2014

6月

6月1日(日)

柚子の花

 さすがに6月にもなると、夏のような蒸し暑い日々もやってくる。まだ朝晩は涼しいくらいだが、日中は厳しい陽射しと暑さに、外で作業をする気にはなれなくなるな。それでも、草刈りとか、しなくちゃならない作業もあるのだけど。
 柚子の花がよく咲いていて、爽やかな香りを漂わせている。蜂は蜜や花粉を採るのに大忙しで、柚子の木全体がブンブンとうなりをあげているみたいだ。

 柑橘系の花も、養蜂業者にとっては大事なものらしい。最近、こんな記事を見た。

季節の花を追いかけてミツバチと旅する、養蜂家という仕事
こちら>>

 今では日本の蜂蜜の自給率が6.8%だとか、輸入の蜂蜜の80%が中国産だとか、いろいろ興味深い話が書いてあるけど、個人的にショッキングだったのは、養蜂で使われたミツバチは、最後にはイチゴ農家に買い取られたあとに、焼却処分されるというくだり。伝染病を防ぐ為という事だが。

 当事者にとっては、やむを得ない理由もあるのだろうけど、他に方法はないのかとも思う。生き物の大量死を前提とした産業は、はたして肯定していいものだろうか。
 まあ、そういう事を言い出したら、絹は蚕の大量死を前提としているし、普通の農業だって、農薬による害虫の大量死を前提としているのだろう。酒やパンを作るのも、下水の浄化だって、微生物の大量死を前提としている。しかし・・・

 他に方法はないものだろうか。

木陰

 前々回の日記で、これからの組織は精神的な目標を基にして作られるので、組織を構成する人々も、それぞれに精神的に高い人格を求められるようになり、この話を突詰めると、どうしても宗教的な話になる・・・といった事を書いた。
 その事について、もう少し具体的に書いてみたいと思うのですが。

 例えば、持続可能な社会の在り方について、よく考える事があるのですけど、まあ当座は、持続可能な資源やエネルギーの問題が議論の主流になるでしょうけど、これもいずれ解決しちゃうと私は思うんですね。人間という生き物は、案外、それぐらいの事はやっちゃうんじゃないかと。

 そうなると、どうしてもこんな状況が現出する未来がやってきてしまう。それは、「資源(食料)もエネルギーも好きなだけあるよ、何でも自由におやんなさい」と、突きつけられる世の中。
 理想郷のようですけどね、こんな世の中に耐えられるほど、人間は強靭な精神は持ってないと思うのですわ。そんな世の中になる前に、よほど精神的な修行を積まないと。

 だいたい、人間は「外から」何か試練や要求が押し寄せてきて、それをイヤイヤながらする作業に慣れすぎている。一見、不幸な状況に見えるけど、この状況って、主体性が無くても生きていけるんですね。自分 が何かをすべきかは、「外が」決めてくれる。
 こういう状況って、麻薬的な快楽があるんですよ。自己を放棄しちゃって、何かに従って流れるに任せりゃあいいや、っていう生き方。

青空

 でもね、前述したように、テクノロジーの発達によって、逆に「外の方から」、君は自由だよ、何をしてもいいよ、自分の思うように生きなさいって、強制的に突きつけられる未来が、来るかもしれない。
 そんな状況下で、自分の生き方を自力で見つけて。自分で進んで行ける人間って、どの程度の割合だろう。
 もしかしたら、大半の人間が自分の生き方を見つけられずに、麻薬中毒にでもなっているかもしれないな、とも思う。

 持続可能な世の中って、人間に対して、人間とはどう生きるべきか、を厳しく問いつめる世の中でもあるんじゃないか。そう考えると、どうしても宗教の問題が避けて通れなくなる。

 人間とはどう生きるべきか、と問われれば、当然、良い生き方をすべきだと答えるだろう。じゃあ、良い生き方って何よ、と問いが進む。
 自己実現とか円満な人格とか、いろいろ答えはあるだろうけど、それは枝葉の理屈で、実は「良い生き方」という理想が出た時点で、人は性善説を選ぶように方向が決められてしまう。世の中全体が性善説を教義とする宗教的な雰囲気に包まれるだろう。

 たぶん、こんな形になるんじゃないかな。
 人は本来、善なるものである。人は、その善を大いに称揚し、周囲の人々に対しても、より善の方向に向上するように互いに励まし合い、世の中全体がいよいよ善に向かって進むように励むのが・・・精神的な生き方と言うヤツなんだろうか。

