業などででる廃材を燃料にしている取り組みについて書いてみたけど、最近、「バイオコークス」というものがあると人から教えてもらった。
 木材や、農産系廃棄物(コーヒーやお茶のかす・もみ殻など)、流木や刈った草でも、コークスの様な固形燃料にしてしまうという技術。以下のリンクが参考になります。

こちら>> こちら>>

 この技術の面白い使い方に、原発事故で汚染された木々や草、農作物残渣の安全な管理・処理法としても提案されている。木や草を圧縮してかさを減らし、そのまま長期間保管する(リンク先の記事では300年とも)。その頃には放射能も弱くなっているので、そのまま燃料に使えばいい。気の長い手法に思えるかもしれないが、案外、これがもっともシンプルで安全な処理法かもな、と思った。

 秋の小川

 木や草を圧縮してそんな燃料ができるのなら、同様に木や草を圧縮して理想的な人工の薪とか出来ないものですかねえ。
 薪ストーブで喜ばれる薪は、ナラとかクヌギのような広葉樹で、火持ちが良くて、長い時間をかけてじっくりと燃えてくれる。これが針葉樹になると、ぱーっと勢い良く燃えるけれど、燃え尽きるのも早い。

 コークスを薪ストーブの燃料にするのも不可能ではない。薪ストーブの中には石炭やコークスも燃やせる多燃料タイプもあることはある。
 でもなー、たいがいそういう薪ストーブは大型になるし、石炭やコークスを燃やすと、薪を燃やすよりも遥かに高温になって取扱いに注意が必要になるし、やはり薪を燃やすのに比べれば薪ストーブの寿命が短くなると言うし。

 まあいずれ、理想的な人工の薪を作ってくれる所も、出てくるでしょう。

 ミヤコの方から、政府が選挙をするぞと言い出したという話が聞こえてきた。ホンマかいなと思いつつ、こんな話が出てくるようでは、内部ではいろいろ動揺もあるんだろうなと思った。
「とにかく今後、現政権にとって、条件が悪くなる事はあっても良くなる事はない。」
 そう考えて、せめて株価を無理矢理あげたこの時期に、野党らしい野党が存在しないこの時期に、選挙をやってしまえと思ったのだろうか。正しい状況認識だと思うけれど、追い詰められている事には変わりない。

 私は、現政権は、昨年の暮れの秘密保護法の強引な可決以降、政権としての大義を失っていると考えている。もはや政権と国民は友ではない。
 政権の幸福は国民の幸福ではなく、国民の幸福は政権の幸福ではない。こんな状態は長く続く道理がなく、変化は避けられない。

 高度経済成長の頃はなぁ、多少の方向性の違いはあれ、政府も官僚も企業も国民も、同じ幸福と未来を目指していたのだけれど。 

秋風

 かつて、政府も官僚も企業も国民も、同じ幸福と未来を目指していられたのは、みんなが貧しかったからだ。みんなが豊かになろうという目標を共有できたので、内部に対立は無かった。
 でも今は、豊かな者たちが、より豊かになろうとして、貧しく弱い者から更に搾取を強めるようになっている。これでは内部に対立が生まれない方がおかしい。

 本当は、豊かさを増大させるには、一番最初に最下層から豊かにするべきなのだけど、そういう考えは始めから採用する気は政府にはないだろう。相変わらず、まず豊かな者をより豊かにすれば、そのおこぼれが貧しい者にも流れていくはずだ、という考えに固執し続けるだろう。

 草原では、シマウマが草を食べ、そのシマウマをライオンが食べる。この場合、ライオンが草原の頂点にいるように見えるが、実際は違う。草原の草が枯れればシマウマが餓死し、シマウマが餓死すれば、残ったライオンは一緒に餓死するか、もしくはライオンどうしの共食いをして滅んでしまう。
 今の日本で、まず草原の草の回復を図ろうと考える人は、未だ少数派だ。

森の中

 さて、もう一度、政府と官僚と企業と国民が、同じ未来像や幸福や目標を共有できる時がくるだろうか。それとも、もう一度、みんなが貧しくならないと、そんな事はありえないのか。

 実を言うと、私自身はそれほど絶望しているわけではなく、ある所まで行くと、世の中がまとまる方向に動く時がくると思っている。ただそれには、もう少し時間がかかりそうだし、混乱も続きそうだ。

11月24日(月)

人形を使っての救助訓練

 秋晴れの爽やかな日に、「平成26年度相模原市孤立対策推進地区対応訓練」という長い名前の訓練が行われた。今年の2月の大雪でも記憶に新しいが、藤野のような山里では、地震や風水害で道路が土砂崩れで寸断されたり、電話線や電線が切れたりして、集落が助けも得られずに孤立する可能性がある。この訓練は、そんな災害時に孤立しがちな地域を念頭にしたもの。

 具体的には、道路が通行不能になった集落から、車が通れる道路とは違う山道を使って負傷者を搬送する訓練をしたり、電話が使えなくなった場合の衛星携帯電話の使い方を実際に学んでみたり、ガスで発電する発電機を使ってみたり。
 こういう道具って、いきなり使おうと思っても、未経験だとなかなか使えなかったりする。