 嫌だなぁ(笑)。

相模湖

 江戸時代の禅僧の白隠は、衆生本来仏なりと言ったけど、これはそのまま、人間は誰でも本来は善なるものである、という意味になる。キリスト教だって、人間には神の成分が入っていると言うし、儒教も人間には本質として「仁」・・・愛する気持・・・があるとして、性善説を基本にしている。
 そりゃあ性悪説を主張する人々も、いつの時代も必ずいるけれど、未来に対して理想を掲げようとすれば、結局、性善説から出発しざるを得ないものなのでしょう。そうでもないと、人々を束ねる大きな流れを作る事は出来ない。

 人間の中にある「善なるもの」を、育て、開花させ、それを世界全体へと広げて行く。精神的な未来の世界って、妙に宗教的な形になりゃあせんか。
 自分でも何を言っているのか判んなくなってきたのでもう止めますが、持続可能な社会と宗教の問題は、けっこうおおごとで、持続可能社会が成立する際の難関になるような気がします。

6月8日(日)

道志川

 関東でも梅雨入りしたかと思うと、週末にかけて大雨が降り続き、藤野に至る道も幾つか通行止めにもなるほどだった。だいたい、梅雨も始めはシトシトと穏やかに降り、7月に入って集中豪雨の頃になると大雨にもなるのが普通だったが、今回の梅雨はいきなり荒っぽい。
 ただ、雨の量ほどには川の増水は控えめな感じもする。これまで、雨の少ない時期が長かったからだろうか。いよいよ田植えの季節になり、その意味では有難い雨なのです。

 今度の日曜日(6月15日)、篠原の宅老所の「すずかけの家」で、恒例の落語会があります。「すずかけの家」の会報のPDFの最後に、その紹介が出てくる。
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 この方の落語はホントに面白い。今年は何を聴かせてくれるんだろう。

 この会報の始めの所には、今年の2月の豪雪にていて書いてありますね。お年寄りをあずかる施設だけに、いろいろ御苦労もあったようです。停電に見舞われて、近所から発電機を二人がかりで運んだとあるが、大変な重さだった事だろう。

 ああそうだ、今回の大雨で、2月の豪雪の事を連想した人が多かったそうな。大雨でも、道路に土砂崩れでも起きて通行不能になれば、山間の集落は孤立して身動きがとれなくなるからな。その点では豪雪と似ている。

雨の木立

 前回の日記で、人々の志向が精神的なものになって、ついには宗教的な理想を目指して生きているような、私としてはちょっと薄気味悪い世界について書いたけど(・・・果たして、人間がそんなに偉くなっていいものだろうか・・・)、まあこれは実現するとしても遥かな未来の話で、実際の近未来の話となると、どうだろう。

 以前、この世の中を季節の変化に例えた事がある。ニホンで言えば、高度経済成長期の、道路が出来、工場が出来、新しい道具が出来、それによって新しい生き方が生まれる、まるで植物が勢い良く次々と繁茂する夏の時代。続いて、あらかた欲しいものは実現してしまって、何をしていいのか判らないまま、経済活動も公共事業も縮小して行く秋の時代。
 その次の冬の時代は、人々が静かに考える時代だと、その時は書いた。

 今でもその考えは変わっていない。どうも、20世紀と同じやり方では、21世紀の世の中は回せないらしい。無理に20世紀のやり方に固執しようとすればするほど、物事は上手く行かずに失敗を繰り返し、恥をかいて立場を失い、徐々に仲間も減らして行く。どうも、根本の所から考え直さなければならないらしい。

 そもそも世の中ってなんだろう、そもそも国の役割ってなんだろう、そもそも企業ってなんだろう、そもそも経済って、そもそもお金って、そもそも仕事って、そもそも生きるって、どういう事だろう。
 そんな、「そもそも」の所から、静かに考えを深める時期なのだろう。

相模湖

 これは言い方を換えれば「正気に帰る」時期と言っていい。まあそれまでの時代が全て狂気だったとは言わないけれど。
 ただ、いかに夏の時代に上手くいった手法だからといって、その手法が永遠不滅に持続するはずはない。季節に合わせて手法も変えて行くべきであって、夏でもないのに夏の手法を無理矢理やろうとするのは、やはり狂気の振る舞いだろう。

 一度立ち止まって、十分に思索を深めて正気に帰ってくると、憑き物が落ちたように、なあんだ、なにも昔のやり方にこだわる事はないんだと気持が楽になってくる。そして、自然に次の季節にあったやり方も頭に浮かんでくる。
 春の時代は、そこから始まるのだろう。そして、そんな春の時代を形作る人の特徴は、「心が静か」なんじゃないかと思う。正気に帰って憑き物が落ちて、次の時代の生き方の手法に確信があるのなら、心が動揺しているはずがない。

 こんな事を考えながら、もしかしたら、既に冬の時代も終えて、春を迎えている人や組織や地域もあるのかもしれないなと思った。
 その一方で、いよいよ冬を迎える人や組織や地域もあれば、厳冬期のさなかの人や組織や地域もあれば、晩秋だったり、もしかしたら未だに夏だと考えている所もあるかな。

 こういうのには時間差がある。ちょうど梅雨が沖縄では真っ先に始まって、九州や四国をへて東北へと続いて行き、また梅雨の終りも真っ先に沖縄で始まり、同様に続いていくように。

晴れ間

 余談になるけど、仏教にせよ儒教にせよキリスト教にせよギリシャ哲学にせよ、人々が深く考えて、後の世に残るような思想体系を作り上げた時というのは、たいがい「冬の時代」だ。

 何千年もの時を越えて残った古典というのは、冬の時代に改めて読んでみると、夏の時代に読んだ時には気付かなかった、意外なほど生々しい実感がリアルに迫ってきて、「ああ、判る、この箇所の書いてある事も良く判る、まさにその通りだ」と、古典の価値を再認識する事がある。

6月15日(日)

しろかき

 自分も参加している田んぼの仲間たちで、しろかきを行った。どうもこの田んぼの仲間はスーダラな人間が多いのか、毎年のように稲を育てているというよりも雑草を育てているかのような惨状を秋に迎えるのだけど、今年は妙に気合いが入っている。もうちょっと、こまめに草取りもして、きちんと収量を上げようと話合った。

 このところの大雨で沢を流れる水の量が多く、田んぼに引かれる水路の水の量も多い。勢い良く田んぼに注ぎ込む豊富な水のおかげもあって、しろかきは順調に進んだ。
 沢の水の量の多い少ないは、その土地で採れる農産物の量に直接関わってくる。たぶん昔は沢の水の量で、その土地での農地の広さの上限と、その土地で暮らせる人口の上限も決まっていたんだろうな。
 実はこの話は、現代だって基本的には変わりはない。地球上の淡水の量で、農耕可能な土地の上限が決まり、地球で暮らせる人口の上限も決まっているのだろう。

 話は少しずれるけど、もしかしたら数年後にはウナギが食えなくなるかもね。

ニホンウナギが絶滅危惧種に
こちら>>

 乱獲の問題もあるけど、そもそも日本の川をダムだらけにした問題も大きいんじゃないか。じわりじわりと、かつては当たり前に食べられたものが、当たり前ではなくなって行く。

 草刈り作業の合間、木陰でひと休み

 先日、日大のあるゼミの学生たちが、牧馬の草刈りに来てくれた。このゼミの学生たちは、『篠原の里』が出来た当初から、篠原に頻繁に来てくれては、いろんな活動をしてくれる。山間地での地域の活性化とか、人々との交流をじかに体験する、ゼミの教育の一環なのだろう。

 とても有難かったよ。何しろ山では、少し草刈りをさぼると夏には人の背丈もあるような草むらになり、次の年には木も生え始め、たちまち山に戻ってしまう。

 学生達にも少しずつだけど、エンジン式の刈り払い機も使ってもらった。勿論、安全には十分に注意しながらだけど。
 初めて使う機械を、おずおずと時間をかけて緊張しながら扱っていたけれど、自分も初めて使った時は、あんな感じだったなァ。

 午前中だけのささやかな草刈り体験でしたが、どんな想い出に残ってくれるのかな。

 前回の日記の最後の所で、「何千年もの時を越えて残った古典というのは、意外なほど生々しい実感がリアルに迫ってきて、古典の価値を再認識する事がある」と書いた。そんな古典の一例として私がよくあげるエピソードに、「殷の三仁」がある。
 紀元前12世紀頃の中国に殷という国があったが、その最後の王に紂という人がいた。増税して財宝を集め宮殿を拡張し、酒の池と肉の林を設けて昼夜分かたず飲み続けるという「酒池肉林」の語源になった王だと言えば、その性格も想像がつくだろう。