 藤野には、各地に市が指定した孤立対策推進地区があり、それらの地区には、衛星携帯電話とかガスの発電機とか、チェーンソーとかツルハシとか、災害時に使えそうな道具が揃えてある。
 心配事と言えば、そういう道具が揃えてあるのは心強いけれど、いざというときに実際に使えるかという問題。そのための訓練ではあるのだけども。

 実際に使ってみて、いろいろ判った事もある。例えば、衛星携帯電話だけど、使い方にけっこう癖がある。まず、衛星まで回線を繋ぐまでにけっこう時間がかかるし、こちらが相手に話し掛けても、向こうにこちらの話が伝わるまでに、1〜2秒ほどのタイムラグがある。なかなか、普通の電話のような快適な使用感というわけにはいかない。どちらかと言えば、トランシーバーのような使い方になりそうだ。

峠にて

 非常用の道具と言うのは確かに大切なものだけど、理想は、非常時に使うものを、日常的にも使っている事が望ましい。これなら毎日が、道具に慣れ親しんで使い方に習熟する訓練みたいなもので、非常時になって慌てて今まで使った事も無い「非常用の道具」を前にして、使い方が判らずに途方にくれるような事はなくなる。

 非常食だって、日常的に缶詰めやレトルトを1週間分くらいは常備して使いまわしていれば、これも立派な非常食だし、カセット式のガスコンロだって、予備のガス缶を常備して使いまわしていれば、立派な非常用の設備だ。
 後は、集落単位で、「あの家には発電機があって、停電時でも電気が使える」とか「あの家には日常的にチェーンソーを使う人がいる」とか、それぞれの家の得意分野を共有できる近所付き合いが成立すれば、災害に強い地域になるだろう。

 逆になァ、やっぱり、日常的にはまるで使っていない「非常用の道具」って、非常時にはあまり役に立たないような気がします。

 あえて例を出しますとね。防災訓練でよく使い方の講習がある「三角巾」というやつ。私は、いくらあの使い方を防災訓練の時に習っても、実際に使えるとは思えないんだけどなー。
 以下のページのような、日常的に使う日用品を利用した方法のほうが、実際的なんじゃないかしらん。

応急手当・日用品を使った応急手当
こちら>>

谷間の光

 日常的に使っているもので、いざ災害時でも力を発揮するものの中でも、その最たるものは、情報の共有と伝達手段としての携帯電話だと思う。
 電車なんかに乗っていると、みんな携帯電話をいじりまわしていて、なんだか無気味な光景のような気もするし、ネット上に情報を上げるにしても「今日はこんな晩飯を食べました」みたいな画像ばかりで、まーヒマジンの遊びだねぇとも揶揄されがちだけど。

 こんなふうに、日常的に携帯電話を使って、写真を撮ったり、その画像をネット上に公開したりする大勢の人々が、いざ非常時には大変な力になる。実際、今年の2月の大雪でも役に立ったし、長野県の佐久市の市長は、大雪の情報収集にツイッタ−で市民からの情報を有効に使って話題なっていた。
 どこの道路が土砂崩れで寸断されているか、どこの家屋が倒壊しているか。逆に、どこの道路は復旧作業が終了して通れるようになったか。こういう情報を、早く、広く拡散するのに、市民参加型の携帯電話とインターネット網の情報伝達は、もっと評価してもいいと思う。

 この防災訓練の前日の夜、長野県で震度6の地震があり、藤野もそれなりに揺れた。震源地付近では、倒壊した家屋も多いらしい。
 なんだか火山の噴火があったり地震があったり。今年は最後まで安心できない感じだな。

秋の陽

 未だに信じられない気分だが、どうやら本気で12月に国は選挙をやるらしい。さて、何が争点になるのかなぁと思ったけど、案外、こんなところじゃなかろうか。16日に、藤野と同じ神奈川県で、二宮町で町長選挙があったそうだが。

まちは変わるか 二宮・女性町長誕生〈上〉現職、対策打てず
こちら>>

 どうも、子育て中の若い世代、それも特に女性の声が、選挙に反映したらしい。
 なんだかなァ、今まで政権は、国民の心に、ある気持ちを育てて来たんじゃないかな。
 「ある気持ち」とは何かと言うと、今まで政権が「○○をすれば幸福になれる」と言って来たやり方では、幸福になれないんじゃないか、という気持ちです。

 景気が良くなれば幸せになれる、株価が上がれば幸せになれる、大企業が儲かれば幸せになれる、景気対策に公共事業をすれば幸せになれる、増税すれば幸せになれる、原発を再稼動すれば幸せになれる。まあ、他にもいろいろ。

 そんな事をくり返す内に、「どうも『経済の幸福』と、『庶民の幸福』とは、同じ物ではないらしい」という気持ちが、少しずつ膨らんで、やがては確信に至るようになってしまったのではないか。

 もっと実際的で、目に見える形の子育て支援でもやらないと、そんな気持ちはこれから強まりこそすれ、解消する事はないだろう。