 これでは離反する諸候も現れ、蜂起する民衆も現れる。見かねた王の異母兄の微子は何度も諌めるが、王は聞き入れない。微子は国外に去っていった。王の伯父の比干は諦めずに諌め続けたら、王の逆上をかい殺された。これを見た伯父の箕子は狂人を装って奴隷に身をやつして韜晦したが、王に捕えられて監禁された。

 結局、殷は諸候の反乱にあって紂の代で滅亡する事になるが、さて、このように暴虐な君主がやりたい放題に権力をふるい、他人の忠告に一切耳を傾けないばかりか、かえって忠告する人間を殺しかねない場合、人はどう対応したものか。

 ある者は国を捨てて亡命し、せめて一族の滅亡だけは救おうとした。ある者は、死を賭して諫止しようとして殺された。ある者は国の滅亡を間近に感じながら、かといって亡命はせずに奴隷に身をやつして国に留まった。

山の雨

 孔子はこのエピソードを評して、三人は三人なりに人格者だ(※1)、と言っているが。
 「自分だったらどうするか」と、身の処し方を考えた人は多かった事だろう。特に厳しい時代には。

 この話に関して、孔子の弟子の子貢は面白い見解を述べている。
「暴虐の暗君の代表のように言われている紂王だが、どうも実際は、そこまで酷い人間ではなかったようだ。世の中全体が問題を抱えていた時には、世の中全体の悪事の原因が、すべて王に帰せられてしまう。だから、人の上に立つ者なら、汚名の原因になるような所からは距離を置くことを心掛けなければならない。(※2)」
 子貢は孔子の弟子の中でも秀才だったが、秀才らしい気付きだろう。

 この殷王朝の滅亡の物語を、自分が属している組織にあてはめて連想してみるのもいい。いろいろと心に響く事もあると思う。
 それにしても、これだけ学ぶべき話が、古本屋の100円コーナーにでもゴロゴロと平積みにされているのに、学ばない人が圧倒的に多いのはどういうわけだ。

 破滅に至る組織は常にある。それらの組織の中にも、語られる事の無かった微子や箕子や比干がいたのではなかったか。

入道雲

 始めに書いたウナギの問題にしても、これまでウナギ業界に関わるいろんな人が、いろんな思いで動いてきたに違いない。そこには、微子や箕子や比干もいたろうし、紂王もいたかもしれない。

※1『論語』微子 微子去之、箕子為之奴、比干諌而死。孔子曰、殷有三仁焉。

※2『論語』子張 子貢曰、紂之不善、不如是之甚也。是以君子悪居下流。天下之悪皆帰焉。

6月22日(日)

田植え

 夏至を迎え、陽射しが高いぶん晴れると暑くなるが、梅雨まっさかりでもあるので、雨の日はけっこう涼しい。自分の周りにも体調を崩している人がゴロゴロいる。

 自分も参加している田んぼの仲間で田植えを行った。同時に麦の刈り入れも行い、麦を刈った後には大豆を植えた。今後は田んぼにしろ豆畑にしろ、草取り作業が待っている。

 来月の7月6日(日曜日)に、フジノのイベントの中でも、ちょっと集大成的というか、いろんな活動をしている人や組織を、まるごと集めてパーティーをしようという、異色の企画がある。フェイスブックにもページがありますが、チラシをPDFにしてみました。

FUJINO 野楽り、暮らり。
こちら(PDF約3MB)>>

 とにかく、なんのタタリか判らないが、このフジノ近辺では、何か面白い事をやってみようという人や組織がやたらと増えた。その一方で、数が膨大なだけに、どんな活動をやっている人や組織があるのか、お互いが皆目見当もつかないような状態になりつつある。
 じゃあここらで、いったん集まってみて自己紹介をしてみるなりして、交流会をやってみようという事になった。時宜を得た企画だと思う。

 PDFの2ページ目に、フジノのいろんな団体や活動を図にしたものがあるけど、実際には、ここに書かれていない活動が、この数倍はあるだろうし、人知れず、こつこつと単独でやっている活動を含めれば、いったいどれだけの数になるのやら。

 まあ、全ての人が全てを知っている必用はない。ただ、「●●について知りたいのだけど、誰か詳しい人はいる?」と誰かが聞いた時に、「ああ、それなら○○さんが詳しいはずだ」と接点が自然に生まれるような、情報の共有の密度は欲しい。
 フジノはここ数年、いろんな活動や組織が爆発的に増えて、その情報の共有の密度の点で、やや力不足が目につくように私には感じられた。なので、今回の「FUJINO 野楽り、暮らり。」は、今の時点でやるべき必然性があると思う。

 この企画をきっかけに、新しい接点が増えるといいな。だいたい、何かが生まれる時というのは、様々な分野の知識や才能や興味を持った人々が集まる時だ。そして、そんな集まりがある場では、夢が具現化する可能性も増える。ずいぶん前に、そんな事を書いた事があるけど。

 あー、書き加えておくけど、「俺は誰とも接点を持つつもりはない。自分だけの孤高の世界を極めていくのだ」というタイプの人を、私は否定しているわけではないですよ。集団行動が向いている性格もあれば、単独行動でこそ実力を発揮するタイプもいることでしょう。

 全然関係ない話だけど、誰かハーブティーに詳しい人はおらんかいな。「野楽り、暮らり。」に、そんな人もいるかしらん。

夏至の頃の陽射し

 政治家の見苦しい舌禍事件が続いているが、これとは逆の、清冽な心地よい風となって吹き込んでくるような感じで、心に響く言葉を発する政治家だっているかもしれない。だいたい、本来、政治家と宗教家は、苦境にある人々を癒し、励まし、勇気を鼓舞し、理想を語りかけて人々の心を潤す詩人でもあった。言葉の大事さを知っている事は、リーダーの資質だった。

 そんな、リーダー論としての理想の言葉を思う時、私がよく思い出すのがこの歌の歌詞でしてね。
こちら>>

 昔、テレビアニメのエンディングで使われたもの。この歌詞にでてくる「風の色さえ変わってしまう」、そんな雰囲気を言葉で与える人柄だって、いることだろう。いや、本物のリーダーなら言葉を発する前から、沈黙している状態から、そんな雰囲気を発しているんだろうな。
 まあこの歌の場合は、リーダー論ではなくて、恋人の話ですけど。

 先月、5月18日の日記で、『これからの人々が目標とするのは、人々の雰囲気そのものが、「5月の爽やかな風」になることなのかな』と書いたのも、同じ理由です。

 最近はどこの議会も、社会的不適応のオヤジを社会から隔離・保護して税金で養ってやる福祉施設みたいになってきたが、そんな現状を怒るのもけっこうだけど、理想的なリーダーの言葉の在り方についても、民衆の側から考えを深めていくべきだと思うな。

山雲

 と、言うのもですね、単に社会の問題点について怒って声をあげている状態の人からは、心地よい風を感じないんですね。結局それは、その人のストレスの垂れ流しで終わってしまう。周囲の人々にも悪い気をまき散らすだけ。

 理想のリーダー的資質の持ち主の特徴の一つに、「人の悪口は言わない」というのがあると私は思っていて、人を批判する時でも(悪口と批判は違う。ちょうど、「怒る」と「叱る」が違うように。)、優しく、建設的な論法で批判して、絶望的に人格を否定するような批判の仕方はしない。批判するときでもどこかユーモアがあり、使う言葉が華麗で陰湿な感じを与えない。

 こういう人って、批判する言葉にも爽やかな風を感じる。そういう人柄には、いつも憧れを感じているが。

 私はそんな人間になる事は、とうの昔に諦めた。このホームページから漂う風も、お世辞にも爽やかじゃない。ていうか、邪気だよね、こりゃ。

6月29日(日)

乱雲

 このところ天気が荒っぽい。まだ冷たい空気が残っているのだろう。雲がもくもくと湧いたかと思ったら、激しい土砂降りを降らせたりする。24日には東京の三鷹市で雹が降り注いで、雪が積ったような光景になっていた。こんなの初めて見るなぁ。

真っ黒な雲 雨柱 "流雹?"も 関東各地天気急変
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 ただなぁ、こんな事を書くと三鷹市の方に怒られるかもしれないけれど、こんな雹が降ったのが住宅街で良かったのかなとも、(はなはだ無責任ながら)思った。もしこんな雹が畑に降ろうものなら、農作物は全滅に近い打撃を受ける。これは6月12日の京都の丹波の雹被害のニュースだけど。

「帰ったらぐちゃぐちゃに」 丹波地域のひょう被害
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 それにしても、今年の冬の大雪もそうだったけど、このところやたらと「今まで経験した事がない天候」という話が多い。気候の変動期にでも入ったのだろうか。
 こんなふうに、激しい雷が鳴り響く様を感じると、どうしても天の怒りのような印象を持ってしまう自分は、古臭い人間なのだろう。

 シオデの芽。今年も出てくれました。

 なんだかんだと、早くも今年の前半は終りつつある。じゃあ後半はどんな年になるだろうと、先日、知人とそんな事を少し話したのですが。
 私の印象としては、これは国内国外に限らず、そろそろ「あなたは何で食っているんだ」という事を、問われる事態になるような気がします。

 ありていに言ってしまえば、あなたのやってる仕事って、ホントに人々から感謝され、求められているものなのか。
 それとも、単に庶民からむしり取った税金で、必用も無い仕事を無理矢理作って、それをやって給料をもらっているのか。まあその手の「必用も無い仕事」の最たるものが軍需産業なんでしょうけどね。

 仏教の教えで、人々が悟りへと向かうための日々の修養として「八正道」というのがあるけど、その八つの正しい実践行為の一つに「正命」がある。正しい職業の意味だ。
 ようするに、泥棒だとか詐欺師だとか、正しくない仕事をするなという事。これに近い動きが、これから起こってくるのではないかと思っています。

 例えば、もはや国債も乱発できないな、かといって増税も出来そうも無い、となったら、政府の仕事を小さくするしか無い。
 その時、庶民の方から、「私のなけなしの金も寄付するから、その仕事は続けてくれ」と求められる仕事は残るだろうし、そうでない仕事は、残るのは難しいだろう。

 これってねえ、意外と難しい問題でね。多くの人々は、自分のやっている仕事は有意義で人々から感謝されていると思っているんですよね。でも、実際のところ、どうなんだろう。

 あえて、自分なりに考えた正しい仕事って何かと言えば、「自然の法則に無理なく従いつつ、何かを育てる事」、という定義になるのかなァ、漠然としていますが。
 「何かを育てる」といっても農業だけではないですよ。工業もサービス業も福祉も教育も含めた、全ての分野です。

山の雨

 「自然の法則に無理なく従いつつ、何かを育てる仕事」で言えば、最近、こんな興味深い記事を読んだ。

個別漁獲割当制度(IQ)を導入した佐渡のエビカゴ漁にいってきた
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 獲り放題・早い者勝ちの漁をやめて、漁業者の間で穫っていい量を事前に決めておく漁業のありかたの話。持続可能な漁業を考えると、結局こういう方向に行くのでしょうね。

 この記事の中でも個人的に面白かったのが、3ページにあるイカ漁の話。イカ漁では船から灯りを海に照らしてイカをおびき寄せるが、漁船同士がイカ漁の競争をすると、自分の船の周囲にこそ多くのイカを集めようと、他の船よりも灯りを強くしようとする。それに負けてなるものかと、他の船も灯りを強くする。灯りの強さの競争が起きて、照明の発電用の燃料のガソリン代がどんどん高くなる。
 イカの穫っていい量を事前に決め、イカ漁のライトの明るさも事前に規制すれば、海は本来の暗さを取り戻し、小さな灯りでもイカが集まるようになる。照明用のガソリン代も減る。

 どうもこの世の中。無駄な競争が、お互いのクビを締めている事が多いんじゃないのか。これは漁業だけの問題ではないような気がする。
 持続可能な「節度のある生活(生き方)」を人々が志向すれば、もう少し気楽な世の中になるのではないか。

 6月8日の日記で、これからの時代を「正気に帰る時期」と書いたけど、おそらく、多くの人々にとって、正気に帰る糸口になるのは、「節度のある生活」という事になるのだと思う。

 まあ、もしかしたら、「世の中のみんなが節度のある生活なんかを志したら、私のやっている仕事が無くなってしまう。節度なんて無くてもイイから、どんどん経済成長を目指さなくちゃならん。」と悲鳴のように叫ぶ人もいるかもな。

 でもねえ、そんな無理が、長続きできるだろうか。